八ケ岳山麓に巨大な配石遺構
山梨県 現況 昭和59年
『角川地名辞典 19 山梨県』
山梨県森林里山大学校 講義
縄文中期に中部高地で著しく高揚し,開花した縄文文化もやがて後期に入ると,集落の減少に相まってしだいに華やかな舞台を他に移していく。このことは後期の遺跡数と実態から端的にうかがえることであるが,こういった現象をつくり出す背景には気温の変化など自然現象がもたらす食糧需給の問題をはじめいくつかの要因が考えられる。
反面,この時代相の反映としてとらえられるのであろうか,八ケ岳南麓に縄文人の精神的拠所がつくられていた。
昭和55年の初秋,大泉村谷戸の地で発見された金生遺跡の巨大な配石遺構とそれを取り巻く各種の遺構群は,著しく遺跡が減少する後期から晩期に及ぶ時代の所産として多くの研究者の耳目を集め,これらの遺構群の性格をめぐる論議とともに改めて八ケ岳南麓の縄文文化全般の見直しをせまったのである。
金生遺跡は八ケ岳南麓の南北にのびる標高760~780mの尾根上に立地し,縄文時代の遺構としては前期から晩期までの住居址38軒と後期から晩期の配石遺構,集石遺構,石棺状の遺構から構成されている。前期と中期の住居址は3軒ほどで,他は後期ないし晩期の所
産で,配石・集石遺構群とあわせて金生遺跡は主として後期前半から晩期終末に至るまでの遺跡群と理解される。とくに1号配石と名づけられた遺構群は,幅10m,長さ60m以上に及んで大小さまざまな石が組み合わされてできあがり,最も特徴的な遺構となってい
る。子細にこの配石をながめると,石垣状の列石や立石を中央に,北側に石棺状の石組み,南側に円形の石組みが配され,それらが構成要素となったブロックが4~5ほど集合して全体の配石ができあがっている。
そしてこれらの円形石組みや配石などには石棒や丸石が組みこまれ,土器や土偶,耳飾などが伴出している。1号配石は出土土器から晩期前半に位置づけられているが,この遺構の北側に接して同時期の住居址群が発見されており,両者は一体化したものと考えら
れる。そのほか,石棒・丸石・独鈷石・土偶・壷形土器などを出土した集石遺構や底に扁平な石を敷きつめた石棺状の石組み遺構,火を受けたイノシシの下顎骨が100個体ほど理蔵された土壌などが発見され,全体として祭祀的な性格が濃厚な遺跡と理解されている。
ところで金生遺跡のこの大配石遺構はどのような経過から形づくられ,ここから縄文人のどのような精神構造がくみとれるだろうか。
調査担当者の1人新津健が述べる「尾大な量の石は,多数の集落間の交流を表わ」す点からの「複数の集落を対象とする祭祀の場」という考え方は,「八ヶ岳南麓における宗教センター」的なとらえ方とほぼ軌をひとつにするもので,そこには祭祀を中心にすえた縄文人のダイナミックな動きも想定される。また配石中の石神・立石・丸石は「生産」豊饒を願い,祖先崇拝を行った祈りを意味」するという指摘に縄文人の精神構造の一端がうかがえるが,こういった観点にたてば縄文後期から特に晩期における縄文社会の1つのあり方として複数の集落が互いに祭祀場を共有し,同一の祭祀形態をとりながら,一定の期間定住したことが予測できるのである。
県内のこの時期の遺跡を他に求めると,金生遺跡に近在する地域では長坂町長坂上条遺跡,高根町青木遺跡がある。前者からも配石遺構が発見され,後者からは規則的に配置された17基ほどの石棺墓が検出され、立石や石神も伴っている。また郡内では都留市中谷遺跡や尾咲原遺跡が代表的で,いずれも配石遺構が発見されている。このように縄文時代の後期から晩期における時代は集落の減少という傾向を一方ではたどりながらも,社会全体により祭祀的,呪術的な風潮が強まり,金生遺跡などの配石遺構群は呪術に支配された社
会の所産と理解することもできそうである。
甲府盆地に広がる弥生集落
縄文時代の遺跡に比べると弥生時代の遺跡は数少なく,しかも実態はあまり
知られていない。
昭和54年の「県遺跡地名表」によっても遺跡総数は約200で全体の約8%を数えるにすぎず,その大部分は規模,性格も不明である。しかしここ数年の調査によって少しずつ該当期の資料が累積しその一端がかい間みられるようになった。
本県の弥生時代の幕あけがいったいいつ頃なのかはがかりはつかめていない。稲作の開始という新しい経済段階に入る弥生時代初期の様相を示す具体例は少ないが,縄文時代と弥生時代の接点を探るうえで貴重な水神平系の土器群が,長坂町柳坪遺跡や敷島町金の尾遺跡で検出され,このことによって盆地の低地にもいちはやく弥生文化が波及したことと,信濃から入った弥生文化が八ケ岳南麓の台地上に根をおろした興味ある事実を提起することができる。また八代町遺跡や韮崎市坂井遺跡出土の容器型土偶も同様に弥生時代初頭ごろの所産と考えられ,岡造跡のおびただしい灰,焼土中からの出土状況と容器型土偶内部に幼児の骨と歯が存在していたという事例から,縄文時代から引きつがれて間もない弥生時代初頭頃の墓制や精神化の一端がうかがえそうである。
弥生時代も中期後半から後期初頭を経て,やがて後期後半に至ると遺跡は拡散し,各地に定着した様相を示す。その状況を県内の遺跡にたどってみると,高根町宇宮地の標高約670mの台地上に立地する宮地造遺蹟からは長野方面の文化的影響の濃い弥生土器が出土し,韮崎市坂井遺跡とその周辺には後期全般に及ぶ遺物物が散布している。盆地の南西端に位置する甲西町古市場の住吉遺跡からは後期の住居址1軒が検出された。
東海西部・東部,長野方面などの影響を受けた土器も豊富に出土し,この甲西町を含むいわゆる西郡以北帯にも弥生文化の波がおしよせていることを伝えている。甲府市を中心とする盆地の低地では,古くは炭化米が出土したという増坪遺跡や,その他工事中などの断片的な弥生土器の出土によってこの時期の遺跡が広範に埋蔵されていると推測されている。敷島町宇金の尾の標高285mの自然堤防上に立地する金之尾遺跡もその一例として数えられるが,この遺跡の検査は中央自動車道の敷地内という制約された条件下にありながら,住居址32軒,方形・円形周構墓17基,溝状遺構13本という多数の遺構を検出することができ,弥生集落の様相を具体的に示す好資料となっている。
盆地南東辺に連なる曽根丘陵上とその付近からは三珠町の一城林遺跡など古くから弥生遺跡の発見が伝えられ,弥生遺跡の豊富な地域と考えられてきた。
豊富村宇山平遺跡,中道町岩清水遺跡,同町下向山女沢遺跡などの遺跡から様相の一端をうかがうことができるが,近年調査された上の平遺跡の方形周溝墓群は純粋に方形周溝墓だけが100基以上密集して墓域を形づくっている遺跡として全国的に話題を集めている。
今後の詳細な報告を待って論じなければならないが,弥生時代から古墳時代へと移行する段階,いねば古墳発生前夜の複雑な政治社会情勢や古代甲斐国の成立の過程を探るうえで欠かせない遺跡となっている。
塩山市大字熊野から西広門田訪にかけて広がる西田遺跡からも弥生時代の住居址1軒が発見されている。この遺跡は主体的には古墳時代初頭の住居址群と方形周溝墓群によって成り立っているが,周辺一帯には弥生集落の存在も予測されている。
今日までにその概要が明らかになっている弥生時代の主な遺跡を述べてきたが,本県の弥生社会の全容を解明するうえでは資料不足の感はぬぐえない。
しかし断片的な資料ではあるが,境川村寺尾遺跡出土の弥生土器の底部にみられる籾の圧痕や,先にあげた一域林遺跡や春日居町加茂遺跡出土の焼米などに稲作を生活基盤とした農耕社会が展開されていた様子を具体的にみることができるし,また各遺跡から出土する弥生土器群から,東海西部および東部,南関東などいくつかの文化流入のルートを得ながら本県の弥生社会が複合的に形成されてきたこともはっきりしてきた。
乏しい遺跡の実状のなかで,双璧は金の尾遺跡と上の平遺跡であるが,前者からは集落と当時の特徴的な墓制である方形周溝墓群,そのほか構址などが発見され,集落を構成する個々の竪穴住居址からは甕・壹・甑・高坏など弥生人が日常使用した生活用具が出土し,また集落に近在して墓域を形づくっている状況から,農耕社会や農耕祭祀の一端がうかがえる。一方,上の平遺跡の方形周溝墓群からはまさに古墳社会に突入する一歩手前の様相が浮かびあがっている。一辺30.5mの巨大な1号方形周構墓は規模からすれば古墳と遜色なく,また100基以上の周溝墓だけで墓域が形成される内容からは単に1集落だけの所産ではないことが容易に理解できる。
この背後には,複数の集落が特定の墓域と葬法を共有するという意識のもとに連合している姿が想定できようし,また本県の初期の古墳社会が中道町周辺の勢力によってリードされてきた強い要因として,この地域がいちはやくこのような弥生社会に発展していったことがあげられよう。
古墳の発生と展開
本県の古墳文化は中道町を中心に根をおろし,開花する。弥生時代の後半から終末にかけて各地域で集落は拡大し,人口の増加と生産力の向上がみられるが,やがて中道の強大な勢力下に組み込まれていった。中道町松本の米倉山山腹に立地する小平沢(こびらざわ)古墳は本県唯一の前方後方墳として注目され,昭和22年の道路工事の際発見された斜縁二神二獣鏡や粘土槨の内部主体,立地環境などから4世紀中頃の所産として県内最古の古墳に位置づけられている。
そして4世紀後半から5世紀初頭頃,中道町下曽根に全長167mの巨大な前方後円墳である銚子塚古墳や東山山腹に全長99mの大丸山古墳,円墳の丸山塚古墳が出現する。銚子塚古墳から出土した三角縁神獣鏡はその同箔鏡が岡山県の車塚古墳や群馬県の三本木古墳,
福岡県藤崎遺跡の方形周溝墓にみられ,また副葬品としての石釧や貝釧などの碧玉製の腕節類,多量の鉄製農工具類などから畿内の勢力と密接に結びついた強大な支配者の存在を銚子塚古墳に認めることができる。
また大丸山古墳も,埋葬主体部が京都府の妙見山古墳に似た竪穴式石室・組合せ石棺の二重構造をもつ特異な例であることと出土鏡などから,同様の特質が首肯される。
これらの状況から本県の古墳社会は小平沢古墳の出現と前後する時期に開始され,4世紀後半頃の銚子塚古墳,大丸山古墳の登場をもって畿内勢力と結びついた中道の首長居による甲斐の統一が行われたと推定することができる。
しかし5世紀前半から中頃に至ると,櫛形町の物見塚古墳,境川村の馬乗山1~2号墳,八代町岡銚子塚古墳,御坂町の亀甲塚古墳などにみるように盆地縁辺鄙一帯に勢力は拡散する。この背景には,それぞれの地域での沖積層や扇状地の開拓などによる経済力の向上と新たな首長居の台頭があり,そして6世紀の古墳時代後期になると横穴式石室の採用とともに甲府市の加牟那塚古墳や御坂町の姥塚原古墳などの巨大な石室をもつ古墳を生み出していった。
このような古墳の築造をささえた集落の様相はいったいどうであろうか。県下の4世紀から5世紀前半頃の集落をながめると,韮崎市の七里岩台地上に展開する坂井南遺跡,釜無川右岸の段丘上にある同市久保屋敷遺跡,西郡の櫛形町六科山遺跡,盆地の低地にある甲府工業高校の校庭遺跡,甲府市伊勢町遺跡,塩山市では西田遺跡,御坂町では二の宮姥塚遺跡,一宮町の松原遺跡,境川村の京原遺跡と,最近の発掘調査によって甲府盆地はもとより縁辺部のほぼ全域に集落が拡大,展開していた様子を知ることができる。
こうした集落分布の中で興味ある点として,銚子塚古墳や大丸山古墳の築造が開始される古墳時代に入っても坂井南遺跡や西田遺跡では方形周溝墓群が築造され,古墳を築きあげるほどの勢力を有する集団と,古墳を有しない集団のほか,方形周溝墓をなお造営している集団が存在することを認めることができる。
このことから,4世紀代から5世紀前半では中道付近に営まれた集落は,盆地の低地や盆地縁辺部などに色濃く分布する集落より優位にたち,しかも畿内の中央勢力と結びつきながら他を圧していた様相が理解できるのである。
集落の拡大と群集墳の成立
6世紀も後半代に入ると,県内のいくつかの地域では数十から数百にも及ぶ古墳が群集して築造される。
一宮町子米寺古墳群や国分古墳群,甲府市の北部山付き地帯の古墳群などを代表とするこれらの古墳群は一般的に群集墳と呼ばれており,径6~7mから10m前後の小円墳が一定地域に密集して築かれる風習は以後7世紀全般に及ぶ。これらの古墳の大部分は,横穴式の石室を採用し,複数の遺体を造葬する多葬主義を特色としている。また埋葬される被葬者はいわゆる家父長居にまで拡大して,4~5世紀の前期古墳の最大の特徴であった権力的,祭祀的な色彩は払拭され一変してくる。こうした群集墳を生み出した最大の要因は,鉄製農工具などの普及や灌漑技術の向上,人口の増大によって扇状地など未開発地域などの開拓が進み,各地域で生産力の向上を背景として有力な家父長居の自立が促されたことにあるといわれている。
またこの頃には,須玉町や高根町・長坂町などいわゆる標高の高い台地上にまで分布するようになり,古墳が築造される地域は一層の広がりを見せるようになる。
こうした古墳群も近年いくつか調査されるようになり,実態もしだいに知られるようになった。一宮町国分古墳群の1つ国分築地1号墳は山梨大学考古学研究会によって昭和48年に調査され,石室内部からたくさんの玉類や金環,須恵器などの副葬品が検出されている。また中央自動車道建設に伴う事前調査によって竜王2号墳や3号墳も調査され,竜王町から双葉町に至る通称赤坂台古墳群の一端が解明された。とくに3号墳には3~4体の若年と壮年の人骨がみられ,副葬品として玉類のほか金銅張の馬具飾金具が出土し,また
2号墳からも多量の須恵器のほか金張の馬具飾金具を得ている。ハ代町御崎古墳からも玉類や鉄鋏のほかにすぐれた技術による毛彫馬具などが出土しており,馬具の副葬の一般化によって乗馬風習の普及を伝えている。
群集墳のひとつに積石塚古墳と呼ばれている古墳群がある。土で墳丘を築くかわりに頭大からこぶし大ほどの石を積みあげて墳丘とするもので,甲府市横根町と桜井町一帯の大蔵経寺山と八人山に挟まれた南向きの経料面上に累々と築かれている。昭和58年春の山梨県考古学協会の分布調査によっても140基余が確認されており,長野の大室古墳群と並んで全国有数の積石塚古墳密集地域となっている。一般の土盛りの古墳と異なるこれらの積石塚古墳群はどのような過程を経て形成され,被葬者たちはいったい誰なのか不明の部分はあまりにも多い。
朝鮮半島からの渡来人築造説と単に環境に成因を求める環境自生説が対立したまま結論は得られていないが,横根・桜井の積石塚古墳群も詳細に検討すると立地環境や墳丘の状況,石室構造などに微妙な差異があり,けっして短期間による築造の結果とはみることができない。
反面,径30mを超える墳丘をもつ横根山田古墳のようにそれほど遠くない地域に土盛りの古墳が築かれている状況などから推察すると,特定集団の墓制であり,墓域であった可能性は高い。またこの付近には土器や瓦の製作地と推定されている大坪遺跡や初期国府の可能性のつよい春日居町国府の地や県下で最古の寺院である寺本廃寺が位置し,これらの遺跡との関連性をにおわせている。
ところで群集墳を築いた人々の住居や集落の状況はどうであっただろうか。6世紀から7世紀の社会は意外に知られていないが,昭和54年12月から調査が行われた御坂町下井之上および二の宮の金川扇状地上に展開された二の宮姥塚遺跡からはたくさんの住居址が発見され,この時期の集落復元に貴重な資料が得られている。また銅生古墳群の一部とみられる径10m前後の古墳群がこの集落のすぐ近くに集落と画して形成されており,両者の関連がとらえられた好例となっている。この状況によるかぎり,群集墳からあまり遠くない地域に集落は形成され,墓域と生活域の区別が明確に行われていたと考えられる。
春日居町の北部山付き地帯にも30基近くの古墳が築かれている。
その1つ寺の前古墳からは刀や馬具,須恵器に混じって銅容器が出土した。このことから古墳時代の終末には仏教文化の影響が少なからず浸透し,やがて古墳の築造も終わって寺本廃寺などの古代寺院の建立に力が注がれていく。
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