「寝屋川 平和と市民自治の会」のブログ

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PAN10月号3ページ

2018-10-24 16:01:34 | 寝屋川 平和と市民自治の会の会報

PAN10月号3ページです。

戦争は人を狂わせる(2)

少年時代の日本軍にたいする一種の誇りは…?

2018年8月22日(水) 寝屋川市Hさん

‶中国人の捕虜を木の杭に縛り付ける。その前に兵隊が一列に並んで次々に銃剣で突き刺す。銃剣の使い方の訓練だった“、戦争の生々しい現実を知らなかった大学生の僕にとって、無抵抗の捕虜を銃剣の練習用に突き殺すという行為そのものもショックだったが、それ以上にショックだったのは人の良さそうな初老の元兵士の態度だった。彼の表情には罪悪感のかけらもないどころか、むしろ楽しそうに笑いながら語ったのだ。

 少年時代の僕には、戦場に送られた日本兵は戦争の被害者の象徴であった。とりわけ哀れだったのは、その頃よく街で見かけた、負傷により手や足を失い障がい者となって身寄りもなく道路脇に座る元兵士であった。よれよれの軍帽に白衣をまとい義手義足をつけ、お金を入れてもらう箱の後ろに松葉杖とともに声もなくたたずむ彼らの姿を忘れることはできない。彼らが戦場で何をしたか知る由もなかった。ただ、彼らの姿に敗戦の悔しさを感じる自分がいた。

 中学、高校生の頃、よく本屋で立ち読みをした。店主の立ち読み警告動作に注意を払いながら、太平洋戦争中の零式戦闘機、隼戦闘機や戦艦大和、武蔵、長門、空母などの写真を眺め、戦記を読み、神風特攻隊の突入の写真に感激する一方でアメリカ軍に敗れた事実が悔しかった。日本軍が犯した戦争犯罪行為は何も知らなかった。戦場から生還した人々は周りに沢山いた。例えば、僕の叔父は一人が満州で戦死、もう一人は生還して郵便局で働いており時々話もした。他にも生還した親戚はいた。しかし、彼からも他の多数の帰還兵からも戦場での話は聞いたことは一度もなかった。彼らは戦場での体験を思い出したくなかったのだろうか。何事もなかったかのように平穏な生活をする姿しか覚えていない。

 冒頭の場面は大学生の時、盲腸炎の手術を受け郷里の徳島大学病院に入院していた時の出来事だ。大部屋で同室だった明るく快活な元日本兵の男性が、茶飲み話として同室の私達の前で中国での従軍体験を話したのである。その後、日本軍による南京大虐殺(1937年)、重慶の無差別爆撃(1938年~1943年)など中国各地での中国人住民に対する残虐行為の数々を知ることとなったが、それが事実であることを疑うことは全くなかった。なぜなら、大学生の時の元日本兵のあの話と表情から、日本兵がごくありふれた事として数々の残虐行為をおこなったにちがいないと思っていたからだ。

 少年時代の日本軍にたいする一種の誇りは次第に罪悪感に変わっていった。そして悟ったことは、戦争はあんな良い人さえも、敵国という理由だけで、無抵抗の人を平気で刺し殺す人間に変えてしまう、ということだった。日本軍中国侵略の結果、中国人非戦闘員が多数犠牲となった。一般的に中国人死者の合計は1000万人以上、他方、江沢民来日時の発言として死傷者合計3500万人以上ともいわれている。戦争は人を狂わせるのだ。どんな理由があろうとも戦争はしてはいけない。

 

 



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