嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

灰色の太陽と白い太陽

2006年12月30日 08時41分37秒 | 駄文(詩とは呼べない)
心象風景における太陽の色がいつも変わらず、
そしていつも見えないこと、
そして見るたびに現実の太陽が違うこと
本質的に、色が存立し、また失われる背景には
知っている事と知らない事の境界の揺らぎがあるし、
そしてまた、自己と他者の出戻り意識があるように思う。

太陽から光が失われるのは
エネルギーが喪失するからだろうとは思うけど
失われた光が、太陽から失われたのか、自分から失われたのか、
その所在は明かではない。
現に見ることが出来るのは自分の世界にある光だし、
自分の世界にある色であり、
失われたというその事実だけが残る。

記憶が変質するのも本質は同じで、
そこにはただグッタリとした曖昧な喪失感だけが残る。
コンプレックスを失うこと
チャンネルを失うこと
痛みを失うこと
それらが絶望的なのは
単に記憶が失われて僕らが違う世界にいるというその事だけが
印としてこの場に示す矢印の方向ではないのだ。

僕らはいつも知っている世界と、知らない世界の、
失われた境界の、ほんの少し前、ほんの少し後ろに居る。

抜けていった魂の、
汚れていった魂の、
エクトプラズムだけを吸って呼吸する。

影を切ることはできない。
光を切ることもできない。
だけど僕は光に撃ち抜かれ、そしてそこに影が出来る。

盲目であることの素晴らしさを、目を開いて語る事ができないように
僕らはいつも、誤解された世界だけを素通りする。
それがまるで、約束されたすれ違いであるかのように、
いつもいつも境界線をまたいだ時にだけ、
その意味を知る。

僕らが失い続けて分かち合い、水を垂らし、
そして踏み越えていくそのモラルを取り戻す、
その手に入れた先には、
いつも新しい線を引かぬ限り、そこに意味は無い。
塀の中にある灰色の光、壁の外にある白い光、
その色の違いは、透明な存在の中で語られる事は無い。

僕らが色を感じるその事、その行為そのものは、
いつも意味を獲得し続けるその揺らぎの中で起こること
そしてまた、知らない色を知る、知らない味を知る。

きっといつか白い光が差し込んで、透明な祈りの中に。

一人だけで自分を考えることについて。

2006年12月25日 02時35分11秒 | 駄文(詩とは呼べない)
考えることは色々ある
自分の皮膚の臭いとか、乾いていく背中の感じとか、
脱力していく手の感じとか、冷たくなっていく指の感じとか。

そういうひとつのひとつのパーツが浮き出すような
痒さの立体感を、印象が超えられないのは何故なんだろうか。

浮き上がる透明な立体感や
射し込む光の突き刺さる感じというのは
外から真っ直ぐに自分を貫いて
中心まで、自意識に届くような強い輝きを帯びている。

で、ありながら、
ひとつひとつの僕を構成するかもしれない感覚、
肉体というフレーム、自分という誤解が、
透き通るほどに瑞々しく、
僕らを透明な背景へと溶かしだしていかないのは、
なぜなんだろうか。

要するに、自分という受容体は、
触れるモノを踏みつぶすかのような触覚とか、
自分が砕けて無くなるかのような触覚とか、
いつも何かに晒されているようなさざなみとか、
決して消えはしないノイズのような聴覚とか、
臭いさえ、味と誤解してるうちはまだマシで
いつも何かにぶつかってるような…

つまり、痛みしかないわけで。
要するに、受容体としてのフレームで、
ただただ痛みを感じる輪郭だけが自分で。

そうした不可能性は、
自分が非力であるという認識だけでなく
つまり、立体感を映し出すはずの色が、
自分と世界が溶け合っていないわけで…。

要するに、融解するグラデーションとはならないわけですよ。
光の真っ直ぐさとは、まさに全てを貫く真っ直ぐさで、
僕たちへ、
まさに名の通り、「光」として届く。
その突き刺さる痛みや絶望感は、
何を持ってしても美しさと等価値なわけで
それはいつも喪失の中にある永遠なわけです。

要するに暗闇に、ただその絶望的なまっくらやみに光が届くから、
それは永遠となるわけで、
その真っ直ぐな光が失われたら、
無我夢中の今でさえ、
それはあまりにも丸い、閉じられた世界なわけです。

観念的に言えば、分析された数学としての
無限に続くかのような3.14…は円周率として名前の元に帰結され、
包含されてしまう悲しさを持っていて、
それは考えれば考えるほど牢獄なわけですよ。

うまく言えない。
けど、矛盾が展開されるからこそ、
その揺らぎが生そのものであるわけで
「生」と「死」の二極化した観念は
名付けられた虚空なんですよ。

例えば新海誠の創り出す背景の美しさは
それがちっぽけなキャラクターの対比であるかどうかではなく、
彼が景色そのものの美しさに、
もう負けそうなくらい憧れていて
そのどうしようもない叙情的な感覚の前には、
努力なんてくそみたいにちっぽけなものは
圧倒的な戦力差で負けちまうわけですが、
彼はそこでもまだこつこつとフレームを描き出す事をやめないわけで…

何がいいたいかっつーと
価値とは 幽離するその溢れ出すものを
器の中に切り込んで捕まえようとする
そのどうしようもない引力の中間、
ぎゅっと詰め込んで、固めようとするその動き、
その逃げていく動きそのものの中にあるわけで
変化が微小であったとしても、
もっと繊細な、そのわずかな痛みさえも乗り越えるように感じて
必死で捕まえようとする、
その光への抵抗の結実の中に
結晶として形に刻印されるものだと思うんですよ。

表現がめちゃめちゃ。
うまく抗えなかった。

けどさ、
やっぱり考えることは辞められないと思う。
已めるっていう字もあるけど、
それでもたぶん、止められないんだと思う。

だから僕らが、日記とか、会話とか、声とかの中に、
精一杯の想いを詰め込められなくても、
まだ、泣かなくてもいいかもしれない。

泣きそうだけど。
すごく、どうしようもなく泣きそうだけど。
ときどき泣いたりするけど。

でも、まだなんとかなるかもしれない。
奪われた価値を取り戻すために、

もう少し自分を続けよう。

薫る声の音。

2006年12月25日 00時07分02秒 | 駄文(詩とは呼べない)
輪郭が、ほどけていく世界を夢見る。
崩れてゆく世界を望む。
何度も繰り返し。
物体が、物質が、ほどけてとけて無くならない現実を見ると、
何度も絶望的な気分になる。
引力はいつも中心へ向かっていて
斥力はいつも宇宙の外へ向かっている。

本質的には、その世界の糸がほどけない限り、
僕は何者にも出会うことが出来ない。
僕がこの世界へ僕を繋ぎ止めようとする限り、
僕は死ぬことができない。

だから僕に出来ることは
僕の世界の拡大と縮小を繰り返す時計の糸を
波動として、この世界に孤独の周波数で刻んでいくのみ。

それは、どんなに特別な表現も、
決して本当に純粋には、意味を意味として伝えられないことを意味する。

音楽が、規則の中で感性に正直に語られ、
それでもまだ足りない事で苦悩するように
ある種の制約のリズムの中でしか、
僕らの波動は伝わらない。

熱っぽいあえぎが、喪失を伝える。
煙のように消えて、土のように汚れが残る。
形だけが、いつも僕らの中に記憶として残り、
誤りとして崩されてゆく
変質はいつも間違いを伝え続けて
真実はいつもこの世界に残らない。

だから僕の世界にある象徴や記号は
どうしても抜け殻でしかないのだ。

その薄くて堅そうに見える
茶色い殻から、
白く透明な、蝶のような蝉の羽ばたきを、
その羽音をうすくうすく想像するしか無いのだ。

それは音が声が聞こえたり、
声が音に聞こえる、
ぎりぎりの境界線の中で踊る。

強い認識だけが、消えてゆく変質の中で 時を捕まえる。
形として、永遠として、どこまでも誤解を刻んでゆく。

僕らはその糸を、いつも決まったやり方で、
死の方へほどいてゆく。

死の糸をほどくように知る。

2006年12月23日 04時54分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
向き合う時間が惜しい。

絶望を経験することによってしか
「外」と対峙する事が出来ないのなら、
そもそもその矢印は、|仮想的であるか|現実的であるか|
の問いに関わらず、
外、外部、他者、不透明、宇宙の外、新しい
という経験を要求する出来事は
全て現象の名のもとに説明される限りにおいて

『痛み』
であることは間違いない。
その間違いの無さ、
確からしさにおいては、

「死」は苦痛以外のなにものでもない。
死によって救われる生があるかないかをさしおいても
死、そのものが楽になるという考えは間違いであると言わざるを得ない。

だとしても、
それは「死」への憧れとは、本質的に別の場所で議論される出来事であるように思う。

死が一つの救済であるという事実性は、
主に生が辛いと感じる者の主体性の内側にある出来事だからだ。

そのため、「死」と向き合うことは
「生」そのものへの反発力と統合力を同時に併せ持っている。

すなわち、死の持つ無意味性が生を意味あるものとして引き立てるか、
あるいは
死の持つ意味性が「生」を無意味なものへと喪失させる
その反作用によって色褪せていると言わざるを得ない。

だからこそ、
宇宙の内部で生まれている「生」は、
本質的な部分では「形」と「崩壊」の変化を無くしては語れない。
要するに、自殺志願者を救う者がもしもあるとすれば、
それは間違いなく「世界の外側」から飛来する奇跡であり、

死は、物理現実で秤に乗せたのなら
宇宙の外部を示さざるを得ない。

生と死の紐が解かれる、受精卵の奇跡は、
時間性を超越した場所で行われる。

だからこそ、胎児は時代を経験して生まれてくる
可能性からの遺産であり、
老化の持つ腐敗性は抗うことの出来ない一回性であるのだ。

もしも本当に真の意味で永遠を体感したいと願うならば、
それは世界中の物体を壊し続け、生き続けねばならない。
そのような永遠は、神への冒涜だ、不可能だ、
と騒ぎ立てるよりも前に、
あまりにも巨大な苦痛の連続なのだ。

星の感覚、星の呼吸を超越するほどの長い永いチャンネルを開かずして、
まずこれを成し遂げる事は人間にはできない。
だから僕らが悟りを開くとき、
その行為は拡大によってではなく、
縮小する方向によって行われ、
無への悟りこそが重要視される。

だけど僕は向き合う時間が惜しい
死の魅力に比べれば、
わかりすぎている生の彩りなど、
触れられない星達の嘆きの光でしかない。

宇宙を繋いでいるゆっくりとした境界線の揺らぎは、
ただ無惨に現実の輪郭を際立たせる。

見えるものが見え、
見えないものは見えないという価値観。
聞こえるものが聞こえ、
聞こえないものは聞こえないという価値観。
そうした束縛がある限り、
僕はこの世界への興味を失う。

喪失感は、ただただ人々の前で日常として飛来する。
それが掬い取ることの出来る奇跡を、
僕はまだ、僕の世界で知らない。

パラロジカルな季節。

2006年12月22日 20時04分08秒 | 駄文(詩とは呼べない)
言葉は、ある種の脱皮だと思う。
殻を脱ぎ捨てる事は出来ないけれど
例えずれていても、たとえ間違っていても、
そばをかすめる表現をすることで、
観念の檻から何度でも抜け出す行為に似ている。

古い自分を捨て去って、新しい自分を手に入れる行為に、
とてもよく似ている。

ただし、それは、表現が、もっとも、心に近づいた時にのみ、起こる。

興奮を表現することは出来ない。
気持ちを表現する事はできない
そしてまた、呼吸を書き記す事も出来ない。

それでも僕は、ここに何かを殴り書いたりしている。
それが何か、どうしようもない、呪いの掃き溜めだとしても。

交通は、ある種の光のシグナルによって規制されている
それは事故を起こすとか、起こさないとか、
そんな話題は横においておくとしても。

僕の言葉は、どんな波によって規制されるだろう。
どんな標準化の圧力を受けて、
どんな誤解の中で表現されるだろう。

来る日も来る日も、つたない表現で、
紛らわしい表現で、ズレたままの自分を屈折して表現する。
そのいらだちは、決して消えはしない
決して無くなりはしない。
それがいつも、嘘になって、空回りして、誰にも伝えられないとしても。

どうしようもない自分の事はよく知ってる。
そして自分と言えるほどの、しっかりした形など、
どこにもないことも、なにもないことも。

通り過ぎる風の中で、
呼吸に似た、気持ちよい音だけが、
心地好い風だけが、
僕の今のすり抜けて、言葉へと変わる。
記号へと、記される。

それがとても、儚い行為だとしても。

分析は、ほとんど役に立たない。
断定も、断罪も、僕をどこかへ縛る事は出来ない。
僕を永遠の形へ、変質させる事はできない。
それがいいことなのか、わるいことなのか、
そんなことはもう僕にはわからない。
僕には、そんな判断をする能力は無いのだから。

言葉に対する無力感は、気付いた時点でもうお終いのようなものだと思う。
決してぬぐうことは出来ない。
決して超えられる事はない。
それがもし、人に感動を与えられるものなら、
なにかの、心の中にある汚れを、
現実という檻で出来た鍵を、
どこかへ向けて、開ける事が―できるんだろうか?

ほんの少しの感動が、ほんの一握りの砂を枯れ葉へと戻すとしても、
心の中に降り積もっていく砂の方が、 はるかに、
遙かに、とても多いのだから。

旧校舎へと続く記憶の階段は、
風景に続く坂道へととてもよく似ていて、
僕を二つの世界から、別の世界へと移し込む橋に似ている。
思い出とよく似たインターフェースで
幻想によく似た景色へと、
僕を移動させてゆく
僕を誘ってゆく
僕をこらしめてゆく。

思い出は色褪せてばかりなのに
決して消える事が無い。
そのたびに、僕は生きている事の罪を背負う。

もうすぐ僕の番だろう。
明日は僕の番だろう。
明後日には、もういないだろう。

そんな風に、僕を問い詰めてゆく。

現れ渡る、綺麗な風景との対比が、僕をいつまでも痛めつけながら汚していく。
決して消えはしない呪いを、
僕に現実の名前で刻んでいく。
もしもその世界に人の名が無かったら、
僕は記号から、何の罪も受け取らずに済むんだろうか?
全員を殺せば、新しい世界へと目覚める事ができるんだろうか?

六十億の敵
とても戦える気はしない
だけどまだ、負ける気もしない
それでもただ、苦痛だけは、消える気がしない。

どうしようもない世界で
どうしようもない事を思って
どうしようもない自分に
変身してゆく。

ほんの一握りの絶望を、
明日の天秤に くゆべながら。

白い直線に近づいて光と名乗れ。

2006年12月21日 17時39分20秒 | 駄文(詩とは呼べない)
主張を誘うための、ぴったりと敷き詰められた空間があった。
僕は指を取りだして、そのひからびた鍵盤の上で、文字を叩く。
そうした行為が、誰かにとっての、手紙になるだろう事を祈りながら。

明け方の風景はとても予感的で
僕に新しい風を運んでくる
だけど夕方の風景はとても陰惨としていて
僕にどんよりした暗い塊を運んでくる

まるでその土が、人間を作るための、人形で出来た土であるかのように。

僕にとって、数字と風は、重要な意味を持っていて
いつも風が吹くたびに僕は何かを恐れながら景色に近づいていくし
数字はいつも、僕へ冷酷な鐘をならす。
そうした鳴動が、僕の可能性を、ズタズタに切り裂くとしても。

パイロットの居ない飛行機

冷たく吹き溜まる木枯らし

茶色くひび割れた樹木

形の無い天秤

紫色に晴れ上がった血液

明日を創り出すための、曖昧な空間たち。

そうしたものが、いつも僕の傍を閑散とかすめてゆく
人を近づけ、人を遠ざけてゆく

もしも僕が、何かを選択することが出来たのなら、
始まりと終わりを超えた世界が、
そこに開けてゆくだろうか?

そうは思わない。
この世界で、直線ほど残酷な線は無いのだ。
無限ほど、閉ざされた丸みは無いのだ。
全てが、僕の中で、どうしようもないほど中和されてゆく。

激しく年老いて、
色褪せてゆく未来だけを感じる
よどめいてきらめいて、なにもかもが無くなっていく
当たり前の未来だけが見える。
手を伸ばす勇気も、
新しい欲望もない。

ただ、そこに、約束に似た形の、終わりを伴った未来だけがあるのだ。
僕はそこに向かって、
なんの期待も無く、なんの絶望もなく、
地道に歩いてゆくしかない。
そのことに対する危機感を、僕はどれほど書いても表現しきる事はない。

何を書いたとしても、決して伝わる事がないように。
この世界に、ずっと閉じ込められているのだ。

こじ開けるしかない。
もしもこの世界と、決別するほどの意志を持つなら。

この世界にさよならして、
何かを記号のように記すしか無いのだ。
証を持つことを、遠ざけ続けるこの色では
何かをみるたびに、決して近づけない白があるように

僕はただ、白いモノを探して
ずっと遠くを見る。
じっと待つことだけが、この世界の美徳であるように。

透明な塀で出来た世界で
ただ透明な、祈りを捧げるように
全ての輪郭が、無くなり続けるその日まで

ただ僕は、透明さを願って―白い色を見ようとする。

弱さをさらけだす行為さえ、ただもう歌を聴くように。

2006年12月20日 03時28分57秒 | 駄文(詩とは呼べない)
ずっと、外に期待してしまっている
自分ではもう、何もする気が起きない。
あらゆるきっかけ
冬の寒さでさえ、自分ではもうどうにも、どうにも、
どうにかする気が起きない。

ただ、春になるのを待てば。
ただ、光が射すのを待てば。
ただ、誰かが傍に来るのを待てば。
なにかが、どこかでなにかが起きていて
世界を変えてくれるんじゃないかと
そんな期待をしているような
どうにもならない駄目さを感じている。

ある意味では、恵まれすぎているのだろう
それはわかる。
そしてある意味では、不幸すぎるのだろう
それもわかる。
そして何よりも、考えすぎているのだろう。

だけど、そのことを、
決してやめる事は出来ない。
どんなささいな事でさえ、
どんな小さな事でさえ、
僕にとっては、切実な大問題となる。

全てが、全ての予感が、死へと帰結してしまっている今では。
あらゆるきっかけが、僕を死へと誘い
あらゆる言葉が、死への入り口となり
あらゆる甘さが、死へと僕を誘導する。

全てが、口車で出来ているような
そんな愚かしさの中で
僕は一人だけの夢を、一人だけで見る。
ただ、そうした行為が恋しくて。
ただ、誰も居ない闇の光が恋しくて。
ただ、何からも見放された不幸の自分が大好きであるような、
そんな味がする。

ようするに、問題とはいつも、内部にあるのだ。
外部はただ、変化をいつまでも打ち寄せる波のようなものでしかないのだ。

ただ、それでもその波に
それでもその波動に

耐えられる人と、
耐えられない人は居ると思う。

僕は駄目だ。
僕は駄目だよ、とうさん。
僕は駄目だよ、かあさん。

なんで産んだの?
ただ、その理由でさえ、僕には納得できない確信があるから、
聞くのはもう、みんなからのくだらないたわごとだけ。

明日、本当に欲しい明日は、
僕の未来から見て、どっちの方向にあるのだろう。

ただ、死から免れるようにして、
死を望み続ける。

言説の歌、繰り返し吹く風たちの言葉。

2006年12月19日 16時27分33秒 | 駄文(詩とは呼べない)
違いに関する説得、というのは多くの場合あまり意味を持たない。
日本軍、アメリカ軍、
神を信じる人、神を信じない人
正しさを持つ人、正しさを持たない人、
現実を見る人、幻想を夢見る人

多くの場合、違いそのものを説得する行為は、
傷付け合う最初の一歩にしかならない。

それを知りながら、
繰り返し、繰り返し、
つまらない言説を…

僕たちは繰り返してゆく。

わからない事を前提に始める世界と
わかる事を前提に始める世界では
どのくらい、その世界の構成に響きの違いがあるのだろう。

つまり、わかっている人と、わかっていない人では、
どのくらい、景色の音質が違うのだろう。
彼らは、風の声を聞くだろうか?
彼らにも、風の歌は届くだろうか?
僕には、彼らの輪郭線が見えるだろうか?
僕には、彼らと同じ数の絶望があるのだろうか?

僕は彼らに対し、
「どれだけ言葉を重ねても、僕のいっていることは通じない。通じないんですよ…」
と言った。

彼らのうちの一人は、
あるいは彼らそのものは、
「君は俺と違って言葉を重ねずに、何かをする前から『通じない』と言っている」
といった。

あるいは、そのような一歩を、問いかけた。

またあるとき彼らは、
(もしくは彼らのうちの一人[ひとつ]は)
「あなたは幻想ばかり語っている。それでは意味がない、
もっと積極的に知らない世界へ踏み出すべき」
というようなことを言った。

もちろん、正確な意味はわからないのだけど。

僕は過去の海外旅行(?)の経験などについて語ったが
あるいはまた、僕の境遇などについて語ったが
ある種の励ましを受け取っただけだった。

要するに、二つの世界の開きは、
説得によって通じるものではないのだと思う。
彼らは彼らの正しさを確認し、
僕は僕のわからなさをもがいて中空をさまよう。

その歌は、お互いに誰にも届かない歌なのだ。
風の歌は、風の吹く場所にあり、
吹きだまりには、いつも砂や泥の根源となるような、
悪意の形を生成する粘土のようなものが、
いつもいつでもくるくると渦巻いているのだ。

汚れた世界の嘆きと、
汚されてゆく世界の呟き、
そのどちらもが、絶望的な比喩を語り、
絶望的な血の刻印を聖なる場所に捧げようとする祈りでしかないのだ。

だから僕の言葉は、
繰り返し、風の中に消えてゆく。
冷たい海も、冷たい氷も、その形を決して維持できないように。

冷えた空気と、暖かい空気が、
ただ、熱っぽい風を起こしてゆく。
僕らの世界の中間で、僕らという世界を彩りながら。

失われる前になぞる

2006年12月12日 09時03分07秒 | 駄文(詩とは呼べない)
継承する言語、破綻する言語、記憶をなぞる言語
自己分析における言語活動のうち、記憶に関する言語が一番やっかいである
結論から言えば、僕は記憶しているはずだ、という感覚を記憶している。
よって自分の言語活動が、再フォーマットされた中での記憶の再起的再生なのか、
新たに作られた言語活動なのか、それとも言語が壊れている最中の終極へと向かう単なる一過性なのか。

そのことを、感覚によってのみ、なぞる。
あるいは、読者という、分析装置の偽造構造によって。

簡単に言えば、僕の活動は、引力の中心に向かう限りにおいてオリジナルであり、
快楽の活動限界においてのみオリジナルである。
というのは、blogを例にして言えば、
過去に書いた日記は、過去に向かえば向かうほど毒にも薬にもならない
吐き気のする文章の並びであり、単なる空虚な記号であり、
意味を損失している。
書いた直後の文章は「よく書けた!」という印象を持っていても
それは記憶が失われるほど、時が経つほどに価値が薄れてゆくものだから。

しかし逆に、完全に忘れてしまえば、
それはむしろ新しいのではないかと錯覚するほど新鮮さがます。
ここにやっかいな束縛の概念が発生していて

記憶力が強ければ強いほど、人はその牢獄から抜けられない。
という不幸の構造を表してくる。

驚きとは、いつも記憶の中では訪れない。
むしろ破壊的な他者によって、間違いによって引き起こされる活動だから。
だから全てを忘れ続けるならば、
いつも僕らと彼らは毒にされされていると言えるだろう。
あらゆる空間軸に対して、永遠の別離が毒であるなら。

空間における記憶とは配置であり、永遠であり、遠ければ遠いほど
記憶としての性質は強い。
すなわち、微細化技術を例にとれば小さければ小さいほどたくさん記憶できる、
ということである。
それは忘却の構造とよく似ている。
遠いと言うだけでは他者にはならない。
失われているからこその他者なのだ。

すなわちもって、痛みを持ってしてのみ、他者は毒であるということ。
もしも他者の出会いが痛みではなく、快楽であるのなら、
それは「思い出す」という行為にとてもよく似ているのだから。

いくつかの、忘れかけた構造を持つ言語パターンがあったとして、
それをなぞることで記憶を呼び覚ますことは簡単である。
けれども、一度も見たことがない文章を読んで、
記憶を呼び覚ますことは困難である。
しかしところが、ある種のパターンというのはある空間位置から見て、
意味が解る、という錯覚を引き起こす。
そういった誤解の始まりが、ますます記憶の配列を狂わせてゆく。

キューブを例にとると、
赤い面を揃えた状態で緑の面を揃えてゆく。
緑の面が完成したとき、人はそれを赤だと思い込む。
そうやって、赤の形は失われる。
再び赤い色を揃えた時、青い色は失われる。
だから赤い色と緑の色を失わないように
青い色を揃えてゆくことが、もっとも世界を完成に近づける。

破壊、常に破壊、ただし、この世界の法則に従うこと。
死へ向けて回し続けることで、言語の生まれた場所を探す。
忠実な糸を、丁寧に編んでゆくこと。

脱力する盗っ人たちのために。

2006年12月09日 05時35分41秒 | 駄文(詩とは呼べない)
僕たちは、他人の意識に対して、恐ろしいほど無力であると思う。
映画や絵画が人を感動させないのもそのひとつで、
どうしようもないほど無気力であるとき、人にはその声が届かない。

自殺という手段や名詞や言語や観念や目撃が崇高化され、
純化され、目的化されていくのもそのひとつで、
人は人が死ぬという意志に対してあまりにも無力だと思う。

あらゆる表現が、僕の中で紙くずになっていく日は近い。
あるゆる人たちの言語が、意味が、僕の中で崩壊してゆくだろう。
その時が来ても、きっと僕は涙を流さない。
だから今のうちに、まだ少しは体液の流れ出るいまのうちに、
精一杯物語に同情しておこう。

君たちの書いた偽の物語に、
どうしようもない孤珀の産物に、
うすく削られた野ネズミのシートに、
精一杯、なけなしの純愛に似せた毒を飾っておこう。

それが君たちへの、片道キップとなるだろう。
すべての言葉が届かないエリアに、僕だけが立つように
座り込んだ地球の上で、
虚しく宇宙を夢見よう。

「この世界に不可能はないよ」
そんなささやきで、そんな甘い囁きで、彼は厳しさを教えてくれた。
僕は信じない。そんなこと、信じない。
この世界にあるどんな不可能をも、この世界の法則に適合できる。
そのことを、僕はどうしようもないほど知っている。

決意だけが、心を心を心を堅く固く硬くむすぶ。
そのどうしようも形を記憶する限り、
僕には不可能しかない。
終わりだけが見えている世界で、僕は君たちから永遠を奪う。

表現の失敗する場所。

2006年12月09日 01時08分38秒 | 駄文(詩とは呼べない)
暗い場所 誰も居ない場所 一人だけの場所
自分を好きになれない場所 自分だけの場所
言葉が出ない場所 言葉にならない場所
無音のリズムがうねる場所 言葉に詰まる場所
苦しい場所 呼吸が乱れる場所
消せない孤独の場所 誰も信じられない場所
闇も光も届かない場所 心だけの場所
ありそうでない場所 これから生まれるかもしれない場所
もう死ぬしかない場所 全てがひとつしかない場所
なにもかもがある場所 本当に何も無い場所
触れることができず、痛みだけがある場所
あなたもわたしもいない場所
誰も立つことができない場所
しらみがかった黄昏だけの場所
声にならない憂鬱だけがもれる場所
生命の成長しない場所 木が生えない場所 水のしたたる場所
泉だけがある場所 音が生まれる場所 透明さだけが際立つ場所
美しさだけがある場所 美しさが決して消えない場所
形の無い場所 形を創り出そうとする場所
もだえるやわらかさの痛みでできた場所 無痛の煉獄で気が触れる場所
なにもないのに迷路のような場所 決して誰にも届かない場所
自分以外の誰かが居るような気がする場所
自分しか世界に無いような感覚のする場所
匂いと音を間違える場所 光と闇がわからなくなる場所
気持ちだけがある場所 感情だけが支配する場所
心だけが永遠を信じる場所 心しか永遠を感じられない場所

全部おなじ場所
どうしようもない孤独だけの僕と出会う場所。

音のない戯れ言も書いたりしますよ。

2006年12月08日 00時05分52秒 | 駄文(詩とは呼べない)
絶望的なほど、他人の声がする。
どうも俺が俺である感じがしない。
というか、呼吸が乱れてんのか。

ぜんぜん考えがまとまらない。
いらいらしてばかりで
なにもうまく書けない。

まぁ、わからなくはないけど。
たぶん、欺いているからだろう。
読者を。

別に、書きたくもないのに書いてるしね。
なんか最近、妙にアクセス多いから。

はぁ……、、、、、、。

もうなんか、
嫌だね。

ちょい君ら、もうちょい見るの控えてくれ。
俺、あんまり見られると、頭ん中 乱れてくるから。

んー、、、。
ロボットなら、別にいいか。
アクセス数の、全部が人間とは、限らないしな。

誰も見てないと、少しだけ落ち着く。

はぁ。

嫌なブログに、、なってきたなぁ。