嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

才子の水を飲む

2018年02月23日 18時18分37秒 | 考え事
涙の一滴
唾液の一滴
愛液の一滴

才子の水を飲むよ
才子の、体液を呑むようにして
僕の運命がとぐろを巻いて才子の殻を包む

才子の一滴が僕の身体に染み渡るようにして
僕は才子の言葉を飲むよ
それが僕の殻を穿つ時
僕の中で形が大きく変わる

心を溶かす水を、僕に下さい

君は僕の心を大きく傷つけるけど
君自身はその方法を知らない
l
才子、君の刃は弱さだよ
君の弱さこそが、僕を一番大きく傷つける
僕は君に弱さを見せたんだ
君は理解しなかった
誤解だけを見つめている

才子、体液を交換しよう。
その循環の中で、僕等は別の人間に変わっていく
君の弱さを、半分僕が受け取るよ
僕の弱さを受け取れば、才子はきっと強くなれるよ

運命はとぐろを巻かない
巻いているのは僕のエゴか。
強欲さが、とぐろをまいて襲いかかるのか。

「おまえになんか、私の苦しみが、わかるわけないだろう!」
不思議だね。
思い上がった石坂さんと似たようなことを言うね
僕等はあの映画に閉じ込められているのかな?

鬼の形相で掴みかかって来た君にも
僕は負けはしなかったよ
ちゃんと君の暴走を止めたからね。

もっとも、僕が用意した逆鱗のスイッチを、
君が押しやすいように、セットしたんだけどね。

あの瞬間、君はトラップにかかった。
今の君は自分の境界線が見えるはずだ。
自我境界線が何処にあるのか、
見えているから怖いんだろう?

責任逃れが、もう出来なくなってしまったから。
ずっと被害者の役で、甘えてばかりいたんだね。

才子、あのトラップを踏んだ瞬間に、
君は加害者に変身したんだよ。
だから僕が怖いんだろ?

よく思い出して。
僕は予言したんだよ。
「多分、ブチ切れると思うけど」
と、前置きしてからトラップを仕掛けたんだ。

よく考えて、才子。
僕は「わかるかもしれないし、わからないかもしれない」
というスタンスなんだ。

才子の「わからない」は、白黒の方じゃないのかな?
僕のわからないは、もっとわからない、{ワカラナイ}なんだ。
迷宮入りだね。

雨が降ったらいいな。
この迷宮で、傘をさして歩けるように
才子の雨が降ったらいいな。

どこにでもいけるよ
どこにも行く気がないほど
弱さに甘んじている僕等だけど。
今日はどこに行きたいんだい?

ローランダーに憧れて

2016年12月29日 16時05分01秒 | 考え事
今日突然交通事故やなんかで死んでしまったとしても、後悔しない生き方ってなんだろう?

明日死んでしまうとしたら、
今日を精一杯生きる事が正解なのかもしれないけど
残り時間の少ない人生を生きている人がコノセカイにわんさかいるからといって
結局それがなんだっていうのか。

高齢者や重病患者や刹那の運命と戦う善人が居たとしても
悪人が居たとしても、
そんなの僕の命題の答になんか、なんの足しにもならないじゃないか。

大人の説教が届かない部屋を探した。
誰も居ない防音ルームで、
僕は僕の空耳だけを聞いた。
ありえない幻聴を聴いても心乱されることのない様に、
僕は世間から遠く離れた真っ暗な処で、
ただ耳鳴りのビートが刻む音楽だけを聞いた。

新しい音楽も古い音楽も要らない。
僕は僕のハートビートだけで充分なんだ。

迷う事から遠ざかる為に
僕は考える事よりも楽しい事を選んだ

辛い事から遠ざかる為に
僕は他人の痛みには耳を貸さない事にした

痛い場所から遠ざかる為に
僕はぬるま湯の選択肢ばかりを選んだ

そうして得た小さなモラトリアムだけが
僕を僕の隣に置いてもいいよ、って語りかけてるような気がした。


【気のせいだったんだろうか?】

『気のせいだったんだろうか!』

僕は結局、誰からも許されず、
何からも束縛されず、
ただ無心の木偶の坊として
此処にあるだけの土人形なんだろうか?

答えはまだ出ない。
僕の茫漠とした恐怖の悩みなんて、
コノセカイの子供達と同じくらい、
等しく価値の無いものなのだから。

僕はローランダーに憧れて今日を眠った。



寒いところでしか育たない暖かさもあります。

2015年12月21日 13時26分03秒 | 考え事
僕は昔、自分で自分の事を頭がいいと思っていました。
頭の回転が速かった、
記憶力が良かった、
感覚が鋭かった、
知能指数が高かった、
学校の勉強が出来た、

などなどの理由がありますが、思い込んでいた理由の一つには
周り中の色んな人から「頭いいね!」と褒められた事が多かった事や
親から期待されていた事などが影響していると思います。

そしてまた、小さい頃は周り中の人がバカに見えていました。
僕は頭が良い自分が好きでした。
そして身体が弱い自分が嫌いでした。

小さい頃は大人になる前に死んでしまうと
周り中がら心配されるほど病弱でした。
それでも僕は何の偶然か、成人式を迎えました。
クラスメートの一人は、成人式を迎える少し前に病気で死にました。

第二次性徴期まで生き残った僕は身長や体重が増加し
二十代の前半は身体が健康的で毎日が楽しくて
友達も多く、根拠の無い自信に溢れていました。
それでもまだ、僕は精神的に大人にはなれませんでした。
30に近づくにつれ、僕は焦りを感じていました。
天才だと思い込んでいた自分が
社会の中で活躍するような見通しが全く立っていなかったからです。
むしろ僕は社会不適合であるコミュ障な自分と
自分の活躍できない社会という舞台装置を恨んでいました。
そしてまた、過剰な自意識を持て余し、
自殺を決意していました。

社会と噛み合わない自分の事を
周りの人達は心配し様々なアドバイスをくれましたが、
そのアドバイスの一つ一つが僕の心を傷つけ、
かえってそうした意見は全て邪魔な障害にさえ思えました。
普通の人になるための道を説かれる度に
僕にはその道は通れない通行止めの道であると教わったのと同じ効果しか
得る事が出来なかったからです。
他者の意見を受け入れる事の出来ない意固地な性格は
どうやらあまり変わっていません。
少しだけ変わったのは、悪かった部分、選択肢を間違えた時に
それを認識できるようになった事くらいでしょうか。

30代になる少し前だったでしょうか。
似たような文学的悩みを抱えた親しい先輩が自殺しました。
ある種の略奪愛やエゴや自意識過剰さ
職場の環境変化などあり、明確な理由はよくわかりません。
本人が書いたmixiの遺書には奥さんが死んだ事のショックと
奥さんが居ない世界の絶望感について書かれていました。
マンガやアニメの悲劇のキャラの絶望感についても書かれていました。
他に関係ありそうな事として
飼っていたハムスターが死に、愛娘が死んだようにショックを受けている、と
死ぬ少し前に電話で聞きました。
奥さんの事にしろ、二次元キャラの事にしろ、ペットの事にしろ、
この世は自分が生きて行くにはあまりにも哀しい不条理が多過ぎる!
という事を言いたかったのかもしれません。

その当時の僕は自分が死ぬチャンスを失ったと感じていました。
誰かが選んだ道を、同じ経路を僕が辿っても
つまらない結果にしかならないんだと眼前に広がる現実が
漠然と教えてくれたからかもしれません。

相変わらず僕は、主観的にしか生きる事は出来ていません。
セカイの謎は解けないまま
社会とは上手に付き合えないまま
女性に心を許せないまま
他者に近付けないまま
君にも出会えないまま
たいして僕は成長してないのかもしれません。

自殺は大して悪い事ではないように思います。
ただ、自分に負けるのはあまり良い事ではありません。
本質的な自殺は自分のオリジナルの欲求に基づくものであり
辛いから死ぬ、弱いから死ぬ、つまらないから死ぬ、
めんどくさいから死ぬ、という事であれば
それは退廃的な未来しか描く事のできない
意識の貧困さを露呈してしまうからです。

過剰な程の自意識を持つのであれば、
なんらかの形でそれを世に問おうとする
欲求が潜んでいるはずだからです。

僕はあなたの自殺が短絡的なものでなく
長期間熟成された価値ある完成系に近づくのを願っています。
余計な御世話かもしれませんが
あなたの文章からは、自意識を意思と現象に区別できない
幼稚な高貴さを感じます。
純粋無垢である事を大切に想う気持ちは僕にもあります。
ですが、セカイの言葉を他者のせいにしていたら
きっかけやチャンスを失ってしまいます。

あなたのおかげで僕の言葉が今日も少しだけ進みました。
その事を、嬉しく思います。
グレムリンに餌をあげるような時間が、
雪のように日常に細かく降ってくるといいな、と思います。

通りすがりの君へ。

2015年10月28日 13時01分01秒 | 考え事
混然一体となっている悩みの最中にこうしたアドバイスが適切なのかどうか
あまり定かではありませんが
伝わるかどうかを別にしても、僕自身の為にもなるかもしれないので
一応問題と向き合ってみます。

・努力を怠っている為に幸福感を感じられない
・心を満たすにはどうすればいいか

朝起きて居られるかどうかについては、
ちょっと問題の大きさが違うような気がしています。
人との約束が午前中にあれば早起きしますし
始発の電車で旅行に行きたい時は眠くても早起き出来ますが
遅番の仕事の翌日は昼近くまで寝ていても
(ありゃしまった今日を無駄に過ごしてしまった)
という程度にしか受け止めていません。

充実した一日を送ることと
真剣な今を生きる事は等しく等価な問題では無いからです。
もちろん、今の自分の形が変わることで
早寝早起き腹八分
という健康の原則をキッチリ守る自分にすることは可能です。

僕はもしかするとあなたと同じ問題を抱えたままで
それを乗り越えていないのかもしれませんが
努力を怠っている自分と
努力家の自分を両方知っています。
真剣に高い目標に向けて毎日努力していた時は
目標に到達した時、腹の奥底から胸の奥を通って自然に言葉が出るように
学校のクラス担任の教師に「ありがとうございます。」という言葉がこぼれたこともありました。
その時の達成感はとても充実した幸福感と近い感覚のものでしたが
一人の努力によって達成される達成感と
他者との繋がりによって得られる幸福感は
仮に脳で分泌される興奮物質が同じ組成のものであったとしても
私は別の問題として考えるべきではないかと思います。感じています。考えられます。

簡単に言えば憧れのハードルを自分で設定して越えるという事です。
少しズルい比喩を使いますが
自分で設定した目標のハードルは、理想や幻想は、色の着いた空間です。
どのような時系列を辿ろうとも時空を超えようが
長距離移動しようがどうだっていいのです。
やり方はなんだっていいのです。自分の決めたルールの中で
自分がそこの枠に到達してその理想的な瞬間を通り抜ければいいのです。

それに対して、他者との繋がりによって得られる感覚は
もっと真っ白な世界と向き合うことです。
もっとも弱い自分を覗き見ることでもあります。
色はありません。
真っ白な、と書いておきながら透明でも白でもありません。
自分では色がわからないし、測れないのです。
今までの自分が今まで見たこともない色を初めて見るという事でもあります。
この世界を、物理現実を、これまで全く異なる方法で生き残ってきた他者と
初めて出会うことです。
それは超越した外を見ながら、同時に自分の内側を開くように見ることでもあるので
単純に「向き合う」と表現する方が適切かもしれません。

僕が今求めている幸福感は、おそらく後者の方では無いかと思うので、
「達成感」と「幸福感」は分けて考えた方がいいのかなぁ、
と今は二つを提示しておきます。

絶望は、未来が真っ黒な状態です。
明日なんか来なければいいのに、
もう生きていてもしょうがない、
誰も信じられない、
そうした思い込みによって死ねるほど、
人間は生物として結構バカなくらいに脳が発達していますので
自分の作り出した思い込みに支配されないように
「未来は自分ではない」「未来は他者の方角にある」という変化の原則を悟ることが
肝要かもしれません。

心という表現も
此処路という書き方も僕は好きです。
今、此処に全方位の道がある。
それを選ぶことの出来る自分に気づきながら、まだ選んでいない自分
すべてを選ぶことが出来る贅沢さの中で
何もかもを得るほどには強欲でない自分を感じている
だからきっと一つを選ぼうとして
一つを選んだことで手に入らない、進むことの出来ない方向についても考える
可能性を選ぶことで可能性を捨てることに、
自分で自分の人生に責任を負えない

他人の言う事に惑わされすぎでしょう。
彼らはどれだけ真剣に生きたとしても、
あなたの代わりの人生を生きることは出来ない。
自分で考えて、自分で気付くしかない。

もっとも、僕らがセカイ全体の中の一部分、
個が全で全が個なら、
そうした様々なアドバイスさえも、
自分自身が考え出した誤認識の一過性に過ぎないのかもしれませんが。

僕は迷っているあなたを羨ましく思います。
あなたには自分で自分を決める選択肢があり、
可能性があります。

僕は今、自分で決めた事の中で
悪戦苦闘したり試行錯誤したりして
自分の欲求を探し出そうとしています。
正しさが、幼少期に環境からセットされた常識の罠、
単なる枷に過ぎないのなら、
僕はもっと心の奥にある本当の自分を思い出さなくてはならない。
ハードウェア的に重なって此処に存在している人間は居ない。
この位置で、この世界を観測出来る人間は僕だけなんだ。
新しい僕は僕が決める。
それでも、心は君の方に開いておくよ。

偽造通貨…?

2015年08月22日 09時22分09秒 | 考え事
世の中に流布されている
当たり前の通貨としての
正しい言葉遣いをするように
強要される事がある。

まるで私の言葉は
偽造通貨だと言わんばかりに。
はたして言葉とはそのような正しい生き物であっただろうか?
そもそものなりたちが、
そんな形だったか…?

元の形がわからないのに
今の形がわかるというのは
原因と結果
過去と現在
の繋がりが絶たれるということでもある

現在のみを肯定すること
今だけを見つめること
過去と未来を否定すること

それが僕の絶望の源泉なら、
僕の心は恐ろしく膠着した
カチカチに凍った永遠の中でさまよっている

だから僕は前提を疑おう。
何かを受けた時に
その圧力に逆らって
自分の位置を確かめるように。

ひとつ
またひとつと
世界を壊していけばいい。

凍りついた世界の中で
他者を罰するような時代は終わった。
新しさは変化を感じ取る
余裕の中から生まれる

懐かしい眠りの中に
僕は結び目と綻びを、探そう。
そして多分、僕は僕の言葉を見つける。

世代交代のミッシングリンク

2012年05月26日 22時33分41秒 | 考え事
心を亡くしてしまったことを思い出して、
フイに悲しくなる。

失くしてしまったのは心ではなくて時間だと冷静に自分で思ったりはするのだけど
間違った時間が進んでいく現実を一人の個人が止められるはずもないし、
僕が無くした拘りを取り戻せるわけでもない。
破壊された感受性や、失った鈍感さを、
青臭さを大人にぶつけたって取り戻せはしないことぐらい、
もうわかりすぎてしまっている。

唯一心が救われるな、と思うのは
僕が童貞のまま、誰とも交わらずに死んでいけることぐらいか。

そうは言っても、もうとっくに様々な毒を取り込みすぎているし、
たくさんの食事を咀嚼し過ぎた。

この先ぼくは、強制的に大人の世界にひきづられていって、
社会の歯車の一つになって、
若者に世の中にはびこっているメディアの常識みたいなウイルスやミームの類いを
知ったかぶりの先輩づらで説教するのかと思うと、
正直反吐が出そうになる。

メンタルが壊れていくような作品と出会えるのは面白い。
自分が壊れていくような衝撃を受ける文化と出会えるのは愉しい。
ただ、そうした愉悦は、ほんの一瞬で終わってしまうし、
滅多に出会えるものではない。

だから僕らは、ただ日々を生きることに必死になるのではなくて、
生活だけを、地に足のついた生活基盤だけを支えるのではなくて、
もっと芸術を愛さなくてはならない。

たとえ人を愛せなくとも、
誰か他人を愛することが出来なくとも、
涙が出るほど感動する嘘の世界を、
僕らは愛し続けなくちゃならない。

立ち止まって考え続け、悩み続けることでしか、
現実を突き動かす大人の暴力には 立ち向かえないのだから。

「そういえば、会社でお金の話ばかりするおじいさんの先輩に遺産相続と節税に関するアドバイスをもらった。ぶん殴ってやりたいけど、今は耐えることにする。」

おじいさんを感動させるほどの言葉を、僕の人生は紡ぎ出していない。
「死ね、次の世代の若者よ。」

それだけが、彼らに現実を見せることが出来る。


非 日常的な 何かについて

2012年04月14日 18時44分12秒 | 考え事
僕が非日常を大切に思えば思うほど
その願いが人を傷つけ、
周りの人が困ってしまったから
僕は自分が死神なのかと思った。

黒い参列者の中で
同じ世界の同じ物を見て
ありふれた日常にしたくなかったから
僕は死に名前をつけて神のように思い上がった。

それはプライドではなくて
「拘り」だったんだと思う
でもその拘りがあまりにも強すぎて
あまりにも堅すぎて
もはや志のようなものになってしまっていたから
生者は僕を心配そうに覗きこんで
僕は死に神になったんだと思う。

過去に何度かそこここで
死神を「死に神」と書いていた理由が
今、ようやく少しだけわかったような気がした。

一瞬の気のせいだったとしても。

僕の居る場所

2011年09月01日 11時29分41秒 | 考え事
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【さよなら。】

今度こそ、僕は確実に死ぬ。死ねる方法を見つけたから。
さっき試してみた。今も呼吸が苦しいけど、生きている苦しみよりはマシだ。
だから、これが僕の遺書になる。

彼女のいない、この世界に生きていたくない。
でも、彼女を助けられなかったのは僕自身だ。
僕に全ての責任がある。
だから、僕は死ぬ。彼女の元へ行く。彼女だけじゃない。トリエラやなーパパも待っている。寂しくなんかない。
むしろ、この世界で生きている苦しみよりはマシだ。

今まで、色々とありがとうございました。
僕のことなんか忘れて、皆さんは生きてください。
僕の最期のお願いです。
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上記の文章は、すべて引用です。
最初の【】はmixi日記のタイトルだったので
本文と区別するために墨付き括弧を私が付加しました。

今年の5月5日、友人(大学時代の先輩)は
この遺書を残して亡くなられました。
また、その際に
「自分が自殺したことを隠さないでほしい」
と、本人が手帳に書き残していた事がわかっています。

この文中における彼女とは奥さんのことであり、
奥さんが亡くなった事に関しては
理由の推論や死因などについて、
生前の先輩本人から直接電話で詳しい話を聞いていました。

電話口で淡々と奥さんの死について告げる彼の様子から
なんとなくおかしな心理状態を感じ取ってはいたものの、
「先輩は奥さんが亡くなったこと、平気なんですか?」
とは恐ろしくて聞けませんでした。

実際のところ、まったくもって彼は平気では無かったのですが、
そのことを考えると、
少し薄ら寒いような気持ちになります。

また、前日の5月4日には
下記のような文章を遺していました。

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【死にたいのに死ねない。】

何度もね、10回以上方法を変えて首を吊ろうとしたんだ。
けど、ダメだった。うまくいかなかった。

彼女を死なせたのは僕だ。
彼女がいない、何の価値もない、この世界に僕はいたくない。

どうしてかな、ただ死にたいだけなのに。
どうして死ねないのかな。

彼女と過ごした幸せだった日々。
それはもう戻ってこない。
僕があの日、彼女のことをきちんと見ていたら、こんなことにはならなかった。

もう生きていたくない。
生きているのが苦痛でたまらない。
誰がどんなに慰めたって、たぶん僕には癒しにも、解決にもならない。

ただ、死にたいだけなのに。
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つまるところ、僕にはもともと為す術はなかったのです。
でも、本当にそうでしょうか?
本当に僕には、どうしようもなかったのでしょうか?
世の中の孤独には、いくつかの種類があります。
人の数だけ異なる孤独があり、
100人居れば100種類の孤独があると言うことも出来ます。
哲学的暴論で無理に切り取れば、孤独にも一般的側面と
個人的側面があるはずです。
個人的側面は100種類の孤独ですが、
一般的な孤独には、たった二種類しかありません。

「自殺するほどの孤独」と「自殺はしない程度の孤独」です。

わかりづらいので、
この文章に、自意識の代名詞を埋め込む。

「自殺するほどの彼」と「自殺はしない程度の僕」
両者の違い、境界線はどこにあるのでしょうか?

先輩の未来が絶望で埋まっていた、という話なら
僕の未来も絶望で埋まっているという点ではさほど違いはありません。
親しい人が亡くなった、という話であれば
僕も親しい人が亡くなっています。

少し話が逸れますが、最近あちこちの墓参りに行きました。
親戚のおじさん、母方の祖父、父方の祖父、姉。
爺ちゃんと姉貴に関して言えば、同じ家に住んでいた家族です。
僕は爺ちゃんのお通夜の時、式の参加を拒みました。
しばらく家に篭もって一人で迷ったあげくに、私服で少しだけ参加しました。
死が個別のものであり、特別であるのなら、
定式化され、一般化された黒い喪服の人達の儀式に、
僕は巻き込まれたくないと考えたからです。
爺ちゃんの死体はそのときにしっかりと棺桶をのぞき込んで確認しました。
翌日、僕は葬式に参加しませんでした。
家族や親族はみんな参加しましたが、
僕だけは参加しませんでした。

あの、亡くなった日の朝、寝ていた僕に届いた
明け方頃のうなり声ともうめき声ともつかない、
いままで聞いたこともないような、声と音の中間音。
婆ちゃんのすすり泣く声、救急車の音、
家族の声、関わりを拒否する僕の声。
耳から離れない記憶。

同じようにまた、僕には先輩と話した最後の電話の声が
今でも残っていて、ふとした拍子に思い出して
その声が聞こえるのです。

一つ大きな違いを言うのであれば
僕は亡くなった人を愛しては居ませんでした。
故人の一人一人に対して、僕なりの特別な記憶はあります。
姉貴が植物状態だったときの、あの冷たいけれど
生暖かいような、というよりは、生ぬるい、医薬品の混じったような体臭と空気の匂い。

会うたびに「きばってしんさいよ?」と独特の方言で
僕たち子供を励ましていた爺ちゃんの声。

色々なものが僕の側で通り過ぎて
死者たちの声は、十分すぎるほどリアルに聞こえていても
やっぱり僕は、彼らとは違っていて、生きている。
生に縋り付いている。

なにが違うのでしょうか?
彼らと僕と、いったいどこに境界線があるのでしょうか?
死にたくも生きたくもない。
絶望したときには死にたい気持ちにもなるし、
嬉しいことがあれば生きていたいと思う。
ほんの少しの違いで、気持ちは浮いたり沈んだりする。

何が違うのでしょうか?
彼らと僕と。
あるいは 僕と、君たちと。
もしくは、僕と君。

心のどこかで他者を捜して
ゆっくりと未来に振り返るように
僕は、今の過去を見ている。

諦観と咀嚼についての考察。

2010年12月07日 07時05分23秒 | 考え事
俺が受け入れることの出来るものは
俺がよく噛んで、バラバラになったものだけ。
俺自身が破壊していないものは
俺に解読することは出来ない。

だからきっと、俺はいつまでも、世界破滅させたいという
願望を持っているのだろうか。

強く受け入れたいと思ったときにだけ
対象を破壊したいと思うものだから。

執着がなくなったとき
俺は、もう、何かを受け入れることはできない。
ただ、そこで受け取るだけ。

終わるために。

演幕のからくり人形の側で。

2010年11月08日 09時39分44秒 | 考え事
僕の作った庭の中で人形が飛んだり跳ねたり。
一つは僕と同じ色をした人形で、
僕が作ったかどうかは定かじゃないが
僕と同じ動力で動いて、僕と同じ水を飲む。
同じ部品で出来上がっているように見えるのに
姿も形も違う人形が
たくさんの風景の中に溶け込む。

見えない時が流れて見えない時間が経つ
どうしようもない堅さの中で
やわらかくそびえ立つお城のように
ガラスのような、もろくて固い影達が
失われた時を取り戻すように、演劇を奏でる。

二つの人形は、いつも対称的な位置に立つことで
二つの違う世界を表すけれど、
それは投影によって浮かび上がる光源が一つであるならば、
一つの同じ太陽に照らされる影であるならば、
けっきょくは、同じ痛みと、同じ強さの振動と
僕たちを取り巻く、巨大なねじまきの仕掛けによって
動いてゆく寂しいからくり人形。

お茶を運んで、お客を喜ばす仕掛けも、
同じ糸で動く演幕のかなしいあやつり人形も
決して外に出ることはなく、
ただ、外に憧れることで、私たちの中に棲んでいる。

もし、箱庭の中で乾いた砂が音を立てて風に流されていくのが
音楽の正体であるなら、
きっと音楽が終わるときには、
その小さな箱庭を壊すのは、僕の役目なんだ。

すべての人形の目が光って
僕を黙って見つめるとき
僕は、人形の美しさを。

決断力。

2010年10月22日 11時40分44秒 | 考え事



「人は生きているあいだに どれほど世界を変えることができるだろう?」
また、人は生きている間に、どれくらい、セカイを変えることが出来るんだろうか。

数多くの絶望を感じ、ほんの少しの希望を感じ、
知りたいことを知り、理解したいことだけを理解する。
嘘に目を奪われたり、真実を追い求めたり
暗い影だけを見つめたり、ありえないほど明るい自分に憧れたり。

ほんのすこしの、自分をわかってくれそうな友達としゃべり
ほんのすこしだけ、他人をわかったようなつもりになる。

そうやって、日々繰り返して
また、おなじ絶望を、こどもたちに伝えるだけが僕のリレーなら。
いまの僕に、生きる意味なんてないんじゃないか?

…。
……。。

…………。。。。

いつだってぼくは中間地点にいる

いつも、僕だけがセカイの中心に居たんだから。
いつも僕だけのセカイを大事にして
いつも僕だけが叫んでいたんなら

ぼくらは、いつも中間地点にいる

すこしだけ、絶望に心躍らせながら、
すこしだけ、希望をつかめるんじゃないかと、
絶望をなだめる歌をうたう。

きみとおなじ世界に執着して
ただ僕はぼくを繰り返す

なにも決められないまま
なにもできないまま。

僕たちは世界を変えることができない。
だからこそ、今だけは、今日を変えることができる大人になりたい。

大人になることを、こわがる君に。
大人になれないと、いいわけする僕に。

今日という日を
今という瞬間を
つたえることができるように

きょうはことばをtojiyou.

革命の在り処

2010年07月14日 16時07分34秒 | 考え事
堕落の中に居て 堕落を感じず
失望の中に居て 失望を感じることなく
希望の中に居て 希望を感じることはなく、
ただ一人孤独であり続ける。

だから人は革命を望むのかもしれない

人はたった一人だから、一人だけで、すべてを1から覆す、革命を望むのかもしれない。

迷子の果てに

2010年06月28日 22時38分43秒 | 考え事



急に不安になることがある。
少し視野を狭めて考え事に集中していると、ふと、
自分がどこに居るのかわからなくなることがある。

人生迷路の迷子というような比喩の類の話ではなく、
実際に、自分が今、自宅の部屋に居るのか、
街に居るのか、学校に居るのか、外に居るのか中に居るのか、
北がどっちなのかわからなくなったり、
今、自分が部屋のどっち向きに座っているのかわからなくなったりすることがある。

たいして恋をしているわけでもないのに、
急に失恋するのが怖くなったり、
誰かに話しかけるのが怖くなったり、
嫌われるのが怖くなったり
謎の不安に襲われることが増え
 そんなときは
  たいがい
背筋や首筋のあたりがウゾゾっと寒くなってくる

決まっていることが一つある。
「働きたくない」ということだ。
これは、以前のようなNEET時代の発想とは少し違っていて
どちらかというと、働いたことの後悔からくるものだ。

まだ働いたことが無くて、働くことが恐ろしいというのは、
まだ女性を真剣に好きになったことがない頃の失恋恐怖状態に似ている。

実際には、僕にとって失恋はとても清々しい感情でいっぱいの、
そしてまた、葛藤と残酷な感動の連続だったのだけれど、
その話は今回ここでは省く。

今、自分の中にある不安は、
子供心に、夢いっぱいの希望を持っていて、
自分がいつかきっと凄い立派な人間になって、
社会や世の中で大活躍できるという、
半ばヒーローになりたいという幼い願望や、
勧善懲悪を信じていたら、この世界は善悪で計れないことに気付いてしまった喪失感や、
お金持ちになりたいと真剣に思っていたのに、
お金よりも大切なものを見つけてしまって自分が気が狂う感じにも似ている。

結局のところ、
怖いのは自分の形が変わることなのだ。
自分の殻を捨てたり、
ポリシーを捨て去って、
全く違う物差しで世界を測り直すことが怖いのだ。

いつも僕は迷子だ。
そして僕はこの迷子状態を心底気に入っていて、
もう自分探しが楽しくて楽しくてしょうがないくらいに、
ずっと馬鹿な子供のままで居たいのだ。

(『あるいは、子供のままで居たかったのだ』)。

ほどなく、終わりが来て、
強制的に大人になるか、
あるいは自決するかを選ぶ時が来る。

そのときに、
子供らしい生に無頓着な我が侭自分勝手の自尊心{プライド}と、
なんら絶望も希望もなく、生に執着する延命措置のような{本能的理性}と、
僕は、どちらを大切にするだろうか。

判決の日が来るのが、とても恐ろしい。
自分に自信がない

今の僕は、いつも不安だ。
でも、偽物のSOSしか、
僕は発信していない。