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不明な部分の多い天下人家康の足跡を、従来の諸説をふまえながら再検討する 『歴史読本』徳川家康の謎 國學院大學名誉教授 桑田 忠親(くわた ただちか)

2023年08月02日 09時23分57秒 | 日記

不明な部分の多い天下人家康の足跡を、従来の諸説をふまえながら再検討する

 

『歴史読本』徳川家康の謎

 

國學院大學名誉教授 桑田 忠親(くわた ただちか)

 

 徳川家康の素姓や、七十五年の生涯の上に起こったさまざまな事件、および、それを処理した家康の方策、言行、人物像などについては、その当時から今日に至るまで、多くの学者、好事家、小説家らによって、種々な伝説が伝えられ、評価も加えられてきたが、いまだにその真相が究められず、謎とみなされていることが多い。

そこで、それらについて、私なりの意見を総括的に述べてみたいと思う。

 

   家康の素姓と系図

 

 まず、家康の素姓や出自については、古くから二説が伝わっている。

 家康の出自である三河の土豪松平宗家初代の祖が松平親氏(ちかうじ)であることは確かとされているが、その親氏の素姓に関しては、二つの説がある。

その一つは、室町初期の頃、三河加茂郡松平の郷主松平太郎左衛門燈重という者が、下野の源姓新田氏の支族である得川(とくがわ)氏から出た得川親氏を娘むことし、親氏の子康親に松平宗家を継がせたというのである。

もう一つは、室町中期の頃、徳阿弥という時宗の遊行憎が、どこからともなくやってきて、三河碧海郡大浜の称名寺に逗留した。それを松平郷主の松平信重が娘むことし、太郎左衛門親氏と名乗らせて、家を継がせたというのである。

 

この二説のうち、どれが確かかは判明しないが、どうも、あとの説のほうが史実に近く、前の説は、徳川氏の系図を作ったときの工作と思われる節がある。それならば、徳川氏の系図は誰が、いつ作ったか。

 家康は、初めは松平氏を称し、元服して元信と名のったが、次いで元康と改めている。元の一字は、元服親の今川義元から貰ったというし、康の一字は、元信が、祖父の清康にあやかるためにつけたといわれる。そして、元康を家康と改名しためは、もちろん今川義光の死後のことで、元の一字を廃したからである。

 しかし、姓は、初めは藤原を称していた。

藤原と源を併用していたという説もあるが、藤原を称していた実例

が多いようだ。それが、はっきりと、新川源氏の子孫だということを家康自身が宣言したのはいつかというと、驚いたことに、家康が関ケ原戦勝後三年めの慶長八年(一六〇三)、六十二歳のときなのだ。この年の二月、家康は朝廷に奏清(そうせい)しで征夷大将軍に任ぜられたが、そのためには、源姓の「徳川系図」を作らねばならなかった。

 

そこで家康は、鎌倉幕府この方、歴然とした源氏の正統であった三河の大名吉良氏に頼んで、その系図を貰い受け、藤原姓を改めて源姓を唱えた、というのである。

 

新田氏との関連性については、新田義重の子、義季が上野に住み、得川とは字音が共通するから、源姓新田義季(よしとし)の子孫である徳川家康と称することにしたらしい。

 このような系図の作り変えは、何も家康に限ったことではない。系図買い、系図作りなどといった商売さえも存在したことでも分かるように、戦国時代の大名家では盛んに行なわれた。それには、もちろん、武家社会に信ぜられた源平交替思想の影響があったためである。

 たとえば、源姓である足利将軍の政権に取って代わろうとした信長は、織田氏が先祖以来、しばしば藤原の姓を称していたのを改めて、平の姓を唱えるために、平姓の「織田系図」を作らせている。

 

さらに、自分の先祖を仮称することさえ出来ないほど卑賤の出自であった秀吉は、丹羽優秀の羽と、柴田勝家の柴とを貰って羽柴氏を称したが、信長の死後、天下の政権を掌握すると、初めは、平姓の信長に代わり、源姓を唱えて、征夷大将軍になりたかった。そのために、亡命将軍足利義昭の猶子となって源姓を唱えようと図ったが、義昭に拒絶されてしまった。

 そこで、仕方がなく、これを断念し、菊亭晴季(はるすえ)に頼んで、前関白近術前久の猶子となって、藤原姓を唱え、関白に任官し、さらに太政大臣となったが、「藤原系図」にわが名を書きこむことは、さすがに憚り、朝廷に奏請して、源・平・藤・橘四姓のほかに、豊臣の別姓を勅許され、豊臣秀吉と称したのである。

 

だから、三河の土豪松平氏の子孫である家康が、源平交替思想に従って、平信長・藤原(豊臣)秀吉につぐ政権掌握煮として、源姓を唱え、征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いたのは、当然の成りゆきといってよいめであろう。

 

不遇な幼少時より作られた奇説

 

 家康は、いうまでもなく、戦国末期の天文十一年(一五四二)、三河の岡崎城内で生まれた。幼名竹千代。父は松平広忠、母は於大(水野氏)である。

しかし、竹千代は、三歳のときに母と生き別れた。六歳で今川親元の人質となって駿河に連れられていく途中で、戸田康光に奪われ、尾張の織田信秀(信長の父)のもとに連れ去られた。八歳のとき、父松平広忠が、二十四歳で早死している。               ’

 竹千代は三年の間、尾張那古野(名古屋)の万松寺に監禁されていたが、八歳のとき、今川氏と織田氏が一時的に講和を結ぶと、人質交換の結果として、また駿府に連れ去られ、改めて今川義元の人質として監禁されることとなった。 

 そうして、今川義元が信長のために尾張の桶狭間で敗死し、岡崎城に戻って自立する十九歳の年(永禄三年=一五六〇)まで、およそ十二年の間、松平元雄(竹千代)の人質時代が続いた。実に長い人質時代であった。

この間、家康(竹千代・松平元信・元康)自身も、いつ敵のために暗殺されるか分からないほどの、危ない橋を渡ってきたといってよい。そのため、家康の経歴について、つぎのような奇説さえ唱えられたのである。

 幼にして今川宗の人質となって辛酸をなめたという松平竹千代と、十九歳で今川軍の一部将として尾張の大高城に兵核を入れた松平元康と、信長の盟友として姉川や三方ケ原で戦い、信長・秀吉の死後に天下の覇権を握った徳川家康、この三人は、まったく別個の人物であ

る。家康という人物は、ささら者の私生児であり、松平家とは何らの血縁もない、願人坊主の後身であるというのである。

 

以上のような奇説を誰が唱えたかというと、明治後期に東海道清泉の地方官吏を勤めていた村岡素一郎という男なのだ。

 彼は、あるとき、宗雄関係の古記録『駿府記』を読んでいたところ、慶長十七年八月十九日大御所家康雑談の条に、

 

……古いことだが、わしの幼少の頃、又右衛門某という者がいて、銭五百貫でわしを売りとばしたため、えらい苦労をした……

 

とあるのに疑いを抱き、家康の幼少年時代および青年時代の事蹟について徹底的な調査を行なった。しかし、調べれば調べるほど、辻棲の合わない、奇妙なことが多い。そこで研究の結果、以上のような奇抜な結論に達し、一本にまとめて出版した。

それが明治三十五年(一九〇二)に良友社から刊行された村岡素一郎著『史疑 徳川家康事蹟』なのである。

 

当時の読者の反響は大変なもので、賛否なかばし、喧喧囂々(ごうごう)たる論議の的とはなったが、この奇書は、いつしか市井の店頭から姿を消し、重版のチャンスさえ得られずに終わっている。

ところが、近年になって、この奇書を資料として二、三の歴史小説が書かれ、また『史疑徳川家康』と題する史書さえ刊行され、いわゆる水康ブ-ムの副産物として、少々、歴史愛好者の注目を引いた。

 私は、べつに家康のことを弁護する意図はないけれど、この奇説は、大衆的な時代小説としては面白いが、史実ではない。なぜか。その理由については、あまり長くなるので、ここでは省略するが、知りたい方は、拙著『戦国史疑』(昭和五十一年、新人物往来社刊)を参看してほしい。

 結論として、徳川家康は、やはり竹千代・松平元信・元康・家康と改名はしたが、初めから一人なのである。

家康が三人いたなどというのは、宮本武蔵が二人いたというよりも、はるかに悪質な奇説であろう。

 

三方ケ原敗戦と家康の真意

 

『歴史読本』徳川家康の謎

 

國學院大學名誉教授 桑田 忠親(くわた ただちか)

 

 家康の一生のうちで最も重大な意味をもつ戦いの一つに、武田信玄相手の遠江三方ケ原の合戦がある。

 その頃、家康と清洲軍事同盟を結んで上洛の宿志を遂げた信長は、江北で浅井・朝倉氏の連合軍と対峙していたが、信長打倒の執念に燃えていた亡命将軍足利義昭から信長追討・上洛歓迎の御内書を受けた甲斐の強豪武田信玄が、浅井・朝令而氏と連絡をし、まず、家康を討って信長を倒す目的をもって、元亀三年(一五七二)十月、二万七千の大軍を率いて甲府を出馬し、遠江に侵入、家康の居城浜松を素通りにし、三方ケ原を経て三河に転進しようとした。

 そこで当年三十一歳の家康は、信長からの援兵をも合わせて一万一千の軍勢を率い、信玄を追って三方ケ原に出陣しようとしたのである。そのとき、宗臣たちはみな、優勢な敵軍に敢えて挑戦するよりは、浜松に龍城するにしかずといって反対したが、家康は、家臣らの諌言をしりぞけ、敢えて三方ケ原に出撃し、信玄と戦って惨敗、命からがら浜松に逃げ戻ったのである。

このように勝ち目がないと思われた戦いを、なぜ敢行したのであろうか。家康の真意は果たしてどこにあったか。これも、石橋をたたいて渡るように慎重に対処してきた家康としては、はなはだ疑問が残るのである。

家臣らが理を尽くして諌止したとき、家康は敵勢がわが頼国内を踏みつけて過ぎるのを、一矢(いっし)もかけぬとあっては、武門の名誉にかかわる。勝敗の違は天にあり、兵力の多少にはよらぬ。と答えたというが、それが家康の本音であったか。

 私は、そのときの家康の真意は、もっと具体性に富んだものではなかったかと思うのである。もし、ここで戦わずに信玄を通過させたとしたならば、家康など頼みにならぬと悟った遠江・三河の土蒙たちは、相ついで武田方に内通してしまうだろう。たとえ敗れるにせよ、戦いさえすれば、それが一つの戦歴として、後世にも伝えられ、武田信玄と死力を尽くして戦った武将として、他の武将たちに一目置かせる存在となるに相違ないと考えてのこととも思う。

 しかし、家康の真意は、信長との清洲軍事同盟を守るにあったと推測する。家康は、なんといっても、信長の実力と将来性を初めから高く評価していたのだ。盟友信長のためには、あらゆる犠牲をはらってもよい。信長と軍事同盟を結んだればこそ、三河の岡崎城主としての地位も確立し、彼の前途が開け、今川氏を追放して遠江をも手に入れることができたのである。

 この、信長と一蓮托生の決意が、その後のあらゆる難関を突破させた。

信玄の死後に、その遺志を継いで家康に挑戦してきた武田勝頼の軍勢を、三河長篠城外の設楽原の合戦で破り、大勝したのも、信長の後援あってのことであった。

 

築山殿事件とその真相

 

 長篠戦勝から四年めの天正七年(一五七九)、家康三十八歳のときである。築山殿事件という、家雄の家族生活の上で最も深刻な難事件が勃発している。事件のいきさつはずいぶん錯雑しているが、要は、家康が信長の命令に従って、彼の長男信康に切腹を命じ、その直前に、彼の正妻であり、また信雄の生母でもある築山殿を暗殺させたのだ。信康が遠江の二俣城で腹を切って果てたのは、その直後のことである。

 この雑事件の真相については、いろいろと推測されているが、果たして、どんなものか。

一説によると、この事件の起こったとき、家雄の長男信康は二十一歳であり、かの三方ケ原の戦いにも十四歳で抜群の武勇をふるい、武田方にもその名を知られたほどの頼もしい武将であった。

ところで、信長にも信忠という長男がいて、事件当時二十三歳になっていた。家康よりは二つ年上である。そこで信長が将来のことを考えて、信忠が、現在、自分が徳川家康を従えているように、果たして、徳川信康を臣従させていけるだろうか。下手をすれば、信康のほうが織田信忠を臣従させるのではなかろうか。そんな不安に悩まされたあげく、信康の妻となっている信長のむすめ徳姫の十二ケ条にもわたる訴状を取りあげ、それを徳川の老臣酒井忠次を証人として、信康に切腹を申しつけたのだという。

 しかし、この説は、信長という人間の性格を認識しそこねていると思う。彼は、それほど慎重さに長けた男ではない。猪突猛進型の強引な現実主義者だ。それよりもむしろ、彼自身にたいする家康の臣従ぶりをテストしたのではなかろうか。

つまり、家康が最愛のわが子信康を犠牲にしても清洲軍事同盟を堅守できるかどうかを試したのだ、という説のほうが、まだ、納得性があるのではなかろうか。

ただし、築山殿は、信康を無事に切腹させるための前提として。家康が暗殺させたのである。信長が築山殿まで殺害せよと家康に命じなかったのは、彼女を殺すことが、信長にとってなんの意味もなかったからだ。

この事件は、むしろ、徳川信康謀殺事件と呼ぶべきであろう。

 

本能寺の変と伊貸越えの謎

 

大正十年六月二日の本能寺の変の直後における家康の伊賀越えの難に関しても、さまざまな謎がまつわっている。家康が四十一歳のときに遭遇した不慮の難事件であるが、いろいろな角度から考えることのできる、興味深い出来ごとだといえる。

 本能寺の変が勃発するちょうど十目ほど前に、家康は近江の安土城で信長と別れて上洛した。それが五月二十一日のことで、二十九日には、わずかな近臣と武田の降将穴山梅雪を連れて和泉の堺に到着している。これは、安土で信長から堺の町見物をすることを勧められたからだ。

 そして、三十日と六月一日の二日間で堺見物を終え、六月二日の朝、京都の本能寺に宿泊しているはずの信長と会見するために、家康一行は堺を出発したのである。

ところが、二目の午の刻(午前十二時)に河内の枚方で、家康の先発を承った徳川家臣の本多忠勝が、その日の早暁に起きた本能寺の変と信長の頓死を知り、そのことを飯盛山の下で家康に報告したのである。

 そこで、驚くと同時に昂奮した家康が、ただちに上洛し明智勢のなかに斬って入り、知恵院で切腹し、信長の死出の旅のお供をしようというのを、老臣酒井忠次が諌止した。主従が冷静に相談した結果、明智勢の目をくらますため、上洛を触れて、宇治田原から山田を経て、信楽の小川で一泊し、翌六月三日、伊賀の山越えをし、伊勢の白子の浜に出て、そこから船に乗り、四日、三河の大湊に着岸し、無事、岡崎に帰城した、というわけである。

 ところで、この事変には、家集主従一行のほかに、穴山梅雪を始め、京都の政商茶屋清延(きよのぶ)、伊賀者などが登場するし、また、家康一行の堺遊覧を知っていたはずの明智光秀の対策など、いろいろと推理をめぐらす価値のある問題が多い。

 かつて、信長を殺したのは、光秀ではなくて秀吉だったとか、家康だったとかいう奇説を吐いた作家がいたほどである。そこで、家康が本能寺の変を事前に知っていたのではなかろうか、という疑問を投げかける人さえいるのである。が、それならば、何もわずかな近臣を連れて堺見物などするわけもあるまい。むしろ、光秀が信長に勧めて、家康に堺見物を実行させたと推測するほうが、納得性に富んでいるように思われる。


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