真昼間ちょうちん
宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)
いまから223年前(著当時)の宝永四年十一月二十三日、久しく静かな眠りをつづけていた富士山がとつぜん大爆発をおこした。
この宝永の噴火は、すでにニカ月も前から全国にバカ陽気がつづき、おかしなことばかりおこっていた。これは噴火の前ぶれであったのだ。
ことに富士山のお膝元である駿河、相模、甲斐の諸国においては、思いがけたい異変つづきで、真昼問キツネに化かされているようなことばかりであった。
「なんともふしぎの年じゃあにやあか、いつまで経っても冬が来ずに、一足とびに夏になったようなバカ陽気じゃな」
そま山道を下ってきた杣伐りは、道端の竹ヤブで、タケノコ掘りをしているじいさまにそうはなしかけた。寒中にタケノコ掘りをしているのもふしぎなら、杣伐りが山で採って手にしている一束のワラビだって、ふしぎ千万なのだ。
「わしの掘っているタケノコも、あたりめえなら来年の四月はじめにならねえと、頭をもち上げねえものだが、こうあちこちから土を持ち上げられちゃあ、竹にならんうちに市へ出さねえとな」
なんとも奇妙たはなしだが、.これは当時の火山の前ぶれをしるした文献にあるのだからどうしようもない。
「甲州より暖ったけえ駿河じゃあ、梅も桜も二度呆けの花を散らし、冬、お茶つみをしているそうじゃ」
「夏のようなバカ陽気で、麦はのびるは、茶の芽はホケるは、いやはや気違い陽気じゃ」
十一月も末である。いっもなら富士山にも、二度や三度小雪が降るというのに、樹海はいつまでも青々として、次から次へと木の芽、草の芽が伸びて青く茂り、冬になればよけい殺風景になる転石(まるび)の溶岩帯には、名物の富士桜が、柳のような細い枝に、一本かれんの花を咲かせていた。
杣伐りと老人の話している山道には、タソポポ、スミレの花盛り、蝶や蜜蜂が花から花をとび、カエルやヘビも冬眠を忘れて這いまわっていた。
「この先月三日の大地震では、富士山の大沢がひどく崩れおちたが、雪しろになると、駿河の衆は、大沢の砂礫でまた家、田畠を流されるんじゃろう」
十月三日の大地震では、駿河の吉原、富士宮でも倒れた家が多かったが、西国ではさらにひどい被害をうけた。夏のようなバカ陽気をぶりかえしたのはこのあとで全国的の暖冬異変であった。
富士山北麓の人たちが、江戸といわず諸国におこった、できごとをよく知っているのは、富士山、御正体山(懸仏の意)、十ニカ岳たどをめざして全国から集る山伏、修験老、富士講の信者たちが、いつも耳新らしいニュースを流していくからだ。
「山伏たちのはなしだと、このふた月つづきの地震とバカ陽気は、お山のお怒りなされる前ぶれだといっているそうじゃ。音から湖水が氷らぬような年は、よくききん、疫病、天災がおこる前ぶれと相場は決まっている。」
「延暦のむかし、お山がお怒りになったときは、近江の地が裂けて、びわ湖という大きな海がでけたそうじゃ。お山がお怒りなされてはたいへんじゃ。南無浅間大菩薩」
老人は、富士山の山頂へ向かって合掌した。浅聞さまの本体は神さまで、菩薩は仏さまである。霊山信仰は、神と仏とが奇妙にとけあった、特殊な大衆信仰といえる。神さまと仏さまを一諸におがんでいれば、それにこしたことはないのだから合理的信仰だ。
ごくおおざっぱだが、富士山麓に起こった出来事をしるした「勝山記」には、富士山麓のふしぎのできごとをしるしている。そんな奇跡のおこった前後は必ず天災地変がおこっている。伝説では、海に千年、山に千年住むという本栖のヌシである大蛇が、この頃、本栖湖からとび出して山へ姿をかくしたという。この本栖のヌシについては、丸太とまちがえて棒でつついたら動き出したなど、富士山には、蛇をみた体験者が多い。これは別にしるす。
<すさまじい噴火のありさま>
宝永の噴火は文献が多いので信じられることだ。十一月二十一日、相変らずバカ陽気でたるんでいた、山麓の人々の間で、気のつく人は、すでに遠雷のようたとどろきを地の底からときどき感じた。樹海のあちこちからは、蒸気が上がりはじめていた。気づかないような徴震は、すでにたえまなくおこり、軽震がこれに加わった。
ヒズミ地震計とか、ベニォフ地震計といった高感度の地震計では、一日に何千回も徴震をキヤチッして噴火の予知もできただろう。
<昼日中提灯をつけた大噴火>
二十二日、朝から富の富士山は「腹の底」にこたえるような鳴動をはじめた。「ゴロゴロゴロ」と、山鳴りのはげしくなった午後二時頃からは、二十三日の朝までに家の倒れるような地震が相ついで三十数回もおこった。
この間にも軽震は絶えまなくおこり、ついにお山は火を吹き出し、樹海といわず、溶岩の隙問といわず、ボイラーのフタをとったようにはげしい白煙をふき出した。このため木の葉は爛れ(ただれ)、穴へもぐっていたヘビやカエルも、冬眠をやぶられてノロノロと這い出しては熱気で茹(ゆだ)ってしまった。
もうこの頃になると、翅のある鳥はとっくにとび去り、足のある野獣も御坂山脈の方へ姿をかくして、お山はもうからっぽだった。
奥秩父の山火事のとき、とび出してきた数百頭もの山うさぎをアミでとったという話もある。富士山の噴火ともなれば野獣の、のがれていく姿も多く見かけた。
二十三目の十時頃、大地震、山鳴りというすさまじいるつほのなかで、ついに富士山は、雲をつき破って大火焔を噴きあげた。「ド、ド、ド、ドヵーソ」「ド、ド、ド、ドカーソ」耳の障子は破れんばかり、大地はゆれる、山は鳴る。十二、三キロ四方に真赤の火山弾がとび散って、たちまち甲、駿、相模は夜昼灰の闇にとざされてしまった。
火山灰がまるきり太陽の光りをさえぎってしまったのだ。ものすごい降灰で、江戸も昼日中まっくらやみ、ましてや富士山のおひざもとはまっくらけで、鼻をつままれても分からないので、日中、提灯(ちょうちん)をつけて歩いた。
灰の降ること二十日間、この問富士山はただ暗やみの中で火を吹き続けた。ともかく、十二月中旬にいたるまで噴火は続いたのだ。
ようやく人の顔が見えるようになった頃、富士山麓はまさに灰色の底にすっぽりうもれていた。家はつぶれて灰にうずまり、田畠は溶岩でゴロゴロ、これに灰がニメートルも三メートルもつもって、まったく死の世界であった。
宝永の大噴火で、スマートだった富士山の胸のあたりには、デッカイたんこぶ宝永山ができ上っていた。
幕府は関東一円に灰を降らせた田畠の復旧と、住む家を失したった農民に対して、救済するために、一万石に対して二百両(いまの五百万円)当たりの金を拠出させた。十万石の大名は、いまの金で二千五百万円も出した勘定だ。石高百石取りの下級武土まで二両を拠出した。この金、〆て四十八万両にのぼったが、幕府は十六万両を出しただけで、三十六万両は将軍さまの台所へまわってしまった。
(江戸時代史)
<宝永大噴火の日記(富士吉田師職田辺安豊記)>
宝永四年十月四日、大地震おこる。二夜三日神事をおこなったところで神の告げあり。大火来ると…(以下分かりやすくして付記した)
- 二十二日、暮六つより(いまの午後六時前後)地震数十回おこる。暁よりは地震の数はもうかぞえられないほど頻発する。
- 二十四日、巳の刻(午前十時)頃、天よりまるい鐘ほどもある光がくだるとみるや、黒煙山のようにのぼり、富士山が鳴動し轟音を発すること、天上の百雷を一つに集めていちどに落ちたほど。稲妻もしきりにおこり、みな肝をつぶしたほどであった。酉(夕方六時)の刻より雷光はいっそうはげしく、火烙は火の玉が逆に天へ上るようで、このため夜が昼のように赤々と照らし出した。
- 二十四日、巳の刻(午前九時~十一時)、煙が四方へ墨をふりまいたようにひろがり、須走は石と砂が降って八十六戸の家はすべて焼かれたり土に埋もれてしまった。降灰の深さは約三メートル、このため村人は逃げ去って無人の村となった。女子はナベ、カブを頭にかぶって四方へにげたが、真赤にやけた火山弾が「ゴチーソ」とぼかりナベをつき破って頭から腹へとびこみ、命をなくしたもの、重傷を負うもの数しれず、戌の刻(夕方六時~九時)には、又々家のつぶれる大地震でのこった家はすべてつぶれてしまった。音も光りもますます激しくまさにこの世の生地獄のようだった。
- 二十五日、朝すこし陽が射したが又昼頃から曇った。
- 二十六日、師職、神官たちが集って、各浅間神杜につめて、禁足のまま御山の安全といかりをしずめる御祈祷した。そのうち西風がでて黒煙もようやくはれ、鳴動も次第におさまって来たので大祝詞をあげた。近隣、遠村を問わず参拝の民衆は、稲麻竹葦(からだがくっついてもみくちゃ)のように雲集して祈りをささげた。
- 二十七日、けむりはふたたび空高くのぼり午の刻九つ(十二時)頃に薄陽がさした。
- 二十八日、鳴動、光りもやわらいで、大鳥居や富士の砂礫の上で貴賎群衆、悪人、善人のくべつなく一心にお山へいのりをささげた。
- 三十日、みそかの戌の刻すぎ大地震がおこり、震動、煙も特別大きく、火の玉があがって溶岩がどっとおし出してきた。
- 十二月一日、日の神を朝より拝む。
- 二日もおなじ、
- 三日の夜は曇ったまま四日をむかえて暁に雪が降って白くなる。又巳の刻(午前九時三十二時)大地震がおこって夜半までゆれる。火の玉はますます激しべ光りきらめいた。五日、ことに南風にて昼すぎまで天地鳴動した。しかし申の刻(午後三時~六時)の下刻より急に静かにたった。
- 六日、七日朝から明るい太陽をのぞみそのありがたさに祈った。
- 八日、地震はまたも度々おこり、子の刻(夜中の十二時)ばかりには特に大きくゆれた。火の玉も千たびも上った。さるほどに神風のせいか、寅の刻(午前三時~六時)ようやくおさまった。
駿東郡は、足柄より富土山頂まで、村里も草木も焼かれて砂だけの一望灰色にとざされた。鎌倉でも三十センチから九〇セソチの灰がつもった。
河の水も井戸水もたえて、のどを潤るおそうにも一滴の水もない。人々は江戸高井戸、八王子、谷村ときいて富士へ登るべく、新しい宝永山をみたくて集ってきた。このとき山中、長池、平野は灰の降って以来、草木は絶えて出でず。以上すさまじいさまがよく綴られている。
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