蕉風の確立
天和四年の春を深川の新庵で迎えた芭蕉は、打寛いだ気持で、その境涯を、「似合しや新年古き米五升」とよんだ。その年は二月に改元されたが、八月になると、門人の干里を伴なって、郷里へ旅立った。芭蕉として、久しぷりの帰郷である。芭蕉は、その前年母を失っているから、今度の帰郷は、墓参を兼ねたのであろうが、ただそれだけではなかった。俳講の上で、何か突き詰めた気持を感じていたようである。芭蕉はもう初老を越えている。『虚栗』で新しい俳諸の理念を見出したとしても、それを作晶の上に具現していくには、容易なことではない。自己の生き方や風雅に対して、芭蕉は何かしら焦燥を感じていたようである。
そして、古人が旅をつづけたように、自分も旅に出て、そうした旅の中でこれからの道を見出そうとしたのであろう。旅の詩人としての、芭蕉らしい旅がここに始まる。かてむか胆いる千里に旅立ちて、路糧をつつまず、三更月下無何入といひけむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、
風の声そぞろに寒げなり。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十とせ却て江戸を指ス故郷
これは『野ざらし紀行』の胃頭、出立をした折の一節だが、前文に、『荘子」や『江湖風月集』中の句を引いて、古人のあとにならうといっているところに芭蕉の求めた世界をうかがわせるものがあろう。
「野ざらしを」、「秋十とせ」に見られる悲槍感や流離感なども、いわばそうしたものを意識することによって、自己ときびしく対決しようとした、抜き差しならぬ気持のあらわれだったのだろう。この旅は、東海道をのぼり、伊勢・伊賀・大和・山城.近江.美濃・尾張をめぐつた大旅行であった。その道順や各地での句など、一々記している余裕がないので、二三をのもの挙げておく。
往路では大井川を越えて、「道のべの木僅は馬にくはれけり」とよんだが、素堂はこれを、この旅中での秀逸だと賞めている。小夜の中山では、「馬に寝て残夢月遠し茶のけぷり」、伊勢では外宮に詣でて、「みそか月なし干㍗の杉を械あらし」、郷里に帰っては兄の家で母の白髪を拝んで、吉え手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜とよんだ。いずれも漢詩的な表現や形式が意図されていて、そうしたところに詩の動機を求めようとしたことが、よくわかる。「手にとらば」は、母の遺髪を手にとると、熱い涙のために、その白髪も消えてしまうだろう、との意で、表現不足の点はあるが、芭蕉のはげしい悲しみが、じかに伝わってくる。それから大和に遊び、山城・近江・美濃を経て尾張・吉野行脚に出た。名古屋へ行く道で、「狂句木林の身は竹斎に似たる哉」の吟があった。木枯に吹かれながらうかれ歩く姿を、かの物語の主人公竹斎のようだといって、そこにわびしい感情を托したのである。名古屋では、荷号.野水その他の人々に迎えられて、尾張五歌仙が成った。これが『冬の日』(荷号編)である。ここでは、わびやさびを志向する風狂的な精神が、俳諮の精神として把握されている。付句の付け方も、前句の余情や情趣をさぐって付ける行き方に変ってきており、蕉風俳諸確立の第一歩を示すものとされている。いわゆる「俳諸七部集』は、この『冬の日」を最初としていて、以下それぞれ蕉風の変化をうかがうのに便宜が多い。年末にはまた郷里に帰って、その感懐を、「年暮ぬ林∬きて草鞍はきながら」と洩らした。年が明け、二月になって奈良へ出、京・大津の辺にしばらく留まって後、帰途につき、途中甲斐を通って、四月末江戸に帰った。「夏衣いまだ風をとりつくさず」というのが帰庵の吟である。旅をし終えたあとの疲れと安堵の入りまじったような気持が感じられる。前後九カ月に亘るこの旅は、『野ざらし紀行」と「冬の日」という大きな収獲をもたらしたし、蕉風の確立という点で、重要な意昧を持つものであった。貞享三年は、草庵に落ちついて、静かな牛活を楽しんだ。春には、「古池や蛙とびこむ水の音」の句があ■ったし、秋には、芭蕉庵で月見を催して、「名月や池をめぐりて夜もすがら」と興じた。その問、『春の日』等も出版された。貞享四年も引続き草庵で過したが、八月下句には、曽良らを伴なって、常陸鹿島の根本寺に仏頂和尚を訪ねた。月見の夜は生憎の雨だったが、明け方から晴れた。
鹿島の旅を楽しんでから、芭蕉はさらに遊意が動いたらしい。そして、その年十月二十五日には、『笈の小文』の旅に出て、郷里へ向うことになる。出発に当っては、知人門人が、簸別の吟を贈ったり、送別の句会を設けたりして、華々しい門山であった。芭蕉自身・「故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ」といっている。「旅人とわが名よばれん初しぐれ」と旅立ちの吟があった。「神無月の夜・空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」と前文に記しているが、句にはむしろはずんだ心持が感じられる。ここには、わずか三年前の『野ざらし紀行』のときのような悲憤感は、影もない。同じような旅立ちでありながら、なせそんなに違うのか。それは、芭蕉の立場や地位が、しぜんそうさせたのであろう。さきには一風雅の実体を捉えたいという、突き詰めた気持が、悲壮な決意をかり立てた。だが今は、すでに捉えたものを、更に究めようとするだけの余裕があった。そう考えられている。門人も次々にふえてきたし・芭蕉の心には、充ち足りたものがあったのだ。江戸を出て、途中、尾張鳴海の知足一。㌣に宿ったり、三河の保美に杜国を訪ねたりして、郷里に帰り、「ふるさとや膀の緒に泣く年の暮」の吟があった。三月になって、上野に来ていた杜国と連れ立つて、吉野の花見に出掛けた。杜国はわざと万菊丸と侍董のような名に変えて従った。大和の詣所をめぐって、奈良に入ったのは灌仏の日であった。唐招提寺では鑑真和尚の像を拝して、「若葉して御目の雫ぬぐはばや」とよんだ。丹波市(天理市)附近では「草臥て宿かる比や藤の花」(再案)の句を得た。それから大阪に出、須磨・明石の古跡をさぐり、引返して京都に着いた。こ
こで杜国と別れ、近江・美濃を経て尾張に入った。尾張からの帰途は、越人らを伴なって信濃に更科の月を賞し、八月末江戸に帰った。この旅での収獲は『笈の小文』と『更科紀行』である。『笈の小文壮、『野ざらし紀行』よりも深い境地と洗練された昏とを示しているが、殊に胃頭の一節は・芭蕉の風雅に対する根本観念を示すものとして重要なものとされている。そして、その「造化に随ひ造化に帰れ」という思想は、老荘や禅や、乃至は朱子学などの影響もあろうが、それを強く主張しているのは、旅で得た体験が大きく物をいっているのである。旅は芭蕉を人間的にも大きく育てた。
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