甲斐 江戸初期支配者の変遷
慶長五年関ケ原の役後、浅野氏は紀伊和歌山へ転封になり、国中三部は再び徳川氏の直轄領となった。なお、郡内領(都留都)はこのときから鳥居成次が谷村城主に任ぜられてのち、その所領は子成行に受け継がれる。その後、寛永十年(一六三三)秋元奉朝が領主となって以来、富朝・喬知と秋元三代の支配が宝永元年(一七〇四)まで続く。
さて、翌慶長六年、上野厩橋城から平岩親吉が再度甲府城代として入城、また大久保長安が国奉行に任命された。長安は同年から翌年にかけて甲斐二目の検地を実施した。いわゆる。『石見検地』であるが、総高二十三万八千百八十五石余、これは古高と称されている。
大久保長安は天文十四年(一五四五)猿楽師金春七郎喜然の二男として甲斐に生れ、はじめ武田信玄のもとで蔵前衆に属したが、武田氏滅亡とともに徳川家康に仕え、鉱山開発・地方支配の才覚を認められて、やがて幕府創業期の代官頭となり、家康再領役の甲斐においては平岩親吉のもとで民政を担当して活躍した。慶長十二年、家康の命により富士川開繋にあたった角倉了以に援助を与え、その完成に大きな役割を果したという。また金山奉行として、全国各地の全銀山の開発に多大の成果をあげたことはよく知られている。「天下の惣代官」といわれ、その権勢・財力は並ぶ者がないほどであった。しかし、同十八年の死後、生前の陰謀・私曲を理由に遺産は没収され、遺族は死罪、庇護者大久係忠隣(ただちか)ら多くの関係者が失脚させられた。その真因は、忠隣と本多正信との権力争いにあったといわれている。
この間、家康の九子義直が慶長八年に甲斐に封ぜられたが、平岩は城代としてとどまって、直接支配にあたっていた。同十二年義直が尾張に転封すると、平岩も尾張犬山城に移り、そのあと甲府は城番を置いて守衛することとなった。甲斐峡北地方に采邑(さいゆう)をもち、城代平岩のもとで勤仕していた武川筋・逸見筋の諸士十二人をもって城番とし、彼らを二人ずつ十日交代で勤番させるもので、かつて武田家臣団の有力な構成分子の一つであった武川衆がその中核となっていたので、一般に武川十二騎と呼ばれた。次いで元和二年(一六一六)には将軍秀志の三男忠長が甲府城主となった。忠長は寛永元年さらに加増されて駿府に居城し駿河大納言と呼ばれたが、同八年幕府の咎を受け甲府へ蟄居させられ、さらに上野高崎に移されて、同十年死を命じられた。
忠長の除封後、再び甲府城番の時代に入る。まず任ぜられたのは大久保忠成(大久保忠世の子で忠隣の弟)で、そのあとを伊丹康勝が勤めた。伊丹は山梨郡のうち一万二千石の地頭として、三日市垢村十組(徳美)に居館を構えた。寛永十三年伊丹が辞してのち、甲府城番は年番となり、上級旗本二名ずつをこれにあて、城番一人に与力六騎・同心二十入を属させることにした。毎年五月四日を交代の時期とする年番割は、寛文元年(一八六一)まで二十五年間にわたって行われた。 この時期において注目されるのは、新田開発で知られる代官触頭平岡和由(かずよし)・良辰(よしとき)父子の治績である。和由は寛永十四年、巨摩郡竜王村(現、竜王町)に釜無川の水を引いて富竹新田を間いたほか、金竹新田(現、甲府市)その他荒地を開墾して民利をはかった。跡を継いだ子良辰も、当時、茅ケ岳山麓の浅尾原に塩川の水を導き新田を開発しようと計画した上神取村(現、明野村)清右衛門・村山東割付(現、高根町)重右衛門の両人を助けて、慶安元年(一六四八)これを完成し、新田への移住者を募り、諸役免許の恩典を与えて入居者を保護した。富竹新田では和由を水神に祀り、浅尾新田(現、明野村)では良辰の法名玄空をそのまま「玄空さま」として祀っている。
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