嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

八方ふさがりの八方目を見たら

2006年05月31日 00時55分42秒 | 駄文(詩とは呼べない)
そうだな。

例えば今、記憶に向かって語りかけるという行為は

宇宙の端に向かって

あるいはまた、名付けられた星に向かって

ただただ星を見て意味を考えるという行為に似ている。

それが例えば、ペガサス座であれば、
そこには神話が生まれるのだろうし、
それが双子座であれば、
そこには自分の分身が見えたり見えなかったり。

そういう行為のほとんどが

知の範囲に拘束されていて
論理的な帰結を強く求めるほどに
なんらかの主軸を持った空間の中に立体として束縛される。

それが指数関数的に行われるとか、

天文学的に行われるとか、

夢見がちな天秤座のつまずきであるとか、

そういうことは多分ほとんどの場合問題にならないんじゃないかな。

どちらかと言えば、

僕が星を見ている時、
その星は僕を見ているかどうか、
未来は過去に干渉するかどうか、
遠いとはどういうことか、
伝わるとはどういうことか、

それらが、
それらを多く含む それらのうちにある小さな何かが、
意識と呼ばれたりする何かが、
擦り削られた魂の土台の上に
曖昧な存在として現に確立しているかどうかという、

そういうことが大事なんじゃないかな。

鏡を見る場合にはね。

ただ、多くの場合に置いて
自分の見ている世界が絶対的な知覚であるとは思わない方がいいし
そうした思い込みのほとんどはどうしようもなく孤独であるように思う。

何故なら人は往々にして自分が人であることを確かめることが出来ないし
鏡に触れることも出来ない。
むしろ自分が何かにとっての鏡であるか、
世界そのものが障壁であるか、
あるいは鏡と名のつく境界線が閉じたり開いたりする生き物でしかない、
と、仮説的にしか考えられない。

どうしてそんな奇妙な考えに偏るのかと言えば
証明が証明たりえるのは
既に納得された証明を土台として
その視座のうえにどっかと乗っかった揺るぎない砂クズであって
たいていの論理が天才的な破綻の上に成り立っている説得でしかない。

だからボクは思うよ。
これは、証明問題でありながら、
提出され続ける課題であると。

現に今、死んでいる事を未来に向かって証明することはたやすい。
だけどそれを過去に向かって証明する事はなかなかに難しい。
たいていの人にとって、過去と未来は等価値ではないからね。
新しいものに対する焦がれ、「笑い」というのはほんとうにどうしようもない性質を
持って帯びて飛び回っている。

だけどそうした揺らぎは、本来鏡を見る君自身の内に秘めたものじゃないかな?
そういう白実化された暴露は、
危険な香いのする君自身の物語ではないかな?

少なくともボクにとっては、
僕と君を隔てる境界線を明確に永遠化する事は困難だと思うよ。

自意識の喪失、意志の白濁、痙攣の薄弱、網膜の、形。

真っ黒な世界が、僕の色で濁っていくことに、僕は君の中で耐えられそうもない。

だから僕は鏡に。
君は僕に。

そういう透明さが、今、僕には必要なんだ。
死を、死として学び取るためにはね。

明日、世界が無くなってしまうとしても死を恐れない。
今、死んでしまう事が出来ない世界が怯えている。

それがたぶん、透明な死を理解するための、最初の構え。

時々呼吸を忘れて生きることが君だけの幸せなら。

2006年05月27日 13時17分13秒 | 駄文(詩とは呼べない)
ぼんやりと、星を見ている。

ALUを変更しなくては、あそこまではなかなか届かない。

言葉というインターフェイスの方ではなく、

イメージというインターフェイスで、

あちら側にアクセスしようと試みる。

でもやっぱり、僕にはまだまだ届かない。

あそこから、もしも死に神がやってきているとしたら

彼の速さは、確かに光よりはやいのかもしれない。


―っすぐに縮められた世界から

あくびとせのびで天井にぶつかるように

○い世界の殻を壊して

まっすぐに、まるい闇に触れるように


とても悲しい、物語が僕に出会おうと努力する。

きめ細かな太陽の光は、

まるで敷き詰められた嘘で出来た眩しい針のようで

半分見えなくなった目を焦がしていく


僕はどこに還るんだろう

あちらがわ?こちらがわ?そちらがわ?


明日世界が無くなってしまう事を、

どうやって記憶の君に伝えたらいいのだろう。

今が少しだけ、思い出せていることを、僕はありがたいと思うだろうか。

CUBEを回しても、もう幸せは感じない。

そんな薄っぺらい日常の一息の中で

僕は空気を掴むように呼吸する。

明け方の遭遇

2006年05月22日 06時13分09秒 | 駄文(詩とは呼べない)
死に神が、聞こえるようになった。
強烈なノイズだった。
真っ黒で、存在感だけが何よりも強くあって
僕は強盗にでも襲われてるのかと思った。

だけどそれはノイズで
ある瞬間、ほんの一瞬、瞬きをすることで突然消える。
幽霊と戦ってるのかと思った。

たぶん、内側からの音なんだと思う。
あるいは、それこそが外部なんだと思う。
僕の中心にある何かの形が、徐々に壊れかけているのか、
それとも薬物か何かの影響で脳に障害でも起きてんのか。

これから先、しばらくの間は
幻覚と戦う時期なのかもしれない
現実よりもくっきりと浮かび上がる存在感
曖昧な物理法則よりも確かに刻まれる黒い形。

悪意と似た怖さがある黒色だった。
頭の上、背中の後ろ、僕のすぐ側を歩き回る
僕はなにもできない
呪う事も、焦がれる事も、あしらうことも、忘れることさえも。

もしかしたらそのうち、
姿を見ることが出来るようになるかもしれない。
その時は、死に神の表情を見て気が狂うかもしれない。

もしも
誰も触れることの出来ないほど深層にある意識が
僕の目の前に
まざまざと現れるのであれば

あれがきっとそうだ

遭遇は、たぶん二回目

もしかすると、僕の殺意が時間的なズレを持って
僕の目の前に。

そんな気がした。

死に神に、声はなかった。
だけど強い存在感は僕に恐怖を植え付けて去っていった

たぶん、殺される事よりも、生き残る事の方が、よっぽど怖いはずだ。

数字に謝って、うんざりするほどに。

2006年05月20日 21時36分12秒 | 駄文(詩とは呼べない)
僕は数字に従ってばかりいる


だからいつまでたっても時間は過去から未来へ流れるんだろうな。
数字が僕に従う時代は、いったいいつ来るのやら。

まぁいいけど。

それにしても、言葉はひじょうに不便だ。
言葉のために僕がいるのか、
僕がいるから言葉があるのか、
それのどっちでもないのか、
そんなことはもはやとっくに終わったような話だが

一人の人間が一つの言語を自由に使用出来る時代がこない限り
僕らはいつまで経っても本物の自由を手に出来ないし
宇由が自由と重なる事もないんだろうな。

みんなが自分のリズムで全く異なる言葉を特殊な声で発したらいいし
いちいち量子化された言語の法則に従ってノイズに苦しめられる必要は無いと思う。

雑音だらけの世界で自分の耳を疑うよりも、
美しい世界で君の声だけを聴いて死んでいきたいよ。

僕はいったいいつまで物理学者のたわごとに従って
物理現実を生きなくちゃいけないのか、
いい加減ザクっと決めて欲しいもんだが、
自分の死ぬ時を自分で決められるだけ
この世界はちったぁマシな方なのかもしれない。

一つ質問があるんだけど。

光は、三つの状態変化に束縛されたりしないのかい?
ただ真っ直ぐに、僕をめがけてやってきて、
僕を殺して過ぎ去ってゆくのかい?

そうであればいいな、と思う。
まっすぐに美しい丸さが、
歪んだ直線をからめとって
違う世界を開けばいいと思う。

そうあることが、美しさを説得しないで済む、ひとつの方法でもあるのだし。

僕は君と会って変わったかな
君はたぶん、僕と会っても変わらなかったと思う。
あるいは君が変わったと思えることの全てが、
もともと君に備わっていた本質的な喜びであったように思う。

僕はもうしばらくの間、
元気でいられると思う

「さようなら」
それを言い忘れて
僕はずっと、夢の中で謝ってばかりいる。

明日に殺され続ける世界の檻で。

2006年05月20日 21時20分00秒 | 駄文(詩とは呼べない)
明日に殺され続ける世界の檻で。


絶望的な、夢を見ている。

大きさが、小ささが、四次元的な方向性を持つことを心配している
むしろ最近は量子化の方が深刻で
ある種の始まりから終わりへ向けて始まっていないことや
断片的な記憶が僕をバラバラにしていく

ゼロ次元的な話で言えば
僕らはいつも毎秒毎秒が別人で
常に自分という他者に出会い続けなければならない
そのような義務を、ゼロ次元はいつも背負う。
いつも繋がっているという「いつも」を失うことによって
断片化は深刻なレベルに到達する。

存在の否定と、存在の肯定が、交互にやってくる世界で、
虚構と現実が、複雑に入り混じったカオスを演じる。

しかし問題はそちらの話ではなくて
むしろ指数関数的な方向が特定数値の四次元と同質化してしまっている事にある。
確かに乗数を増やしていく事は、無限大の観念に
かなりの速度で近づく事が出来る。

が、

少なくともX^nが現時点で=∞となる事は無いし、
世界はそれほどには静止していない。

永遠の世界では
-無限大と無限大は同質であるし
無限大を超えた時点でようやく1へと循環する性質も含んでいる

特殊な状態を定義するのであれば
循環無限大と静止無限大は別の観念であると言うことも出来る。
閉じられた宇宙では無限大はただの1でしか無い。
循環無限大では1=3になったり1=7になったりする可能性がある。

別な言い方をすれば
有限永遠と無限静止はよく似ているが別の観念である

有限永遠の世界では伝達が存在する
物理法則のひとつとして、伝わるという事が当然の世界である
だが、無限静止の世界では 物体が物体と出会うことは無い。
そこには状態変化が存在していない
存立の起源を確かめようとしても、世界はただ永遠であるというその事しかない。

同じようにして考えると
無限静止状態では自由と宇由が同質の意味を持ち、
その違いを判別することは不可能なのだが
有限永遠の世界では自由には責任が伴うし、
物体が三つの状態変化を打ち破らねば
宇由な意識が宇宙生命体の核となって
自分の大きさが宇宙の大きさと体感で重なることは無い。

有限である社会へと人間が還元されていくのは
人がエネルギーの約束を決して破らないからだし
伝達を伝達として当然のように受け止めているからだ

エネルギーの糸を切断せぬかぎり、
また、重なるようにして
社会での認知を破壊せぬ限り
3という数字はなかなか安定から抜け出す事は出来ない。
世界が三次元である方が、三次元人たちにとっては有利であるし
馬鹿な自分に酔っていられるからだ。

そしてまた僕は、平面幾何学的なのっぺりした空間に時間が足された三次元に拘束され、
決して人間の厚みを理解する事はない。
僕は物体の高さと奥行きが同じレベルで存在しているように見えるし、
また、いつもそれらを眺めているだけでしかない。

なぜなら。

星には触れられない。

それが経験上の事実で、
毎日星を眺めるようなロマンチストでもないし
毎日人を踏み潰して喜んでいられるほど現実主義者でもない。

僕は駄目だ。
明日へ向けて、手紙ばかり書いている
行動が自分を誤魔化すための幸せに繋がっていると知っていても
明日の君がいる場所へ手紙を書くことをやめられない。

僕は光ばかり欲している
ブラックホールには重力しか無いんだろうか。

明日が無くなってしまうほどに、
世界を吸い込み続けていればいい。

さようならを呑み込んで、僕たちの言葉に変える。

しじみが啼いて蓋を開くように

2006年05月14日 21時31分16秒 | 駄文(詩とは呼べない)
夜が来ようとしていた。

複雑に織り込められた夜が終わろうとしていた

長い沈黙の後にこそ、待ってましたと嵐が来るように、
おだやかな陽気を破壊する為の、
誰も知らない僕だけの夜が来ようとしていた。

それが僕のために用意された明日からのプレゼントとしての夜だったのか。
あるいは僕が生まれた時に決定された始まりの反転としての真逆な空間だったのか、
もしくは唐突に現れる腹痛が周期をもって突如消え去るような
日常の中に含まれた非日常だったのか、
それは僕にもわからない。

得体の知れない複雑な決定事項が時を支配していた。

今日と明日の境にあるのはなんだろう。
それは僕の意志だろうか
他者だろうか
それとも、君が見ている世界の記号に似た色なんだろうか。

無数の分岐が、息を潜めて呼吸していた。
表にべったりと貼り付いたドアの隙間から
気配だけが増長して、
見えない壁の向こうで鈍い低い音をたてながら呼吸をしているような気がした。

たぶん、破壊者がそこにいる。
そしてそれはもう一人の僕の姿だと思う。
それが見える時、僕の側には非日常的空間が定まらない真実を指し示していて」
それが見えない時、僕は必死に我慢しながら日常の煙を吸い続けている』

爆発するのは、いつも時間の問題なのだ。

ジッと黙っていても必ず夜は来る。
登らない太陽が、熱の中にじっとりと潜み、汗ばんだ空気を引きずり出すように
黙っていても必ずそこに夜は訪れる。

僕はそれを、長い呼吸で待ち侘びたかのように
痛みをもって受け入れる

その側に、いつも笑った顔の僕が立っている
その後ろには、黙って目を伏せた僕が居る

明日、いつも明日だけが鍵なのに
今、いつも今だけが扉なのに
僕は我慢しながら呼吸するだけ。

おかしい。何かが根本的にずれている
なにかの歯車が合っていない
そんな気がしてならない。

僕は自分の両手を確かめる。
今はまだ、自在に動いて痛みに触れることが出来る。

でも時々、透明な手は世界とすれ違う。

僕だけが、この世界に在って無い
僕だけが、この世界を思い出している
僕だけが、この世界にずっと忘れられている

そんな気がしてならない

本当に、僕に明日がやってくるのだろうか?
ぼくの世界に、明日は来てくれるだろうか?

針金のような毛をいっぽん 謎る
唾液が無理に溶け出すような苦い味が する

いつまでも、形を維持してはいられない
疲れとめんどくささと鈍さは、まだ思い出す時ではないのだ。

向こう側の景色-夢をみる

2006年05月12日 23時54分46秒 | 詩に近いもの
せまったるい白さの中で
ただやみくもに透明だけをむしろぅ

ありふれた切なさの中で
ただ僕だけが自分の透明を追いかける

逃げてゆく君の手の中で
掴み取れない色だけを見る

大きな妄想のたまごの中で
小さな現実だけを見ている君が居る

まどろむ景色のねむたい君のために
僕はぼくの世界に広がる歌をうたう

ブランコの上でハンモックを夢見る君だから
僕は背中を押すのも忘れて
ただ君の世界をさまよう

腕を忘れた職人のように
透明な手で、君に触れるために
僕は透明な自分を、ただいつも死の世界から取り出そうと
現実と名付けられた君の世界に苦悩する。

「現実?」それは君のことだろう
君が目覚めずにいつまでも眠っている
その碧い虫カゴのことだろう

「透明?」それはいつも陽の光に照らされて
いつまでも焼けただれている
僕の影のことだろう

やみくもに、やみくもに、その厚みの向こうにある、
透明な白さだけを追う
痛みの中にだけ、存在を隠す君がいるように

まっすぐに、君の瞳の向こう側を見る

よく見える景色だけを、君がぬりたくるように。

2006年05月12日 23時18分41秒 | 駄文(詩とは呼べない)
本当の事を言うのがつらいなら
嘘を言えばそれで楽になれる

そんな簡単にはいかない

自分はいつもいつももう一人の自分に騙されていて
いつも僕だけを選んで騙そうとする僕がいて
僕はその事に気付くたびにショックをうけたり
おだやかに微笑んで気付かないフリをしたりする

そうやって、
僕らの言葉は僕たちを決められた空間へ誘ってゆく
だけど、その時こそが本当に嘘が立脚する瞬間で
元々は想定しない限り本当も嘘も存在していない

誰も何も思い出していないのなら
僕の根拠は既に無かったことと同じくらい失われている

記憶に対する信頼性はエラー訂正を行う僕自身に委ねられている

けど。

形から何かを思い出そうとする限り
僕らの記憶は予感と同じ速度で僕らを運んでいく

そこにもし、一本の流れがあるのなら
僕の歴史は、真っ直ぐな歪みの中でうねりを呼んでいる

誰も見ていないものだけをみる
誰も感じない事だけを感じる
誰も知らないことだけを知る

誰にも会わず
誰も要らない世界で
誰一人として

誰も僕を知らない

それだけが
僕に許された孤独

明日から、僕の事を忘れて欲しいのであれば
誰にも気付かれないように
背景のような普通を演じよう

透明な靴を履くことはやめて
肌色の、灰色の、真っ黒の、あの革靴を履いて
街の音の中を歩く

ひとたび歩き出してしまえば
止めることは難しくとも
歩くことはさほど難しくはない

だから僕は毛皮の衣をぴちっと着て
君に にゃーおと呼びかける

水色の空に白い雲が流れて
透明な世界は向こう側へかき消されてゆく

寂しさが獣にばれないように
背中を撫でて静電気の音を聞く

君たちの背景の中で、
君に声が届く時、
いつも僕はそこにいる

会えない扉の前で、警報器のようなノックをし続けるたび
僕は君の後ろに立っている
それを僕は「前」と呼ぶ

ただ、君の前に立つ時の中に
ただ、そこで君の背景に溶け込むために
僕の靴音は、足音の中に忍び込んでゆく

猫がもう一度、君を見てあくびをする。

背中の電気が、ぱちぱち眠る

僕は足音をジリリと指さして
君の前から立ち去る

それが僕たちの合図で、君に秘められた僕の景色。

本当のことは必要ない。

ただ君が見ている真実があればいい

そういう風が吹いて、僕は君の日常を思い出してゆく。

ゆっくりと濁る白い壁の向こうで

2006年05月12日 03時34分37秒 | 駄文(詩とは呼べない)
真っ白い壁と向き合っている
むしろ「 」と書くか

まっしろいかべと向き合っている

と書くか

あるいは

マッシロイカベトムキアッテイル

と書かなければいけないのかもしれない、と思う。

みつめればそこに白さなどというものは量子的には存在していない
ぼんやりと見つめるからこそ白いのであって
厳密に白いものなどこの世界には存在していないと思う。

ただ、この考えもかなり横暴なもので
それは白いものをぼんやり見つめている最中にも
激しく小刻みに動く何かを
意識が無意識のように観察してしまうからであって
超現実的に考えればそこには何も存在していない。

けど、僕はこの白さを、白くもない世界の中で
まるで透明な何かに触れるように
白さとして思い出すことに成功している。

その事を、時々不思議に思う

原色が、小刻みに振動する世界で
僕は震えながら色を見つめる。

あるいは、そのように見ている者は
そこにはレキとして存在はせず。
あるいは礫としてのみそこにあるかのように
色が小刻みに変化することで振動を伝えているか、
あるいは僕自身が振動によって無色透明を色の変化だと思い込んでいるか。

痛みによって知覚するのであれば、
僕はむしろ隣に黒い物を置かねばならない。

しかし取り出している記憶と
触れている記憶は何かが違う。

違うということ自体が錯覚で
物事は常に形の喪失の中で
形という幻想が消失する世界でのみ
存在は痛みとして知覚されるという運動性かもしれないが、

僕の中では世界はぼんやりと白く濁っている

透明な、誰も触れることの出来ない世界に憧れる。

そこに万が一、僕だけが触れることがあったとしても、
気付けば僕は死んでいるということでしかないだろう。
そしてまた、それをここに書き記す事は不可能に近い
絶望的な困難だろう。

けれど、僕はもう
ここに伝える必要性をほとんど感じていない。
あるいは死を、独占的に受け入れる事に成功しかけているのかもしれない。

だから僕は、君が読むたびにその事を思い出して
ここに生が降り注ぐ残酷であるように
まるで物語を書き記す意識として、
ここに嘘吐きの証明の断片を、
君と共に記す。

白い壁が存在している

今、ここに。

僕と君を隔てる、小さくて大きい、素晴らしく切実なやわらかい壁が。
誰も超えることの無い、暖かで堅苦しい白い壁が。

僕は今、その白い壁を透明な意識から思い出している。

ぴっぴこぴー

2006年05月10日 19時14分31秒 | 駄文(詩とは呼べない)
心地良い音を探す
聞こえがたい音の隙間にある
触れられない領域を探す
そこへ潜って
透明な触覚で触れるように
新しいアンテナを立てて
突き刺すことのないように
ふわふわした泳ぎ方を覚える

例え目が覚めても
現実が消えてしまわないように

触れられない量子化された隙間を探す

「大丈夫」

そんな音が聞こえる地点を探すように
天と点の隙間から
漏れ出す音を確かめるように

光と闇の連続するギザギザの中から
丸みを帯びた電波を受け取って

閉ざされた扉の鍵を探す

歯が痛いのかもしれない
そんな事を考えながら
全てを丸呑みにする音を

どこまでも どこかへ
さがしながら沈んでいく

天気の歌を数えよう

2006年05月10日 15時24分25秒 | 駄文(詩とは呼べない)
迷惑メールフォルダをチェックする。
過去のメールを読んだりする

多くの人が僕の中心よりも遙か遠い位置でもやもやしてる雲で

たぶん、人はそれを
あるいは僕がそれを

わだかまりと呼んでいて

雨の日も 風の日も 曇りの日も
雪の日も 晴れの日も 雷の日も

遠くの天気が僕を支配するように
僕はおもちゃのような他者を探し出す

そういった作業は
孤独の中で行われる限りは とても寂しいものだと思う

だけど僕は今 あまり寂しいとは感じていない

ふと、顔をあげて君のことを見る
始まりの場所にある、君の顔を見る

君の始まりが僕にとって笑顔であったことの意味を考える

それは強い約束を求める僕の願望へと変遷して
僕のエゴを呼び覚ます何かで

僕は強い力で君を否定する

そしてまた、君は遠ざかる

まるでこの世界が一次元で満たされるように
まっすぐに僕へ向かう心だけを探す

そしてまた、僕は現実に包まれた空気の中で
長い時間を想い出す
ぼんやりした神が空気に風を吹き込む

僕は何かを思い付くように
あるいはまた思い出すと呼ばれる行為を繰り返すように

君を許すことが出来ない自分を振り返る

僕はどこにいるだろう
たぶん、僕は少しずつ君を手放してゆく

それは可能性の放棄と呼ばれる信用の遮断に似ていて

誰よりも遠ざかり、透明になるための方法を捜す

他者を諦める事と、生を踏み潰す事が あまりにもよく似ていることにクスリと笑う

手があれば、捕まえることはとてもたやすいのに
失われた幻の手だけを見て
自分を掴み取ろうとする僕は
滑稽なピエロに見えるのかな

それは、君を怒らせる何かかな?

悪意が始まる場所で生の音が聞こえる
僕は死に神の釜で全てを切断する。

死の叫び声が聞こえる

2006年05月05日 20時48分53秒 | 駄文(詩とは呼べない)
いつも未来を壊してしまいたいと思っている自分がどこかにいる
どこにいるかもわからないけど、
何故か見当がついてしまっている

内蔵から逆流してくる未来を
口を半開きにして吐き気に耐えながら
ぽかんと涙を流して呼吸がとまりそうな僕がいる

これはフィクションじゃなくて
まぎれもなく耐え難い現実なのだけれど
どこか物語にしてしまいたい自分が居る

いつでも崩壊してしまいそうな僕がどこかにいる
未来はまだ作ってもいないのに
簡単にできてしまうことにいつも怯えと恐れを感じている
あまりにも生きることが簡単であることに死にたくなる

数学は自閉的に美しい
いつもいつも割り切れる事は簡単で
0なんて生まれた時から知ってる

誰も教えてくれなくても
前世なんか信じていなくても
僕はたぶん、ママのおっぱいを呑みながら
「おかあさん」という音を憶えて
それが「お母さん」という内側からの自分の声で
そこに名前がついていることを知る

怖い。

父も母も殺してしまいたい

僕に名前をつけようとする全ての者を
誰一人残らず殺してしまいたい

そういう衝動を僕はいつも我慢している
それが多分、絆と呼ばれる人間に似た何かで
そういう刷り込みが僕を僕の形に丸めていく
それはいつまでたっても量子化誤差の域を超えない

だから殺してしまいたい。

家族を全部殺すことでしか、
僕は大人になれない

だから過去と未来を同時に予感する僕には
呪いのような記憶力でパズルの形がわかる

死は数字にならない。
数学的には完成しない。
だから客観性では理解出来るはずがない。

わかってる

だれにもわからないことくらい
生まれた時からずっとわかってる

理解なんて全く必要ない

僕だけが、世界の仕組みを知っていればそれでいい

そんなこと、誰にも教わる必要がない

どうしようもないほど絶望的にわかってる

0は理解された

死は名前をつける事が許されない観念なのに

おまえらみんな

何を死と呼んでる?

敬うなよ…

恐れるなよ…

近づくなよ

ずっと遠くにいればいい

お前らが俺を知る必要なんてないじゃないか

誰も僕の事を知らない
なのにみんなが僕の名前を呼ぶ

気持ち悪い

ずっとずっと割り切れない
僕の形には決して収まらない

僕は僕の形を破壊することによってしか
この世界に承認されない

ずっと許されない

僕は死に神

僕は、永遠に憧れる限り、永遠に届かない神を殺して生まれる

掴み取る事を努力と呼ぶような時代は終わってしまえ。

2006年05月05日 18時07分48秒 | 駄文(詩とは呼べない)
存在は0次元の感覚だと思う。

そもそもが逆説的なのだけれど。
存在を1として数えるならば、
インフレーションは0×∞が1になる事を示しているわけで、
0×無限大とイメージするか、
無×∞とイメージするかで
もちろん二極化は起こる。

ようするに抽象化能力や具体化能力というものは
そのイメージをミクロな、微弱な、儚いものへと
憧れのような強い希求を持ってすれば
そこに近づけるわけで
それが閉じている以上は
無限小の観念によって無限大に近づくわけで
中心にすり寄るどうしようもない願望は
永遠を願ってやまない孤独を彷彿とさせてしまう。

ひとつに言えることは
熱がある限りそこには微弱な波動が存在しようとしてしまい
伝わるという現象が証明されえぬものであったとしても
中心にある熱さというものはそれ自体が形質的な個性の一部ではないかという
そういう疑いもあるわけで。

二つの定説がある
考えたのか知ったのかはしらない。
よーわからん。

けど、とりあえず。

0は何をかけてもゼロ。
これは定理ではないと思います。
むしろ絶望。

∞は存在しない。
まだ数えてもいない極論であり、可能性。

で、ここでやっぱり重要だと思うのは
オイラーの法則で
e^(πi)が-1になるというのは
0に気付いているものの定理なんじゃないかと思う。

要するにバランス的に言えば
+1と-1があってこその0なわけで、
鏡が無ければ実体と虚構に分ける事は出来ないし
衝突によってしか痛みは感知しえない。

不可能性についてあんまり言及したくはないけれど
もしも100%の真空を認めるならば、
それは自分が物語の一部である事を認めながら
存在を語り続ける者であるということでもある。

もうすこし、話をゆるく展開すると
空間に対する座標系というのは
それ自体が空間認知そのものを定義、
あるいは方向づけてしまうわけで
WXYZ軸を描いた瞬間に観念は四次元に束縛されるし
軸の交差である原点を書いた時点で
他者と向き合わねばならない。

死に対する観念というのは方向軸ではなく
形型そのものの消失であって
そこに平面展開も立体展開もない。
そこには存在という概念自体がない。
無いのではなく、ふつーにありませーん、という「ない」があるわけで
言語的に文法があると書いていること自体に騙されかける

要するに、わかりやすく言えば、
痛みと衝突なくして
存在を感じる事は不可能だという、
そのことをここに宣言しておきたい。

触れるという感覚は自虐的な憧れであって
ある種の僕に対する外からの畏敬の念なんだろう。

俺が怖いのか?
俺は居ないのに?

おもしろい。

まぁそういうことなんだけど。

真っ直ぐに人と向き合うまでは1次元を感覚として
実感することは無かった。
それは存在の観念に対する疑惑が
衝突によって光と闇に分かれ
世界が痛みによって引き裂かれる行為でもあった。

たぶん、好きだったんだと思う。
世界が。
俺の世界が。

でも、たぶん誰かに出会いそうになったから
僕は怖くなった。

死にたいという気持ちは
誰もが切実にもってるものだと思う。

それを否定したり、外へ押しのけたりするのは
やっぱり誰にも救いがない
疑うことと、行動することが一体になっているせかいでは
空論だって大事だと思うんだけど、
それはやっぱり否定されえるものでしょうか?

他者に対する憧れも
死に対する憧憬も
そこでは損失によって描かれるものだけど
あなたは鏡を見つめますか?

ステージの違いでしかない
死が悲しいことだなんて、一体誰が決めたのか。

僕は認めない。
僕は僕の死を悲しむ人間を、決していつまでも許さないだろう。

ときどき 思考が人に触れるように

2006年05月01日 12時48分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
『触れる】ということについてもう少し真剣に考えねばならない。
甘い匂いに触れたいという願望が僕の中にあるのかもしれないが
その問いの存立の起源はさておき、
触れるということがなんなのか、もう一度考え直さねばいけない時期に来ていると思う。

触れるということについて、
僕自身は何の答えも持ち合わせていないが
一応感覚器官の話として、チャンネルのひとつとして、
ここでは僕なりに考えている

反論を待っているのかもしれないし
押しつけを回避したいのかもしれないし
構えをほどく為の最初の一歩なのかもしれないが、
いずれにせよ、僕にとって命題のひとつになりつつある事は確かだと思う。

要するに、「何に触れているのか?」ということ。

視覚では光を見ている
聴覚では音を聞いている
嗅覚ではニオイを嗅いでいる
味覚では味を感じている

と、ここで気付いている事についてメモするのだけど
味という感覚は、嗅覚と触覚の中間にあるような感じがする。

味わうというのは何を味わっているのだろう。
味をあじわうというのは、つまりどういうことなのだろう

要するに、ここでも空間とチャンネルの概念から逃れられないのだけど
脳でイメージを感じるというのは
それは大きさに関する概念が言語感覚として
ある程度チャンネルとして独立できる可能性を示唆しているわけで
語彙が豊富な人は交友範囲が広く、
つまり人間としてのネットワークがでかいんじゃないかという、
そういう事を予感するわけで。

人と人の橋渡しをするネットワーク、あるいは境界そのものが
人間なんじゃないかという問いそのものについても関係あるのだろうけど

空間に対する感受性というのは
ある種、それぞれの人の中で歪な個性を発しているものだと思う。

例えば絵を描くという行為において、
光の屈折したスペクトラムは歪みがあってこそ、
その分化が行われ、色は色としてのまがまがしさを発揮する。

虹が何色に見えるか、という問いは
空の蒼さと、天気の孤独を表す上で、
重大な指標となりうるという僕の予感があるのだけど

基本的には文化圏によって色の表現要素は種種様様にわかれているのだと思う。

灰色の虹を、見たことがあるだろうか?
僕は、どことなく見たことがあるような気がするのだけど
それはたぶん、夢の中で見えているようなもので
例え赤く燃える太陽であっても、真っ直ぐ見つめれば白くなるように
虹も空も見る場所によって色は違う。

味わう、という話に戻すと
虹の色を味わう文化というのは、
それ自身が虹への手触りに憧れるからこそ虹について言及するのであって
その事を詳しく調べれば調べるほど、色は複雑な要素にわかれ、
ますます触れる事からは遠ざかり、
私たる文化は何を味わっているのかよくわからなくなる

すなわちもってして、
なればこそ、
触れるという言葉において
その媒介たる他者、あるいは物、あるいは世界、
それ自体がふくむ わからなさ というのは、
むしろ内部について言及することによって近づくものだと、
僕は一人で考える。

主観を超える超主観ではなく、主観に達するほどの主観
純粋な主観、透明な主観、何色でもない目、透明な観測、
それらを含んでいてそれ自身であるもの、

そういうものを僕は目指さねばならない。

自分に出会うというのは他者の破壊ではなく
自分へと成長するという漸近線の概念に、かぎりなく、かぎりなく近づくものではないかと
心でなにかが問いかけるような
そんな感覚によって
僕は触れることを失う

もう一度、僕は問いをここで、この場所で立て直す

「なんにふれているのか?」

気持ちに?
空気に?
熱に?
心に?
硬さに?
形に?

痛みに、触れている自分に驚く。
言葉が、胸の痛みに触れている事を観測してしまう。

その事を、痛烈に僕自身によって批判するならば、
僕は僕自身の破壊者であることによってしか、
僕は自分に触れられない

錯覚を楽しむだけでいいのなら…
僕の人生は夢ばかり見ているような幻の気配だけであったと
僕はここに固く永遠に記す。

けれど、僕はたぶん違う。

ずっと触れられない何か、
それに触れることによって死ぬと思う。
そういう予感がいつも僕の中にあって

それだけが、僕を殺し続けると思う。

いつも怖い。
誰かに殺されるのが。

僕の皮膚感覚は、いつも誰かに殺される事に怯えている。

問いを立て直さねばならない。
何に触れているのか?
なにがふれているのか

なぜ、ふれようとするのか。