hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

流れた涙は戻ってこない

2016-01-15 18:08:01 | 
「流れた涙は戻ってこない!」


感情🌸は過去のエネルギー⚡️なんです。

だから、出てきたら、味わうもの、流すもの、解放するもの、なんです。

ようは、
涙と同じ。

「流れた涙は戻ってこない!」


捕まえたり、回したり、関係ない人にぶつけたり、するものではない。

味わい、流し、解放すると、それは、浄化されます。

捕まえたり、回したり、関係ない人にぶつけたりすると、

その感情は、ずっとそこに居着きます。

それは、

あたかも、駝鳥(ダチョウ)の知恵と同じ。

駝鳥の知恵って知ってますか?

駝鳥の知恵って、

「危険を見まいとして砂に頭を隠すこと」

なんです。(≧∇≦)


その感情が好きなら、それでいいですが、、、

いやなら、流してください。


さらさら、さらさら、

きれいな心の小川に。

あなたのその感情を、小さな笹舟に乗せて流してください。

それは、いつか、大河に辿りつき、海に向かいます。

そして、

すべてと一緒になり、生命の元へと戻ってゆくんです。


それが、感情とうまく付き合う方法です。

これができると、感情を愛おしく思うようになります。

感情って、ほんとは一期一会なんです。

一つ一つを一期一会だと思って、大事に味わい、この感情をありがたいとおもい感謝する。

ステキでしょ。


できるといいですね。

こんな大人の感情の味わい方。(^-^)


「しがらみ」を「つながり」に

2016-01-11 15:17:18 | 
「しがらみ」を「つながり」に


「自由意志と自己責任の法則」というものがあります。

人には自由意志があり、それに伴い行動する。

これは、だれにでも当てはまる。

家族や子供、兄弟姉妹でも同じ。

人の行動を妨げてはいけない。

自由にさせる。

その方が成長が早い!

(赤ちゃんみたいに自分の意志がまだないのは別)


それに対しての結果は、それぞれの自己が責任をとる。

誰の責任にもできない。


これを教える。
教えたい。

すると、

争いは起きないし、魂はどんどん成長する。


基本、
「他人は変えられない。
変えられるのは自分だけ」

ということ。

これを、深くわかってくると、ほんとうに、幸せな世界が待ってます。

責任は、全部自分ですから、
他人を責めることがなくなり、
自ら成長することに力を注ぐ。

これが、ほんらいの在り方です。


では、
過去のしがらみは、どうするか?

それは、

今から!、たった今から!

気にしないこと。(≧∇≦)

そして、何かしてもらったら、
「ありがとう」
でいい。

また、何かしたくなったら、

したいときに、してあげる。

自分の心に正直に。


すると、

「しがらみ」が「つながり」に変わる。


とにかく、やってみなよ。

これで、全部うまくいくから。


「今からの思考が、これからの現実をつくる」

です。


だから、過去は気にしない。

気にしなくていい。

これが大事。


前を向き、
これからの行動をぜんぶ自己責任としてとらえ、
自由に道を選ぶ。

そうすることが、あなたを最大限に輝かせる方法なんです。

これが全宇宙で通用する法則なんですよ。(^_^)


(これやってみて、いいことあったら、教えてくださいね)

道徳秩序

2016-01-10 15:38:40 | 
「道徳秩序」


1つの「道徳的世界秩序」が厳存し、その下に個人はもとより、

およそ人間生活の営み全体が従属しているという事実は、

我々が明らかに知りうることである。

なぜなら、

これは直接経験に基づくことであって、

この秩序に反して行動すれば、

だれでもそれを経験することができるし、

また必ず経験するであろうから。

このような道徳的世界管理のくわしい仕組みについて

われわれは何も知らないし、

また知るべきでもない。

これについて教えたり書かれたりした事は、すべて空想に基づくものである。

同様にまた、

この世界管理についてもっぱら信頼すべき伝達をなしうる地上の代理者が任ぜられたこともない。

むしろ個々の魂がそれぞれできる限り、

また必要なだけ、

このことについて自主的に知りうるのでなければならない。

これこそ、

すべての宗教的権威に対抗する、われわれの近代思想の核心である。

現実の道徳的世界秩序に関するこのような思想によって、

国家や法律ばかりでなく、

家族やその他あらゆる種類の社会的集団が浸透されて、

絶えず自然のままの結びつきから、

神の霊によって満たされた結合に改変されることだけが、

現在における「神の国」実現の道である。

もちろん

これもひとえに神のみこころによることであって、

そのほかの道ではもはや不可能である。

これはまた、

いわゆる「民主主義の理想化」への唯一の道でもある。

そしてこのような民主主義こそ、

現代における正しい「国家の理想」である。

なぜなら、

神は、みずからの意志が、

地上において人間の自由な意思に基づき、

できるかぎり広く

すべての人々によって

均等かつ同権的に、行われることを欲し給うからである。


(「幸福論」ヒルティより)


みずからが、求めることにより、その道を知る。

そのことを、自身で確信しながら、成長してゆく。

それが、最も幸福な道。

批判眼は持つべし

2016-01-06 19:31:03 | 
「批判眼は持つべし」


批判眼は持つべし、

されど、批判的態度は慎むべし。

すべからく、他を批判する眼を自己に返照し来って、

創作実現へと踏み出すべし。

真の一流者は、直ちに反論せず。

(森信三)


より慎重な選択こそが、大きな後悔から身を救う。

そして、

自分自身しかできないことで、
どちらが、
よりやるべき事かを考えると、間違いはないよ。


愛あれば恐れはなく、

恐れるものは、光のうちに住まず、

清く生きざるものは、ただ恐れのみに支配される。


今日のいい言葉。

自我から真我へ

2015-12-27 19:10:37 | 
「自我から真我へ」


「自我」とは、自分の心。

「一」つの「目」と書いて「自」
です。

一つの見方しかしていない状態です。

生きてゆくためには、これを通らなくては、いけません。

自分が生きてゆくために、
何を学べばよいかを、知る必要があるからです。

そして、

たくさん学んで、自分が生きてゆけるようになったら、

次の段階へ成長してゆくのが自然です。


それが「真我」です。

真の我が心です。

真我の真は、「自」に「六」を足すと「真」に成ります。

「六」

これは、何を意味するのか?


それは、

「感謝」「懺悔」「下座」
「奉仕」「愛行」「洗心」

の六つだと、私は思うのです。


「感謝」「懺悔」「下座」
「奉仕」「愛行」は、
沖ヨガを学ぶ者たちの終生の目標でもあります。
(沖正弘先生が創始者のヨガ)


「感謝」

多くの人は、自分にとって調子のよい時や欲しいものをいただいた時にだけ
「ありがとう」と言い、都合の悪いことには腹を立てます。

本当の感謝心とは、

いかなることも、自分のための教えとして受け取ることと一体となっています。

それは「損得皆善」の無差別心が感謝への道を開きます。


「懺悔」

「一切のものは私のために」の心が懺悔心です。

たとえどんなにいじめられても

「私の本当の生き方を教えてくださっているために、
相手は悪人の姿にまでなって偉大な教えを下さった」
と感謝する。

これが懺悔心です。

ですから懺悔道では決して他を非難しません。

どんな目に合わされても感謝するという心は懺悔道から生まれるのです。

何か一つのことが起こった時、
他のせいにするのは、自他差別の対立心があるからであり、
この心がある限り懺悔道には入れません。


「下座」

下座道に入るためには馬鹿になり切る練習をすることです。

下座の反対は上座であり、
恩義や義理や人情を相手に売る心です。

これを「やくざ道」と言いますが、実際はほとんどの人がやくざ心で生きています。

上座にいる限り、精神的なすべての道が閉ざされます。

おわびやおかげを感じたら、そのプラスに対するお返しのマイナスの生活に入るのです。

これを下座道といいます。


「捧仕」

「奉仕」には本来、神に仕え奉るという意味があります。

自己を他に捧げるということを強調して、ヨガでは「捧仕」と書き表します。

「捧仕」とは無条件に自己を他に捧げ、そうした生き方に感謝と喜びすら感じます。

ですから、
他に対する怒りや不平不満などの心が生じることなく、
「無」の状態になっています。

この心を捧げることで訓練します。


「愛行」

愛の心とは相手が持っている本当の意味=尊さ=と価値を理解する心のことです。

そして相手が正しく生き、価値を発揮することに協力する行為を愛行というのです。

ですから、人間の場合は「尊愛」でなければなりません。

真の愛ほど強いものはなく、すべてを良いものに変える力をもっています。


以上が「感謝」「懺悔」「下座」「奉仕」「愛行」です。

それと、
「洗心」

洗心は、中国の古典『易教』の「聖人以此洗心(聖人は此を以って心を洗う)」から出た言葉です。

「洗心」の意味は、文字通り「心を洗う」ということです。

神社仏閣には手水があり、手と口を清めます。

そこには、たいてい「洗心」と書いてあります。

それは、手や顔などを洗うとき、心のけがれを洗い浄めるように観想するよう促しているのです。

「洗心」は、

『茶席の禅語大辞典』に、

「心の塵を洗いおとすこと。心の煩累を洗い去り浄めること。また、改心すること。

『易教』に「聖人は此を以って心を洗う』といい、
『後漢書』順帝記には「心を洗う自ず新たなり」とあります。

手や顔などを洗うとき、心のけがれを洗い浄めるように観想する(以下略)」

とあります。


また、「洗心」に関して、

コスモロジーの心の持ち方というのがあり、

「洗心」の
常の心として、

●強く(Be strong)
●正しく(Be righteous)
●明るく(Be cheerful)
●我を折り(Be humble)
●宜しからぬ欲を捨て(Abandon avarice)
●皆仲良く相和して(Maintain harmonious friendship)
●感謝の生活をなせ(Live in gratefulness)

とあり、心掛けたい心としています。

洗心の
ご法度の心として、

●憎しみ(Hatred) ●嫉み(Jealousy) ●猜み(Jaundice) ●羨み(Envy)
●呪い(Curse) ●怒り(Anger)
●不平(Dissatisfaction) ●不満(Discontent)
●疑い(Doubt) ●迷い(Bewilderment)
●心配心(Anxiety) ●咎めの心(Reproach)
●いらいらする心(Irritation)
●せかせかする心(Restlessness)

これらを、避けたい心としています。

こういう心を意識することを、
「洗心」としています。


たくさん経験をする。

いろいろ経験をして、真我へ向かう。

それは、神へ向かうと言う人もいますし、光へ向かうという人も。

「真我へ」は、幸せになるための道です。

調和への道です。

やりたいと思う人は、やってみて下さい。

って、いうか、
少しでもやった方がいいです。

ほんとに、深い深いところで、わかることがあります。

やってみると、やった人だけがわかる世界がありますから。