〔芭蕉と仏頂和尚〕
芭蕉庵の近くの禅寺に鹿・島根本寺(臨済宗)の住職河南仏頂が滞在していた。芭蕉はこの仏頂について参禅することになる。そして得た禅的観照が、彼の峠譜に新しい深みを加えることになるのである。
この頃から貞享までの数年問は、貞享元禄の正風を得るまでの模索期であり、まさに疾風と怒濤の時代である。俳壇が目まぐるしいテンポで移りかわる。その展開の軸をなすものは当時の江戸俳壇であり、もっと端的には芭蕉及びそのグループである。
延宝八年になると俳壇全体に目立ってくるのは極端な「字余り」の異体である。そして漠詩文調が、この字余りに一種のリズムを与えるのである。かくして取り入れられた漢詩調は、やがて単に表面だけの問題ではなくなって、漢詩の悲槍感、高職な格調をねらうためのものとなる。荘重桔屈な漢詩調でうたいあげられた日常的事物、そこに高踏と卑俗の重なりあった世界がある。『ほのぼの立』に「当風」の例句とされた、中で「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」や、自己の貧しい草庵生活を漢詩的に処理し、隠逸を重ねた「雪の朝独リ干鮭を噛得タリ」などの発句には新しさをねらう気負いや、多分に迷った姿勢はあるにしても、漢詩のもつ緊迫した悲槍感、高雅な格調によってささえられた詩美がある。自己の生活を杜甫.蘇東波・寒山詩の世界と観ずる一種の気取りから生み出さきくれた生活詩
「芭蕉野分して盟に雨を聞夜哉」
「佗テすめ月佗篇がなら茶寄」
「櫓の声波うって腸氷ル夜やなみだ」
「氷苦く優鼠が咽をうるほせり」
などの句は、緊迫したリズムのもつ悲槍感と、現実を脱却、同踏的世界に昇華せしめて眺めることによって生ずる一種の余裕との奇妙な混合が醸し出す高雅な詩趣をただよわせる。京都での信徳らの新傾向の作品『七百五十韻』をうけて、其角・才麿等と興行した「俳諧次韻』も、同様に新しい傾向をはっきりと示す作品である。
天和三年に出た其角の『虚栗』によせた跋文には
「李・杜が心酒を持て寒山が法粥を綴る…-佗と風雅のその生にあらぬは西行の山家をたずねて人の拾はぬ是栗也」
とあるのは、李白・杜甫.寒山のもつ漢詩的・禅的風韻と、中世の自然歌人西行にならわんとする当時の彼の俳諧観をうかがうことができ、この『虚栗』の作品はいわゆる天和調の代表的作品ということができる。
天和二年十二月二十戸、日駒込大円寺から出た火は江戸の大半をなめ、芭蕉庵も類焼の厄にあった。「潮にいりひたり筈をかついて、煙のうちに生のびた、この体験が、彼に、
「猶如火宅の変を悟り、応無所住の心を」
しみじみと感じさせたという。災後一時甲斐の谷村に流寓していたが、翌天和三年五月江戸に帰り、同冬、友人知己の喜捨によって再建された芭蕉庵に入って春を迎えることになる。
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