甲府藩 甲府藩の概略
甲府藩は、甲斐国(山梨県)府中藩の略称であり、甲府地方を領有した家門大藩(一時期、譜代中藩)である。
天正十年(一三八二)甲斐に君臨した武田氏が織田信長に滅ぼされると、徳川宮座が入国し、その家臣平岩親告が甲斐国の郡代に任命され、一万三千石を与えられている。
同十八年家康が関東に移されると、甲斐には羽柴秀勝が封ぜられたが、翌年秀勝は美濃岐阜に移封され、近江佐加山城主加藤光泰が甲斐一国を領有した。光泰は甲府城の築城に着手したが、文禄二年(一五九三)朝鮮の陣中に没し、若狭小浜城主浅野長政が入国したのである。
浅野時代に甲府城はほぼ完成し、慶長元~二年(一五九七)にかけて領内総検地が実施されている。なお、長政が豊臣秀吉から与えられた領知朱印状には、甲斐一国二十二万五千石のうち、
秀吉の蔵入り地一万石を除き、長政が五万五千石、嫡男幸長が十六万石を領知すべしとあった。
慶長五年の関ケ原戦後幸長は紀伊和歌山に移封となり、甲府には翌年上野前橋(前厩)城主平岩親吉が六万三千石で入部(甲府城代)した。
同八年家康の九男義直に甲斐一国が与えられたが、親吉は甲府に在って、国政を沙汰している。同十二年義直が尾張国主に転出したのに伴い、親吉も同国犬山に移封され、甲府城は番城となった。
元和二年(一六一六)秀忠の三男徳川忠長が甲斐国主となったが、寛永元年(一六六一)駿河・遠江・甲斐のうち五千石に封ぜられた。同九年忠長の除封で幕領に編入され、甲府城番が置かれた。
寛文元年(一六六一)家光の三男徳川綱重が二十五万石で甲府に入封し、甲府藩を立藩した。
なお、綱重が甲斐国内において与えられた領知高は十四万四千石である。綱重時代に甲府城の修築、城下町の整備が進められ、寛文九、十年には検地も実施されている。
延宝六年(一六七八)綱重の遺領を継いだ綱豊(のちの家宣)は、宝永元年(一七〇四)綱吉の継嗣となったので、綱吉の寵臣で大老格の柳沢吉保が、武蔵川越より十五万一千二百石余で入封した。吉保は受封すると、甲府城の修築・城下町の整備に意を用い、同六年藩主となった吉里は穏坂堰を完成させ、また同七年から享保七年(一七二二)にかけて検地を実施している。
享保元年吉里の大和郡山移封により廃藩となり、甲府地方は募領に編入され、甲府城には甲府勤番支配、のち甲府城代が設置された。
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