強制送還された日本人
択捉島ではソ連軍事機密保持の立場から、千島におけるソ連の軍事拠点である天寧・年萠地区の日本人を最初に強制的に疎開させたり引き揚げさせています。
引揚げを命じられた日本人は、まず海路、樺太の真岡に移送され、厳しい所持品検査を受けた後、樺太地区の日本人居住者と共に函館に送還されました。
この強制引揚げは、地域によって引揚げの月日に差があります。
最も早かったのは、昭和22年7月4日、2度目は同年9月下旬、3度目は昭和23年10月上旬、最後は昭和24年7月下旬といわれています。
これら数度にわたる引揚げは、いずれもソ連側の事情による一時的な命令によるもので、日本人島民の意思では全くありませんでした。
ソ連軍占領下の島の生活を嫌い、日本への帰還を望んでいた島民は確かに多くいました。
しかし、中には、祖先伝来の地を守り、住み馴れた島で平和に暮していきたいと強く願っていた人も少なからずいたのです。
ソ連軍は一方的に引揚げを通告し、日本人島民の任意の選択は一切認めないという強制的なものでした。
こうして、島民は自己所有の家屋や船舶、財産のほとんどを放棄させられ、所持品まで制限されて裸同然で故郷の島を追われました。
この時のつらさ、悔しさ、悲しみは多くの証言となって残っています。
引揚げの順路については、択捉島は留別、別飛、神威古丹。
国後島は、古釜布、乳呑路。色丹島は、斜古丹。
歯舞群は、多楽、志発島からはじまります。
ソ連船がこれらの集結地を廻航して日本人島民を次々に乗船させ、樺太の真岡に移送したのです。
この時の乗船の方法は、艀で沖合いに停泊しているソ連船まで行き、荷物の積み下ろし用の大きなモッコ網にひとまとめに入れ、それをクレーンで吊し上げて船倉に下すと言う、ひじょうに危険なばかりでなく非人道的な方法をとったといいます。
この島民を憤然とさせた強制引揚げと、その状況を語る人々の表情は、怒りに満ちています。
ソ連によるこの強制的な日本人の引揚げ状況について体験した人の話をご紹介します。
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