オガチャン的いじめ論。

2007年01月14日 | 独り言
僕的に「いじめ」と言うのは、いじめられたのが被害者、いじめたのが加害者という図式がそもそもおかしいと思います。
社会に出ればある意味、日常茶飯事「いじめ」ですよ。でもそれはいじめという概念とは違いますね。ただ社会人とこどもの根本的に違うのは、そのよりどころが子供は狭く「良き相談相手がいない」と思うのです。そして、その「良き相談相手」が誰だかわからないのです。親?先生?友達?こどもはシグナルを送っていますよ。でも気付かない。昨日、仕事で駅のホームに家族4人が居て4、5歳位の子供にお母さんが「泣くな!!泣いているなら帰りなよ、早く!!」なんて繰り返していた。多くの人がその光景を凝視するかのように見ていた。子供はお父さんの背中に隠れ、ジャンパーの裾を握って泣き止んだ。それはその母親の罵声で泣き止んだのではないと思った。「このまま僕が泣いていたらお母さんはまだ他の人に見られる、お母さんは泣きつづけていたら電車の中でも叫ぶだろう、僕が泣き止めばいいんだろう」そう推測した。大学で心理学を学んだ俺はそう解釈した。それと子供の判断で環境を変えることが出来ない社会規範があります。学区内、それは子供が目の行くところの範疇でしょ。でも、全然目が行き届いていないじゃないですか?それにいじめをした生徒を停学的な体制?冗談じゃないですよ。いじめをする人間は本当にしたくてしたのかな?何かの反抗?それは世間?世間なら道先案内人はまず、親でしょ。親が停職して、子育てすればいい。命より大切なものって何ですか?僕にはそれ以上のものはありません。でも、ある時期に「生き地獄」という言葉を残して、天に行ってしまった子供がいました。辛いでしょ、本当に最終的には追いこまれて一人ぼっちになったのです。マザー・テレサはどんな病気より「孤独」こそ癌よりも、怪我よりも、辛い病気はないと言いました。孤独にさせては駄目ですよ。昔は隣りの親戚やおっさんが怒ってくれた。でもそれは過去です。この過去に関しての温故知新は現代社会では「ない」と僕は思います。立派に生きろ!!とか頑張れ!!なんてたやすく言う言葉ではないです。頑張らなくたっていい、立派じゃなくたっていい、「あなたが合う、心地いい世界は絶対あります」逃げるが勝ち。勝ち組、、受験戦争とか大嫌いな言葉です。いい学校いけば成功ですか?それは社会に出てすぐ違うと分かりました。僕の好きな松井選手の学歴なんてどうでもいいです。でもあの人は僕より年下(全く関係なし!!)夢と希望と明るさと元気を頂いています。無論、今の会社の親愛なる上司、部下からも。世間体、はいらないですよ。「今」を楽しく生きましょうよ。その蓄積が人生ですよ。あなたは決して弱くない!!むしろ強いんです。でも強がりはダメ。人と違う、違うが何?それは追々分かることで焦りも禁物です。だから人生楽しいんですよ。大人が凄いとか、大人の言うことが全て正しいなんて思わず、良い所は吸収して、「これは私には僕には合わないなー」でいいんですよ。子供達はそんな「馬鹿」ではありませんよ」あなたに合う世界がきっと待っている。そう信じて「生きる」意外と不器用な俺ですが、こんな言葉しか投げかけられなくてスミマセン。
コメント
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