本能寺の変と伊貸越えの謎
大正十年六月二日の本能寺の変の直後における家康の伊賀越えの難に関しても、さまざまな謎がまつわっている。家康が四十一歳のときに遭遇した不慮の難事件であるが、いろいろな角度から考えることのできる、興味深い出来ごとだといえる。
本能寺の変が勃発するちょうど十目ほど前に、家康は近江の安土城で信長と別れて上洛した。それが五月二十一日のことで、二十九日には、わずかな近臣と武田の降将穴山梅雪を連れて和泉の堺に到着している。これは、安土で信長から堺の町見物をすることを勧められたからだ。
そして、三十日と六月一日の二日間で堺見物を終え、六月二日の朝、京都の本能寺に宿泊しているはずの信長と会見するために、家康一行は堺を出発したのである。
ところが、二目の午の刻(午前十二時)に河内の枚方で、家康の先発を承った徳川家臣の本多忠勝が、その日の早暁に起きた本能寺の変と信長の頓死を知り、そのことを飯盛山の下で家康に報告したのである。
そこで、驚くと同時に昂奮した家康が、ただちに上洛し明智勢のなかに斬って入り、知恵院で切腹し、信長の死出の旅のお供をしようというのを、老臣酒井忠次が諌止した。主従が冷静に相談した結果、明智勢の目をくらますため、上洛を触れて、宇治田原から山田を経て、信楽の小川で一泊し、翌六月三日、伊賀の山越えをし、伊勢の白子の浜に出て、そこから船に乗り、四日、三河の大湊に着岸し、無事、岡崎に帰城した、というわけである。
ところで、この事変には、家集主従一行のほかに、穴山梅雪を始め、京都の政商茶屋清延(きよのぶ)、伊賀者などが登場するし、また、家康一行の堺遊覧を知っていたはずの明智光秀の対策など、いろいろと推理をめぐらす価値のある問題が多い。
かつて、信長を殺したのは、光秀ではなくて秀吉だったとか、家康だったとかいう奇説を吐いた作家がいたほどである。そこで、家康が本能寺の変を事前に知っていたのではなかろうか、という疑問を投げかける人さえいるのである。が、それならば、何もわずかな近臣を連れて堺見物などするわけもあるまい。むしろ、光秀が信長に勧めて、家康に堺見物を実行させたと推測するほうが、納得性に富んでいるように思われる。
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