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般若心経の解説20、"無無明"

2016-04-30 15:38:16 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀20


🌸🌸「無無明(むむみょう)」🌸🌸


これからは、やはり仏教🌸の重要🍀な理論☀️であるところの

「十二縁起(じゅうにえんぎ)」

「四諦(したい)」などの山に分け入ります。

「四諦」につきましては、後に出てきますので、説明はそのときに譲ります。🎵

「十二縁起🌸」といいますのは、

老いることや死ぬことに代表される、わたしたち人間の苦しみや悩みが、

どのように生じてきたか、その由来を12の項目をあげて説明する理論です。🍀

頭に白いものがめだちはじめ、
歯が抜け、
手足が思うように動かなくなる。

それが、老👴です。

そして、お迎えが来る。

それが死😇です。

老や死を思うと、誰しも憂鬱😩になります。

淡々とした気持ちで老死を迎えることは、至難なことです。

その老死の苦悩は、

どのようにして生じてくるのかを考察したのが「十二縁起🌸」です。

そして、

その根本原因🍀に挙げられるのが「無明🌘」と呼ばれるものです。

「般若心経」は、空☁️という立場から12の項目それぞれに、
やはり「無」の字を冠します。

ここでは、「心経」の解釈を離れ、☁️☁️

「無明🌘」ということを勉強することにしましょう。


「明」とは、明るいこと、

ものごとがよく見えることですから、

つまり「さとり☀️」を意味します。

反対に「無明」は、暗いこと、ものごとが見えないことですから、

「まよい🌀」を意味します。

無明は無知であるといってもよいでしょう。

仏教では、「四諦」とか「無常」の道理を知らないことであるという説き方をしますが、

平たくいいますと、

自分自身を正しく知らないこと、

あるいは、自己制御🔧ができないことであるといえましょう。😄


酒🍺やタバコ🚬は健康🍀に悪いと知っていながら、どうしても止められない自分。😵

他人に迷惑✊をかける言葉やふるまいをして後悔する自分。😵

あるいは、それにまった気がついていない自分。😵

そのような、

自己のどうしようもなさ(つまり大いなる迷い)が「無明🌘」です。

学者は

「自分の生命に、いやおうなしに付随している、わが身のどうしようもなさが無明である」

といいます。😊

「心経」は、その無明🌘を覚醒⚡️せよというのです。😊


(「あなただけの般若心経」より)

般若心経の解説19、"乃至無意識界"

2016-04-29 16:05:57 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀19


🌸🌸「乃至無意識界(ないしむいしきかい)」🌸🌸

「無意識界」を、ぱっと見て「無意識の世界🌎」と読みたいところですが、

ここでも「意識界も無く」と読むのが正しい読み方です。🎵

もちろん、「空☁️の中には」(実体がないという立場においては)という限定がつきます。😄


さて、「是故空中無色」以来、私たち人間存在🌸に関わるすべて、

つまり
(1)五蘊、
(2)十二処、
(3)十八界

のそれぞれは、空☁️という究極の立場から見ますと、

すべてに「無」という字が冠せられることを学んできました。😄🌸

いちおう、この文までで一山🗻超え、

次の文からは、またもう一つの山🗻に分け入ります。

そこで、

「空」ということを、もう一度おさらいすることにしましょう。😄

学者は、「空☁️とは言葉🍀を超越した沈黙の世界🌌である」と説きます。

だから、空という立場に立てば、

この世の存在をあらわす言葉それぞれを
「般若心経」は否定的に表現するのです。😄🎵

別の学者はこうもいっています。

仏の説いた教え🍀(仏法)も空☁️である。

それを実践する修行者も空☁️である。

すべて空☁️である。

空の原初的な意味は執著(着)を離れる☁️☁️ことである。😊

素裸になって仏🌸のふところに飛び込むことである。☀️

リズミカルに、🎵

これでもダメ、これでもダメ、

空☁️であるべきである、空☁️であるべきである、

と、たゆまない姿勢🌸が肝要である。✊

このように、一寸きざみに仏☀️に近づくことが、

空☁️の修行に他ならない。😊

反省🌟また反省🌟、道程🌸また道程🌸が、空の修行である。🎵

その途中で、自分が空を体得したという「魔⚡️」が生ずるが、

そのつど繰り返し➰、繰り返し➰反省🌟してゆくこと。

つまり、執着の私をどこまでも否定し、💓

真実の自己🌸を追い求める姿🎵が空☁️を行ずることである。

ゆえに、

空☁️とは、

一生の間、自己を問い続けること、✊

生活のなかで問い続けることである、✊

と。😊☀️

行乞(ぎょうこつ)流転(るてん)の旅を続けた種田山頭火🌸は、そこのところを、

分け入って 分け入っても 青い山🗻

と詠んでいます。🎵


(「あなただけの般若心経」より)

子どもの成長に必要なもの

2016-04-28 15:21:41 | お話
🌸🌸子どもの成長に必要なもの🌸🌸


子供育成🌲するのに必要🍀な要素🌸を、いくつかお話したいと思います。😄🎵

「コーチング」という言葉🍀を聞かれた事はありますか?

この「コーチ」という言葉🍀には、「人を目的地に運ぶ🚢🚣」という意味があります。

子供をコーチング🎵するためには、
子供の考えを引き出しながら、
急(せ)かさず、

むしろ「信じて待つ✊」ことが前提😊です。

私の担当している「ソウゾウリョクUP講座」では、

すぐにアイディア💡が出なくてもいいと指示しています。

2時間の授業を3回やって、
アイディアが1つも出なかった子がいましたが、

それでも、私はその子を信じて🍀待ち、急かすことはしませんでした。😄☀️


お父さんお母さん方は、

子供が宿題📘をやらなかったとき、何といいますか?

「なんで宿題やらなかったのよ!」

と言いませんか?😊

すると子供は、どう答えるでしょう?

「だって…」😫
「でも…」😥

と言い訳を答えます。

すると、お母さんは、また腹が立って😡
「つべこべ言わずに宿題やりなさい!」
といいます。

でも実は、お母さんがその言い訳を引き出しているんです。

では、何と聞いたらいいかというと、

「どうやったら、できたのかな?」

と聞くのです。😊

そうすると、子供は答えを考えます。🎵☀️

つまり、

「Why(なぜ)?」

ではなく、

「How(どうしたら)?」

と聞くことが

子供の考える行為につながっていくのです。🌸🌸🌸


よく、お手伝いをした子供に

「えらいね🎵」

と言ってしまいます。

確かに、お手伝いをした事は良いことです。☀️

しかし、そう言ってしまうと

子供は

「俺様は手伝ってやってるんだ」

と頭に乗ってしまいます。😮

その言葉🍀を、

「助かったわ、ありがとう💕」

に変えてみましょう。😄☀️

子供はその瞬間⚡️、

「家族🏠」という信頼🍀のおける集団の一員🌸として認められた実感💓を得ることができます。✊


言葉🍀をちょっと換えるだけで
子供の気持ちは、全く違うものになっていくのです。💕


それから、

「怒る😡」のではなく「叱る⚡️」ことも大事なポイント💓です。

子供が危険⚠️な行為をしたとき、

わざとでもいいので、めちゃくちゃ叱ります。⚡️⚡️⚡️

それは善悪を伝えるためです。☀️

去年の夏、ガラスを割った子がいました。😊

ガラスが割れるのは不可抗力だからしかたがありません。😥

でも、

私は遊んでいた子供たちを集めちゃん、きちんと叱り⚡️⚡️ました。

遊んではいけない所で遊んでいたこと、✊

ガラスを割った張本人だけでなく全員に責任があること、✊

それを伝えました。🎵


そして最後は、

子供のできないところを指摘👉するのではなく、

「長所🌸を見つけてあげる」

ということです。

そのときも

「どうしたらできるようになるか?」

という問いかけが大事です。☀️

大人が子供のよくないところを指摘👉するのは簡単🌸です。

でも、そうではなくて、

どれだけ長所🍀を探してあげるかが大事なのです。💓

長所🍀を見つけたら、
「やったね」と褒めてあげる🎵と、

それが、子どもの自己肯定感🌸につながっていきます。😄☀️


(「みやざき中央新聞」NPO法人子どもアイデア楽工 山上敏樹さんより)

地球に住まわせてもらって、ありがとう

2016-04-28 13:09:29 | お話
🍀🌏「地球に住まわせてもらって、ありがとう」🍀🌏


先週の月曜日、自分にできる範囲で水や食料を車に積んで熊本に行った。

震度7の激震でも、しっかり持ち答えた家もあれば、完全に倒壊していた家もあった。

築年数や耐震構造が明暗を分けたと思われる。

いずれにしても、余震に対する恐怖心や、眠れない夜を過ごす不安感、

水やガスのない不自由な生活という点で
被災者の気持ちは同じなのだろうが、

そんな中で命を落とされた方々のご冥福を祈りたい。

「毎日車の中で寝ています」
「お風呂に何日も入っていません」
という被災者の声を聞いた。

「いっそのこと地震のない地域に避難して
知り合いの家にお世話になるという選択肢もあるのではないか」とも思った。

もちろん、そういう選択肢をした人もいるだろうが、

多くの人が「今いるところ」で助け合う方を選んでいる。

これもまた日本人の美徳なのだろう。

熊本市内にある友人のお宅を尋ねると、

2階建ての自宅兼店舗が半壊していた。

もう住めるような状態ではなかった。

そこに1人の男がいた。

原付バイクで大阪から24時間かけてやってきたという。

何かできることはないかと熊本市内をバイクで走っていたところ、

たまたま半壊したその店の家財が瓦礫のようになって、道路を塞いでいた。

女主人が1人、なすすべもなく途方に暮れていたので、

彼はそこで瓦礫を片付けを手伝っていた。

無口な45歳の男で、100キロを超える巨体だった。

職業は解体屋なのだそうだ。

持参した電動ドリルやバールなどの道具を使って、

大きな瓦礫を細くしていた。

彼の指示に従い、瓦礫の中から金属類の分別作業をした。

鉄はリサイクルでき、お金になるので専門の業者が回収してくれるそうだ。

その中に木片やブロック片が混ざっていると売り物にならないので、

しっかり分けるように念を押された。

被災地支援というと、水や食料、生活用品などの支援が必死だ。

東京の友人は、「自治体のホームページでボランティアの受け入れをチェックしています」と言っていた。

しかし、あの男のようにとりあえず身一つでやってきて、

自分の職業を生かした支援もあるのかと感心した。

原付バイクだから救援物資は運べないが、

家屋が倒壊した現場で自分は役に立つという自負を持っていた。


さて、最初の地震の2日後、今本紙で連載中の、元がん患者・工藤房美さんの講演会が東京で開催された。

熊本空港から奇跡的に上京できて、何とか講師の役目を果たした。

「自分の身体、自分の細胞に100万回ありがとうを言ったら、がんが消えた」

という話は東京でも衝撃を与えていた。

熊本市内でインド・ネパール料理を経営している工藤さん。

避難所に残してきた2人のネパール人スタッフのことを話し始めると、涙声になって。

彼らはちょうど1年前、8000人の死者を出したネパール大地震を経験していた。

そういえば、今回の熊本地震と同じ日に南米のエクアドルでもマグニチュード7.8の巨大地震が起き、

500人を超える人が亡くなり、今も大変な状況だ。

2月に起きた台湾地震もまだ記憶に新しい。


「人生にはまさかの『坂』がある」という。

熊本・益城町の被災者が

「まさか自分が住んでいる町でこんな地震が起きるとは…」

とニュースで話していたが、

自然災害に関しては、まさかの坂はない。

なぜなら地球は生きているからだ。

だから水もあるし空気もあるし風も吹く。

地球の内部は凄まじい熱エネルギーの塊だから温泉が出る。

地震もある。

そして津波だって起きる。

そもそも地球とはそういう星なのだ。

そんな星に我々人類は1番後からやってきて、
この星の生命のエネルギーをいただきながら生活をさせてもらっている。

地球にもっともっと感謝をしなくてはと、つくづく思う。

「地球に住まわせていただき、ありがとうございます。」

100万回のありがとうを、この星。


(「みやざき中央新聞」水谷さん社説より)

般若心経の解説18、"無眼界"

2016-04-27 19:32:18 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀18


🌸🌸「無眼界(む げんかい)」🌸🌸


「眼界も無く」と読みます。

さて、説一切有部(せついっさいうぶ)などの伝統仏教教団では、

この世の存在のすべて(一切法)を、

(1)五蘊、
(2)十二処、
(3)十八界

という範疇のもとに説きます。

略して、
蘊・処・界の「三科(さんか)」ともいいます。

「うん・じょ・かい」とは、
なかなかリズミカルな響きがあるでしょう。

(1)(2)は、すでに学びましたね。

ここでは(3)の十八界を勉強することにします。


「界」からですが、

ここでは「人間存在の構成要素」ほどの意味をもちます。

つまり、

眼・耳・鼻・舌・身・意の「六根」と、
それらの対象である
色・声・香・味・触・法の「六境」と、

見・聞・嗅・味・触・知の認識作用をなす「六識(ろくしき)」を、

それぞれ「界」と呼びます。

すなわち、
(2)十二処に、「六識」を加えて「十八界」となります。

次に、五蘊・十二処・十八界のそれぞれ、
および三者の関係を図表で現してみましょう。
(下段図参照)

じつに整然と構築された法(ほう)の大系ではありませんか。

そして、これらの一々を、

つまり
「色蘊とは何か」
「眼界とは何か…」

と、とくに説一切有部の学匠たちは、

まさに微にいり、細をうがって
分析にこれ、つとめたのでした。

かれらに対して、

「般若心経」は、
そのような存在の分析を誇ることに終始する

形而上学(けいじじょうがく)的な立場に猛省をこめて、

「五蘊・十二処・十八界」の一々の項目に、

「無」という字を冠したのでした。



(「あなただけの般若心経」より)