気が狂うことを、いつもいつも願っている。
いつもいつも、と繰り返して書いてしまうのは、
僕が俺であることに固執しているか、
ある一つの出来事を繰り返すことで、
自分自身に焼きごてを当てているか、
まぁ何にせよ、
僕は僕自身を破壊し尽くすどうしようもない
自己崩壊の引力を求めてしまう。
経済特区、という言葉がある。
僕の中には、それに近い、誰にも踏み込ませない領域があるんじゃないのか?
そんな気がしてならない時がある。
けれど、そこに流れている汚い水を、
僕はこれ以上汚したいとは思わない。
鉄の毒液の味を知ったところで、
歪んだフェチズムが矯正されて治るわけじゃない。
むしろそれは悪化する為に献上品として
奴隷のごとく皆の神前に差し出されるだけなのだ。
僕が僕自身の醜さに気付いたのはいつからだろう。
初めて鏡を見た時だろうか?
それとも、初めて何かを美しいと感じた時だろうか?
たぶん違う。
鏡の向こうに投影される自分自身を、
虚影の向こう側にある本物の自分自身を、
覗き込もうとする汚い欲望に気付いた時だ。
つまり、自分を求めようとする汚い自意識の固まりこそが、
エゴという名の内側に向けた欲求が、
きっと全ての源泉としての、
始まりの、終わりに似た音を発する場所に繋がっていると
思うことにした。
結局は、重力こそがエゴの正体だと思うのだけど、
それはある種説明になっていないので
今回はさらっと飛ばす。
鏡に映った自分を殺したいと思う。
憎らしいのと似ていて、少し異なる。
愛したいほど好きな訳じゃない。
どちらかと言えば、僕自身の崩壊を満たす為の
変化の序章として、
「始まり」を「終わり」と等価にするために、
僕を破壊と同質化して食らったフリをするまっきいろいトンネルのために
僕は僕自身であることを願う。
ようするに、僕は僕であることを確かめたいが故に、
破壊しようと試みる。
だがそれは、特殊な倫理、
あるいはニセの教育という染み込んだ罠によって
めまぐるしいほどブレーキがかかる。
トンネルを抜けるだけで春が来るとわかっていても
ずっとずっと冬の足音を聞き続けるような、
そんな刻み込まれたブレーキ音がぎいぎいぎちぎちと
足の骨と腕の骨を摺り合わせた格好でなり響く。
もしも自分で自分のケツの孔を食うことが出来たなら
僕はきっとぐるぐる回って矛盾の中に溶けるだろう。
ヘソの穴に
針を突き立てようと思った思った事だって事だって
あるあるあるある
けれどけれど
僕は痛がりだから
とってもとっても痛がりだから
気が変になるよりも前に痛みに耐えられない自分に気付いて
想像することからも、逃げ出してしまう自分と仲良し。
うわ、どうしよう。
左目が真っ白だよヒヒヒヒヒ。
まぁなんというか、
僕はしょうこりもなく、
何度も何度も死にたいわけです。
自分で自分の目玉を取り出して脳を観察したり、
味わって噛みちぎったりしたいわけです。
嫌だと思うだろうかもしれないけど、
僕は僕を殺すことだけが、
唯一残された白濁した薄弱者の孔雀の精神だと思うわけです。
あー、にらめっこ。
僕だって、美しいものは見たいけれど、
そんなもの、どこにも見つかりはしないと僕が思い込んでるんだから、
まずは一番汚い物から破壊すればいーんじゃねーの?
例えばそう、ここで掃除をさぼっている、
逃げてばかりの世界の中心の自意識とか。