嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

読書の余韻

2010年09月09日 17時58分41秒 | 読書
小さい頃は、漫画を読むのが大好きだった。
それに比べて、僕は小説を読むのが苦手な子供だった
決して想像力が豊かな方とは言えなかったし、
僕はいつも自分が生きるために金勘定をして、
どうやったら日々の暮らしをより効率よく切り詰めることが出来るか、
そんなことを電車に乗りながら冷徹に考えているような子供だった。

しかし漫画を読んでいる時は夢中だった。
その世界に没頭し、まわりの時間を忘れてハッとなることや
漫画を買いすぎて親に怒られることすらあった。

中学生の頃、読書感想文の宿題をやるために
僕は嫌々ながらも、活字ばかりの小説を読んだ。
どちらかと言えば耐えることばかりで中に入り込むことの難しかった
昭和文学だが、僕はたまたま題材として
武者小路実篤の「友情」を選んだのだった。
友情について、多くは語らない。
ただ、そこで泣きながらその本を読んだことが、
結果的には、僕にたくさんの友達を作ることに繋がったし
それ自体は後悔はしていないし、むしろとてもいいことなんだと思う。

同じ本の後ろに収録されていた短編エピソード、
「愛と死」それが僕に影を落とした。
自分の行為のすべてを文学のせいにすることなど許されないが、
愛と死は、知人の妹を愛してから失うまでの話が
克明に描かれた短くて小さな悪く言えば些末とさえ言えるような
もの悲しいエピソードだった。
そこに塗り込められたストーリーの、
どこまでが体験に基づき、どこまでが空想の産物で、
どの程度フィクションなのか、僕にはわからない。
ただ、今の僕にわかることは、武者小路実篤の書いた小説は
幼い少年の心を深くえぐり取るような、喪失のエピソードによって練られているのだ。
そのテキストで編まれた残滓を、僕は思春期の心でまっすぐに見つめてしまい、
そこから熱っぽい情の籠もった不安を読み取ってしまったのだ。

愛したものは死んでしまい失う
友情を信じた者は葛藤の中でそれを破壊する
それは弱さと幻想の走馬燈だ。
小説で走らされた想像力の軌跡は、燃え尽きる一瞬が鋭く輝く流星だ。
流れ星の尻尾が長く続くほど、
僕の残滓は尾を引いてしめっぽく苦しく燃える
そこに映った想像力の造形が苦しくて、
僕はより一層、小説から離れていくのだ。

もう少し、夢を追う物語を、
僕は丹念に少しずつ食べるべきだった。
読むことを決して後悔することのないように、
終わらない果てしない物語を読むべきだったのだ。

中毒性を持った活字が語りかける
物語の終わりを、僕は期待しながら読み進める。

『摂氏零度の少女』(著者:新堂冬樹) を読んで思ったことなど。

2010年06月20日 02時16分18秒 | 読書
まず、帯にある宣伝文句から。
>「善悪ってなに?誰が決めるの?」
とある。

単純に答えを言ってしまえば、
善悪は良心と倫理観に従って、善と悪の線引きを信じるものが
勝手に引いた境界線であり、善、もしくは悪、あるいは両方を信じる者が
その采配を決めている。

もし、成長の人格形成過程において、その形質が歪に歪められてしまったのなら、
あるいは、真っ直ぐに純化されてしまったのなら、
もしくは、裏返って、違うものに変化してしまったのなら、
そこには新しい着眼点、新しいアイディア、新しい神が現れる。

つまり、視座が変わるということだ。

この物語において重要なことは、
少女が愛犬のリトルを失う行為を、
生物的な反作用の中で、何年もかけて理解しようとしている点だ。

つまり、彼女は犬が死ぬということを、瞬時には理解できなかったし、
また、我々人間の方に、大人とか子供とかのものさしを持って来る前に、
ひとつの孤独な生き物として、例えば「知恵を振り絞って考えることの出来る猿」
としての立ち位置だったとしても、目の前に起こっている【死】というひとつの出来事を、
そう簡単に解ることなど出来ようか?

もし、理解に行動や経験を伴なう必要性があるとしたら、
例えばそれがパズルのようなものだったとしても、
ぐるぐるとキューブを回転させることでしか解らない人も居るし、
バラバラに分解しないとわからない人も居るし、
回さなくても瞬時に解答を導ける人も居るだろう。

だが、残念なことに、死は生の向こう側にある。
こちら側ではない。
にも関わらず、少女は大人から「天国」という嘘を教わってしまう

それをまったくのジョークや嘘として処理できれば
ことはもっと単純で簡単に折り合いのつくものかもしれないが、
もし、ある種の無知と純粋さによって、
無垢な魂のありかを探し出すトリガーとなってしまったとしたら、
少女はもう、引き金をひくしかないのだと思う。
それは死が持つ暴力性や優しさによって達成されるものではないが、
人の物差しがその計測を邪魔する。
人を殺すことは決して暴力的でも優しくもなく、
もっと冷たい温度の無い現象に過ぎない。
だが、そこへは人が意味を介入させる。

「少女が親を殺すとはどういうことか?」
「子どもが大人を毒殺するとは何か?」
「主人公はいかにして母を殺すに至ったか?」

いわばもう、これは読者に向けて延々と説教のように語られる
オリジナルの供述調書だ。
現象を人が事件にする。
そして、事故にする。
踏みつぶした蟻に許しを乞うのは、蟻の命に人と等しい価値があるからではない。
許されたいという動機を持つ者だけだ。
蚊を殺すことと人を殺すことに差をつけるのは、
その、両者に価値基準を適用できる者だけだ。

もし、姉がリトルを殺したら、
彼女は豹を愛したか?
という問いが生まれる。

毒殺のオリジナルは、ライオンにあるのでも、
彼女にあるのでも、グルムグンシュにあるのでもなければ、
グレアムヤングにあるのでもない。
「白衣を着た男性獣医」にあるのだ。
この切り取った、小さなBookの世界観において言えば。

だけどそのことについては多くを語られない。
少女にとっては愛する母親から初めて教わった
「生き物を殺すということ」であり、
その恩を、愛情を、行動で示さなければならないのだろう。
これは優等生にありがちなパラノイアであり、
良い子で居ること と 権力者 との間で起こる葛藤なき
宗教的行為でもある。

もし、リトルという器に入った魂の意志が、
略奪されない秘密の部屋で行われる孤独な行為であったのなら、
きっとこうはならなかった。
自己が確立できない間に行われる「育てる」という行為の憑依試験の中で
あのふさふさした被毛を撫でながら、衰弱していく犬を見つめる行為の中に
新しい自分を発見したかもしれないのだ。

だが、残念ながらリトルは
そして少女の自己は、確立されるよりも前に、
ライオンの檻の中で育っていく忠実なモンスターの僕(しもべ)なのだ。
育った愛で飼い主を食い殺す新しい息吹だ。

ぼくは例の事件が起きた時、
glmugnshu -グルムグンシュ-
を読み漁った。
繊細な心を感じさせる文才と、
子供の中にある特有の闇の匂いを感じ取ることの出来る
貴重なサイトだった。

どうしても、僕はその少女と比較しながら、
桂木涼子(風矢信介)を見てしまう。
たぶん、僕はこの本の忠実な読者にはなれないだろう。
本を読む前に、多くのことを知りすぎて居る。

それでも、読んでいくうちに、ハッとさせられることは
何度かあった。

もし、この本を弱さで読み取ることの得意な人が見たら、
この少女の心を、弱いものだと勘違いするかもしれない。
もちろん、そうした読み取りはその本人にとっての
真実の供述調書となりうるものなのだと思うけれど。

最後に、この文章を読んでくれた読者のあなたに、
この言葉を捧げたい。

「――なんだよ。みるなよ! 足が一杯になるだろ!」

サリンジャー生きてたんだな。

2009年06月02日 20時55分28秒 | 読書
一滴の雫が、ときに世界を滅ぼす事もある。
聖者の涙。悪魔の汗。遠い国からやってくる、絶望の雨。

僕はそういう生き物を知っているし、僕自身、そういう生き物かもしれないと思うことはある
子供たちを滅ぼしてしまいたいほど、絶望にうちひしがれることもあるし、
大人たちを皆殺しにしたいと思うこともある。 僕自身の汚さの内に込めて。

景色に映り込まない遠さに憧れるのは、
太陽の光とともにある、まぶしさに美しさを感じるのと似ている。
誰も届かない、何者も汚すことのできない、圧倒的な敗北の光.
たとえグレーなのか白なのか判別できなくとも、
そこから色を読み取ることができなくとも、真っ直ぐに目を開けて立ち止まっていたいと願う恐怖。
存在の喜びが、痛みに変わる感覚。

JDサリンジャーは、そういう曖昧な何かを、アメリカの文化を土壌にしながら、
まるで日本的な美学を知って生まれた作家のように、
自身の呪いをテキストに埋め込み、敗者への手紙とすることのできる
貴重な作家であったと思う。
それ故に、犯罪者から尊敬される作家でもあったと思う。

僕はサリンジャーの本を一冊読み終えるのさえ、四年もの歳月を要した。
日々が忙しかったと言えばそれで終わるような話だが、
内容が濃すぎて倦怠感を覚える本だったからだ。
それ故に一日数ページしか読むことはできなかったし、
たくさん読めば、しばらくの間陰鬱さが抜けきらない日々を送ることになる、
毒のある薬であった。
だが、決して読むのをもうやめようなどとは、全く思わなかった。

僕はライ麦を読んでも泣かなかった。
胸を掻き毟られるような気持ちにもならなかったし、
感動が喜びの色に染まることもなかった。
ただ間違いなく、これはヒット作であるだろうとは思った。
読者の道を、少しだけずらしてしまうような力を持っていたとしても。


作者については、なんとなく思いを馳せるだけで、
詳しく調べることはなかった。
せいぜい検索エンジンやWikipediaの情報を調べる程度に終始していた。

どこかでちらっと読んだテキストや、噂話のたぐいから、
彼はもうとっくに田舎の農場かどこかで死んだのだと思っていた。
もっとも、このニュースとて、彼が本物かどうかなんて、僕にはわからないのだが。

でもきっと、現実は冷たいから、淡々と事実を語る冷たい機械だから、
きっとこれは本物のニュースなんだろう。
そんな感じがした。

 「僕はニュースを閉じた。」

たった27ページの感想文

2005年08月06日 21時26分44秒 | 読書
少しだけ、気になるところもあったので
「死にぞこないの青」という本を読んだ。
片田舎の小さな町ですくすくと育った人の
小さい頃の思い出をのらのらと書き綴ったような話だった。

いつもおいてけぼりにされる事に怯える僕の
なんだかよくわからないけれど流れている世界の
日常のささいな出来事を
事細かにじっと見つめる視線
息を潜めて世界のゆくえをジッと見守る影からの目線
そういうピースで構成された
あまり面白くもなんともない本だと思った。

おそらくは、
おそらく。

この淀んだ清涼感の中を流れる寒々とした空気
遠くに佇むカカシに投影されるような僕の世界
そういった雰囲気の端々に潜む輪郭線を
ゆっくりと舐めるように見つめる事ができなければ
この本は読むことが出来ない。

コロコロについての考察を見ていて気付いたのだけれど

この本は、
記憶への距離が遠すぎる。
なのに細部だけがハッキリとしすぎている。
あまりにも遠い物事を望遠鏡で観察している。

すまないな…
27歳の俺には
27ページくらいが限度だな。

1年で1ページ。
遅すぎる読書。
そんな事を思った。

寝ながら学べる構造主義を読む

2005年01月20日 09時14分27秒 | 読書
貴重な体験があったのでちょっくら後ろの項目に突然飛びます。
引用は赤字で書きます。

第六章 「四銃士」活躍す その四──ラカンと分析的対話


ぼやけた世界がくっきりと見える現実感
それを成立させている条件はなんだろうか。

ラカン [Jacques Lacan](1901-1981)の鏡面段階論によれば
「まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は、私たちの眼には、範例的なしかたで象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、〈私〉はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化することにも、言語の習得によって〈私〉が普遍的なものを介して主体としての〈私〉の機能を回復することにも先行しているからである。」(私の機能を形成するものとしての「鏡面段階」)

とりあえず第二の鏡面段階について語ってみよう。
自由な社会活動ができず、生活の拠点をわどさんに依存している幼児的はにゃ(まともな言葉を語らない)は、批判されると何故か喜ぶ。それゆえこの現象はブロガーの目には、駄目な人生のお手本として反面教師の一例を示しているもののように見えるのである。というのは、<私>はこのとき、その言葉の中にいわば妄想的に成り代わるわけだが、それはそれとして僕はこの文章の真面目さに飽きてきましたすいません。

本やテレビやネットや会話で得た知識から人はそれぞれ自分専用に知の宇宙を構成していき、そこには世界モデルと呼ばれるものが出来ていくわけですが、このように言語で形作られたソフトウェア的な世界というのは非常にあやういもので、現実の変化があまりにも急速な衝撃的場面に遭遇した時にゃぁあんぐりと口をあけてポカーンって言うしかないよね。

僕はわどさんから批判をどどどーっと一気に言われて正直ビビったのですが、まぁ基本的な事に関しては言ってる事はわかるのですよね。こないだ南無さんに言葉でぐるりと囲まれてカチャンと何かにハメ込まれたた時と似ていてやはりここでも僕は「父の像」に近いものを感じました。主体というものは、自己自身について語りつつ、知らず知らずのうちに他者となり、「他者の欲望」をもって自己に近づくというラカンの言葉通り、僕は一瞬何か自分に気付けたような気がしました。批判を受け取るのを拒否してしょっちゅう屁理屈論理防壁を張っているので基本的に僕は誰の言葉もあまりまともに受け取っていないのですが、引力が強い人というのがたまに居て、僕は特定の人から特定の条件で特定の言葉を受け取った時のみ、外部への扉が開かれます。

他人の意見の無茶な要求や不条理というのは論理性が破綻しまくってますが、これはこれでなかなか面白いもので、自分で普段言うような「はにゃ像」と他人の見ている「偏見はにゃん像」の矛盾を融合させ、新しく両者を包含するスーパーはにゃっちに昇華する事でレベルが1上がります。音楽も流れます。ちゃりらりらーん♪

で、現実っつーのは他者による認識の集合体みたいなもんで、現在は様々な細分化された境界線が引かれている事と思います。
ぼんやりした人には認識の曖昧な混沌宇宙があるんですが、それはまぁ、寝てる時の夢みたいな感じです。ネバーランドへようこそ♪

今後も適当に続きます。

寝ながら学べる構造主義を読む

2005年01月13日 21時20分46秒 | 読書
第一章②アメリカ人の眼、アフガン人の眼


9.11同時多発テロの後、アメリカによるアフガン空爆が始まりました
ここで「空爆」と書いて「攻撃」と書かなかったのは
どちらがどちらを攻撃しているのか、にわかには判断しがたい
という中立的な物事の見方が、すでに私達の中で常識化しているからです。
アメリカ人の眼から見た景色とアフガン人の眼から見た景色はそれぞれ違っているはずだから
「ブッシュのテロ対策もわかるがアフガンの市民達の苦しみにも配慮しよう」
とすぐに考えられるのは、それが常識として私達の間に浸透しているからなのです。
しかしこの常識観は結構近代になってから立てられた若い常識観で
例えば団塊の世代より高齢な人と話をしていると最初はとりとめもない軽い話題だったのが
だんだん話が一元的になっていくという性質にもよく現れています。
いわゆる頭が固いというやつで、「何いうてまんねん、世の中色々でんがな」と
言えない雰囲気がカチカチと構築されていくどっひゃー感に繋がります。
たーすけてー。あ、妄想だった(ただいま)

構造主義は人がある限定された空間に束縛され、その環境条件が基本的にその人の見方、感じ方、考え方を決定しているという構造の特性に気付き、自立的主体のあやうさに触れています。
それゆえに、私達の属する集団が無意識的に排除してしまったものは
私達の視界に入る事すら無い為、私たちの思索の対象にならない事に警鐘を鳴らします。

うしろの百太郎に気付くのは難しいって事に似てますね。
あ、だから子供の頃にやってた「だるまさんがころんだ」が面白かったのか…。

{前の項へ戻る}{次の項へつづく}

寝ながら学べる構造主義を読む

2005年01月13日 18時03分15秒 | 読書
【はじめに】
これから書いていく記事、書こうとしていく記事は
文春新書から発行された本「寝ながら学べる構造主義」についての個人的な読解であり、
僕自身の読み取りをまとめる事によって僕の問題と向き合うという一つの試みでもあります。
従って作者(内田 樹さん)の構造主義に対する見解に離れたり寄ったりしていくかと思いますが
それらも一つの流れとして読んでもらえれば、と思います。
記事に書かれている文章や内容について何か思う事があれば
コメントやトラックバックにてどうぞ。
何か面白い事出来るといいな、と思っています。


第一章 先人はこうして「地ならし」した──構造主義前史
①私たちは偏見の時代を生きている

私たちがごく自然に、ほとんど何も考えずに常識だと思っている事、
それらは多くの場合その時代背景や地域性によって判断を左右されています。
こうした事に気付き始めたのは割と近代になってからの事で先人の哲学者達が
「人は自分の属する場所によってそれぞれ違った風に物事を判断しているらしい」
という事に気付いたからでした。
私たちは自分では判断や行動の自立的主体であると思っていますが
その構造を分析し、自明なものを改めて考え直してみれば
決して自由に思考出来ているわけではない事に気付かされます。

思想史としての区分によれば現代はポスト構造主義の時代と言われています。
一般には構造主義以後期と訳されますが
簡単に言えば構造主義の考え方にうんざりし始めた時代だと
言う事も出来るでしょう。

近年、漫画やアニメ映画などで「セカイ系」と呼ばれる作品が登場してきていますが
これらも偏見によって分析していけば
自意識の及ぶ範囲の世界を偏見によってセカイという一つの象徴として表現し
セカイが崩壊していく終焉を見せる事によって
偏見の価値観で出来た世界を克服していこうとする大きな流れのようにも見えます。
代表的な作品で言えば「最終兵器彼女」「新世紀エヴァンゲリオン」「雲の向こう、約束の場所」
などがこれにあたるかと思います。

また、私が遙か昔の時代に書かれた本を読む時
大きな思想の違いを感じ、そこに嫌悪感を抱く時が多々あります。
それは文体や仮名遣いの仕方が現代と違う事によって読みづらいという点だけではなく
そこには私が現代の常識的な思想の中に閉じ込められている事で
文章に書かれている内容をするすると楽に読み解く事が出来ない
めんどくささやいらだちの障壁が横たわっているからだという事が出来ます。
ここには、自分のわかりやすい言葉に翻訳し、自分なりの解釈に繋げていくという
私の自我中心主義的な思想が潜んでいるのですが
それについては別の項で書きます。

ひとまず今回の項は
「私達の思想はある狭い集団での常識に支配されている」
という事を頭の隅に置いておく事が大事であり
それこそが構造主義という知見がもたらした功績であり
重要な切り口だという事が書いてあります。

そして構造主義という思考上の奇習について改めて考え直す時にも
現代に生きる私達は構造主義で考えてしまうという
パラドックスの中に居る事も忘れてはならないでしょう。

{次の項へつづく}

ロラン・バルトに憧れて

2004年12月25日 08時22分38秒 | 読書
言葉の持つ魅力、
それは主観的世界を分散カメラのように伝える
価値観、言葉距離感の凄さだけではない。

逆に言うと客観的世界を全体から個へ向けて映し出す
ミラーボールの凄さだけでも無い。

ここまでは三次元的にみんなにもわかりやすいと思う。

大事なのはP2P(ピア・ツー・ピア)なニューラルネットワークの
唯脳論的な時代感を遙か昔から先取りしたりする
本質的未来性や故人(または古人)の叡智を伝える
その四次元的な知的探求にある

言葉はただそこにあるだけではないのだ。
言葉を掴み取り続ける事で
我々はアイデンティティの枠を移動させる事が出来る
もちろんそこには考える事自体の面白さをも合わせ持つ。

そして、例え考えなかったとしても、
言葉を知り続けるだけでも、加速的に移動させ続ける事が出来るのだ。

ここに、自分と他人との接点、交渉力が宿るのも
それはまた必然的な話である。

ロラン・バルトの小説が私に見せる面白さ、
それは彼の発想がずば抜けている事の面白さではない。
構造主義が常識になっている現代の若者には
ただ漠然と記号学的に彼を捉えてもあまり面白くはないかもしれない。

パノラマ的視界についての対立構造を私にハキハキと教える
構造主義の知見を四次元的に先取りした事の面白さだけに留まらず、
日本という他人国家に一目惚れしたという
彼の脳性格の面白さをも語るからである。
そこには彼の論理を大事にする男性的側面と
イメージや雰囲気(空気)や予知を大事にする女性的側面
がじつにありありと描き出されている。

また、言葉距離感、他人国家、宇由という言葉を僕が使うのは
まさに僕がロラン・バルトの知見に影響されて生きている事自体をも
しっかりと映し出すのである。

以上がロラン・バルトについての、十数ページ読んだ感想でした(爆)

ぃぁ、これマジで面白いと思うよ。

ライ麦食パンつかみどり

2004年11月21日 20時34分36秒 | 読書
やは!
はにゃです。

「全ての手紙は挨拶から始まり
挨拶の無いものは手紙とは呼べない。」

…なんて無茶な暴論なんだ、素敵すぎるよ。
ライ麦食パンめ!

僕が毎日感じているストレスは
自分の気持ちが言語化出来ない事から感じるストレス
…と、似て非なるものなんですが

言いたい事がズバっと言えると気持ちいいよね
例えて言うならツチノコ恐怖症とゴキブリ愛好家の
フェチズムジレンマみたいな。

あるいは客観性を持った男性を批判する女性の
「マァこの人賢そうな事言ってるのに冷たいわね、ふふふん。」
に含まれる鼻息成分みたいな。

違った事を言うなら
『世界の中心でジコチューを叫ぶ』の自己中心主義と個人主義の違いもわからない
その恥ずかしさに全く気付かない自分にウットリ感。

あー、すまんです。
お腹減って言葉が出てきません。
最悪の場合、外科手術によって僕から言霊を取り出して下さい。

アレが…50gって噂はマジかいな?

アレがすぐにわかったあなたはもはや病的な知識主義です。
ちょっとくさやの臭いを嗅いで発酵力学や発酵政治について
考え直した方がいいとおもいますけん。

そんじゃぁばってん!

フリッカー式 第一章しか読んでないけど感想文(ネタバレではない)

2004年09月09日 23時11分16秒 | 読書
僕にとって、もっとも正確に描写し細部まで記憶できる物
それが妄想だった。
そして何一つ解らないままで曖昧に過ぎ去る物
それが現実だった。
それは僕を僕と認識し、意味づけするには
十分すぎるほどの言い訳だったし
また、実際にその通りだと思っていた。

狂気とは何だろうか
日常の中にある非日常
そのような解もあるかもしれない。
だけどもっとも僕にピッタリくるもの
──それは性癖だ。

なぁ教えてくれよヘブン。
ヘブンは今日そこに居なかった。

僕は目の前にある光景がなんなのかうまく理解できなかった。
そして僕は陰毛を一本だけ引き抜いて咀嚼した。
なんの味もしない。
間違いない、これは現実だ。

本の魅力というのは
何の音もしないところだと思う。
そしてコンピューターの魅力はうるさい音だ。

隣の部屋からベッドのぎしぎし軋む音が聞こえ
姉貴の喘ぎ声が聞こえてきた。
僕は身体が震えてその場に居るのも怖くなった。

小学生の登校する様子を二階の窓から眺めて
僕は射精した。
特に誰かが辱められているわけでも
妄想したわけでもないのに
僕は抜いた。

なぜそんなもので抜けるのか
また、なんでそんな事をしようと思ったのかもわからなかったけど
僕にはそうするしか無かった。

部屋の真ん中で大の字に寝そべって泣いた
何が悲しいのかまるでわからなかったが
泣かないと何かが壊れてしまいそうだった。

そうだシャワーを浴びなくちゃ
熱いシャワーを浴びなくちゃ
僕は設定温度を45℃にして
浴槽の中で歯ぎしりしながら
ぬるいシャワーを浴びた。

助けて助けて
誰か助けて
もうしませんもう僕は二度と悪い事なんかしないから
ずっとずっといい子でいるから
だから誰か僕に触れて僕を抱いて僕を抱きしめて
嫌だよ怖いよお母さん怖いよ
お母さん凄く怖いよ
なんで誰も見ないの
なんでクラスの誰も僕を見ないの
誰か見て誰か助けて
居ないの?僕は居ないの?
僕はここにいないの?

何の音も聞こえなかったけど
僕は確かにシャワーを浴びていた。