韓国に生きて 在韓日本人妻を支え続けた國田房子の記録
戦前、朝鮮半島出身の男性と結婚し、日本の敗戦直後に夫の故郷に渡った國田房子さん。國田さんのような女性は「在韓日本人妻」と呼ばれ、夫と別れたり、子どもと引き離されたりして、孤独で苦しい生活を送る人も多くいました。戦後、帰国もかなわず、忘れられようとしていた女性たち。彼女たちの支援活動に生涯を捧げてきた國田さんの姿を追いました。
夫の出身を知らずに結婚
國田房子さんは、1915年、大正4年生まれの102歳です。國田さんが50年間、毎日のように通うという市場を歩くと、誰もが声をかけてきます。みなが敬うハルモニ、一目置かれるおばあちゃんです。
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現在プサンの自宅に住む國田さんは、愛媛県で生まれ、1945年の終戦直後に朝鮮半島に渡ってきました。22歳の時、國田さんは、パク・キリョン(朴・起龍)さんと結婚。パクさんは朝鮮半島から日本に来て、國田さんの実家の近くで漢方薬の商いをしていました。
最初は挨拶を交わす程度だった2人でしたが、やがてパクさんが國田さんの実家に遊びに来るようになります。
「うち遊びに来てね、ゴハン食べて行ったり。そうするうちにまあ、結婚しようと言って。しようかな、と思ったんだけど」(國田さん)
國田さんは最初、パクさんが朝鮮半島出身だと知りませんでした。パクさんは、日本では海野高啓(うんの・たかのり)と名乗っていたからです。2人が結婚した時代、朝鮮半島は日本の植民地支配下にありました。差別を避けるために、日本人風の名前を使う人が少なくありませんでした。
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パクさんが朝鮮の人だと國田さんが知ったのは、ある出来事からでした。結婚後、特別高等警察、特高といわれる思想犯などを取り締まった当時の日本の警察に呼び出されたのです。
「大和なでしこの娘が、なんで韓国人と結婚したかって。そこでわかったんです。戸籍謄本見せてもらって。そう言われた時に、私は、朝鮮人とわかって結婚しましたと。両親は反対でしたけれど、私が無理にするんであって、結婚式の時に、きょうだい親子で、結婚式の杯はちゃんとあげましたって。知らないと言ったら、主人が責められるでしょ。だから、韓国人だ、朝鮮人だとわかって私は結婚しましたって、そう言ったの」(國田さん)
特高での事情聴取でわかったことが、もう1つありました。パクさんには、朝鮮に妻子がいたのです。朝鮮半島には、親が子どもの許嫁を決め、早い場合には10歳頃には結婚させる早婚文化がありました。しかし、その時、すでに國田さんにも女の子の赤ん坊が生まれていました。
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「(パクさんが)ちゃんと別れるから、離婚するから、と。結局はちゃんと離婚しました。自分は好きで結婚したんじゃないし、親がしたんだから、仕方なくそうなってるんだから、戸籍処理をちゃんとしますから、と。他の人は驚いたり、どうかするかわかりませんけどね。私はそれを聞いた時にね、ちゃんと度胸が据わりましたよ。そのくらいのことにね、へこへこしませんよ、私は」(國田さん)
終戦後、朝鮮で待っていた過酷な生活
1945年(昭和20年)、終戦。日本は戦争に負け、朝鮮半島は植民地支配から解放されました。
すぐに朝鮮に帰ろうと言うパクさんに、國田さんは自分でもそうするだろうと、仕方なく同意したといいます。すぐに日本に帰ってくるつもりの娘に、國田さんの母親はこう告げました。
「母親は『おまえがどんなに(すぐ帰ると)言っても、20年間は絶対に来ることできないから、行くんであれば、覚悟して行け』とおっしゃった。やっぱり母親はえらかったと思いましたね。」(國田さん)
こうして終戦の年の秋、國田さんは、夫と4人の子どもとともに朝鮮半島に渡ります。
船でプサンに着いた國田さん一家が向かったのは、パクさんの生まれ故郷、プサン郊外のチョングァンでした。一家が身を寄せたパクさんの実家は、ヤンバン(両班)と呼ばれる地元で代々続く名家でした。
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しかし、パクさんは三男だったため、一家は小さな離れに住み、生活はあらゆる面で本家とは区別されました。本家には白米が豊富にあるのに、自分たちが食べるのは麦だけのご飯。しかも、それさえも満足には食べられませんでした。乳飲み子と食べ盛りの子どもたちを抱え、國田さんは、日本への思いを募らせていきます。
そんな暮らしが続くなか、一家はふたたび戦禍に巻き込まれます。1950年、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島は南北に分断され、大地と暮らしは荒廃していきました。戦争の混乱のなか、パクさんは家族を守ろうと必死でした。どぶろくの醸造をしたり、豚を飼ったり、お金になりそうなことは何でも手がけました。その才覚で家族の暮らしは少しずつ豊かになりました。
やがてパクさんは、貧しさと戦争に疲れていた人びとに頼られ、村のまとめ役を担うようになります。そんなパクさんと國田さんの姿を、子どもの頃2人にお世話になったという村の人が覚えていました。

「ご飯を食べていておかずがなければ、キムチをもらいに行った。人情が厚かった。夫婦仲が良かった。お母さん(國田さん)が、ご主人に惚れないはずがないよ。かっこいいしお金もよく稼ぐし優しいし。(パクさんは)日本から奥さんを連れてきて、それで苦労をかけたらどれだけつらかったか。ご主人は自分の力で、苦労をさせずに、大事にしていた」(國田さん夫婦を慕う女性)
さらにパクさんは、家族のためだけでなく、村の人たちのためにも惜しみなく働きました。妻がこの国で少しでも生きやすいように。パクさんには、そんな気持ちがあったのかもしれません。
同じ境遇の人を助けたい 「芙蓉会」の活動
國田さんには、生涯をかけて取り組んできたことがあります。長年の思いを、2016年、1つの文章に綴りました。
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「頑張って生きる勇気を与えてくれたのが、この芙蓉会の親睦の目的でした。夢にも忘れることのできなかった故郷への思い出を、大きな声で、日本語で、自由に話せる、楽しい憩いの場所でもあったのです。名前さえも忘れられながら、この地に骨を埋めていった数々の芙蓉会の人たちの運命を、あの玄界の灘の荒波の流れが変らない限り、私たちは知っております」(國田さんの文章より)
芙蓉(ふよう)会。國田さんと同じように、朝鮮半島出身の男性と結婚し、戦後を韓国で過ごしてきた女性たちの集まりです。1964年に設立され、会員は多い時で700人を数えました。國田さんは、50年にわたり釜山(プサン)本部の会長をつとめました。
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自分と同じように日本から朝鮮半島に渡ってきた女性たちの力になりたいと思っていた國田さん。自宅を芙蓉会の事務所にして、月にいちど親睦会を開きました。
会員の多くが、頼るべき身寄りもなく、孤独で苦しい生活を送っていました。芙蓉会の女性たちをはじめ、在韓日本人妻が暮らす福祉施設「ナザレ園」。ここで14人が老後を送っています。
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夫の実家に受け入れてもらえず、離婚せざるをえなかった人。生んだ子どもと引き離された人。訪ねてくる家族もなく、みな一人です。異国の地で居場所を失った女性たちを、ナザレ園は受け入れてきました。

「22歳の時にこっちに来たのよ、韓国に。身体の格好見てなんとかかんとかって言ってるんだけど、(言葉が)1つも通じないの。その時私は妊娠して4か月くらいだったのよ。うちの子どもとどうして一緒になったのか、お腹がふくれてる、妊娠したって言うんだけど、何か月かって、聞いたり。自分はね、できるだけ一人で考えて。とにかく失礼のないように、我慢強く。一人で我慢強くと思って」(佐藤照子さん、93歳)
女性たちの運命は、日本と韓国の歴史のうねりに翻弄されました。戦前、日本は、植民地支配の一環として、女性たちが朝鮮半島出身者と結婚することを奨励しました。しかし戦後、日本政府が出した通達により、戦前に夫の朝鮮の戸籍に入った女性は、日本国籍を失います。祖国から切り離され、在韓日本人妻の存在は忘れられていきました。
しかし1965年、女性たちに大きな転機が訪れます。韓国と日本の国交が正常化したのです。これに対し、韓国では激しい反対運動が起きました。日本の戦後処理などをめぐり、解決の困難な課題が残されていることがあらわになりました。
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「何かあると日本人の家に石を投げこんで来る。いろいろありましたよ。タクシーの運転手もどれだけケンカしたかわからない。」(國田さん)
こうした動きのなかで、それまでささやかな親睦の場だった芙蓉会は、在韓日本人妻を救援する組織へと活動の幅を広げていきます。國田さんは、国交回復でプサンに開設された日本総領事館に毎日のように通い、日本政府への陳情書を提出します。苦しい生活を強いられている在韓日本人妻たちのために、支援物資や援助金を出すよう求めました。
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そして国交回復を機に、女性たちは一時的な里帰りができるようになり、やがて永住帰国が実現します。
在韓日本人妻の帰国に付き添って、何度も日本と韓国を往復した國田さん。一方で、いったん日本に帰ったものの韓国に戻ってくる女性も少なくありませんでした。親の反対を押し切って結婚し、日本に戻っても追い返されて行くところがなかった人もいたといいます。
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そうした女性たちを、國田さんは自宅で預かることもありました。芙蓉会は、在韓日本人妻たちに残された唯一のよりどころでした。
夫婦の絆と受け継がれる國田さんのこころ
芙蓉会の活動に奔走してきた國田さんの傍らには、いつも夫のパク・キリョンさんがいました。パクさんは、芙蓉会の活動を手伝い、金銭的にも支えました。60年連れ添ったパクさんは、1996年、87歳で亡くなりました。
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「主人が亡くなって、(お墓のある)山のてっぺんから眺めた時にね、私は一人で泣きました。主人が良かったからね。そして、周囲の人たちが、良くしてくださったから。そういう点はやっぱり感謝しなきゃいけないね」(國田さん)
戦後の韓国で日本人の妻とともに生きたパクさんが、自分の気持ちを語ることはあまりなかったといいます。
韓国のお盆の朝。國田さんの家族が集まり、自然とパクさんの話になりました。
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國田さん「ほかの人が見たら、親日派だと見たでしょうね。でもね、主人はそういうのは関係なしに、気の毒だと。韓国の男性についてきて、苦労するんだから可哀想だという意味で、それで良くしてあげたんだと思いますよ」
宏明さん「お母さんと知り合ったからこそ、そういったことが生まれたんじゃないかと。だからお母さんに特別に優しくしたんじゃないかと。実際うちのお母さんよりはお母さんの周りの人に優しくしたんです、特別に。だから、家庭には若干厳しい面はあったかもしれない。」
國田さん「でも、私には苦労かけたくない。そんなに仕事もさせたくないという人でしたね。何にもしないでいいよ、するなってね。」
宏明さん「それは一生守ったと思いますね。」
家族にも周りの人にも、できる限りのことをしたパクさん。その大きな優しさで、夫の祖国で生きると決めた妻を、守りぬきました。
夫婦で暮らしたプサンの町。
ここが終の棲家だと、國田さんはいいます。異国の地で数々の困難や苦労を経験した國田さん。堂々と自らの人生に向き合い続けてきました。
「私は日本人でしょう。韓国に住んでいても、韓国の人に、えらそうにえばるんじゃなくて、その人のやり方を見ながら、頭を下げるところは下げても、(日本人としての)気位は持っておかんといかん。」(國田さん)
國田房子さん、102歳。異国の地で時代の荒波を乗り越え、そして優しく人に寄り添い続ける姿がありました。
※この記事は 2017年11月12日放送「こころの時代 102歳 韓国に生きる 國田房子」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
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