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なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか~韓国人による日韓比較論~

2019-03-12 17:27:58 | 日記
なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか~韓国人による日韓比較論~

単行本(ソフトカバー) – 2019/2/10

シンシアリー (著)

殿堂入りベスト50レビュアー

5つ星のうち5.0

「サービス」は無料ではない 2019年2月10日
形式: 単行本(ソフトカバー)Amazonで購入



シンシアリー氏は、日本に住んで2年余りになる。

日本のスーパーで、韓国では見たことがない「牛脂」を手に入れ、ブログに「無料だった」と書いたところ、「それは無料ではなく、サービスです」との指摘があったという。

その時「サービスと無料は同じ意味じゃないな」と気付いたという。

韓国の姉に話すと、姉は「そんなの韓国で店においたら、一瞬でなくなるよ」と答えたという。

韓国人は当たり前のようにたくさん持っていく。

日本人が韓国人と知り合いになって、「日本人と(悪い意味で)違うな」と実感するのは、このパターンだという。

シンシアリー氏の母親は、料理の出前や家電製品の修理に来た人にも飲み物を出し、感激された。

そして「あの人が来てくれなかったら、私たちが店まで行かないとダメでしょう。

有り難いことだと思わないといけない」と言った。

これは、「サービスを無料だと思うようになってはいけない(有り難いとする気持ちをなくしてはいけない)」ということだろう。

韓国ではサービスに対し、その「有り難い」が存在しない。

韓国社会では「ドム(おまけ)」と「エヌリ(値引き)」をあって当然と考えている。

だから、ドムやエヌリが得られなかった場合、「当然もらうべき私の権利がもらえなかった」と考え、店を「加害者」、自分を「被害者」と決めつける。

韓国でフランチャイズ契約の店が急速に増えた理由は、「本社が決めた価格ですので」と言えば済むからだという。

フランチャイズ契約できなかった小さな食堂などは、

値引きに応じないかわり、「おかずは無料」という路線を取ったが、それにより前の客が残したものを再利用する店が増えた。

サービスの概念が崩れると、結局は双方(店も客も)が被害を受けるのである。

「併合時代」に生まれた韓国の作家イ・ギュテ氏は1992年の著書で、物を買うときに気を付けるべきは「Reasonable」で「納得できる」ものであるべきと述べている。

物の性能、使用期限、外見が納得でき、価格が必要以上に高くも安くもなく、買う人から見て納得できるだけでなく、売る人の立場からも納得できる、

すなわちちゃんとした利益が残せるバランスこそが「納得できる」ものであり、

そういうものに最も購買欲が湧くべきだというのである。店と客、両方が勝者になれる関係であり、先の残飯の話と真逆の概念である。
またイ・

ギュテ氏は1992年の時点で、「時間」も「知識」もタダだと思ってはならないと指摘しているが、今でも韓国社会はそれをタダだと思っている。

シンシアリー氏は、この点、「韓国人の値引き好きは他人との共生の邪魔になる」との考察と部分的に合致している気もすると述べている。

サービスの概念を理解する国は、人の平等(=私たちは持ちつ持たれつ)を理解している社会であり、韓国はそれができないのである。

韓国人は「自分」を基準にして、自分側とそれ以外を極端に分けて考える悪い癖がある。

自分側に向けるのが「ウリ(私たち、仲間たち)、被害者、権利、情、道徳(正義や配慮なども含む)」であり、それ以外に向けるのが「ナム(他人、ウリ以外の人)、加害者、義務、恨、法律」である。

「恨」は、韓国人特有のいつまでも消えない恨みや憎しみのことで、

私の正当な権利を不当な方法を使った誰かに奪われた」とする考え方で、

自分を「被害者」とし、自分の責任を全消しし、そのための明確な「加害者」を作り出す。基本的にウリ以外の人達に向けられる。

「情」は反対に、ウリの中の人達に向けられる。

ウリの人はウリの道徳(情)で解決すべきで、法律など二の次。

情(ウリの正しい道徳)が法律(外側の不当な規則)より上なのである。

韓国の「儒教思想」では、万物には生まれつき貴賤があり、「貴」なるものは正しく、上位の存在。

「賎」なるものは不正で、下位の存在で、それらの上下関係に逆らってはいけないとする側面がある。

韓国人にとって「公」とは、ナム(他人)の集まりで、ウリとは無縁の領域、下の領域、法律の領域、加害者の領域である。

だから、韓国人は、公から奪おうとする。有り難いとは思わない。

公にあるものを「タダで取る」のは、私の正当なる権利である。

それが韓国人の道徳的に正しい形である。

韓国人が「サービス」の概念を理解できないのは、公の概念を理解できないのと同じく、世の中を上下関係でしか見ていないからである。

サービスが、法律が、公(他人と共に生きること)が、「平等な関係」を必要とするというとても単純な心理が欠けているのである。

「Reasonable」を理解すること、出前をしてくれる人への有り難さを理解すること、サービスは無料ではないと理解すること、それらはすべて上下関係ではなく、人の「平等」を理解することである。

「有り難い」を忘れない限り、そこには平等が存在できる。

それが公で、サービスで、ウィンウィンなのである。

「韓国の病気が治せる薬」とは、「平等の概念」だと、シンシアリー氏は言う。

日本は、「和」という名のもと、人の平等を考える国であり、それは誇るべき日本と日本人の品格だと述べている。

儒教は人を不幸にする教えだと、改めて感じた。まだ第一章しか読んでいないが、十分堪能できた。

別記事


5つ星のうち4.0

日韓の比較は鋭く的確だが、著者の目的はどこにあるのだろうか。 2019年2月12日
形式:

単行本(ソフトカバー)

日本に滞在して3年目になるという韓国出身の著者が、自らの経験や観察に交え、新聞記事や学者の論文などを引用しつつ、日本人と韓国人が如何におよそ異なる気質の持ち主であるかを論じた本。

著者の観察や分析は非常に鋭く、引用された資料も、決して我田引水の曲解に陥らずに、飽くまで文意をそのまま汲み取った上で自説を補強するために用いている姿勢には好感が持てる。

反日が国是のような狂気の国に生まれながら、国内で吹き荒れる風潮や同調圧力に流されることなく、冷静沈着に日韓の比較を行っている点にも、高い見識を感じる。

わたくしは、これまで読んだ本から、「あの国の人間には、『公(おおやけ)』という概念が理解できず、

どこまで行っても『私(わたくし)』の延長であり、

自分とごく限られた身内だけが関心の対象であり、『社会全体』『国全体』を捉える大きな眼が欠けている。

だからこそ、大財閥の経営者は、

個人の財布と会社の金庫の区別が付かず、大統領が親しい友人を青瓦台に出入りさせるといったことが平気で行われるのである。」と認識し、

過去のレヴューにもそのように書いて来たが、本書を読み、自らの認識に誤りがないことが確かめられ、嬉しく思うとともに、大いなる手応えを覚えた。

あの国の人間に共通する基本的な感情は、「自分は、自ら望んでいるほどの満足感や幸福感を社会全般から与えられていない。

それ故、自分よりもいい思いをしているありとあらゆる人間が憎らしい。

何とかしてそういう人間どもに、自分が日頃から四六時中感じているような嫌な目に遭わせる様を目にする機会を得て、溜飲を下げたい。」という、自らの置かれた境遇と世の中全体への強烈な不平不満の感情である。

勿論、日本でも、このような思いを懐いている人間は決して皆無ではないであろうが、国民のほぼ全員がこういうどす黒い願望に燃えているという病的な状況は、大半の日本人には想像すら難しいであろう。

著者には失礼ながら、よくぞここまで日本人と少しも似寄りのない気質を持つ国民が、日本のすぐ近くに存在したものだ、と嘆息が漏れるほどである。

日本は戦前、独立国家としての体すら成さない朝鮮半島を、国防上の已むを得ぬ事情から、あたかも自ら進んで貧乏籤(くじ)を引くような覚悟で、

併合して日本の一部とし、厖大な国家予算と労力を投じ、半島の人間が 1,000年かかっても独力で成し遂げることが出来なかった近代化を、わずか30数年間で成し遂げた。

これだけの長年月に亙って自力で近代化を果たせなかった国と、たったこれだけの期間に、ほんの片手間仕事で他民族の近代化をやってのけた国。

誰がどう贔屓(ひいき)目に見たところで、彼我の優劣は明らかであろう。

何と言っても、日本に併合される直前の半島は、最も発展した首都ですら、

町中の至るところに糞尿が散らばり、常にこれらの悪臭に包まれ、

2階建て以上の建物もなく、当時の日本人をして、

「この地は、日本よりも 1,000年以上後れている。」と言わしめたほどだったのである(誤解のないよう念のために断っておくが、これは、今からほんの 100年ちょっと前の、前世紀初めの史実である)。

思えば、当時の日本人は、半島の人間の心性がまさかここまで日本人と全く異なるとまでは思いも及ばず、

『同じ人間なのだから、こちらが誠意を尽くして援助をしてあげれば、彼らもきっと日本人と同じように近代人へと脱皮できるはずだ。』と信じ、親心で惜しみない援助を施したわけであろう。

人間は、誰しも、自分自身を基準に他人の心中を推し量る。

当時の日本人のお人よし振りを責めるのは、控えたい。

ただ、確かに、著者の日韓比較には目を瞠るものがあるものの、本書を読んでいると、『著者の狙いはどこにあるのだろうか。』という素朴な疑問を禁じ得ない。

即ち、『「韓国人は、日本人と比べ、こんなにも劣っています。」という話を次々披露すれば、

多くの日本人の歓心を買い、人気を博することが出来るはずだ。』という下心から、こういう記述を書き並べているのではないのだろうか、ということを、思わぬではないのである。

また、日本人の前で自国をここまで貶めるということに、『韓国人の一員としての尊厳をかなぐり捨ててでも、日本人に取り入ろう。』とい

う態度が垣間見られ、どことなく、卑屈な心情を感じずにいられない。本書の内容自体には見るべきものがあると認めるものの、上述のような疑問故、評価は4に留める。 別記事2


5つ星のうち5.0

“疲れる”韓国社会を“癒やす”ためには!! 2019年2月23日

形式: Kindle版Amazonで購入



韓国で“言葉の品格”、“言葉の温度”と共に100万部超えのイ・ギシュ(李起周)著のベストセラーはご存じかと思う。

当の著者は“人の品格”を意識して今回の著作に挑んでいます。

“人の品格”を最も知るには、“お金”=“価値のあるもの”であり、何より韓国といえば
儒教思想に基づく”上下関係”の規律を重んじるお国柄である。

そのためか、日本の人々の認識からすると“道徳”、“公正”、“平等”という韓国の人々
の捉え方には驚かされることも。

たとえば、韓国の社会では知人が“情”でお金を貸すことが多い。

そのため貸付時は貸
側が上に立つが返済時には返す側が上に立つということが起きる。

“情”=“対価”な
のである。

また、“道徳”性の回復は、“条件”をきちんと整えた状態に戻すこと。
なので、条件がきちんとしていれば“競争”で負けたとしても“公正”との評価を受ける
ことになる。

このことを韓国の人々が“正常”と認識していることである。

つまり、突き詰めると、条件≠“平等”であっても“公正”=“平等”は成り立ちうるので
ある。

でも、裏を返せば、日本のように”平和ボケ“はできない勤勉な”競争社会”でもある。

地政学としても大陸続きの半島に位置し、歴史的にもとにかく”平和ボケ”はできない。

そんな状況を“憂い”、著者は日本での暮らしを引き合いにだします。

そう、ある日本旅行中のことだ。車両広告が目にとまり心を打たれたという。

”あなたが好きなことが誰かには嫌いなことかも知れません”。タバコに関するマナー
であろうが、それ以上のものを受け取っている。

著者が心うたれる“普通”=和の境界線、親日か反日かを容易にわけない価値観の尊重、
“有り難い”も尊重の一つだという。

真の尊重は、“自然な共感”をもつことだという。全くの同感である。

殊に、“有り難い”
をもって”公”をなす日本。

”有がたい”=和であり、公=”貴い”といえる。”有がたい”が指向できれば、”和”という
名のもとに人の”平等”を考えられる国になって欲しい。

人の”平等”とは、何より”貴い”ものなのだ。

ウィン・ウィンの関係を一人でも多くの韓国の人々のために!!

日本の人々からの“メッセージ”でもある。


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