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 山口素堂 誤伝の連鎖

2023年08月03日 14時40分03秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

 山口素堂 誤伝の連鎖

◎ 『甲州風土記』

  山口素堂の家は巨摩郡教来石山口に土着した郷士の家柄であった。

◎ 『俳文学大辞典』「素堂の項」

  甲斐国北巨摩郡教来石村山口に出生。云々

◎ 『元禄名家句選』昭和二十九年

  甲斐国北巨摩郡教来石村山口に於て出生。云々

 以下、素堂の紹介書は数限りなくあるが、その大半は『甲斐国志』記述の影響が強いことが分かる。しかしながら素堂没後から『甲斐国志』刊行以前の山梨県や他の著作書には素堂が甲斐国の出身とする書は皆無である。

 『甲斐国志』「素道の項」の記述は、濁川工事の責任者とされる時の甲府代官桜井孫兵衛の事蹟を素堂の項を借りて書したもので、その根拠は斎藤正辰之の碑文である。

二、住所と住居

 素堂の住所で最もしっかりした資料は儒家の『人見竹洞全集』(国立国会図書館蔵)と『地子屋敷帳』それに『本所深川抱屋敷寄帳』である。

 

◎ 『人見竹洞全集』の元禄六年(1693)素堂五十二才の項に次のように記されている。

  癸酉季夏初十日、二三君乗舟泛浅草川入。

  川東之小港訪素堂隠屈、竹径門深荷花池凉。

  松風繞圃瓜満、畦最長広外之趣也。

 

◎ 『地子屋敷帳』元禄九年(1696)の九冊目、深川の条

  四百三十三坪(元禄六年に購入)

 この土地は元禄十五年には四百二十九坪と変更されている。

 

◎ 『本所深川抱屋敷寄帳』宝永元年(1704)

  素堂の抱屋敷として

   深川六間掘町続、伊那半左衛門御代官所、

町人素堂所持仕早老地面四百二十九坪之抱屋敷云々

 

この紹介文書は森川昭氏の手によるものである。

 素堂は葛飾の庵に暮らし、細々と生活していたとされる書もあるが、素堂の家敷地は広大なもので抱屋敷も持っていたのである。

特に深川六間堀に所持する抱屋敷は松尾芭蕉の草庵と重なる部分があり興味深い。

 

参考に甲斐国志の素道(堂)の項の記述を紹介すると

◎ 『国志』

  其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。

因(より)氏ト為ス。

後ニ居を府中魚町ニ移ス。

家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)

江戸市中 東叡山麓葛飾安宅草庵。

 

◎ 『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著

  抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、

河毛(蒲生)氏郷の家臣 

山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 

町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、

其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々

 

素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。

当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。

 編纂約百七十五年前の素堂の出生と祖先の住居についての記述は、歴史資料に基づくものではなく、著者の推説と創作記述と断定しても間違いない。

『国志』編纂に於ての上教来石村の『書上』にも素堂の記述はなく江戸の素堂の事蹟記述は最初に『国志」の編纂に手を染めた富田武陵の手による可能性も残されている。

 資料の入手困難の中での『国志』の編纂の努力は並大抵のものではない。しかし素道の項については史実とかけ離れた記述である。

 

三、府中山口屋と素堂

 

 さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の育った家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。

 先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』には素堂の嫡孫素安より素堂号の継承を許可されたが、断わり佐々木来雪に譲った旨も記されている。この山口素安は素堂が死去した(享保元年…1716)後の享保二十年(1735)に素堂の追善を素堂亭にて実施している。所謂素堂の家系は甲斐府中ではなく、江戸に於て継承されているのである。

 

◎ 『国志』

 其ノ先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス因テ氏ト為ス。

後ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。

家頗ル富ミ、時ノ人ハ山口殿ト称ス。

……長ジテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナリ。

 

ここで注意を要するのは魚町の山口屋は酒造業を営むとは記していないことである。当時魚町に住む山口屋市右衛門は確かに酒造業を営んでいた。元禄九年(1696)を示唆する「酒造業書上書」によれば、府中には山口屋を名乗る家が二軒あった。一軒は魚町山口屋市右衛門家で、他の一軒は上一条町の山口屋権右衛門である。 

 

さて『国志』の記述によれば

  少々自り四方の志あり。

屡【しばしば】江戸に往還して章句を林春斎に受く、(中略)

遂に舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称使め、

自らは官兵衛を名乗る。 

 

とあり、不自然な記述である。それは素堂家が幼少の頃府中魚町に移住して忽ち富家になった事など当時の酒造業を始め他の産業にしても無理な話である。

さらに「山口殿」と時の人々に呼ばれた事も有りえない事である。もしこれを認めるなら素堂家は教来石村に在住した時から富豪であった事が必要である。しかし素堂が生まれた寛永十九年(1642)当時の甲斐の国は大飢饉に襲われ多くの人々が飢えに苦しみ死んでいったのである。また当地は番所もあり、河川敷で稲作も少量である。そんな時代背景の中で素堂家が教来石村に有るはずがない。墓所にも山口姓は皆無である。当地は富豪で過ごせる条件は皆無であり、集落さえなかった可能性もある。 またそんな中で府中に出ていって、府中山口屋を築く事など不可能に近い。

 江戸時代の酒造業は厳しく幕府に管理されていて米一粒でも無駄にできず、勝手酒造は許されない仕組みになっていた。酒造業での一攫千金の業は有り得ない。

 確かに山口屋は府中魚町四丁目西角に存在した。ここに山口屋市右衛門に関する確かな資料を提出する。

◎ 寛文十三年(1673)素堂三十三才。

 『魚町宿取之覚』二月中…甲州文庫資料第二巻

  当月九日に西郷筋上いますわ村拙者母

  気色悪□御座候故いしゃにかゝり于今

  羅有候

   四丁目 市右衛門

◎ 貞享年間(1684~1687)素堂四十三~四十六才。

 『貞享上下府中細見』…山梨県図書館蔵

  一、魚町西側 表九間 裏へ町並

是は先規軒屋敷にて御座候処

四年以前子年隣買受け壱軒に

仕候付弐軒分之御役相勤申候

  一、柳町四丁目 表八間 裏へ二拾二軒

北角 魚町市右衛門抱 四郎左衛門

  一、川尻町弐丁目 表拾五間 裏へ三拾間

魚町市右衛門抱 家守六兵衛

 この記録は素堂の生家としてよく引用される箇所である。しかし素堂と山口屋の関係が定かでない現在これをもって素堂の家が魚町山口屋で富家であったとは断定はできない。

◎ 宝永元年(1706)素堂六十五才。

◎ 『山田町宗旨改帳』…甲府市史第二巻

  代々浄土宗府中尊躰寺旦那 印

 市郎左衛門 印

 同人 妻 印

  是は府中魚町市右衛門娘拾三年以前

  市郎左衛門妻ニ成 夫同宗ニ罷成候

◎ 享保九年(1724)

 『山梨郡府中町分酒造米高帳』…甲府市史第二巻

  元禄丁丑年造高 四拾三石五斗

  卯造酒米石   拾四石五斗

   魚町 山口屋  市右衛門 印

  元禄丁丑年造高 四拾弐石弐斗四升

  卯造酒米石   拾四石八斗

   西一条町山口屋 権右衛門 印

 《丁丑…元禄十年(1697)》

 この山口屋市右衛門は素堂が江戸に出るとき家督を譲った舎弟の市右衛門なのだろうか。それを示す資料は存在しない。ここで弟に関する『甲斐国志』と『連俳睦百韻』の記述を比べてみると、

◎ 『甲斐国志』

  遂ニ舎弟某ニ家産ヲ譲リ、市右衛門ヲ襲称使メ、自ラ官兵衛ト改ム。時ニ甲府ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云フ者能クソノ能ヲ知リ、頻ニ(素堂)ヲ招キテ僚属と為ス。

◎ 『連俳睦百韻』

 山口素仙堂 太郎兵衛来雪(中略)其の弟に世を譲家 臣り後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。後桑村三素仙右衛門に売り渡し(素堂の生家を)侘家に及ぶ、(中略)其の三男山口才助訥言林家の門人尾州【尾張】 摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟多くあり皆死す。 其の子幸之助侘名片岡氏を続ぐ。云々

 両書で共通なのは弟に家を譲る箇所だけである。素堂の親族には儒学者が多くあり、甲府魚町酒造業山口屋とは関係のないことが分かる。

 後世山口姓を名乗る甲府の某家は、『国志』を読んだ関係者に云われて、素堂の家系に繋がるような言動を余儀なくされたと思われる。山口屋市右衛門家の家系は甲府で繋がり、現在も連綿として継続されていると思われるが、残念ながら素堂とは何ら関係のない家系である。明治時代になって関係者が治水碑を甲府や東京に建立したりして、素堂は土木業者の鑑となってしまった。これらは『国志』を盲信して真実の探究を怠った結果である。素堂誤伝は『国志』から出発した言っても過言ではない。それほど山梨県にとって国書の記述の影響は大きいのである。

 また素堂が江戸に出たとされる寛文元年(1661)の前年の万治三年には甲府は大火に見舞われている。山口屋も勿論焼失した可能性が高い。復興に明け暮れる中で弟に家産を譲り江戸に出ることなど考えられない。

 文学研究者は時によるとその当時の歴史背景や資料を照合せずに記述される場合もある。これは素堂の生家を郷士であったとしたり、踏査をせずに資料を重ね合わせて新歴史として論ずることなどである。

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四、素堂の家系

 素堂家の家系については前項までにも触れているが、ここで改めて調査の結果から述べてみたい。

 素堂の家系は『国志』「素道の項」を中心とするか『連俳睦百韻』を参考にするかで大きな違いを生ずる。 素堂の数ある著書や序文・跋文・詩書などにも「国」に関する記述があるのでそれを紹介してみたい。

◎ 『其袋』 元禄三年六月刊、著元禄二年(1689)  九月十三日夜遊園 素堂十三唱 の十三唱目

国より帰る

われをつれて我影帰る月夜かな

 この前書の国は不明であるが、素堂の甲斐入りは元禄八年夏のみ確認され(『甲山記行』)元禄二年は確認できない。 後に触れるが山梨県と素堂を結ぶ元禄九年の「濁川改浚工事」は素堂側の資料からは抽出できない。

 さて素堂の家系について『連俳睦百韻』を見てみる事とする。既に前項で触れているが再確認すると

 素堂の祖先は織田信長の家臣で次の豊臣秀吉にも仕えて会津百万石を知行して最後は京都で亡くなった蒲生氏郷の家臣山口勘助良佞と云う。荻野清氏はその著『山口素堂の研究』でこの山口勘助が甲斐教来石村山口に住んだとして、その後は『国志』の記述に結びつけている。これは安易な方法であり歴史事実ではない。蒲生氏郷は天正十年(1582)に織田信長か甲斐を壊滅した折に諏訪より台ケ原村(現在の白州町)に布陣し次の日新府城を攻め落とした武将の中に含まれている。素堂の祖先が何時蒲生氏郷の家臣から町屋に下ったかは資料不足で言及できないが、甲斐巨摩郡教来石村山口に郷士として住んだ事は有り得ない事である。山口は当時は人が住むような立地条件には無かったのである。

◎『甲山記行』(元禄八年・1695)著

  それの年(元禄八年)の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかりしけるころ身延詣の願いありつれど、道のほどおぼつかなうて、といもなはざりしくやしさのまま、その志をつがんめ、また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて、葉月(八月)の十日あまりひとつ日(十一日)、かつしかの草庵を出、むさしの通を過て、(中略)十三日にのたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏をあるじとする。云々

◎『国志』

  元禄八年乙亥素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。旦つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢され御代官触 頭の為め府中に在り  政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。 両著の記述の違いは明白である。『甲山記行』は素堂の自著でありその内容は疑う余地はない。

 甲斐は亡妻の故郷なのである。そして亡妻は野田氏の家系に在る事である。当時甲府代官には桜井孫兵衛と同年から勤仕している野田勘兵衛が在住していた。勘兵衛の父は野田七郎兵衛であり、素堂の妻の父はこの七郎兵衛の可能性が高い。七郎兵衛は延宝三年(1673)飢饉に際しての不祥事で深谷庄右衛門、水上三郎兵衛、遠藤治郎右衛門、前島佐次右衛門、近山清兵衛等と共に閉門を仰せつけられている。(『天正、宝永年間記』) 『甲斐国歴代譜』によれば、奉行として野田市左衛門の名が見える。野田家の家系については複雑な部分があり現在調査中であり、いずれ明確にするつもりである。

 素堂の『甲山記行』には桜井孫兵衛との会談や接見などには一切触れてはいない。この時の甲斐滞在中の日程の中には行動が不明な部分もあるが、だからといって素堂が政能と接見したとするのは推説の域を脱しない論である。素堂の母は元禄八年に急逝したことは資料により明らかであるが、素堂の妻の死去が元禄七年であることは知られていない。素堂の紹介書の中には「素堂は母に至孝で生涯妻を娶らず」のような著書もある。素堂の妻の死は素堂から曾良(芭蕉の門人とされるが、素堂と曾良は特別な関係にあった)宛の書簡により分かる。

◎ 元禄七年(1694)の冬のこと

 (妻の死)

 素堂、曾良宛書簡

  紹介書…『連句俳句研究』森川昭氏   …『俳諧ノ-ト』 星野麦久人氏

 …『芭蕉の手紙』 村松友次氏

   御無事に御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀(素堂)妻に離申候而、当月は忌中に而引籠候。   

  一、桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被哉、御同然に残念に存事に御座候、嵐雪、       

桃 隣 二十五日に上り申され候、尤に奉存候。

  一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。

  一、内々のみのむしも忌明候はゞ其日相したゝめ 可申候其内も人の命ははかりがたく候へ共…  云々

     例の年忘れ、去年は嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや。

  曾良雅丈  素堂

◎ 元禄五年(1692)のこと

  (妹の死)

 『芭蕉句選年功』

   芭蕉の句 埋火や壁には客の影法師

  杉風家蔵真蹟に「素堂が妹の身まかりける時」と前書あり。

 素堂には妻も在り、妹もいたのである。父の存在や死去年は定かではなく、資料も見当たらないし素堂も触れていない。母の死去が元禄八年、母の喜寿の祝い(七十七才)を元禄五年に芭蕉以下で催しているので素堂の母は八十才まで生存したこととなる。元禄五年時、素堂は五十一才、素堂は母二十六才の時の子供となる。この素堂の母を甲斐府中魚町山口屋市右衛門の先妻とする説も在り、それは素堂が母を伴い二十才の頃江戸に出たとするものである。この説も何ら資料を持たないものである。 さて素堂の家系について、忘れてはならないのが山梨県立図書館にその多くの著書が蔵書されている山口黒露のことである。山口黒露は素堂の甥と紹介され、素堂の臨終から葬儀は黒露が仕切っている。又一回忌追善俳諧集『通天橋』を刊行している。

 『連俳睦百韻』のいう家系は先に紹介したが、ここでもう一度触れて見たい。

  山口素仙堂 太郎兵衛来雪(中略)其の弟に世を譲り後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。後桑村三  右衛門に売り渡し(素堂の生家を)侘家に及ぶ、其の三男山口才助訥言林家の門人 尾州(尾張)摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟多くあり皆死す。其の子幸之助侘名片岡氏を継ぐ。云々

 これが素堂家の家系である。『国志』の云う甲斐府中の山口屋と結びつけるには余りにも差が在りすぎる。 素堂は江戸で生まれ江戸で死去した。素堂の妻は甲斐府中の野田氏の子で、これが素堂が甲斐の出身と誤解される大きな要因になったのである。

 素堂の事蹟を調べているとその評価の低すぎるの事に唖然とする思いである。素堂は俳諧に於て西山宗因の後芭蕉と共に新風を興すべく様々の挑戦を続ける。考えるのは素堂で実際に句作に専念したのが松尾芭蕉である。 それを芭蕉側の資料を中心にした研究者たちは素堂の数多く残された序文や跋文を読むことを怠り、素堂の俳諧は奥行きがなく駄作や愚作が多いなどとの言を吐く。 素堂の序文や跋文の中には素堂の俳諧に取り組む姿勢が垣間見られて芭蕉俳諧の見直しも余儀なくされる程の重みを持つものである。

 山梨県でも長い間素堂誤伝を信じて紹介されてきた。「素堂甲斐教来石生誕説」・「素堂と濁川工事関与」・「素堂家、府中山口屋説」などなど新資料を基にした訂正が必要なのである。素堂の俳諧に於いての事蹟も再評価して正しく伝える義務がその道に携わる人の責任である。 山梨県の歴史学は視野が狭く、特に一般県民に伝える努力が不足しているような気がしてならない。

 さらに新たな歴史事実を無視した「歴史イベント」は、一般の人の歴史観を大きく誤らせる。

 特に御牧については一考を要する又官道についてもしかりである。歴史は正しく伝える事が大切で例えその人物の恥部であっても直視すべきで美化した人物像を作ることは許されない。「武田信玄」についても再評価を求めたい。戦国時代に聖人信玄は有り得ないし、戦争とは殺戮の歴史である事を忘れてはならない。

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五、濁川改浚工事

 山梨県で素堂を最も有名になったのは元禄九年の濁川改浚工事である。『甲斐国志』のこの項は他の項と全く違う記述方法となっている。濁川工事に関係する部分を抽出して見ると、(読みやすくした)

  元禄八乙亥歳素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。旦つ桜井孫兵衛に謁す。政能素堂を見て喜び、抑留して濁河の事に及ぶ。嘆息して云ふ。濁河は府下の汚流のる聚【あつま】る所。頻年笛吹河瀬高になり、下の水道の壅がる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。民は溢決に苦しみ、今に至る尚爾り。

  国の病と為す。実に甚だ死し。水禍を被る者、十村中に就き、蓬澤・西高橋二村最も卑地にして、田畠多く沼淵となり。(中略)

  政能屡々之を上に聞すれども言未だ聴かれず。それ郡の為め民の患いを観、すなわちこれを救うこと能わずや。吾れ辨じて去らんと欲す。然れども閣下(素堂)に謁して、自らの事の由をのべ、可否を決すべし望み、謂ふ足下く此に絆されて補助あらんことを。

  素堂答えて云ふ。人者これ天地の役物なり。可を観て則と進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青も前に小石川水道の為に力を尽くせし事ありき。僕慎みて承諾せり。公の令に旃(こ)れ勉て宣しくと。

  政能大に喜びて晨【あした】に駕すことを命ず。(中略)吾思ふ所あり、江戸に到りて直ちに訴へんとす。事成らざるときは、汝輩を見ること今日に限るべし。構へて官兵衛(素堂)が指揮に従ひ、相そむくことなかれと。云々

  素堂は剃髪のまゝ双刀をたばさみ、再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是れ自り夙夜に役夫を勒して濁河を濬治す。(中略)是れに於て生祠を蓬沢南庄塚と云ふ所に建て、桜井明神と称へ山口霊神と伴せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊でか洪恩に報んと云ふ。云々

 国志にこう書かれては一般の人なら信じてしまう。まるで政能と素堂は会話が歴史資料に現存しているような錯覚に陥る。これは濁川の河畔にある桜井孫兵衛の親族斉藤正辰の建立した地鎮碑の刻文を参考にした著者の創作部分である。ここで斉藤正辰の刻文を紹介する。

◎ 濁河地鎮碑

  甲州の蓬澤、西高橋両村、濁河の剩水を受けて大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば即ち舟に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾は但【いたずら】に与にするを焉、禾黍も実らず、飢え死にしたる者野に盈つ。将に不毛の地と為らんとす。

  元禄甲戊(七年)桜井孫兵衛政能郡の為に于邑に到る。民庶は涕泣して濬地の計を請う。政能は諾し明くる年乙亥(八年)帰りて老臣に訴へて、其の事に甚勤した。国君(藩主徳川綱豊)はこれを恤し、明くる年丙子(九年)新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間の泥を開いて塞を决き、濁河の流れを導きて笛吹川に合せ遂ちて止む。是に於て土地は沃乾【こえかわ】き稼穡【かしょ】は蕃蕪す。民は以て居すべく、租を以て入るべしと。  政能死してから久しい。而して両村の民は愈々【いよいよ】その恩を忘れること能はず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。後来其の所由【よるところ】を失うを恐れ、遂に書を石に勒すと爾【かく】云う。

  元文戊牛七月   斉藤六左衛門正辰

  (三年、1738)

 石碑を建立した斉藤正辰本人が碑文の中で

  鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。

 と云っているのに、後世の研究者は「生祠」と断定して諸書にその論を展開している。江戸時代に於て代官がその業務遂行完成に於て「生祠」を建てることなど厳禁事項である。  

 この間違いは同じ『甲斐国志』の中の「巻の四十三」に記載されている「庄塚の碑」の記述によるものである。(抜粋)

  手代の山口官兵衛〔後に素堂と号す〕其の事を補助し頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利【さいわい】とす。終【つい】に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し(中略)側らに山口霊神と称する石塔もあり。 しかし『甲斐国志』より三十余年前に刊行された『裏見寒話』(野田市左衛門著)によれば、(抜粋)

  湖水の眺望絶景なりしを桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁河へ切落とす、今は一村田畑にして、農民業を安んす。農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。

 として山口霊神や山口素堂の関与には触れてはいない。『裏見寒話』著述の時代には桜井孫兵衛の事蹟は語り継がれていたが、素堂の関与は歴史事実及び言い伝えとして無かった事を示唆している。

 桜井孫兵衛は享保十六年(1730)に死去している。「桜井社」の建立は享保十八年(1732)で現在も刻字が明確に読み取れる。側らの石碑の建立は元文三年(1738)である。

 当時の甲府の財政は悪化の一途を辿り、幕府よりの借金も増えている時期で、度重なる地域の要請に幕府が答える事ができなかった一つの要因である事には間違いない。代官の職務の一番は年貢の確実な取り立てである。田畑の損失は年貢の納入に大きな影響を与え代官の業績や昇進にも響く。身銭を切っても納入額を完納する義務が在る。農民を救う事は即ち自らの立場を保持する事に繋がることで、桜井孫兵衛の碑文事蹟をそのまま認めるわけにはいかないのである。

 元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。

 このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、

 元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。

 工事にかかった経費は三百両余である。

 桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。

 斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》

 正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分をした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。

 

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