各地散策と歴史

写真付き

速谷神社・おおの自然観察公園・平和公園

2019-11-22 16:44:05 | 紅葉
広島県内の紅葉は今から益々、赤身を指しながら盛りを迎える。広島市の隣の廿日市市へ友人とドライブへ出掛けた。かつて四年間、勤務した地でもあり、懐かしさが込み上げて来る。宮島サ-ビスから交通安全の速谷神社へ向かう。宮島サ-ビスエリアに着き、公園を見渡すと軽く紅葉していた。

宮島サ-ビスエリア公園に「交通安全」の神様に通じる入口を示す鳥居。



公園も色気付いて来た。



速谷神社鳥居



参道



山陽道の守護神で神格の高い官幣大社



「阿岐国造」



境内には健康長寿や病気平癒の神様「岩木神社」(岩木翁神)を、お祀りしてある。



速谷神社近くに古くから銘水として知られ、商売&安産の神様として祠が祀られているおり、探して山中に分け入ってみた。

つゆ太郎の銘水を遠くから水を汲みに来ておられる。



奥に「つゆ太郎」の源水が絶えない。 ≪飲んでみたが円やかな味がした≫



安産の神様



祠に祈祷する



おおの自然観察公園





ベニマンサク







市内では広島三大祭りの一つである胡子神社の祭礼が始まった。≪えびす講≫
〖 → 町年寄役 銭谷 又兵衛 & 大年寄 松屋 太郎右衛門〗<農家農民 → 大庄屋 & 庄屋格>の、町方役人がこの地に勧請(かんじょう)したとのこと。





平和公園の今





横川散策へ~~、一眼カメラを忘れた。

ドリミネ-ネイションに火が燈った。今日はカメラを忘れたので、観て帰宅することにした。「竹内 まりや」の <家に帰ろう>の曲を聞きながら ♪♬♫~恋する庭を~







〖散策〗紅葉前の縮景園・宮島、大願寺の火渡り祈願及び古地図の楽しみ

2019-11-13 10:51:37 | 周辺歩き
一年前の写真、ブログを見てみると紅葉を中心に取り上げている。関東地区散策を終えて、ゆっくりと市内・宮島へ散策したので、ゆったりと写真で散策を楽しんで頂きたい。

現在の紅葉前の縮景園









宮島にある真言宗「大願寺」



大願寺へ向かう~「旅行者の方に撮って頂きました。有難う御座いました」




行者さんが吹くほら貝



悪霊切り、除災家運隆盛を祈願する



火渡りの前の点火





護摩木に願を掛けて



火渡り祈願





帰宅し縮景園周辺の古地図を開いてみた。旧藩時代の幕末から戦中までは大した変化はないが、幕末時の広島駅周辺は地名が残っているとおり、入江で松原が立っていた。明治に入り、陸軍の主要施設(陸軍幼年学校。衛戍病院・軍管区司令部、歩兵第11連隊、鎮台司令部等が広島城周辺)が増設された。広島県は軍都、学都(大学から高等教育の高等師範学校、高等専門学校、中等教育の旧制中学・高等女学校等)と言われる所以である。中国地方の中核を成す主要都市となり、学都として高等師範学校・高等専門学校が継承されている国立広島大学、旧制中学・高等女学校も新制学校として名を残している。戦中の縮景園は「泉邸」、隣に「陸軍兵器支廠」「官吏の官舎」「私立広島女学校」等が書かれており、軍関係施設、官庁、学校があり軍・学都である。縮景園を≪泉邸≫と書かれている個所に興味を持つ。
全国各地、広島市内でも旧藩時代~戦中までの古地図が販売されている。興味がある人は購入し学校の地理・地図と違った面白みを発見できると思う。

楽しい古地図。





山口県







時代は刻々と進み、状況も刻々と変わり、国際・国内情勢も刻々と変わって行く。地理・地図は~~············幕末から僅か、150年でこんなに地図が変わった。






埼玉・関東地区散策「NO 5」(京橋大根河岸)

2019-11-01 10:25:51 | ディスカバ-江戸
東京都は昔は江戸、幕府領、旗本領、直轄領である天領地で占められていたが、現代から150年前の話だが食文化については、あまり語られない。最近では築地市場が豊洲へ移転したことが話題になるが、築地は江戸に住む幕府の徳川家、幕臣~各藩邸の武士、そして我々庶民の台所を担ってきた。日本人は農耕民族で大昔から農耕、農業、畑作に労を費やし、生活して来た。税も主として本途物成の年貢(耕作・石高により課税される)で稲作、畑作りは年貢対象、生命維持の食糧として欠かせられない。東京の野菜植物と言えば、練馬大根が有名だが小松菜、品川カブ、千住ネギ、馬込ニンジン、寺島ナスも作られていた。
私は今回、偶然に中央区にある優良企業に勤めておられ京橋町内事情に詳しい方と知り合った。大都会の東京も地方の田舎も古い歴史があり、時代と共に様変わりしているが生命維持に必要な食糧事情に係る本質は変わらない。現在でも食糧に関わる輸出入、食料難の話題が飛んで来るのは周知のとおり。

【人口移動】
維新後、新政府の施策、指示により旧大名(お殿様)は東京居住を強いられ、家臣(武士)の多くも藩主に従って東京へ移住した人々は多い。居住の出入りが少ない地方では文献、祖父母、両親からの話で顕著でハッキリしている。家臣間の人脈を頼って中央官庁の職を求めて上京されたのだろう。収入を絶たれた武家の人は旧藩(県・市・村)、教職、軍人、逓信、鉄道、新聞社等に入り新生活を始めた。当時は公務員(シビル サ-バント)とは言われない、村(町)小使い、見習い、傭人、雇員、書記等と言われていた。当時の村吏員、県官吏名簿【三役~書記】を見ると旧藩時代と変わり映えしていない。高齢でお元気な著名な女性作家が、自分の歴史・自伝談を含めて書かれているが、旧藩当時の幕末から戦後の連合国の改革まで継承されていたように感じる。 ≪著名女性作家と祖父母・両親の弁が一致している≫

人間、生き物の数移動は即、食べ物である食糧が必要だが東京中央区京橋に〖京橋大根河岸〗があり滝野川ゴボウ、早稲田ミョウガ、練馬大根等の江戸野菜が商われていた。その場所に記念碑について、先に記した中年紳士の方から説明、案内を受けた。
本当に親切な説明、案内を頂き、有り難う御座いました。全く、偶然でしたね(笑)。

〖京橋大根河岸の碑〗



〖全景〗



〖旧藩当時のこの地域に掛る案内〗



〖記念碑〗 ≪実際の地は少し、東側にあったらしいが時代は変わり、交通事情も変わり現在の場所に設置≫



〖東京三橋〗(日本橋、新橋、京橋) ≪橋の上にセットしてある欄干は幕府認可が必要で江戸ではこの三橋)≫



〖現在の築地〗



〖築地市場外〗 ≪築地魚河岸 → 新鮮な魚介類があります。一度は行って見る価値は十分です≫

〖現在の築地の賑わい風景〗 ≪美味しいお店がいっぱい、立ち並ぶ≫



〖疲れたので新橋で一杯≪この位置は変わっていないが~~〗 ≪都区内のビルは現在、工事真っ盛りの印象≫



〖居住、勤務経験あるサラリ-マンの方に提供〗 ≪懐かしいでしょう≫