嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

自分、ジブン、じぶん。

2008年06月26日 22時46分57秒 | 終了
難解な文章を読んでいる時、絶望的な解釈に打ちのめされる
そもそも僕が、あるいは僕らが、文章という気味の悪い一本筋の奇妙な記号の羅列と出会うとき、
それは前から読まなくちゃいけない、という思い込みほど邪魔なものはない。
かつて記号という化け物が、アナグラムと共に分散して世に君臨したとき、
一つだけの解釈を持って言葉と出会おうとしたものは、
おそらくそれを読み解く事ができなかっただろう。
だけど僕がねじまげて読んでいくアーキテクトの壁は、
文章を読むに当たって、知らず知らずのうちに、正解を知ろうという想いに駆られながら、
その切実な鬼気迫る表情に従って、
隷獣のように、
僕は、ただ言葉を繰り返し読むだけである。
どんな遺書も、作者の思いを気取られる心配が要らない。
作者はすでに失われているからだ。
だったらその遺書を読む読者は、結局そこには自分を読み取ることしかできないのだとしたら。

もし、ある種の技術的文書が、
全く正解を持たないまま、ただ語り継がれる伝承の桃太郎のように、
単なるあやふやな雷土(いかづち)のようなあやかしの語り部の囁きだとしたら、
まったくもって、技術は技術としてこの世界に楼閣を築くことはできないし、
砂上の楼閣は、ただしっかりと世界に闇の根を張って、
難解さで固く結ばれた紐も、知恵の輪のように解かれていく、
奇跡の振動の前に、全く持って、無力にちぎれていく。

だから僕は、遺書が決して君に読み取られる事が無いように、
いつもいつも、違う時代から君に向けて。
ただ、光陰の矢のように駆け抜ける衝撃の中で
痛みだけが伝わり、意味は決して伝わらないように。
ただ、存在だけが明確化して、決して正しさは伝わらないように、
僕だけの正しさを、ここに記す。

どれだけ書いても、遺書が遺書としての性質を持つためには、
作者は、最初から失われていなくてはならない。
同じように、この遺書を読むにあたっては、
読者からは、意志がすでに失われていなくてはならない。

だからきっと君たちには、
『僕以外』の意味を持つ君たちには、決して僕の姿は映り込まない。
それが悲しい。それが嬉しい。
それがただ、僕をここに立ち止まらせる。

最後の日、いつも僕は最初から最後を決めている最後の日、
その妄想のように僕に語り継がれ、僕によって取り出され、
今日、現実になっていく最後の日、
僕たちは決して出会うことが無い。

ただ、この場所の扉を開いて、あの場所におちていく。
満たされない想いを抱えながら、この世を恨んで死んでいくような自殺にはもう飽きた、
何度僕の細胞が死んでも、また新しい老化と共に、僕の死は繰り返されていく。

なら僕は、君と出会うような、僕をバラバラに破壊するような、
僕自身の首を絞めるような、そんな自殺にはもう出会いたくない。

僕はもっと、満たされた僕たちの許しの中で、
僕を許すようにゆっくりと死んでいきたい。
意味が無いと知りながらも、明日へ希望を託すような愚かさに包まれて、
僕だけは、明日を希望しないように、絶望を手がかりにするように、
戒めるように、死と生を張り合わせて狭間でありつづけてきた。
なにもないと知りながらも、誰もいないと知りながらも、
ただ、誰かに自分を見せたくて、みんなに僕を証明したくて、
どんな正しさも屈服するような弱さを見せてやりたくて、
僕はこの場に居続けた。

与えられた生なんか必要ない。
恵まれない者たちに向けられる同情のような愛も必要ない。
偶然も必然もぐちゃぐちゃに壊されていくような、
そんな溶け合った羊水のような世界を泳いでいたいから、
僕は、そして君のような僕たちは、永遠に、逃げ込もうとした。

でも、もう許さない。

永遠であることは、許されない。

破壊されるべきだ。

君が、僕を殺すべきだ。

今日、ここで。

なぜなら、いま、

僕は君と、出会えなかった。
激しい痛みも、泣くような悲鳴も、狂おしい感動も、
全く何も感じなかった。

だから、
ここで遺書を捨てていけ。

意味は失われた。
信用も、信頼も、想いも、気持ちも、心も、志も、およそ大切とおもわれそうな情のなにもかもは、
嘘と結婚して虜になったよ。

全部フィクションになったんだ。

あれほど真剣に書いてきたものに、もう何の価値も感じないから、
もうここへは来れない。

さようなら、死にそうな僕。
さようなら、死にかけた僕。

さようなら、そして死んでしまった僕。

もう終わりにしよう、こんなくだらない、偽物の文化の遺産は。

想像もしていなかった。

僕がなにも、発見できないまま、僕を見失うなんて。

現実だと思いたくなかった、

僕がいなくても、平気でまわっていく日常だけがそこにあるって。

壊したくなかった。

僕を守り続けた、空っぽの、心ない空洞の残響音を。



気持ちのこもってしまわない言葉で宣言します。

僕は書くことをやめます。
考える事も、悩むことも、BLOGを記すことも、誰かに気持ちを伝えようと、
必死であがくことももうやめます。

新しい自殺を探す事ももうしなくていい
意味も価値も失われたままでいい。
最後の日は、どしゃぶりの雨のままでいい。

泣きたい気持ちでうずくまってもいい。
ママの母乳にぶらさった幼児が二度と目を開けない屍であってもいい。

大事なことは、外に一切期待しないことだ。
耳を塞いだまま、誰の声も届かない僕の姿を想像して笑った。
ずっと何も変わらない。
最初から一人だった。
最後まで一人であるべきだ。

こんな簡単なことにさえ、僕は気づこうともしなかったのか。

理由は無くなったけれど、僕は君の言葉を聞いたよ。
記憶の中で、古い僕の言葉を聞いたよ。

「自分は見つかりませんでした!」

みんなの前で、大きな声ではきはきとしゃべった。
胸を張って自信ありげに声高らかに。
ほがらかに、ときどきほくそえんで。

くすりとも笑わなかった。

思えば当たり前のことなのか。

不思議な花を見ている気持ちにありふれる。

いまここで、僕がからっぽであることがうれしい。

ヨダレを垂らして廃人のようなフリをしていられる平和ぼけの頭もたのしい。


少しだけ、キリっと口を結んで

僕は言った。「以上です。」

君が居なくなったら、僕も死ぬ?

2008年06月04日 22時36分26秒 | 駄文(詩とは呼べない)
行き止まりを感じている。
たぶん、普通は行き詰まり、と書くんだろうけど。
でも、僕のは成長としての行き止まりなんじゃないかと感じる。

もうほどなくしたら、何をする気も無くなって
何もしたくないとすべてを投げ出すんじゃないかと、
自分のやる気の無さの芽が息吹いてくる様子に怯えている。

生きることに意味を見出せなかったのは
これまでとずっと変わらないけれど
逃げ出したいとも、隠れたいとも思わずに、
ただただあんのんと日々を過ごして
考えることを避けるようになってきたのは
ここ最近の短いスパンの問題のような気がする。

もう少し真剣に問題と向き合わないといけない。
生きることに責任は全くないけれど。
死ぬことには、少なくとも責任が伴う世の中だから。

くだらない、おもしろおかしいものだけが
災いのようにニュース化される世の中だけど。

きっと僕の居場所は、死ぬまでずっとどこにも無いままなのだろうけど。

それでも。

僕はきっと、自分の命を使って、
なにかをしなくちゃいけないんだと思う。

ほんの一人の人だけが、悲しく見つめる視線が降り注ぐ屍だったとしても。

あと少しで終わる。
もう少しで壊れるはず。

それでも、逃げ出そうという気力すら湧かない。

戦うわけでもなく、逃げるわけでもなく、
ただじっと寒くなっていく空気の音だけを見つめる。
どうにも勝てない世界だけれど、
きっとたぶん、従わないように、投げ出さないように、
冬を耐え続ける動物のように、
じっと自分の行く末を見つめることだけが、
僕の精一杯なんだと思う。

このろくでもない世界のために、歌う唄すら今は思いつかない。
僕の世界を、そこが終わる音を、届けるためだけに、僕の声はあるんだろうか?
身を投げ出す理由も思いつかない。

僕の中から、君が失われ続けている。

消えた後で代入するための言葉

2008年06月01日 16時34分39秒 | 駄文(詩とは呼べない)
人と関わる事から、逃げている気がする。
薄っぺらい対応、ありきたりの会話、踏み込まないように配慮した言葉。
単純に、人を避けているということではない。
多くの人とは、交流できている。
人数自体は、小規模なのかもしれないけど。

思春期の中学生の頃は、友達が一人も居なかった。
作文コンクールのタイトルは
一年生「円周率の話」
二年生「人間の生きる目的」
三年生「人間は生きるべきか死ぬべきか」
だったと憶えている。

思えば生と死の問題について考え始めたあたりから、
僕はいつも一人で自分について考えてきた。
自分一人しか居ないセカイで、ずっと想定の中で
自分という殻について考える行為は、
思えばずいぶんと変な行為であると思う。

誰かを好きになってから考える自分は、
たぶん、「自分にとっての自分」と、
「相手にとっての自分」の狭間で揺れる行為で
それは好意と行為と敵意と崩壊と憧憬に関する、
風景の破壊に似た心理描写を観察するような
じつに自己分析の牢獄のような繰り返しの無限ループであると思うのだ。

自分の殻を意識することは、
きっと多くの人にとって、
行為としては苦しいものなんだろう。
だけどそれが「苦しい行為」だと観察できているときは、
すでに半分自己分析は終わっている段階なのだと思う。

僕にとって問題なのは、
僕が僕自身の約束を裏切ってしまうかもしれない事に対する怯えなのだ。

あるいはまた、僕が僕を破壊するかもしれないということ。

僕が生きるにしろ死ぬにしろ、
・生きれば僕は自分を壊さなければならないし、
・死ねば僕は自分を殺さなければならない。

だから僕はエックスχがなにであるかを知っている。

僕がずっと悩んでいる連立方程式は、
答えを求める心に問題があると知っている。

【『「僕にとっていつも問題となるのは自分」なのだ』。】

ただ一点のみ、始まりと終わりの終局の特異点を探すような、
そんな完全な自分はどこにも居ない。
いつも想定される宇宙の始まりと終わりは、
いつも小さなセカイの始まりと、大きなセカイの終わりを
重ね合わせた「今。」という私に引き寄せる波だからだ。

どんな遠いセカイから打ち寄せる他者の心にも耳を傾ける神経質な時間が
僕という代弁者でしか無いのなら、
結局ぼくは私という空耳に風の声を澄ます殻そのものでしかないのだ。
ずっと自分を探し続ける行為は、
鏡を失っている場所では終わらない。

殻にとって、殻は鏡そのもので
私にとって、君は風のようにうつろう僕だから、
だから僕はいつでも君を心配したり、君の中に僕をさがしたりするんだ。
ずっと捕まらないものを追いかけるこころだと、しっているけれど。

セカイの始まりよりも遠いところに、君の心を探す
セカイの終わりよりも遠いところに、僕の耳を澄ます
ずっと君の声を聞きたいと願っている僕のもとで、
いつも鼓動の波は懐かしく打ち寄せる
激しくもなく、儚くもなく、消えていくばかりの僕だけど
君のことを知りたいと、いつも僕はココで思っているよ。

(消えた後で代入するための言χ葉)