hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

2018-04-30 09:13:30 | ひとりさん
①縁


1人さんは、こんな話もしてくれました。

「この不思議な話は、信じられない人は信じなくてもいいんだよ。

『どうしてそんな不思議なことがわかるんですか?』
って聞かれても、わからないの。

ただ私は、

『人間は生まれ変わる』

っていうことと、

『神様がいる』

っていうことだけは知っているの。

神様が決めた運命(さだめ)っていうものは、
トントン拍子で進むようになっているんだよ。

りえ先生が岡山まで弟の純さんの観劇に行っているあいだに、
みっちゃん先生が、福島のいわき市の『夢ざくら』で純弥さんが舞踏ショーをやっていることを調べてくれたの。

りえ先生の実家はいわき市なので、すぐみんなで一緒に行って、
そこで純弥さんに会ったというわけ。

しかも、その『夢ざくら』のオーナーがりえ先生の大ファンだったの。

つまり、私と純弥さんとは、縁がつながるようになっていたんだよね」

ぼくは、前からぼくのことを応援してくれている「夢ざくら」のご家族の方が、
奇しくもりえ先生のファンだったという不思議な事実に驚きました。

さらに、1人さんはこう続けました。

「よく、『縁ってなんですか?』って聞く人がいるけど、
縁は今世だけのものじゃないんだよ。

そして、『つなぐ人』がいて、はじめてつながるものなの。
誰か1人でも欠けたらダメなんだよね。

縁に、いいも悪いもないの。

なかにはいやな悪い縁もあるよ。

でも、人はそこから学ぶことができるの。

縁っていうのは学びなの。

いい人と会って感謝や絆を学ぶといい縁になるし、
いやな人と会ってそこから離れたり、避けたりすることを学ぶと、
それもいい縁になるの。

いい縁が自分に来ているのに感謝しなかったり、
大切にしなかったりすると、
だんだんその縁は遠のいていってしまうし、

悪い縁なのに離れることや避けることをせずにいつまでも手放さないと、

それが自分の心に住み着いて離れなくなってしまうんだよ」

一人さんにそう言われたぼくは、幼いころから今までに出会ってきた、
さまざまな「縁」ことを思い出しました。

その瞬間、今まで出会ってくれたすべての人に感謝するとともに、
これから出会う縁を、より一層大事にしていこうという大切な気持ちが芽生えたのです。

感謝の気持ちに包まれているぼくに、一人さんはこう言いました。

「それとね、これはとても大切なことなんだけど、
『良縁』っていうのは、一生懸命さが呼び寄せるの。

だから、純弥さんと私たちとの縁がつなったのは、

きっと純弥さんの一生懸命さを、
神様がちゃんと見えていてくれたからだと思うよ」

そう言われたぼくは、一人さんと出会えたことに、心から感謝の気持ちがわいてきたのでした。


(「斎藤一人 良縁」恋川純弥さんより)

🌸🌸トリプル介護🌸🌸②

2018-04-27 17:21:47 | お話
🌸🌸トリプル介護🌸🌸②


(かのこさんお一人でも大変ご苦労なさった上に、ご両親の介護🌸も重なったわけですね)

そうなんです。最初に少し触れましたが、

阪神・淡路大震災💢の翌年に、父が大分の実家🏠から電話📞をかけてきて、

母👵が自分の髪の毛を切って✂️燃やして🔥いると。😵

お風呂🛁の水💦は出しっぱなし、鍋は火🔥にかけっぱなしで、

「死にたい、死にたい💀」と言って、起きてこない。😵

病院🏥で診てもらったら、

認知症😵と鬱💀を両方患っていたから、ずぐ帰ってこい✊と父は言うわけですよ。

けれども、最重度の障がい💢を持っているかのこを施設に預けたら、

環境の変化🔄によって一晩🌌でストレス💢で胃に穴が開いて😵亡くなってしまう😇こともあるんですよ。

ですから、父には「帰れない🚫」とハッキリ🌟言いました。

(あぁ、帰れないと)

その代わり、一週間まとめて、2人の食べるもの🍱を作って冷凍❄️して、送り💨🎁ました。

それから、笑う😊ことが体にとてもいい💕と言う話を聞い👂たので、

毎日一枚、ハガキ✉️には「くすっ」と笑える😊話と絵を描いて送ることにしたんです。

(絵心はあったのですか?)

ないない(笑)。必要に迫られて描いた🎨だけです。

といっても、娘の介護🌸で行動範囲も限られて⚡️いるから、ネタはすぐ枯渇😵してしまう。

日々☀️の出来事ひとつひとつの中から、毎日、目👀を皿のようにして面白いこと😍を見つけださなければいけません。😊

知人にも頼んで、必死⚡️になってネタ📰を探す日々が、

両親の呼び寄せるまで、13年と11ヶ月続いたんです。😊

おかげさまで、母の状態🌸もだんだんまし✨になってきて、

4年目には、うつも認知もなくなり☁️、

先ほどお話ししたように、作家デビュー🌟まで果たしたわけです。

(お母様への一途な想いが、5,000枚ものハガキ✉️となり、奇跡🌟を起こしたのですね)


本当は、やめるのが怖かった😱んですね。😊

そういういいこと🌟は続けないと、前より悪くなると新聞📰に書いてあったので。😊🎵

自分にはできないことが多過ぎるから、
できることを200%やってみようって。😊✊


(ところが、その後、トリプル介護が始まったと)

そうなんです。母が電話で

「日本中🗾探して、いい養老院🏡があればそこへ行くことにした」

と言うので、それなら私がお世話🌸をしたいと考えて、

同じ団地に部屋🚪を借りて2人を呼び寄せたんです。😊

平成20年でした。

そうした3ヶ月後には、母がお風呂🛀から出られない😵と言う。

脳梗塞🌸を発症していたんですよ。

おまけに父は、4年後から認知症😴の症状が出始めました。

夏の暑い日に「寒い、寒い😨」と言ってエアコンをつけないんです。

リハビリ中の母が熱中症🔥で倒れてしまって、😵

私のところに預かったら、

大好き💕な妻を取った悪人😈にされて、

そこから、私への暴力✊💢が始まりました。

剣道の有段者🌟ですから、バシーッ💥て叩かれたら、

次の日には紫色に腫れ上がって😵いましたもん。

一所懸命💓お世話しているのに、

何でこんな目に遭わなければいかんのって…😵

怒りが😠、こみ上げてくるんですよ。


(辛い状況でしたね)

娘のヘルパー💕さんが、以前老人施設🏢にいた方で、老人👴👵を知り尽くしていましたね。

父の言うことを否定🚫したらいけないと。😊

「オレは寒いんだ」

と言ったら、

「あぁ寒いのね。大変だね💕」

「俺の財布を取ったろう」

と言ったら

「財布をなくなったんやね。一緒に探そうか💕」。

いつもの2倍ゆっくりと肯定🌟してあげなさいと。😊🎵

私は、そこで初めて、

人を受け入れる☀️ことを学び✊ました。

(あぁ、人を受け入れること)

それまで私は、泣いて😢いる若いお母さんたちを、

「頑張れ✊」

って励まして✊しまう人だったんです。

「辛かったやろうな。ようわかるよ💕」

って、受け入れができていなかった。😊

でも、私が態度🌸を変えた🔄ことで父は、

「いつも、おいしいご飯🍚をありがとう🙏」

とか、

「あんたさんを叩いた💢らしいが、悪いことをしたな😊」

とまで言ってくれるようになったんです。😊

そうして、8年間の介護🌸を経て、父は平成28年に97歳で亡くなり😇ました。

大好きな妻🌸より先に死にたい。

家🏠で苦しまずに死にたいという思いを全部まっとうして、

老衰💀で自宅で新聞📰を読みながら逝きました。☁️😇☁️


亡くなっても耳👂は聞こえているっていうので、

「お父さん、私に人生で大切な、寛容🌸、容認☀️の心を、身をもって教えてくださって、本当にありがとうございました😊」

って耳元で言いました。😊


(その後は、お母さんとかのこさん、お二人の介護を続けておられるのですね)

はい。かのこは、若いリハビリの先生のおかげで、7年かけて意思💓の疎通⚡️ができるようになりました。

私は最初の頃

「ムリやから、先生」

って言っていたんですが、

先生は

「お母さん、なんで諦めるの?」

と。

後から、母である私の無理解に1人で泣いた😢こともあると知って、

とんでもない親やったな😵と反省しました。

実際、かのこは手を握ったり✊開いたり✋することで、会話🎵がどんどんできるようになりました。😊

「これまでたくさん発作💢を起こして、しんどかったな🎵」

って聞いたら

「違う⚡️」

と。

「自分の思ってることを、ちゃんと表現🌸できないことが、しんどかった。😊

でも、いまは楽しい💕」

と言うんです。

究極✨の会話は、

「お母さんがいなくなったら大変だね😊」

って言ったら、

「大丈夫。若い人に介護🌸してもらって、私は楽しく💕暮らしてききます✊」

と(笑)。

(目覚ましい成長🍀ですね)

さらにありがたいことに、

母に5,000枚のハガキ✉️を書いたいきさつが

『キセキの葉書』という映画🎥になったんですけど、

すぐに打ち切り⚡️になると思っていたら、大ヒット🌟したんです。😳

同じ方が、ご家族🌸や仲間🍀を連れて何回も見に来て下さるので、会場はいつも満杯🌸で。

養護学校🏫の車椅子の子たちを連れてこられた方は、

君たちが家族🌸の希望✨なんだと伝えたかった💕と。

こうしてヒット🌟しているのが考えても分らないんです。

あえて言うと、本📖にしようとかヒット🌟させようとかいう思いはなかったんですね。😊

(ご本や映画をヒット🌟させたいという思惑はなかったと)

最初にも言いましたが、もともと5,000枚のハガキ✉️を本📖にするつもりは全くありませんでしたしね。😊

映画🎥の舞台挨拶🎵でいつも言うんですが、

母に書いた5,000枚のハガキ✉️は、

誰も知らない洞窟🌑の中で、

ポチョーン💧、ポチョーン💧と
水滴💧を落としていくような営み🌸でした。

誰も知らないけれど、

いつか洞窟🌑が水💦で満杯🌸になると、

出口を求めて自然🍀に地上に噴き出して⛲️、

みんなの目👀に触れる💕ものなんですね、と。


(そこまで続けられたら要因🍀は何ですか)


たった1人の母🌸を助けることもできないで、

何が文章📝を生業🍀とするだと。

だから、配達してくださる郵便局🏣の方も、つい読んでしまうような面白い💕ものを書こうと。✊

その積み重ね⏫で、ここまできたわけで、

映画化は降って湧いた話ではあったけども、嬉しい💕ことでした。

(まさに、利他によって開けてきた人生🍀と言えそうですね)

かのこと映画の舞台挨拶🌸に行った時は、

「いま入ってきたのが原作者の娘さんの、かのこさんです」

ってスポットライト🌟を浴びて、娘は握手や写真撮影📷を求められました。🌸

あんなキラキラ✨したかのこを見たことはなかったので本当に感動💓しました。😍

生きてきたことを肯定🌟していただいたのです。☀️


いま、私の人生🍀のどこを切り取っても、
かのこに教えられて導かれて💕きたことがよく分かり🌟ます。


(介護🌸をしてきたかのこさんに、ご自分が教えられて🌸きたと)


作家📝としても、かのこがいたから普通とは違う闘い✊もあり、思い🌀もあり、

書く内容も、何が大事かが確立🌟されてきたんでしょうね。😊

かのこに学んだのは、息子も同じです。

私が

「かのこを施設🏡に預けたい😵」

と弱音を吐いた時、当時中学生🏫だった息子から、

「かのこは物じゃないんやで、可哀想じゃないか! ✊

お母さんが面倒を見られないならいいよ、

僕がおんぶして学校🏫に行く」

と言われて、

胸を突かれ⚡️ました。

息子はいつもかのこの味方🌸でした。


彼は自分でお金💰を貯めてアメリカ🇺🇸へ行きました。

日本では皆がかのこをジロジロ見る👀のに、
向こうでは、障がい者が好奇の視線に晒(さら)されないことに感動💕したと。

いまカンザス🌇で障がい児教育🍀に携わっています。

昔は不幸の種😵のように周りから言われていたかのこは、いまはダイヤモンド💎の種✨になりました。

山崎で

「あんたが変わらなければあかん」

と言われた本当☀️の意味🍀を悟った時から、

石ころがダイヤモンド💎に変わった🔄んですね。😊🎵


(真の利他に目覚めた🌟時から、すべてが変わったのですね)


介護🌸のあり方というのは、10人いたら10人違います。😊

利他と言うのは、どういうことを言うんだろう?

介護🌸される方だけが、幸せ💕になると言うのは、無理⚠️があると私は考えています。

どうやったら喜んで💕もらえるのか?

守れる✊のか?

考えて🌀、実践🌸して、

挫折😵して、

また、学んで✊いく中で、

自分自身も打たれ強く😊、したたかで✨、

とてつもなく豊かな👑心💓になっていいることに気づく🌟んです。😊

自己犠牲⚡️ではなく、

両方幸せ💕になることが、勝利👑でしょうね。😊🎵


(おしまい)

(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)

🌸🌸トリプル介護🌸🌸①

2018-04-26 17:08:41 | お話
🌸🌸トリプル介護🌸🌸①


(脇谷さんは、ご家族3人の介護🌸されながら、ラジオ📻のパーソナリティー🎤や執筆活動✒️をしてこられたそうですね)

FMラジオ📻のパーソナリティー🎤を始めたのは、平成17年でした。

脳性麻痺🌀の "かのこ"(娘の名前)が気管切開🌸して呼吸器をつけた頃で、

介護🌸がものすごく大変😵だったんですが、

たまたま娘がお世話になっていた園の隣にあるスタジオ🎤で、

地元西宮のコミュニティー番組をやっていましてね。😊

出演🌸の依頼を受けて、娘の介護🌸のお話🎵をしたら、

アナウンサーの方が心配😨なさるので、

「いやいや、諦めることはないですよ」

って。

「実は私、実家でうつ病になった母🌸を喜ばせるために、五千枚(放送当時は3,000枚)、毎日☀️ハガキを書き続けたら、よくなって、😊

母は、そこから作家✒️にまでなったんですよ」

という話をしたんです。😊🎵

そうしたら、しばらくしてラジオ局📻から

「番組をやりませんか?」

ってご依頼🌸をいただいたんです。😊

私と同じ重度🚨の障がい児😷を持ったお母さんの中には、

夜中🌌に熟睡しないようにラジオ📻やテレビ📺をつけっぱなしにして寝る💤方がたくさんいらっしゃるんです。😊

お子さんが発作💥を起こした時、すぐ気づかないといけませんから。😊

番組では、そういう皆が知らない親の苦しみ😩、悲しみ😢をいろいろお話🎵しするんですが、

早いものでもう13年ですよ(笑)。

(いま、お母様に5,000枚もハガキ✉️を書いたとおっしゃいましたね)

ええ。阪神・淡路大震災💢の翌年に、大分の実家🏠にいた母がうつ病😨と認知症😵を発症🌟したんです。

娘のかのこを抱えていたので家を離れることができなくて、

代わりに毎日一枚、「くすっ」と笑える😊話をハガキ✉️に書いて送ることにしたんです。

それを13年と11ヶ月かけて、5,000枚描き続けたんですが、

おかげさまで、母はうつ病も認証もなくなり😊、

おまけに元気🍀になって、書いた作品が出版社🏢の目に留まって👀、

77歳で作家デビュー🌟まで果たしたんです。

そのハガキ✉️は、とにかく母に治って欲しい🙏一心💓で書き送ったもので、

公にする気は全くなかったんですけど、

母がすべて保管🌸していたので、
私が本📖にすることになりました。

ところが、その後で、

両親を大分から呼び寄せたら、

次の年に、母が脳梗塞⚡️で倒れ、
4年目に父が認知症😵を発症しました。

かのこと併せてトリプル介護🌸の生活が始まりました。😊☀️

そういう体験🌸を、エッセーにまとめて新聞📰に連載したり、本📖にしたりしてきたんです。😊


(もともと書くことはお好き💕だったのですか)

小さい頃、幼稚園🏡に行かないで小学校🏫に入ったら、

いじめ✊の対象になって😵、いつも図書館に逃げ込んで🏃💨本を読んでいるうちに、詩や童話を書くようになったんです。😊

高校🏫の時に、雑誌📖の詩のコーナーで詩人の丸山薫さんに選んでいただいて、

書くことに自信🍀を持つようになりましたね。

学校🏫を出て航空会社✈️に勤務🌸した後に結婚退職して、一男👦一女👧に恵まれるんですか、

28歳で出産🌸した長女の かのこ は2ヶ月くらい経っても目👀でものを追わなくて、

大きな病院🏥で調べてもらうと、

脳性麻痺🌀だということが分かり🌟ました。

周りからは、

「そんな大変な子を育てられるわけがないから、施設🏡に預けなさい💢」

と散々☁️言われましたが、

私は、どうしても✊自分の側で、育てたかった。✊😊

もちろん不安😱でした。

ちゃんと育てられるかなって。😊

(それでどうなされましたか)

どうしていいか分からなくて、診断📊を受けた日、

かのこ👧を抱っこし、長男👦の手を引いて行ったのが、

筋ジストロフィーの息子さん👦を育てた地元で有名🍀な女性🌸のお宅🏠でした。

その方は、

私がワンワン💦泣いて😂いる間に

「おめでとう🌟、よかったね。💕

ここから、あんたの、ほんまもんの人生🍀が始まるんだよ😊」

って言うんです。😵

「ほんまもんの人生なんか、いりません😭」

って泣き続ける私に、

「私たち家族🌸は、筋ジスの息子👦がいたおかげで、

いまがある🌟と思ってるんやで😊」

と話してくださいました。😊🎵


当時の障がい児🌀は養護学校🏫にも行けず、
病院🏥か家🏠で暮らすしかなかったそうです。

ご夫婦👪は、息子を絶対に手放さない✊ことを決意🌟して、

優秀な専門医🏥をつけ、家庭教師🌸をつけるために、

介護🌸をしながら必死⚡️で働く🍳🍴のです。

あいにく、その子は16歳で亡くなり😇ましたが、

その間に、家業🌸はどんどん盛り上がった⤴️というんです。

「あんたも、絶対😊幸せ💕になれる。

頑張れるか?」

と言われて、

私も

「がんばります✊」

と答えるしか、ありませんでした。😊


(その女性との出会い🌟が、大きな転機🔄になったわけですね)


私の心💓の内をすべて披瀝🌈✨できる人でした。

そして、かのこをなんとしても歩かせたい✊と思って週三回もリハビリに連れて行くようになったんです。😊

ところが1年経ち、2年経つうちに病状はどんどん悪く😵なって、

発作💥や肺炎💢を繰り返して
月に1度は入院🏥するようになったんです。

周りには精いっぱい✨明るく☀️振る舞っていたんですけど、

心💓の中は

「幸せ💕になると言われたのに、

どんどん不幸になっていくやんか😨」

と思うわけです。😊

(逆に状況は厳しく⚡️なったと)


娘につきっきりで、3歳の息子👦は放ったらかし☁️です。

12月のある日、入院中の病院🏥から、夜電話してみたら

「寒いよ、お母さん…😨」

と。

慌てて💢タクシー🚕で戻ったら、
こたつに首まで潜り込んで震えて⚡️いたんです…。

「こんな時くらい家🏠にいてやってよ」

と、夫を責めたり💥もするようになるんですよね。😔

娘と息子の間で、体が張り裂け💢そうでしたし、

娘ももう十分苦しんだから、心臓💓を止めて⚠️楽にしてやってください🙏って思う時もありました。😔

1人になると、泣いて😢いました。


冬⛄️の日、

バス🚌に乗ると「音🎵刺激」で娘が発作💥を起こして、

泣き叫ぶので、バスに乗れず、

粉雪⛄️の中、娘をおんぶして息子を抱いてバス停をいくつも歩く👟👟わけです。

横の国道、大きなトラック🚚がゴーゴー走って、

「あ〜、50センチ車道に入ったら、全てが終わる」

と、思ったこともありました。😵

人間🍀って不思議なもので、

魔😈がさすっていうのか😵、、、

何メートルが歩くと、

これ以上、不幸にはならないだろう✊と笑えて😊きたものです。


(どのようにして乗り切られたのですか)

唯一本音🌸を吐けたのが、先ほどお話しした筋ジスの息子さんを育てた女性🌸だったんですけど、

いつ訪ねても

「あんたが、変わらなければ、あかんのやで😊」

とおっしゃるんです。

私はいつも周りの人に明るく☀️振る舞っているのに

「あんたが変わらなければあかん」

と。😵

かのこを京都の病院🏥へ連れて行くためにJR京都線🚋に乗っていたんですね。

発作でいつ泣き出すか分からないので、

いつもすぐ降りられるようにドア🚪のところに立つようにしていました。

山崎駅で電車🚋が止まって、外を見たら、

田んぼが緑🍀の絨毯のように広がっていたんです。

その間の道を、赤い車🚗が走っていく。

思わず

「かのこちゃん、あの車🚗の中には幸せ💕な家族🌸が乗っているんやろうね🎵」

って呟(つぶや)いていました。

その時、初めて気がついたんです。🌟🌟🌟

「あ、私は、自分のことをメチャクチャ不幸や😵と思ってるんやな🌟」

と。😊

(それまで自覚🌟がなかった)


心💓の奥に押し隠して🌚いたんでしょうね、😊

無意識に、いい母🌸を演じていたんでしょう。

そして、

「変わらなければあかん✊」
というのは、

心💓の闇🌚の部分だったんだなと。😊

いくら表面を取り繕っても、

私の本質⚡️は、かのこが生まれた瞬間🌟から、全く変わっていなかったことに気づいた🌟んです。😊

その山崎で、私は

「変わろう✊」

と誓い✨ました。😊

かのこが歩けないからって何が悪いの。✊

歩けなくても、世界一🌏幸せ💕な子にしてやろう。😊🎵

夫も、私が精いっぱい✨助けて、一流👑の学者🏫にしよう。

そして私も、諦めていた文章📝を書いてお金💰をもらうことに、もう一回挑戦🌟しようと。😊✊

結果的に、息子は元気🍀に成長してくれましたし、

夫は大学教授🏫になり、

私も機会に恵まれて作家デビュー🌟を果たすことができました。😊🎵

それもこれも、全部、あの山崎の誓い✊✨があって実現🌸したことです。


(まさに人生🍀を変える🔄転機🌸となったわけですね)


私を叩き💢直して💫下さった女性🌸は、

2年前に亡くなり😇ました。

生前、

「『あんたが変わらなければあかん』

という言葉🍀に支えられました😢」

ってお礼✨を言ったら、

「あれは、私の言葉🍀じゃないねん」

っておっしゃいました。😊

ご自分が筋ジスの息子さんを抱えて泣いて😢いた時に、

先輩🍀のお母さん🌸から言われたんだと。😊🌟

あぁ、力✊のある言葉🍀って受け継がれていくんだなと思って、

私もいま、障がい児😵のお母さんが相談🍀に見える度に

「あんたが変わらければ、あかんよ😊」

と、お伝え🎵しているんです。😊☀️


(つづく)

(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)

🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢②

2018-04-24 14:02:22 | お話
🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢②


神戸を出発した陽明丸🚢は、ウラジオストックに向けて出発🍀しました。

1920年7月、子供たちや教職員を乗せた陽明丸は、中継地であるサンフランシスコ🇺🇸に向けて太平洋を東へ➡️と進みます。

最初に立ち寄ったのは、室蘭🌸でした。

室蘭の小学校🏫で両国の子供たちが交流する写真📷が現存🌟していますが、

ビザも何も持たない難民が、なぜ敵対国だった日本🇯🇵に上陸して楽しく交流🔄できたのか。

これもまた大航海の謎👽の1つです。

8月1日には、サンフランシスコに到着し、
その後、パナマ運河を経由🌸して、

8月28日にニューヨーク🇺🇸の港に碇(いかり)を下ろします。

ワシントン🏤のアメリカ赤十字本社🏥から、厄介な報せ🎵が、無線電話で陽明丸にに届いたのは、そういう時でした。☀️

「陽明丸は、直接ペトログラード方面には向かわず、当分の間、フランス🇫🇷に停泊する」

というのです。

フランス🇫🇷に向かおうとしたのは、子供たちの親たち👪が、既にフランスに脱出💨したという情報📡を赤十字🏥が得て✊いたためですが
(後に、それはごく少数と判明🌟)、

陽明丸🚢に乗っていたロシア人🇷🇺教師たちは、これに強く✊反対💢します。

フランス🇫🇷は、ロシアの敵国ポーランドを軍事💣支援🌸している国で、

子供たちが人質😵となることを懸念したからです。

結局、最終目的地🌟はフランスではなく、
ペトログラードにほど近いフィンランドのコイビスト港🚢に決定🌟しました。

ところが、

フランスで燃料🔥を補給🌸し、フィンランドに向かう陽明丸🚢は、

ここで最大🗻の試練⚡️に直面します。


バルト海🌊は北海🌊と同様、第一次世界大戦中💣、連合国海軍とドイツ海軍が激戦💢を繰り広げた海で、

おびただしい数の、機雷💣が敷設されていたのです。

800人の子供たちを乗せた大型船🚢が、危険⚠️極まりない海域を無事🌟に抜けることができるか否かは、

ひとえに、茅原船長🍀の指揮👆能力🌸いかんにかかっていました。

バルト海🌊航海に臨むにあたって、茅原船長🍀は、

まず、機雷💣の実態🌸に詳しい地元の熟練🔧のパイロット(水先案内人)を探し出し👀て、協力🌸を求め🙏ました。

茅原船長🍀や水先案内人🌸をはじめとする船員👮たちは、

24時間🕛態勢💢で目👀を皿のように凝らし、

全神経⚡️を水面に集中🌀させながら、ゆっくりと船🚢を進め、

約1週間をかけて、

無事🌸コイビスト港に投錨⚓️するのです。

この辺りのいきさつは、茅原氏の手記📝には詳しく記されていませんが、

心身ともに極限⚡️状態🌸を強いられる持久戦✊だったことは、想像に難くありません。😊🎵


茅原氏は、このような卓越した能力🌸の持ち主🌟でありながら、

一方では、とても優しく💕あったかい♨️人柄だったことが、彼の手記📝からは窺い知る🌟ことができます。

例えば、ウラジオストックからの船出の部分は、以下のようです。


「大陸 露西亜(ロシア)に生まれて露西亜に育った小児達👦👧だ。

はじめて海🚢に出た嬉しさ💕と珍しさに、歓喜💕🎵を上げて騒ぎ回って喜んで居た。😊🎵

嬉しい💕のか、騒げ、薄幸の小児達!

せめてこれが、幸福🌸への、航路の旅であることを祈りたいぞ!」

この茅原船長🍀の言葉のように、
戦争💣や飢餓😵を経験し、死💀の恐怖😱に怯え続けた子供たちにとって、

陽明丸での3ヶ月の大航海🚢は、文字通り幸福💕な楽園🌸だったようです。

赤十字🏥の潤沢な資金💰によって船内には食べ物🍴🍕や衣料👕がふんだんに積み込まれていたのですからそれだけでも別世界🌁でした。😊


彼らが帰国後に、ずっと隠し持っていた数々の写真📷からは、船上生活🌸の喜び💕が伝わってくるようです。

当時、茅原船長🍀は35歳。

子供たちにとっては、頼もしい父親🍀であり、兄🍀のような存在🌟であったに違いありません。😊🎵


陽明丸🚢の偉業🌸については、この100年間、誰にも語られることがありませんでした。😊🎵

時は日露戦争💢のすぐ後であり、
加えてロシアが社会主義🌸となったことで、

日本🇯🇵では、静かに葬られて💀しまったのです。

すべては、心💓ある日本人🇯🇵とアメリカ🇺🇸赤十字🏥の間で秘密㊙️裏に決行✊された大救出🌸作戦⚡️でした。

陽明丸🚢に関する文献が希少な理由🍀はそこにあります。

もちろん、陽明丸🚢に関わった主要人物🌸が自分の足跡👣を残すことを潔し✨としなかったこともまた、

貴重な史料🌸が少ない😵一因であることは間違い⚡️ありません。

例えば、勝田船主👑は俊敏⚡️かつ短気。

侠客🔪の親分🌸のような毅然とした潔さ⚡️の持ち主☀️でした。

恵まれない社会的弱者😵には、慈父👨のように接し、救助の手✋を差し伸べました。

陽明丸🚢に限らず、教育事業🍀や国民のための社会事業🌸には

巨額の寄付💰も躊躇せず、度々行っています。

その一方で国際主義💚、平和主義❤️の信奉者💕でもありました。

勝田船主の評伝🎵に目をとおすと、

お金💰は天下の回りもの🔄であり、あの世😇まで持っていけるものではないこと、

儲かったお金💰は、すべて吐き出し💨
人々の喜び💕のために使ってこそ意義🌟があること、

自分は終始一貫そのような態度🌸で船会社🏢の経営に当たってきたこと

などが、繰り返し🔄綴られて📝います。


その言葉🍀の如く、勝田船主👑は不景気の煽り😵を受けて船会社が倒産💢、

広大な敷地の邸宅が没収💫されも、

そんな憂いなど、どこ吹く風☁️☁️といった様子🌸で、

小さな一軒家🏠を建てて、晩年まで暮らすのです。😊🎵

地位👑や名誉🌸、財産💰に恬淡(てんたん)として生き抜いた⚡️その人生🍀は、

好んで揮毫(きごう)した、

「敬天愛人(天を敬い人を愛す)」

という言葉🍀に、何よりも象徴🌟されているようにも思います。😊☀️

あるいは青山学院🏫の大学時代に学んだキリスト教✨思想の影響🌝があったのでしょうか。😊


多大なリスク🚨を背負い✊ながらも、

勝田船主👑や茅原船長🍀を、

この救援🌸の大航海に駆り立てた🔥ものは、何だったのでしょうか。☁️

難民😵となった子供たちを、何とかして救わなくてはならない✊という使命感💓、責任感🍀はもちろん大きかったはずです。

しかし、私は人間の欲望💓の中で最後まで残るとされる生への執着✊、

それさえも捨て切った⚡️凄まじい🔥までの、🌟覚悟🌟ではなかったと思えてなりません。😊✊

それは戦争💣で常に死💀と直面🌟し続けてきた男たち👨👴だからこそ、培われていった強さ✊、潔さ✨だったのでしょう。😊💕


彼らの共通🌟して併せ持つ
「義侠心💓(ぎきょうしん)」は、

今回のテーマでも「利他に生きる🍀」こととも重なり合う⏬ものです。

先述のとおり、陽明丸🚢については、まだまだ多くの謎👽が残されたままです。

私はこれだけの大航海🚢を実行に移す上では、別の有力者👑がいたのではないかと見ていますが、

そのことを含めて研究テーマ📝には事欠きません。

陽明丸🚢の真実🍀を突き詰めていくことともに、

100年ぶりに明らか☀️になった誇るべき日本人🇯🇵の偉業🌸、彼らの利他の生き方🍀について、

これからも、語り継ぎ🎵ついていきたいと思っています。😊🎵


(おしまい)

(「致知」5月号 北室南苑さんより)


名もなき、偉大🌸な先人たちが、日本には、たくさんいたのですね。😍💓

🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢①

2018-04-23 10:50:35 | お話
🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢①


人生では特に全く予想もしない😵出会いが訪れ、

その出会い🌟によって、思ってもみない方向👉に運命💓が導かれることがあるものです。😊

オルガ・モルキナとの出会い🌟は、まさにそうでした。😊

2009年9月、ロシアの古都・サンクトペテルブルクで、篆刻(てんこく)の個展🌸を開いていた時、

1人のロシア人🇷🇺中年女性🌸が近づいてきて、唐突に⚡️

「あなたのお名前は、キタムロさんですよね」

と英語🔤で話かけてきたのです。

「ええ、そうですが😊」

「お名前のキタムロと、室蘭🌸とは何か関係があるのでしょうか」

彼女は私の名前に「室」の字が入っていたことで、

北海道の室蘭🌸と何か関係があるのではないか、と思ったようなのです。😊

石川県🍀で生まれ育った私にとって、
室蘭🌸は何の縁もない土地🍀です。

あまりに突拍子もない😵質問に

「いいえ」とそっけなく答えましたが、

彼女は、そのまま強い✊口調👄で話を続けました。

「実は、ある人物🍀を探しているのですが、少し話を聞いてもらえませんか… 」

この時の彼女の話🎵、そこで手渡された資料📑の内容は概略、以下のようなものでした。📑


1920年頃のロシア革命⚡️後の混乱期🌀、戦火🔥を逃れるために、

当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)から、東に数千キロ離れた日本海沿いのウラジオストックまで避難し💨、

難民となった約800名の子供たち👦👧がいました。☀️

子供たちは「ヨウメイマル」という日本船🚢に乗ってウラジオストックを出発。

太平洋、大西洋を船🚢で横断し約3ヶ月の大航海🚢の末に、
無事、ペトログラードの両親👪のもとに帰還↩️します。

子供たちにとって、この大航海🚢は終生🌸忘れられない幸せ💕な思い出となり、

その体験談🌸は子孫に語り継がれてきました。😊🎵

私に声🎵をかけてきたロシア人女性オルガノの祖父母は、ともにヨウメイマル🚢によって救助された子供たち👦👧で、後に結婚💒。

その時の体験🌸を、まるでどこかの国のおとぎ話🎠のように孫のオルガンに話していたといいます。😊

おとぎ話🎠のように、というのは、

圧政下💢のソ連では、自国の子供たちが資本主義・日本🇯🇵の船に救われるという屈辱的な出来事🌟は、

口にすることさえタブー視😈されていたからです。

ヨウメイマルはウラジオストックを出た後、まず室蘭🌸に寄港して現地の子供たちと交流🔄しています。

オルガが、室蘭🌸と北室は関係があると思ったのは、そのためでした。😊

そのオルガが私に依頼🙏したのは、

祖父母👴👵の話の中に度々出てくる、
カヤハラという日本人船長🍀に関する調査📝でした。

祖父母が慕って💕いたカヤハラ船長の墓参り🙏を果たし、

助けていただいたお礼✨を子孫に伝えたい💕というのが、オルガの切なる⚡️願い🌟だったのです。☀️


私にしてみたら、見ず知らず😵の外国人からの一方的⚡️な頼み事🙏ですから、丁寧🌸にお断り⚡️することもできました。

事実、これまで何人もの日本人🇯🇵は、オルガの依頼🌸を断った✋といいます。

しかし、その真剣⚡️な眼差し👀に何かを感じた私は、

ホテル🏨に帰ってから英文🔤で書かれたA4の用紙3枚の資料📑に丁寧に目👀を通してみました。

読めない部分もありましたが、

「これは、すごいことだ🌟」

とわかりました。🌟🌟🌟

そして、帰国するまでヨウメイマルのことがずっと頭🌀から離れる☁️ことがありませんでした。😊

幸いというべきか、私は専門の書道✒️に限らず、1つのことに強い関心💓を寄せると、

時間を忘れて没頭🌀してしまうタイプの人間🍀です。

いまは雲☁️をつかむような話でも、5年、10年すれば、何かが分かってくるのではないか☁️、😊

という気楽🌸な気持ちで探索🔎に取り掛かりました。

これが私と陽明丸🚢との出会い☀️となったのです。😊🎵


探索の取っ掛かりは、「ヨウメイマル」という船🚢を特定🌟することでしたが、

これは早い段階で、大正時代に運航していた外国航路🌸の大型船「陽明丸」にほぼ間違いない✊ことが分かりました。😊

その系統に繋がる船会社🏢に話を聞く👂などする中で浮上⤴️したのが、

当時の経営者🌸(船主👑)だった勝田銀次郎という人物🍀の名前🎵です。

さらに調べて📝いくと、
ごく簡単な記述ながら、勝田船主は

「子供たちを救ってほしい🙏」

というアメリカ赤十字🏥の依頼🌸を受けて、
貨物船🚢だった陽明丸に客室🚪を装備、

人員輸送に必要な装備を施した上で、ロシア🇷🇺に船🚢を差し向けていたことが分かりました。😊✊🌟


人望💕の厚かった勝田船主は経営🌸の一線⚡️を退いた後、神戸市長🏤を2期務めていますが、

それだけの人物🍀でありながら、

古書店🏠で入手した評伝🎵などを紐解いてみても、

陽明丸🚢や子供たちの救済🌸に関しては、

なぜか、ごくごく限られた⚡️情報以外に見つけることができません。😵

神戸に行けば何か新しいヒント🌟があるのではないか、と考えた私は、
毎月3回ほど石川から神戸に足👟を運び、

市立図書館🏤に籠っては、勝田船主に関係する資料📃の収集に当たりました。😊

1日に取るコピーの数は約100枚。

なかなか核心💓は掴めないまでも、私の心💓は勝田船主の人物像が、

少しずつ明らか⛅️になっていく喜び💕に満たされていました。😊🎵


一方、肝心のカヤハラ船長🍀については、全くといってよいほど情報⚡️が得られませんでした。😵

手始めに「カヤハラ」を漢字変換🔄しながら該当人物をインターネット💻で検索🔎してみましたが、

全くのお手上げ😵状態でした。

1つだけ、「栢原」の文字と関連キーワードを入力する中で、

ある海運会社🏢のホームページ💻に辿り着きました。

ダメ元で海運会社🚢の社長👑に手紙✉️を出してみたところ、

やはり何の関係もない😵ことが分かりました。😵

しかし、ありがたいことに社長の栢原氏は、

私の思いや行動に共感💓し、探索に協力✊することを申し出てくださったのです。😊🎵

栢原氏の口添え🎵により海運関係の月刊誌📖に陽明丸についての記事📰が掲載されたほか、

陽明丸が立ち寄った室蘭🌸の地元紙📰、
さらに全国紙📰でも私の活動🍀が取り上げられました。😊🎵

これも、すぐには読者からの反応🎵が得られなかったものの、

新聞📰を手にしたオルガが、その記事を自身のホームページ💻で紹介🌸してくれたりと、

その頃から私たちの信頼🍀関係🌸は少しずつ深まっていきました。😊🎵


幻☁️のカヤハラ船長🍀を探し始めてから丸2年。☀️☀️

その名前は、ある日突然⚡️、天から真珠💎の珠✨が目の前に落とされたかのように、

海事海運関連の資料📚の中に、見つけることができたのです。😍

分厚い名簿📖に「茅原基治」という名前と、
岡山県笠岡市の原籍📝や住所🍀がくっきりと記されて✒️いました。😍


私の心💓は、まるで長年探し👀求めていた恋人🌸にやっと巡り会えた🌟ときめき💓を覚えていました。😍

次なる行動は✊、茅原船長の遺族🌸を探し出す🔎ことです。

私は図書館🏤で岡山県版のハローページ📖に当たり、該当地域の茅原姓に絞って⚡️1人ずつ電話📞をかけてみることにしました。

見ず知らずの家🏠に電話をするのは相当のプレッシャー💢でしたが、

2軒目の電話に、70代後半と思われる老婦人👵が出て、

抑揚の効いた柔らかな岡山弁🎵でこう答えられたのです。

「ああ、茅原基治さんは、私の遠戚🌸で、外国航路🚢の船長🍀をしていました。😊

基治さんは、子孫がおらなんだけぇ、

うちが、お墓の管理🍀しょうるんです😊」

老婦人👵の話を聞くうちに、私は思わずしゃがみ込み、

受話器📞を握る汗ばんだ💦手が震える⚡️のを感じ💓ました。

遠戚🌸とはいえ、ようやく親族🌸に出会えた🌟のです。


親族🌸の同意💓を得て、茅原船長🍀の墓参り🙏ができたのは、

その1週間後☁️のことでした。😊

茅原船長の名前が明らかになった時、
私はその朗報🌸をすぐオルガに電話📞で伝え💕ました。

しばらく沈黙🌌が続いた後、

オルガは

「そう、ほんとによかった。💕

ありがとう😭」

と声を震わせ⚡️ながら、私に感謝🌸の言葉🍀を伝えました。

それから3ヶ月後の2011年10月、オルガは初来日🇯🇵し、親族🌸や多くの地元民が出迎える中、

夢に🌈まで見た茅原船長🍀の墓参り🙏を果たすのです。😊🎵


今から約100年前、革命期⚡️のロシアは混乱🌀の極み😱にありました。

首都ペトログラードは内戦🔥の真っ只中で、深刻な食糧危機⚠️に陥り、

3歳から15歳までの子供たち800人と、引率の教職員🌸合わせて900名は穀倉地帯🍀のウラル地方に避難💨。

しかし、戦火🔥はウラル地方にまでの及び、子供たちは飢え😵と極寒⛄️の中で身を寄せ合いながら生きていました。😨

惨状を見るに忍びず😵、救援🌸の手を差し伸べた人物🍀がいます。

ウラル地方に赴任していたアメリカ🇺🇸聖公会の宣教医師⛪️🏥で、

聖路加(せいるか)国際病院の創立者🌸でもある
ルドルフ・トイスラー博士🍀です。

トイスラー博士🍀は当時、アメリカ赤十字シベリア救援隊🌸を率いていました。

博士は後任のライリー・アレン隊長🌸に救援💕の任務を託し🌸ます。

大陸の東西を繋ぐシベリア鉄道🚂に乗せられた子供たちや教職員は、

激しい内戦💣の中、東へと向かい日本海に面したウラジオストックに到達するのです。😊

ところが、革命⚡️の波🌊はロシア最東端のウラジオストックにまで及びます。😵

その時、アレン隊長🌸は太平洋、大西洋を船🚢で渡って、子供たちをロシアの西端にあるペトログラードの親元👪に帰す↩️という大計画📑を立てます。

しかし、社会主義国となったロシアと対立関係💢にあるアメリカ🇺🇸やイギリス🇬🇧の船会社🏢で、

この無謀で危険⚠️な人道支援🌸を引き受けてくれるところは、どこもありません。😵

ほうぼう手を尽くして、
ようやく協力🌸を取りつけることができたのが勝田船主👑でした。

ところで、

アメリカ赤十字🏥と勝田船主👑との間でどのようなやりとりがあったのか、

トイスラー博士🍀やアレン隊長🌸はどう動いたのか。

誰も引き受けない支援🌸を勝田船主はなぜ受け入れたのか、

茅原船長がいかなる経緯で勝田船主と出会い🌟、船長🍀を任されることになったのかなど、

この大航海🚢はいまだに多くの謎🌀に包まれています。

ただ、確実にいえるのは、勝田船主にとってこの大航海🚢は、

誰からも賞賛✨されることがないばかりか、

多大なリスク😵を伴うものだったという事実🌟です。

時代背景🌚を考えても、少し前までロシアは日本にとって砲火🔥を交えた敵対国💢でした。

人道支援🌸ではあるにしろ、敵国の子供たちを救ったとなれば、非国民😠の誹(そし)りは免れません。😵

また、万一船が沈没💦したり、事故⚠️が起きたりしたらどうでしょう。

勝田船主は世界中から激しく💢その責任🍀を問われ、これまで海運業で築いた巨万の富💰を一瞬⚡️にして失うばかりか、

会社自体🏢も破綻し、数多くの従業員を路頭に迷うわせて☁️しまうことになります。

いわば、決して失敗が許されない✊

「うまくいって当たり前☀️」

の大航海🚢でした。


それらを全て覚悟⚡️の上で、

あえてアメリカ赤十字🏥の要請を引き受けて、子供たちを救出💨したところに、勝田船主🌸の偉大さ👑があるのです。😊

そして、それは船長🍀の茅原氏についても全く同じ🌸なのですが、

そのことについては降段、改めて述べることにします。😊


陽明丸🚢を救出に向かわせることを決断✊した勝田船主は、

わずか1カ月半という驚くべき😵早さで貨物船🚢だった陽明丸を客船🚢🚪に改造🔄🔧します。

改造費や輸送費、燃料🔥等は全てアメリカ赤十字🏥が拠出しましたが、

勝田船主自身🌸も現在の金額で数千万円💴相当のポケットマネー💰を出していたことが、

後に見つかった茅原船長🍀の手記📝で明らかになっています。😊


(つづく)

(「致知」5月号 北室南苑さんより)