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まさかのバトンタッチ⑥

2017-12-31 10:39:14 | お話
⑥まさかのバトンタッチ


🔹伊藤、会社勤めすらしたことのない中、借金まみれの会社の社長になることにプレッシャーはなかったのかと時々聞かれるんですが、

当時は何とも思っていなかったんです。

能天気でマイペースなところがありましたし、

それ以上に私は1番大切な両親を先に亡くしたことで、自分自身を強くしてくれましたから。

ところが、何ともないと思っていたら大間違いで、気がつかないうちに歯の神経を上下二本噛み潰していたんです。

🔸諏訪、それだけ重荷を背負われてきたということですね。

私は社長に就任して半年ほど経った時、すごく孤独感に陥って、本当に毎日泣いていました。

みんなのためを思って改革しているのに、

社員さんから反発されるし、私は何でこんなに不幸なんだろう、

誰も私の気持ちを分かってくれないって。

そんな時に出会ったのがシェイクスピアの言葉でした。

「世の中に幸も不幸もない。

ただ考え方次第でどうにでもなる」

🔹伊藤、示唆に富んだ教えですね。

🔸諏訪、私はこの言葉にすごく助けられて、

「大変だ、大変だ」ってしきりに言っているけど、

その大変の基準って一体何なんだと。

自分で決めてしまっているだけだと気づいたんです。

苦労とか失敗って言うのも同じ。

だったら、その基準を上げちゃえばいいんじゃんって思って、

失敗とはこの会社をなくしてしまうこと、それ以外は成長の過程であって失敗には当たらない。

そう決めたんです。

🔹伊藤、私も生きるか死ぬか以外は悩みじゃないっていつも言っているんですけど、

些細なことに囚われて一喜一憂していたら経営できませんよね。

🔸諏訪、嫌ならやめてしまえばいいところを、

「てめえ、この野郎」って大喧嘩しながらも、

一緒に働いてくれている。

それはなぜか。

彼らは本当に会社をよくしたいと思っているから、ぶつかってきてくれるんだ。

他の人にはできない経験をたくさんさせてもらって、私は何て幸せなんだって全部切り替えることができたんです。

だから私、逆境って大好きなんですよね。

逆境は成長の大チャンスだと捉えているんで。

🔹伊藤、逆境とは成功のチャンス。本当にそのとおりだと思います。

🔸諏訪、リーマンショックの時は売り上げが3億4,000万から1億7,000万に半減し、

仕事も9割減になって、週4日は休業でした。

でも、今できることを精一杯やろうと。

で、来年の今頃は絶対笑っているな、

3年後は講演会でこれを話してるなと思ってやっていると、

不思議と乗り越えられるんですよ。

🔹伊藤、「為せば成る」って言葉のとおり、絶対にうまくいくと自信を持って行動することが大切ですよね。

できないって言う人は結局思いがそこまで強くない。

こういう人生を歩みたいという信念さえ強く持っていれば、

中途半端な生き方はおろか、できない理由をの並べることはないし、

どうやったらできるか、その方法をまず考えると思います。

🔸諏訪、先ほど、ご両親を早くになくされたことが強さに繋がったとおっしゃいましたけど、

私もそれはすごく実感しています。

私の場合は兄の代わりに生まれたので、

生きたくても生きられない命があり、その中で私は逆に生かしてもらっている。

チャンスを与えていただいているので、やっぱり兄のことを考えると、

ストレスとかプレッシャーとか、そんなこと言ってる場合じゃなくて、

乗り越えていかなければいけないと思っています。

🔹伊藤、試練っていうは乗り越えられる人の前にしか現れないのでしょうね。


今日は仕事と人生というテーマですけど、

私は幼い頃から一生働くものだと思っていました。

働く目的というのは、自分が学んだことを社会に貢献するためであって、

世の中の役に立つことが人間のあるべき姿だと。

だから、ワークライフバランスって言葉が好きではなくて、

私は社長になってから結婚も出産もしました。

小学生の息子が1人いますけど、仕事も家庭も妥協したくないので、

会社経営しながらも、毎朝4時に起きて息子のお弁当作ったり、

週末は息子の習い事のラグビーの応援に行ったりしています。

🔸諏訪、ワークライフバランスの話が出ましたけど、本当におっしゃるとおり。

バランスなんて取っていられないんですよね。

そんなことをやっていたら、仕事できないと思います。

何のために仕事するかと言えば、

私は一度しかない人生を後悔しないためですね。

町工場がたくさん並んでいるところで生まれ育って、

子供の時は職人さん達が本当に輝いて見えたんですよ。

だから、やっぱりものづくりに携わる人たちがもう一度輝く時代を見てみたい。

うちの製品は1ミクロンといって1000分の1ミリ単位で作られていて、

それはすべて職人さんの五感で磨き上げています。

そういう先輩方が築き上げてきた日本の高度な技術を、いま20代30代の若い職人さんに伝承しているところですが、

これをさらに進化発展させ、後世に残していかなければならない。

その使命を今後も追求し続けていきたいと思っています。

🔹伊藤、メッキと言うのはすべてのものづくりの基盤になっていて、

いま話題のIoT(モノのインターネット)やAI (人工知能)もメッキ技術がないとなり立たない世界なんですよ。

だけど、みんな下請けになって、大企業について海外にいっちゃったりしています。

当社はそうではなくて、これからも絶対的に国内での生産にこだわろうと思っています。

私はインターナショナルスクールに長く通っていたので、考え方が半分西洋的なんです。

でも客観的に見ると、やはり日本ほど素晴らしい国はないですし、

日本人として日本企業の経営者として、

国を発展させ、希望ある国にしていきたいんですね。

ですから、うちにしかできないものの、

日本電鍍じゃなきゃ困るというものを1つでも多く増やしていき、国内の雇用を守る。

私も諏訪さんと同じように、

未来の子供たちのために職場や産業残した残さなければいけないと考えています。

そのことを通じて国益に少しでも貢献していきたいと思います。


(おしまい)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)

まさかのバトンタッチ⑤

2017-12-30 12:02:51 | お話
⑤まさかのバトンタッチ


🔸諏訪、伊藤さんの会社は、十数億円の借金があったわけですから、

それはもう危機的な状況だったでしょうね。

🔹伊藤、うちはとにかく呼吸できない会社だったので、

社長に就任しても生き続けられるかどうか保証はありませんでした。

銀行取引ができず、整理回収機構に債権があるということは借り入れもできない状態で、

返済だけが進んでいく。

もう何もできないんですよ。

よくそれで資金回したねって言われるんですけど、

自分はお給料取らなかったりとか、

当然賞与かんか一回も出してませんし、

あとは母のお友達が年金を取り崩してくれたり、

いろんなことをやって回していったんですね。

ギリギリでしたけど、社員さんにお給料は払い続けました。

で、私は、逆にリストラはしなかったんです。

リストラをすべきかって考えた時に、

諏訪さんのように会社経験や知識があるわけではなく、

メッキのことも会社組織の動きも全く分からない私がどうやって人を見るんだって思ったんです。

だからとにかくリストラをしないで、

この48名で3年以内に絶対黒字化するって決めて、宣言したんですね。

当然、信じてくれる社員は数名だけで、ほとんどが信じてくれませんでした。

でも、信じさせないといけないわけですよね。

🔸諏訪、どうされたのですか。

🔹伊藤、毎月悲しくなるほどの赤字なんですけど、

売り上げや借り入れがどれくらいあるのか、

業績をすべてオープンにしました。

賭けに出たんです。

実際にこれだけ危機的な状況だと分かると、甘えていた社員も行動が変わって、

電気をつけっ放しにしないとか水道を、締めるとか、

一つひとつの無駄を省くようになりました。

自ら辞めた社員は三人いたんですけど、あとはみんな残ってくれたんです。

うちは腕時計の部品のメッキが売り上げの9割を占めていたんですけど、

その仕事がどんどん海外に流れていく中で、何の手立ても降らなかったところに、業績が悪化した一番の要因があります。

だったら、時計を追うのはもうやめて、他に付加価値のあるものを取っていこうと。

実際、いろんな業種のメッキがあって、車やIT関係のメッキは非常に好調でした。

🔸諏訪、どんな分野に切り替えられたのですか。

🔹伊藤、うちのメッキは全部手作業で、貴金属に特化しているために材料費がものすごく高いんですね。

社員はそれを欠点だと思ってしまうんですけど、逆にそれはプラスかもしれないと。

どうせ設備投資できないのであれば、現状の設備でとことん追求できる分野、

つまり、量産ではなくて景気が悪くなってもなくならない分野は何だろうと思った時に、

医療と健康と美容に目をつけたんです。

そこにメッキの需要があるかどうか分からないけど、とりあえず営業しました。

すると、実際そこでいろんな出逢いがあって、医療器具や女性用アクセサリのメッキ加工など、

時計よりも遥かに高い利益率の仕事が増えていったんです。

🔸諏訪、先見の明というか、閃きが降りてきたんですね。

🔹伊藤、私が医療やるって言い出した時、ある医療機器メーカーさんから問い合わせが来たんですが、

全社員ができないって言い張ったんですね。

形状が複雑で微細な医療器具にはメッキを載せられないとか、

人体に悪影響を及ぼすかもしれないとか、

できない理由を並べるわけです。

私が絶対できるって言うと、

「何も知らないくせに偉そうなこと言うな」

と職人気質の人たちがガンガン言ってきたんですけど、

私は負けじと

「できないことは世の中に存在しないし、今できなくても5年後には絶対できる」と。

要するに、できないって言ったらそれでもう終わりだと話をしたら、二名の社員が

「分かりました」

と言って開発に取り組んでくれて、数ヶ月で完成したんですね。

🔸諏訪、それは社員さんの意識改革にものすごく大きな効果をもたらしたでしょうね。

🔹伊藤、そうですね。スイッチが入った瞬間だったと思います。

そういう地道な努力がコツコツと積み上がって、3年目で何とか黒字になったんです。


(つづく)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)

まさかのバトンタッチ④

2017-12-29 09:56:10 | お話
④まさかのバトンタッチ

🔹伊藤、先ほど社長の仕事とは何かをインターネットで検索されたとおっしゃっていましたけど、

実際はどんなことから改革に着手されたのですか。

🔸諏訪、まずは誰よりも会社のことを理解していなければいけないと思い、

総務や経理の部屋に籠って過去30年分の経営資料に目を通し、分析しました。

それともう一つは、社員さんと私の間に一線を引くことにしました。

🔹伊藤、一線を引く?

🔸諏訪、何よりも社員さんに一体感を持ってもらわなければいけないので、

「私 VS 社員さん」

という構図をつくりました。

なので、私は最初に言ったのは

「あなたたちの底力を私に見せつけろ」と。

あえて私を敵にすることで社員さんを奮起させて、

私が出す課題をとにかくクリアしていってもらおうと思ったんです。

実は社長に就任する時に、二代目でなおかつ女性ということで、

銀行さん評価も悪く、合併を持ちかけられまして、

私は半年で結果を出すって啖呵を切ったんです。

🔹伊藤、まさに背水の陣。

🔸諏訪、私は半年しか時間がなかった。

だから、当時はいつ起きていつ寝たのか思い出せないくらい、がむしゃらでしたね。

その上で最初に行ったのはリストラです。

27名と社員さんのうち、設計部門を中心に五名のリストラを敢行しました。

🔹伊藤、社員さんからの反発も大きかったでしょう。

🔸諏訪、ええ。彼らとしては私に社長になってくれとは言ったんですけど、

それはお飾りや象徴としての社長であって、

誰も経営してくれとは頼んでないんですよ。

もう皆さん敵になりました。

ただ、私としてはそれでいいと思いました。

皆さんが一体感を持って改革に取り組んでくれるとことが1番大事ですから。

実際、半年を待たずに、わずか3ヶ月で数千万円の赤字を黒字転換させることができたんです。

それで銀行さんも納得したのか、

文句を言わなくなりましたし、

社員さんも反発したり悪口を言ったり、なんだかんだありましたけど、

誰1人として辞表出すこともありませんでした。

私を信じてくれた社員さんに本当に感謝しています。

🔹伊藤、諏訪さんって表情や口調はとても優しいんですけど、芯はものすごく強いですよね。

🔸諏訪、父にも「おまえは芯が強い」と言われたことがあります(笑)。

で、次に3年計画を立てて改革を断行していきました。

1年目は意識改革で、基盤を固めようと。

要するに教育ですね。

大手自動車部品メーカーで教わったことをアレンジし、

自分で教科書をつくり、それを社員さんに伝えていきました。

「整理とは要るものと要らないものを分けて、

要らないものを捨てること。

整頓とは要るものを使いやすく並べること」

「人は言葉の意味を理解すると行動に差が出ます」

という形で10分間議論をした後、

すぐに現場に下りて、要らないものに全てテープを貼っていく。

一カ月後には4トントラック1台分にもなったんです。

その他にも、5ゲン(現場・現物・現実・原理・原則)主義や、

PDCAなどの考え方を説いては実践させる、

ということを1年かけて繰り返していきました。

🔹伊藤、2年目は?

🔸諏訪、考え方の基礎がしっかりしていれば、その後の応用はいくらでも利くんですね。

なので、2年目はチャレンジの年で、世の中でいいと言われているものをすべてやってみようと。

新しい機械を導入したり、IT化に着手しました。

人間というのはモチベーション高く始めたことでも、続けることが非常に難しいので、

3年目は維持・継続・発展できるような仕組みづくりです。

それまでやってきたことを徹底的に振り返り、無駄の排除と標準化を行いました。

三年が経つ頃には、社員さんが口々に

「俺たち新生ダイヤだから」

って笑顔で言うようになり、

それを聞いた時に、これで三年改革は成功したと。

今度は1年ごとに目標を定めて走っていく段階にシフトしました。


(つづく)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)

まさかのバトンタッチ③

2017-12-28 17:01:27 | お話
③まさかのバトンタッチ


🔹伊藤、諏訪さんはどのようないきさつだったんですか。

🔸諏訪、そもそも私は兄の代わりとして生まれたんです。

兄は白血病を患い、私が生まれる2年前にわずか6歳で亡くなりました。

兄の治療費を稼ぐために、父は親族から人と機械を譲り受けて会社を創業した経緯があり、

次に生まれてくる子供に会社を継がせたいと思っていたんです。

なので、私は男の子みたいに育てられたんですけど、

父からは会社を手伝ってくれとも継いでくれとも一度も言われたことがなく、

私もそれを聞くことで現実になってしまうのが怖くて、

何も聞かずにやり過ごしていました。

ただ、心の中では兄だったらこうするだろうなという思いがいつもあって、

服飾関係の大学に行きたい気持ちもあったんですけど、

父から言われたとおり工学部への進学を選択したんです。

🔹伊藤、生まれながらにして後継者としての使命をお持ちだった。

🔸諏訪、大学卒業後は、父の会社のお取引先様である大手自動車に入社しました。

父からは役員秘書だって言われていたんですけど、

実際は女性初のエンジニア採用で(笑)、

2年間工場の中で修業させていただきました。

同じエンジニアと結婚し、子供を産んだので退社したんですけど、

父から

「会社が大変だから手伝ってくれ」

と言われ、ダイヤ精機に総務として入社しました。

1998年、26歳の時です。

バブル崩壊後、赤字が続いていて、どう見ても仕事量に対して社員が多い。

父にリストラを提案したところ、

「それならお前が辞めろ」と。

半年でクビになり、その後再び会社に戻ったものの、

同じやりとりがあって、

今度は3ヶ月でクビになりました(笑)。

そんな中、私の息子が兄にそっくりだったので、父は

「80歳まで生きて孫に会社を継がせる」

と宣言したんです。

私も女性らしい仕事がしたいと思っていたので、

安心して専門学校に通い直して結婚披露宴の司会をやったり、

パート勤めをしながら、主婦業を謳歌していました。

ところが、2003年に父が肺がんになりまして、

5年生存率は80%ときわれていたにもかかわらず、

半年後に緊急入院したら、

もう4日しかないという話で、…。

亡くなった時は事業継承の準備も全くしていなかった状態でした。

🔹伊藤、突然のことだったんですね。

🔸諏訪、だからほんとに、

「通帳や印鑑はどこにあるの?」

「暗証番号を教えて」

というやりやり取りで最後を迎えてしまって、

次の日にいきなり銀行さんから

「誰が社長やるんですか」

って話があったんです。

まずやはり主人に白羽の矢が立って、

でも主人には後悔しない道に進んでもらいたかったので、

私からお願いすることはしませんでした。

その時ちょうど主人にはアメリカ転勤の話があったため、そちらを選択してもらったんです。

で、社員さんから社長に就任してほしいと懇願されまして。

🔹伊藤、それで引き受ける決断をされたものは何でしたか。

🔸諏訪、周囲の人に相談しましたが、私の場合、イエスともノーとも言ってくれなかったんですよ。

でも、それは今考えるとすごくありがたくて、

それまで自分でちゃんと決断して人生の道を決めるという経験がありませんでした。

ここは自分で決断しなきゃいけない場面だし、

自分が社長をやると宣言した時点で、

この道はワンウェイ、引き返すことのできない道だと。

社員さんみたいに明日辞めますということは絶対にできないですし、

社員さんたちをずっと守らなきゃいけない。

借り入れも背負わなければならないし、連帯保証もしなきゃいけない。

私にそんなことできるのだろうかって思うと怖かったんですけど、

ある女性弁護士さんが

「やってダメだったら自己破産すればいいだけだから」

と言われて、確かにそうだなと。

命まで取られることはないし、前に進むしかないという覚悟が定まりました。

ただ、社長に就任した2004年当時は本当に何をすればいいのか分らなかったので、

最初にインターネットで「社長の仕事とは」って検索したことを今でも覚えています。

🔹伊藤、なんて書いてありましたか?

🔸諏訪、しっくりくるものがなかったんですよ(笑)。

だったら、もう社長じゃなくていいやと。

エンジニアとしての経験を生かして社員さん一人ひとりをフォローしようと思ったんです。

🔹伊藤、結局、自分の得やり方を信じるしかないんですよね。

私はへそまがりな性格なので、あまり人を信用しないっていうか、

例えば誰もが仰ぎ見るような名経営者の本は数多く出ていますけど、

全然興味はありませんでした。

🔸諏訪、すごくよく分かります。

🔹伊藤、もちろん参考になるかもしれませんが、

時代も置かれている状況も違うわけですから、最後はオリジナルで行くしかないと。

私の場合、父と一緒に仕事をしたことがないので、

経営者として父の影響を受けている実感はないんですけど、

その点に関して諏訪さんはどうですか。

🔸諏訪、影響受けていないとずっと思っていたんですけど、

実は影響受けていたんだなと最近わかりました。

というのも、ベテランの社員さんから

「先代に似てきましたね。先代も人を大切にする経営でした」

って言われたんです。

当初私は、父のやり方はダメだと感じていたので、

トップダウン型から意見集約型の構造にしてみたり、

組織の細分化をしてみたり、父とは違うやり方に変えることがモチベーションだったんですけど、

やっぱりやり方は違っても求めているものは一緒だったのかなと。

🔹伊藤、そういう意味で、私の人格形成の原点にあるのは母ですね。

母は私は13歳の時に乳がんだと診断されて、

その後転移して余命1年と言われたんですが、

結果的に8年近く生きたんです。

私が20歳になるまでは死ねないと。

母は死ぬまで絶対弱音を吐かず、

明るく元気で、いつも人に頼られる存在だったんですよ。

🔸諏訪、素晴らしいお母様ですね。

🔹伊藤、そういう強い女性の生き方を間近で見てできたので、

多少なりともその精神を受け継いでいると思います。


(つづく)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)

まさかのバトンタッチ②

2017-12-27 12:42:22 | お話
②まさかのバトンタッチ


🔸諏訪、伊藤さんが社長引き継がれた経緯を詳しく教えてください。

🔹伊藤、父は起業家で次々と会社を作って、事業を拡大させていました。

そんな中、私は何不自由なく育てられ、両親の教育方針で幼稚園からインターナショナルスクールに通っていました。

もともとの計画ではアメリカの大学に行くはずだったんですけど、

母ががんを患い、もう先が長くないということで、日本の大学に進学したんですね。

で、1988年、私が20歳の時に母が亡くなりました。

卒業後の進路を決める際、父は、

「今しかできない道に進めばいい」

と言ってくれましたので、

音楽が好きな私は迷わずラジオのディスクジョッキー(DJ)になったんです。

ところが、母が亡くなった3年後に今度は父もがんで帰らぬ人になってしまいました。

🔸諏訪、立て続けにご両親を亡くされてたんですね。

🔹伊藤、当時は私の会社の経営に関わる意識は全くなく、

会社の人が引き継いでやっていくものと思っていましたので、DJの仕事を続けました。

その後、30歳を機にもう一つの夢だった宝飾の仕事やりたいと思って、資格を取るためにアメリカへ渡ったんです。

1年後に、資格を取得したちょうどその時、日本から連絡があって、

「日本電鍍(でんと)が倒産する」と。

アメリカで就職先もほぼ決まっていたので、

帰り気持ちは全くなかったんですよ。

ところが、すぐ帰らざるを得なかったのは、住んでいた家が競売にかけられるので、私物を撤去してもらいたいと。

日本に帰ると、当時の社長があまりにも無責任で、話し合いの場にも出てこない。

面会謝絶で入院したりして、どこにいるか分からない状態だったんですね。

父が社長していた時は業績も良かったですし、父は経営方針として絶対に手形を送り出しませんでした。

けれども、後任の人が手渡バンバン振り出してしまったんです。

最初は誰か救ってくれる人がいるかなとすごい甘い考えだったんですけど、

会社に行くにつれて社員との距離が近くなり、社員の後に家族が見えてしまって、これは守らなきゃいけないと。

🔸諏訪、社員さんとそのご家族を守るために。

🔹伊藤、自分にできるかわからないけれども、私はここまで育てられたのも両親と家族がいて、

そして会社があり、社員が働いてくれたおかげだから、何とかしたいと思ったんです。

🔸諏訪、その頃、社員さんは何名ほどいましたか。

🔹伊藤、48名です。3〜4億円の売り上げのところ、十数億円の借金がある上に、

整理回収機構が入っているので銀行さんは手を引いちゃって、

資産も全部売り尽くされて、残ったのは今の工場と私が住んでいた家だけ。

もう二進(にっち)も三進(さっち)も行かなかったんですが、

たった1度の人生であれば勝負をしてみようと思って、

帰ってきた翌年、2000年3月に32歳で社長に就任したんです。

友達のお父さんで経営者が何名かいたので一応相談したら、

悉(ことごと)く、やめろって。

それは当然だと思うんですけど、1人だけ

「麻美ならできるだろう。

2〜3年地獄恋を見て来い」

って言われたんですね。

3年地獄を見たら4年目から天国かなと思ったことも後押しになりました。

ただ、社員は全然歓迎しませんでした。

私も社長に就任することで、この世の終わりだと思ったらしいです(笑)。

全くメッキのことを知らなかったですし、

日本の学校に行っていなかったので、おへそを出した服で会社に行っちゃうような変わった人間でしたから(笑)。

それでも6年後に、借り換えができたんです。

いま振り返ると、会社勤めもしたことがなく、メッキのことも何もわからなかったからこそやれたのだと思います。


(つづく)

(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)