芭蕉書簡 解釈と考察 其角宛 (貞享二年 1685)
草枕刀をかさねて、露貪恙慾もなく、今ほど帰庵に趣き、
尾陽熱田に足を休むる間、ある人我に告て、
円覚寺太嶺和尚、ことし睦月のはじめ、月もまだほのぐらきほど、
梅のにほひに和して遷退化したまふよし、こまやかにきこえ侍る。
旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、
折節のたよりにまかせ、先一翰投机右而已。
梅戀て卯花拝むなみだかな はせを
四月五日 其角雅生
〔語釋〕
○草枕月をかさねて……
草枕は旅。芭蕉は貞享元年秋八月に江戸を出てから、この二年四月までにすでに九ケ月間、
いはゆる甲子吟行の旅をしてゐた。
○恙もなく…無事で。
○帰庵に趣き…江戸に帰る途中にあるとの意。庵は芭蕉庵を指し、趣は赴の宛字。
○尾陽熱田…尾張國の南の熱田(名古屋市南区)。 ここには桐葉(とうえふ)・東藤・叩端(こうたん)らの門人が居り、
この時は三月末より約十日間の逗留をし、
飼葉亭を宿として『熱田三歌仙』に見える二巻その他の発句連句の作があった。
○ある人我に告て、『甲子吟行』によると、 この人は「伊豆の國姪が小島の桑門」とある。桑門は僣のこと。
○圓覺寺大願和尚…鎌倉の圓覺寺の住職。其角の參禅の師であつたが、
俳諧も嗜み、併号を幻吁(げんう)といった。
其角撰『虚栗 みなしぐり』(天和三年刊)の巻頭句はこの人の
「禮者敲ク門ヲしだくらく花明か也」になつてゐる。
貞享二年正月三日歿、年五十七。
なほ、『新山家』(後出)には其角の追悼文が載つてゐる。
○睦月…陰暦正月の異名。
○遷化…せんぎ 高僧の死をいふ語。
○無恒…ここでは死を指す。
○先一翰投机右而已…翰は書簡。机右はお手もとの意。
○梅懸て卯花抑むなみだかな
大嶺和尚のなくなられた頃の梅をしのび、その人を戀ひ慕ひながら、
今は眼前の卯の花に對して追懐追悼の涙を琉すといふ意。
卯花が夏の季語。
土芳の『三冊子』に
「梅は圓覺寺太嶺和尚還化の時の句也。
その人を梅に比して、爰に卯の花抑むとの心也。
物によりて思ふ心を明す。そのもに位を取。」とあるが、
前記『虚栗』巻頭聡幻吁の句も梅を詠んだものであり、
其角の上記追悼文中の句も「三日月の命あやなし闇の梅」とあり、
故人は特に梅を愛したか、何か特別な関係があって、
梅はその人を彷彿とさせるに適したものであったのであらう。
○其角…寛文元年江戸に生まれ、十四五歳で芭蕉の門人となり 常に蕉門の筆頭として世に聞えた。著書にも『虚栗』以後二十数種があり、句風も生活ぶりもはでな人であった。安永四年二月三十日歿、年四十七。
【筆註】
其角は最初、山口素堂に師事し、この句集の以後芭蕉の基に行くように進言している
〔現代語譚〕
旅に月日を送り、幸ひ命に別別状なく、今や江戸へ帰らうとしてゐる途中、
尾張の熱田で足を休めてゐる所で、ある人が私に告げて、圓覺寺の太嶺和尚が今年一月のはじめ、月影もまだ薄い(月初め)頃、梅のにほひに包まれながら、おなくなりになった由を細かに報せてくれました。ただでさへ死の報せは悲しいのに、旅中にこれを聞くとは限りなく悲しく、丁度江戸への便がありましたので、それに託して、ひとまづ御手紙を御手もとに差し上げます。私の悼句は「梅懸ひて卯の花抑む涙かな」であります(日附・署名・宛名は省く。以下の各通も準之。)
〔考察〕
この一通は其角撰『新山家』(貞享二年刊)に載るものであるが、『甲子吟行』にもこの事について記事とこの句が見え、其角へ通信したことも記されてゐる。
また鳴海の俳人知足の『知足斎日々記』によると、この手紙を書いた五日は、芭蕉が桐葉・叩端を連れて四日に知足の家を訪れ、一泊して熱田に帰った日だったとわかる。
芭蕉と大嶺和尚との関係は直接面識があったかどうかはわからないが、その人に對する傾倒に深いものがあったことは、この文面から察せられよう。また、芭蕉の旅心についての一資料ともならう。「草枕月をかさねて、露命恙もなく」と書き出す邊には、すでに後の大嶺和尚の死に照應する心持がこめられてゐよう。
「旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく」といふ邉には、芭蕉の宗教的な心の味が注意され、最後の「先一翰投机右而已」の邊には、まことに泊った気持が味はれる。そして前記もしたやうに梅に大嶺和尚をしのぶ邊は、まさにその人を彷彿とさせたものであらう。
なほ、この書簡は其角の撰集に公表されることを予想して執筆され、それだけ文章も練り整へられてゐるのではないかと思はれる。(阿部)
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