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大相撲の歴史(3) 四代横綱 谷風梶の助~~

2023年08月08日 11時44分41秒 | 歴史さんぽ

故近独歩の強豪横綱 四代横綱 谷風梶の助(1)

 

わしが国さて見せたいものは むかしゃ谷風、いま伊達模様

 

と、俚謡にうたわれた谷風の逸話美談。

谷風が全盛時代に建てた家には、いまなお遺族が住んでいる。

宮城県霜目(現仙台市)にある生家。生地の村入口にある谷風の墓。

 まず古今の強剛力士を語れば、寛政の谷風にはじまり昭和の双葉山(現相撲協会時津風理事長)に終る。ただ強いばかりでなく、横綱として、力士の人望と貫録においては、双葉山をおいては空前絶後といわれる。

初代、二代、三代の伝説的横綱のあとに現れた谷風をもって、真の初代横綱と数え始めるのもむべなるかなである。

 身長六尺二寸五分、四十三貫(後に四十五貫)の巨大便で腹の周囲が七尺三寸、足袋の中に白米が一升五合入るというから、相撲の技能とともに立派な体格と相まって、巨人大横綱として偉大な存在であった。

 陸奥国宮城野(仙台市)に先祖を地侍とする農家に生まれ、九才のとき村の奉納相撲で大人をコロコロ投げとばした。十三才で酒造家に奉公に出され、酒をしぼる締木の天びん石を七、八人で持ち上げるのを一人で持ち上げて、家人を驚ろかしたという。

 谷風が十九才のとき、郷里で闘牛が行なわれているのを見物していると、勝負のつかぬ両牛が怒り狂ってやめない。主催者側がこれをひき分けようとしたが、あぶなくて近よれず、弱っていると、谷風の与四郎が、

  「おれが引分けてやろう」

 といいながら、両牛の角をむんずとつかみ、両方へ分けてしまったので、人々はびっくりした。

この年、江戸へ出て関ノ戸億右衛門に弟子入りし、明和六年(一七六九)達ケ関森右衛門の名で西大関につけ出された。

 安永五年、谷風梶之助と改名してからますます強昧をみせ、寛政七年に歿するまでの二十七年間、四十四場所中黒星はわずか十四という好成績をあげ、彼の豪勇を物語る最も驚くべき大記録を樹立した。

また谷風の六十三連勝の記録は、昭和十三年双葉山に破られるまで百五十七年間、角界のレコードとされていた。

 当時の本に「……腰低く寄る足いたって早く、実に力士の階級也、されば少時もこれに対する力者なく遇不意を以て稀に一番勝者も、再び向う時は片手を以て押出さる。寛永の始めよりこの如く万端揃いし力者なし」

と書いてある。

 谷風は色白く清く、風彩はすでに古今に圧するとあるから、容貌もおだやかで温厚な気質であり、体格も巨人力士にありがちな不均整でなく、ととのっていることが、数多い錦絵をみてもうなずける。谷風・小野川の対戦は、寛政相撲の黄金時代を現出した最大の功労者であるが、谷風穴勝、小野川三勝、無勝負三回、引分預り各二回の成績になっている。

 あるとき、谷風が蔵前を通りかかると、米屋の若い衆が、「関取この米俵で、何回、拍子木をうてますか」といったので、両手に四斗俵をつかみ、三十辺も軽く叩いて場所入りした。このあと小野川も通りかかり、谷風のことを聞き、彼は一回だけで止めにし、この日の取組に谷風をはじめて破り、江戸中の大評判になった。一回で止めた小野川に、腕がくたびれていた谷風が負けたという伝説である。

 侠気と人情に富む谷風の一面を物語る「谷風と佐野山」の講談がある。佐野山権平の親孝行を知った横綱谷風はその家に見舞い、悪魔払いの四股をふんで病気の両親を慰めた。その後湯島天神の花相撲で谷風と佐野山との破天荒な取組みが発表され、弱い佐野山に同情は集り当日はこの一番をみようとする人で賑わい、東西の桟敷が、互いに張りあって大声援、やがて立合い、天下無敵の谷風はわざと佐野山に勝をゆずり土俵に横転した。事情を知らぬ観客は熱狂し、八万から投げる祝儀は土俵に山となり、一挙に大金を得た佐野山は両親に十分孝行をすることができた。晩年谷風が郷里に病むと聞くと、佐野山は仙台にかけつけ、寝食を忘れて看病し昔の恩に報いたというしだいである。

 また、ある時弟子のことで珍しく谷風が立腹した。他の弟子がいくら詫びても聞いれず、二階に上ったきり「奴をつれてこい、打殺してやる」と激しい怒りようで寄りつくこともできない。一人の弟子が谷風の若い妾に、機嫌を直してくれるよう頼み、妾が心得て二階に上るとまもなく、谷風の手をひいて下りて来て事なくすんだので、弟子が「いくら大勢の相撲取がいても、たった一人の女にかなわない」といったという。土俵の猛者も女にはやさしかったとみえる。寛政七年一月、江戸で流行した感冒にかかり遂に歿した。享年四十一才。このため、この風邪のことを、江戸の人は「谷風」と呼んだ。

 

有馬の猫騒動に大手柄 小野川

 

 もし、寛政に谷風なかりせば、あるいは小野川の天下であったかも知れ ない。しかし谷風あってはじめて、寛政相撲の黄金時代が現出したのである。谷風があまり偉大なため、どうも損な立場におかれていた。

 

 小野川は、いまから約二百年前の宝暦八年に、江州大津(旧名膳所、本多氏六万石城下)に生まれ、その名を喜三郎とよんだ。少年時代は牛飼いであったといわれる。

 はじめ大阪に出て相模川と名乗り、幕下まですすんだが、青雲の志やみがたく、ついに意を決し江戸に下り、安永八年冬場所の番付に東幕下(十両)筆頭につけ出された。

 間もなく、小野川は名声を得るとともに、のちに有名な、仔猫退治の物語を生む動機になった筑後久留米二十一万石、有馬侯のお抱え力士となった。

 天明二年春、蔵前ハ幡宮境内での興行の八日目、幕下(いまの十両)三枚目にあって、今までに一度も勝てなかった無敵の谷風と四度目の対戦をむかえて、初めてみごとに雪辱し、江戸市中にその勇名をとどろかした。

 谷風はまけたまけたと小野川が かつをより音の高いとり沙汰 赤良

 このとき、蜀山人の四方の赤良が狂歌によんだものであるが、この小野川の勝ち相撲がいかに大評判であったかがわかる。

 小野川は寛政元年、谷風についで五代目横綱になりともに寛政相撲の寵児として、名声を四海にひびかせていたが、宿命的な強敵、谷風が死んでホッと一息つくひまもなく、怪傑雷電為右衛門があらわれ小野川という水茶屋を出し、たため、こんどは両力士の対戦が江戸中の人なかなか繁昌したが、文化気をあつめた。

 

この雷電と小野川が、龍虎にも比すべき好敵手であったことは、講談にも残っている。

 寛政二年秋、初土俵の雷電と顔を合わせたとき有馬侯は小野川を召し寄せ「明日の相僕に、もし雷電に敗れるようなことがあれば、余の面前に罷り出るな」ときびしくもうしわたした。

 小野川はその夜まんじりせず作戦にふけっていたが、この様子をみた母が明日の勝負の成算をきくと「大丈夫」と母を安心させた。当日両力士激しくもみあって、ついに小野川は命を賭けての一番にやぶれさり、母親は自害した。彼は雷電を牛ケ淵で待伏せて、雨の中を互いに白刃を交えているところへ有馬俣の柔術師範、犬上軍兵衛が来合わせて仲裁し、双方事もなく引上げた。

その後、芝増上寺出火の際に、小野川は消防の任に当る有馬家の隊へかけつけ、猛火の中に霊廟からお厨子をかつぎ出し、大活躍をした。その功により、ようやく勘気もとけ赦免となり、翌年は大関に昇進して、ついに五代の横綱を免許された。

ここまでは実説らしいところもあるが、講談や芝居ではこの外に、火の見櫓の猫退治という、ケレンだくさんな話しがあとにつづき、また有馬の描騒動の話なども残っている。

 小野川は全盛時代には五尺八寸、三十八貫あり、すこぶる美男子であったが、強かったこともたしかに強く、一四四勝に対して一三敗の成績はりっぱである。

 寛政九年冬場所かぎりで引退し、大阪に帰って頭取(年寄)となり、小野川の土俵入り(春好筆)三年三月、谷風より遅れること三つ、四十九才で亡くなり、江戸芝山内増上寺の地徳院へ葬られた。

 大正・の大震災までその墓が残っていたが、今は廃寺になってその跡もなく、大阪天王寺にある遊行寺の墓も、これまた墓地整理にかかっている状態である。

世に寛政相撲といわれるほど、寛政時代の土俵は、

雲の如く群がる巨人怪力によって、

龍虎相うつ熱戦が展開し、

江戸勧進相撲は繁栄の極に達した。

 

このうち、鷲ケ浜、九紋龍の二巨人が最も目立っていた。

 

鷲ケ浜

 越後(新潟県)の生まれで、身長六尺五寸色黒く毛深い巨人力士である。寛永七年、鳴沢のシコ名で大関につけ出され、のち鷲ケ浜と改めて天明年間には東大関として谷風と対戦した。谷風には勝てなかったが、他の力士には断然強く、谷風につぐ成績をあげて大関の地位をはずかしめなかった。小野川が台頭してきてその地位をゆずるまでは、無敵の怪力ぶりをみせて、二十年間にわたる幕内力士生活中の大半は三役をつとめた。

寛政四年玉垣頷之助と改め、関脇から前頭の間を上下していたが、十四年四十二才で引退した。

 新潟市西剔泉の・泉性寺内に、鷲ケ浜の等身大の立石填墓が建立されてある。

 

九紋龍

 

天明七年(一七八七)春場所、天下無敵の谷風が関脇に下り、代って九紋龍清吉が看板大関として登場した。当時の興行政策として、七尺、四十貫、(一説には七尺六寸、四十八貫)の巨大な体躯は、看板に最適だったからであろう。このとき二十三才、まだ前髪立ちで土俵に上った。

他の巨人力士とちがって、可愛らしい顔をしていたが、相当に強く、数年間にわたって大関、関脇をつとめた。

顔の長さが一尺五寸、手形の長さ九寸五分、巾が六寸五分もあったので、一文銭が一辺に九枚も並んだという。休が大きいだけに怪力ではあったが、相役は少し遅かったと古書にみえる。 寛政十一年三十六才で引退した。

 

後家の柏戸訴訟事件

 

柏戸といえば当代切っての若手花形、その先祖に、部屋相続問題で後家さんから訴えられた事件があった。

名門伊勢ノ海のお家騒動

 相撲と櫓太鼓は、竹に雀、鹿に紅葉より、いっそうの切れない縁があり相撲に太鼓を用いるようになったのは、節会相撲から始まったというから古い。この太鼓は明治初年頃まで勧進元伊勢ノ海から、年二回興行毎に相撲会所(いまの協会)が借賃を払って借りうけていた。

 この由緒ある大政をめぐって四代目伊勢ノ海の納戸宗五郎を、二代目の後家さんで加野と呼ぶ男まさりの女傑が幕府に訴え出て、寛政の庶を大いに騒がした事件がおこり、俗にこれを「納戸訴訟」といっている。三代伊勢ノ海村右衛門が寛政八年に亡くなると、その弟子である納戸が、当然伊勢ノ海を襲名しようとしたところ、二代の弟予てある荒熊峯右衛門を可愛がっていた後家さんは、柏戸に相続させることを反対し、あくまで荒熊につがせようと横車を押した。

 それというのも、江戸町内へ廻すふれ太鼓五柄(がら)の所有権を柏戸に移しては、貸し賃の上りが入らなくなるというわけで、あくまでがんばった。この揉めごとに全く手を焼いた相撲会所では、別に太鼓を新調して、後家さんのところへ借りにいかなくなったので、これではアゴが乾上ると、またまた訴え出るという騒ぎ。襲名問題はこじれにこじれて、伊勢ノ海部屋も二派に別れ、伯戸はシコ名を年寄名として届け出るしまつ。

 こうなるとほとんど血をもって血を争う状勢になったので、奉行所の役人も打ら捨てて置くわけにはいかない。しばしば当事者を呼んで再三話し合いの末、納戸と荒熊の伊勢ノ海襲名はしばらく見合わせること、納戸は伊勢ノ海の三種の神器である幔募など伝来の家宝を、年寄総代の手に保管させるよう裁ヽさをつけて、数年来の騒ぎもこれでひとまず落着した。

 そして今後は相僕会所年寄仲間の太鼓もせっかく作ったのだから、これも後家さん方の太鼓と併用することになった。太鼓の借賃は、損料として「晴天札」二十五枚を贈るということで示談になったのである。晴天札とは木戸札のことで、晴天十日興行の、小暗掛け時代がしのばれておもしろい。

 一方、襲名問題はその後もあとをひき、後家加野が亡夫の門弟をひきつれ、納戸宗五郎は力士名のまま、先代伊勢ノ海村右衛門の門弟を統率し、年寄の名家伊勢ノ海の名は、寛政十五年から十五年間、会所からも番付からも、姿を消してしまった。

 その後、後家の加野もすっかり年をとり、気力も衰えてきたので、再び調停する者があり、文化十一年春になって、納戸の伊勢ノ海四代目がようやく陽の目をみるようになった。ついで長命の加野も死に、ここに億右衛門の遺族も絶え、太鼓の所有権はまた納戸の伊勢ノ海家に移ったのである。

 

年間無敵の大関 雷電為右衛門

 

古今第一等の大力士といわれる雷電は、十六年間も大関をして横綱にならなかったが、その謎は?

雷電の扇面手形 長さ8寸2分、幅5寸5分ある。雷電が少年時代に奉公していた養遠寺(小諸市仲町)

 明和四年(一七六七)信濃国大石村(長野県小県郡滋野村大石)の農家に生まれた雷電は、幼名を太郎吉といった。当時村はずれに瑠璃殿という御堂があり、その前に一対の仁王尊が立っていた。ところがある年の洪水で一体だけが押流されてしまった。そのころ嫁入りしたばかりの雷電の親は、毎日ここへ参詣しては 

「丈夫な子供をおさずけ下さい。その時は仁王様の一体を寄進いたします」

 と願をかけた。そこへ生まれたのが太郎吉で、霊顕あらたかに幼少より体躯抜群、十四、五才で五尺に達し、まるで仁王様の生まれ変りみたいに筋骨たくましい怪力少年になった。

 願いのかなった母親は、太郎吉が力士となって出世した寛政七年に仁王様の石像一体を奉納して一対とし、今なお滋野村に現存している。

 太郎吉が家業を手伝い、ある日上州松井田から荷馬とともに仲仙道を村へ帰る途中、碓氷峠の半根石で加賀百万石の前田侯の行列に出あった。行列の先ぶれが「寄れ、寄れ」とやってくる。困った太郎吉は馬の前足をひょいと肩にひっかけ積荷とも二百貫はあろうという馬を、道の脇へ立たせて行列を通したので加賀侯のおほめにあずかったという。

 この噂は大評判になり、隣村の上原源五右衛門という庄屋の耳にはいった。この庄屋が無類の相撲好きで、早速太郎百をひきとって読み書きの勉強から雲州侯に抱えられていたので、相撲のけいこまでさせた。やがて太郎吉が十七才のとき、小諸神社の奉納相撲に出て抜群の強みをみせ、当時すでに六尺余の巨躯は藩公の目にもとまり、すすめられて力士になる決心をした。巡業にきたことのある浦風部屋に入門し、谷風の内弟子として数年間修業し、二十三才のとき、雲州松江藩松平侯に召抱えられ、四人扶持と金子四十両を与えられた。

 厚遇をうけるのは、すでに大力士として嘱望されていたからであろう。寛政二年冬場所谷風の下に関脇としてつけ出されたが、二十四才で六尺五寸、四十五貫の巨体は、横綱小野川を倒したが物言で預り、他は勝ちっぱなしの好成紹をあげ、みごと初土汲を飾った。

 寛政八年西大関となり、東大関小野川と対立した。文化八年二月引退するまで、十六年間大関の栄位にあって無敵ぶりを示した。

 

らいねんのことをいうとげらげら笑う鬼だって

らいでんの名を聞いたがさいごこそこそ消えてしまう

 

生家 雷電が再建した家で、遺族が住んでいる(長野県小県郡滋野村)

 優勝回数二十五回、連続優勝七回の記録はまだ破られていない。こうした抜群の強さにもかかわらず、どうしたわけか横綱になれずに終ったが、ひとり抜きんでたため、比較できる者がいなかったという理由のほか、当人はいたって無欲テンタンたる性格であったためとされている。

 雷電の豪力無双なことは、彼に、閂(かんぬき)、張り手、鉄砲の三つが封じられていたことでもわかる。これは、あまりに力が強すぎるため、対戦の相手に怪我をさせるからで、その例として、当時の名力士、八角政右衛門が双差しになって寄るところを雷電は、両手を門に絞ってふりまわしたので、八角の腕がポッキリと折れたという話がある。

 また、おなじ八角が小結のとき、浅草蔵前八幡宮境内の興行で雷電と顔をあわせているが、このときは市電の張り手をくったため、首がまがってしまった、という話もある。

 雷電は強いばかりでなく、なかなかユーモラスなところもあり、宴会席などでは皆をよく笑わせたりした。また、狂歌もつくり、寛政三年の上覧相撲に関脇陣幕島之助と対戦して、敗れたとき

  陣幕にはりつめられて御上覧

   ことしや負けてもらいでん(来年)は勝つ

 とうたって、自信満々のところをみせたという。引退してからも江戸に住んで、文政八年に九十九才でなくなった。赤坂台町報土寺に祀られ、現在も墓がある。このほか各地に分葬されてある。

 


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