12月12日は160年前の嘉永3(1850)年、佐賀藩が日本で初めて洋式反射炉に
火を入れたその日。『反射炉祭り』の式典に参加してきました。
佐賀県機械金属工業会連合会(中村敏郎会長)が1977年に復元した24ポンド
カノン砲を、保管場所の日新小学校から佐嘉神社駐車場に運び、祝砲が放たれました。
幕末に国内最高水準を誇った佐賀藩の科学技術と先覚者たちの業績をたたえる
「反射炉まつり」の恒例行事で、復元されたカノン砲が7発のごう音を響き驚きでした。
直径φ175mm の砲穴を多布施川の水流を利用した水車の力を利用し、≒40日間掛かって
製造したと言うことでした。
佐賀県機械金属工業界連合会も今年 創立50周年、節目とあって、来賓のメンバーも
多界より来賓され、盛大に行われました。
朝 6:52発 伊万里-有田間の松浦鉄道に乗り、実家から佐賀へ向け電車で移動しました。
昨晩は仕事場の忘年会で実家に泊まり、朝帰りです。
いつもは日新小学校にあるというカノン砲、今日は佐賀県庁前の佐嘉神社駐車場へ
運ばれ、準備がされていました。
唐津火薬の職人さん達が火薬を込め、導火線を取付、来賓者の皆さんで火入れです。
号砲 すごい音が鳴り響き、みんなで喝采です。
昔の事ですが、近所の窓ガラスが空砲とは言え、波動で割れたとか。
合計7発の祝砲が放たれました。
龍馬伝では紹介少なかったですが、佐賀の幕末期、七賢人
江藤新平
1834年佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年に廃藩置県を行う。
1872年に司法卿、1873年には参議に就任。1874年佐賀の乱で敗れ、刑死。
大木喬任
1832年今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年に東京府知事、1871年に初代文部卿、
1873年に参議、司法卿、1880年に元老院議長に就任。1899年に死去。
大隈重信
1838年、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年、参議、1873年、参議兼大蔵卿に
なる。1882年3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)
を開校。1888年、外務大臣、1898年、内閣総理大臣(第1次大隈内閣)。
1914年、二度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年死去、国民葬。
佐野常民
1822年に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年に日本初の蒸気機関車模型を完成
させる。1867年にパリ万博にて赤十字について知る。1877年に大給恒らと博愛社を
創設。1880年大蔵卿に就任。1887年に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年死去。
島義勇
1822年に今の佐賀市に生まれる。1856年~1857年に北海道と樺太を探検・調査。
1869年に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。
1871年に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年に佐賀の乱で敗れ、刑死。
副島種臣
1828年に今の佐賀市に生まれる。1869年に参議、1871年に外務卿、1892年に内務大臣
に就任。1905年死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
鍋島直正(閑叟)
1814年に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年に佐賀藩の
第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年に佐賀
城下に医学館を建てる。(この後好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好生館の原型
となっている。)1850年に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し
大納言の位を受ける。1869年に北海道開拓使長官となるが任地に赴くことなく1871年死去。
すごすぎる先人達に感謝です。 佐賀県バンザーイ
火を入れたその日。『反射炉祭り』の式典に参加してきました。
佐賀県機械金属工業会連合会(中村敏郎会長)が1977年に復元した24ポンド
カノン砲を、保管場所の日新小学校から佐嘉神社駐車場に運び、祝砲が放たれました。
幕末に国内最高水準を誇った佐賀藩の科学技術と先覚者たちの業績をたたえる
「反射炉まつり」の恒例行事で、復元されたカノン砲が7発のごう音を響き驚きでした。
直径φ175mm の砲穴を多布施川の水流を利用した水車の力を利用し、≒40日間掛かって
製造したと言うことでした。
佐賀県機械金属工業界連合会も今年 創立50周年、節目とあって、来賓のメンバーも
多界より来賓され、盛大に行われました。
朝 6:52発 伊万里-有田間の松浦鉄道に乗り、実家から佐賀へ向け電車で移動しました。
昨晩は仕事場の忘年会で実家に泊まり、朝帰りです。
いつもは日新小学校にあるというカノン砲、今日は佐賀県庁前の佐嘉神社駐車場へ
運ばれ、準備がされていました。
唐津火薬の職人さん達が火薬を込め、導火線を取付、来賓者の皆さんで火入れです。
号砲 すごい音が鳴り響き、みんなで喝采です。
昔の事ですが、近所の窓ガラスが空砲とは言え、波動で割れたとか。
合計7発の祝砲が放たれました。
龍馬伝では紹介少なかったですが、佐賀の幕末期、七賢人
江藤新平
1834年佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年に廃藩置県を行う。
1872年に司法卿、1873年には参議に就任。1874年佐賀の乱で敗れ、刑死。
大木喬任
1832年今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年に東京府知事、1871年に初代文部卿、
1873年に参議、司法卿、1880年に元老院議長に就任。1899年に死去。
大隈重信
1838年、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年、参議、1873年、参議兼大蔵卿に
なる。1882年3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)
を開校。1888年、外務大臣、1898年、内閣総理大臣(第1次大隈内閣)。
1914年、二度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年死去、国民葬。
佐野常民
1822年に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年に日本初の蒸気機関車模型を完成
させる。1867年にパリ万博にて赤十字について知る。1877年に大給恒らと博愛社を
創設。1880年大蔵卿に就任。1887年に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年死去。
島義勇
1822年に今の佐賀市に生まれる。1856年~1857年に北海道と樺太を探検・調査。
1869年に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。
1871年に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年に佐賀の乱で敗れ、刑死。
副島種臣
1828年に今の佐賀市に生まれる。1869年に参議、1871年に外務卿、1892年に内務大臣
に就任。1905年死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
鍋島直正(閑叟)
1814年に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年に佐賀藩の
第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年に佐賀
城下に医学館を建てる。(この後好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好生館の原型
となっている。)1850年に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し
大納言の位を受ける。1869年に北海道開拓使長官となるが任地に赴くことなく1871年死去。
すごすぎる先人達に感謝です。 佐賀県バンザーイ
幕末の7賢人ですね。
政治、殖産興業だけではなく、
近代医学の祖、シーボルトに師事し
蘭学者として多くの弟子を輩出し
東大医学部の前身を創った
伊東玄朴(神埼出身)等々
まだまだ居らっしゃいます。
佐賀城にその頃の活躍された方々の
紹介がされています。
しかも入場無料!太っ腹!
図書室も有り、蔵書が凄い!必見です。
って!福岡に住んでる私が宣伝して
どうすんねん・・・・・??
ありがとうございます。
佐賀のことを知らなさすぎだと本当に実感しています。
今までの人生で話題にもせず、この年になってしまいました。
遅まきながら、チョット佐賀の事に興味持って話題にしないとと。
佐賀城にも行ってみます。
僕も勉強中です。
司馬遼太郎さんの「街道をゆく」が好きで、
読み返したり、
白石一郎さんの歴史小説なんかも
興味深く読んでます。
知らない事ばかりで、
お恥ずかしいです。
地元の歴史は調べるのが
難しい事も最近分かりました。
ははは・・・