hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

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🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸①

2018-03-31 11:30:08 | お話
🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸①


🔸服部、随分、ご無沙汰しております。

以前、岡田先生🍀の歴史の勉強会📖にお邪魔させていただいた際には大変お世話になりました。😊

🔹岡田、いえ、こちらこそいろいろありがとうございました。😊

服部先生も大活躍🌸、何よりです。

🔸服部、今年56歳になりますが、おかげさまでまだ元気🍀でやっています。

あと5年は現場🏫で子供たちに歴史📚を学ぶ大切さ🌸を伝えていきたいなと思っています。

🔹岡田、それは素晴らしい💕ですね。

🔸服部、今日は「本気・本腰・本物」というテーマ🎵で、

岡田先生と歴史📚は偉人🌸たちについてお話🎵ができるということで、

ほんとに楽しみ💕にしておりました。

岡田先生はもう若い頃からずっと歴史📚に名向き合って☀️こられて…。


🔹岡田、ええ。私は子供の頃から何となく歴史📚が好きでした。

歴史小説📖に始まり、様々な歴史書に接してきたんですが、

つい最近読んだ藤原正彦さんの著書📖の中に、

次のようなことが書いてありまして、なるほど🌟と思いました。

「人間🍀は直接⚡️経験できる世界はあまりにも狭い。😵

その実体験🌸を補って余りあるものが読書📖。

私たちが家族🌸以外に真に心💓を通じ合わせられる相手は、

一生🍀のうち、せいぜいで2人か3人。

ところが、書物📖の世界🌏では

無数🌌の人物、無数の登場人物🌸との間で
深い心💓の交感🔄ができる」


藤原さんのおっしゃることは、全くその通り🌟だと思います。

私も歴史📚の偉人🌸たちの物語に、もう50年やみつきで、

本気・本腰で生きた人たちに感動💓してきました。😊🎵


🔸服部、50年、歴史の中の人物たちと語らってこられたと。😊

🔹岡田、物好きなんです(笑)。
服部先生は、どういうきっかけで歴史が好き💕になったのですか。


🔸服部、私の場合は母👩の影響☁️が大きいですね。

小学生の時に「これ読んでごらん🎵」と、母🌸から渡されたのが、

野口英世🍀の子供向けの伝記📖だったんです。

幼いながら、野口英世🍀の生き方に非常に惹かれ😍まして、

歴史📚の偉人🌸の話って、こんなに面白い😍んだと思ったんですね。

それ以外にも、母は会津の出身🌟なものですから、

幕府軍🏯と明治新政府軍🏤とが戦った💥「戊辰の役」の話などをよくしてくれました。

🔹岡田、あぁ、お母様が。

🔸服部、長じて歴史をテーマにした小説📖をいろいろ読むようになったんですが、

日本🇯🇵には、こんなにすごい歴史の人物がいるのかと、
もう感動💓の連続でしたね。😍☀️

それで大学🏫進学後は、取り憑かれたように歴史📚、
特に日本史🇯🇵の勉強📝するようになりました。

結局やみつきになってしまい😁、
歴史を仕事🍀にまでしちゃったという感じです(笑)。😊🎵


🔸服部、岡田先生はどのような歴史の偉人🌸に惹かれてきましたか?

🔹岡田、私はやはり、激動期⚡️、国難の時代🍀に生きた人ですね。

まず戦国🔪時代⚡️です。

我われの時代の歴史小説家では、
吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎らが有名🌸ですが、

彼らの作品の題材は、戦国時代⚡️が多いですから、私もそれらの小説📖を熱心💓に読んできました。

そして、近代では明治維新🏤や日露戦争💣といった国難😵の時代。

そうした危機⚡️の時代を生きた偉人🌸たちの生き方は、文句なしに面白い。😊✊

🔸服部、国難😵の時代を生きた偉人。


🔹岡田、あとは、世のため、人のため、利他の心💓で生きた偉人🌸。

一つのこと、あるいは前人未到🌁のことを、

長年たゆまず努力✊してやり遂げた偉人🌸に惹かれてきました。😊

もう一つ、芸術🎨にも興味がありまして、
文化史📓に名を残した偉人🌸や作品にも親しんで💕きました。


🔸服部、例えばどんな人物ですか。

🔹岡田、日本画家🎨なら、雪舟とか横山大観。

他にも、能の世阿弥🌸など、数多いですが、

年とともに日本🇯🇵の芸術🌸文化がいかに素晴らしい💕か痛感⚡️💓しています。


自分が、惹かれてきた偉人🌸の共通点🌟としては、

3つあると感じています。😊

1つは、誠🍀の心💓を持つ人格☀️・品性において立派な人☀️。

もう一つは、志💓の高さ🗻、強さ✊。

三つ目は、いかなる困難😵にも負けない✊不屈の精神力⚡️、忍耐力✊、根気✊です。

服部先生はいかがですか。


🔸服部、私が歴史小説📖に本当にはまっちゃったのは、

先ほど岡田先生もおっしゃった吉川英治の一連の小説📖で、

中でも『宮本武蔵🔪』なんです。

自分は、空手👊や柔道✋やっていたこともありますが、

宮本武蔵の1つの道☀️を究めんとする生き様に、すごく惹かれた💓んですね。

年寄り臭いですが、すでに高校生🏫の時に、

「求道者☀️になりたい✊」

と本気☀️で思っていましたから(笑)。

🔹岡田、高校生で。それはすごい。

🔸服部、武蔵の生き様を通じて己を高めていくことの大切さ🍀を学んだのが1つ。

そして、柔道なり、空手なり、歴史の勉強なり、

己を高めよう⤴️と努力🌸し続けていると、

それが自分の世界のことだけに留まらず、

世のため、人のために役に立ちたい✊という思いと重なってくる✨ことに気がついた🌟んですね。

それで、だんだん世間に目👀が向いていて、
学校🏫の教師の道☀️を目指した👆ということもあります。😊


🔹岡田、あぁ、そうですか。

🔸服部、ですから、私も岡田先生と同じく、志💓というのはすごく大事だなと思ってきました。😊

武蔵のような求道者☀️ならば、

天から与えられた己の資質✨や役割🌸をしっかり自覚🌟して、

高い志を掲げ、ひたすら、そこに向かって歩んで👞👞いくと。

あと、私が惹かれた偉人の共通点🌟は、勇気🍀ある人、自分の正義を貫いた⚡️人です。

もちろん偉人🌸たちも、内面では悩んだり😵することもあるんですが、

それでも、前に突き⚡️進んでいく✊勇気🍀、本気さ☀️に非常に憧れ😍、惹かれて💕きたんです。

🔹岡田、それは私も全く同感💓です。😊☀️


(つづく)

🍀この一道に生きる🍀③

2018-03-11 08:47:21 | お話
🍀この一道に生きる🍀③


🔹鳥羽、越智さんはどうして靴下の道に進まれたんですか?

🔸越智、僕は愛媛県の農家に生まれましたんや。

ところが、中学一年の時に悪ふざけをして、父親から

「こんなやつは高校に行かす必要はない。丁稚に出して性根を叩き直させる!」

って叱られましてね。

何と、その晩に父親は脳出血で亡くなってしもうた。

そうしたら、兄貴から

「これは父親の遺言だ」

と言われまして、僕は中学卒業と同時に、大阪の靴下問屋に丁稚奉公に入ることになったんてんす。

🔹鳥羽、奉公先ではどんな生活を?

🔸越智、もう想像を遥かに超える厳しさでしたわ。

六畳一間の部屋に六人で住まわされ、寝てる間に先輩に体が当たろうもんなら、脇下をつねられるから、寝返りも打てない。

朝は毎日5時55分に起床し、深夜まで働き詰めです。

愛媛と大阪じゃ言葉も風習も違うので、仲間から格好のいじめ対象になり、

例えば僕が二階にいても、一階で起こった問題が僕のせいにされ、しごかれる。

丁稚に入って一週間でいつたあだ名は、「防波堤」やった。

🔹鳥羽、それは酷いですね。

🔸越智、上の人間はみんな軍隊出身で、「アホ!」「ボケ!」と罵られ、ちょっとでもミスすれば殴られる。

でも、そうやって僕を仕込んでくれた大将にはいまも感謝してます。

恩人はいっぱいおりますけどね、一人だけに絞れって言われたら、そりゃ大将ですわ。

あと、僕を救ってくれたのは中国古典。16 歳から18歳までは『孫子』だけ読んでました。

🔹鳥羽、しかし、16歳で『孫子』を読んだんですか。よく読めましたね。

いやぁ僕には難しくて歯が立たない。

🔸越智、朝から晩までしょっちゅうど突かれてたんですよ。そこから何とか脱出しようと思うて。

🔹鳥羽、どうして『孫子』だったんですか?

🔸越智、丁稚奉公に行く直前、中学校の先生が

「おまえは学校の勉強をしてこなかったんだから、
大阪へ行ったら中国の古典を勉強しなさい」

と言うたんですわ。
ある日、先輩が夜店に連れて行っ
てくれまして、近くに古本屋がありましたんや。

その時に先生の言葉を思い出したんですわ。


「中国の古典という本はありませんか?」
って聞いたの。

ほんなら、椅子に座ったまま無言で指差してくれた本が『孫子』でした。

🔹鳥羽、一つの運命ですね。

🔸越智、それで買うたんですけど、丁稚が勉強したらえらい目に遭わさせるから、仕事の合間や消灯までの僅かな時間に隠れて、辞書を片手に繰り返し読んでました。

丁稚の厳しさに心が折れそうになっとった僕にとって、『孫子』は人生唯一の教科書であり応援歌でしたな。

三年経つ頃には全部を暗唱し、『論語』『孟子』『十八史略』『史記』など、

他の古典にもどんどんのめり込んでいったんです。


(つづく)

(「致知」3月号 鳥羽博道さん越智直正さん対談より)

🍀この一道に生きる🍀②

2018-03-10 14:06:08 | お話
🍀この一道に生きる🍀②


🔸越智、鳥羽さんはどういう経緯で起業したんですか?

🔹鳥羽、これは全く欲がなくてね、お金儲けがしたかったわけでも、社長になりたかったわけでもありません。

先ほどの話の続きですが、23歳でブラジルから日本に帰ってきて、もとのコーヒー卸会社で働いていたんですね。

その社長がある時、重要な得意先を他社に取られてしまった社員を往復ビンタでぶん殴ったんですよ。

それを見た瞬間、「辞めた」って。

これまでいろんな会社に勤めてきたけど、なかなか労使相協調する会社はない。

であるなら、自分がつくる以外にない。

そう思って「厳しさの中に和気藹々(あいあい)」という言葉をつくったんですね。

これが創業の理念なんですよ。

🔸越智、ええ言葉やな。

🔹鳥羽、真剣に働くことでお互いがお互いを認め合い、尊重し合う会社をつくるんだっていうのが僕の考えでした。

ただ、帰国した時に貯金を全部親父に上げちゃったので、お金は1銭もないんですよ。

友達に30万円を借りて、八畳一間の場所で、2人の仲間とコーヒー豆の輸入・卸の会社を創業しました。


理想はいいけど、まず技術がないので、品質がよくないわけですよ。

そうすると、明日潰れてもおかしくない会社から買ってくれる人はいないってことに気がついたんですね。

商品が売れないことの苦しさっていうのは骨の髄まで沁みました。

幸いにして僕の姿を見て買ってくれたのが千葉県の人で、そこからだんだん関東の地方都市に広がっていったんです。

あの頃は朝一番に車で横浜に配達して、次に千葉まで行って、それから群馬と、一日に三県回るなんてこともありました。

いま考えてみれば、売り上げよりガソリン代のほうが高くて全然儲けにならない時もあったと思いますが、

とにかく買ってもらったことが嬉しくて、収支計算しないで配達していましたね。


🔹鳥羽、そういう状況から脱していったのは、やっぱり「カフェ コロラド」を出店してからです。

🔸越智、それはいつ頃?

🔹鳥羽、創業から10年経った昭和47年、東京の三軒茶屋に12坪の店をオープンしました。

製造卸のままだったら、二進も三進も行かなかったでしょう。

平均で月に五千円買ってくれれば御の字でしたから。

これがコロラドをつくって、立地選定から店舗設計、社員教育、メニュー開発まで全部考え、フランチャイズ展開に切り替えたところ、

一店舗当たり月に30〜50万円の売り上げが出るようになりました。

🔸越智、卸時代の60〜100倍。

🔹鳥羽、幸いにして脱サラブームと相俟って、10年で270店舗になったんです。

これは決して先見性があったわけではなく、時代に沿ったことを運よくやれたっていうことですね。

🔸越智、ショップ展開の発想はどこから来たんですか?

🔹鳥羽、実は、ある女性がご主人を亡くして保険金を得たんですね。

で、ある経営コンサルタントに相談して、赤坂で喫茶店を始めたんですが、失敗してノイローゼになってしまった。

でも、そのコンサルタントは手を差し伸べなかった。

それを知った時、この人は生き血を吸う吸血鬼だと思ったんですよ。

人を不幸にするようなことは絶対許されない。

人を不幸にしないために自分が手本になる店をつくろう。

そう思って始めたのがコロラドだったんですね。

ですから、これも欲から出発したことではないんです。

結果的に当たっただけ。

それと、どうしてコロラドって名前にしたかというと、これには理由がらありましてね。

ブラジルに移民として渡った人たちが大変な苦労をしたんです。

電気もない、水道もないところへ行って、荒野を切り開き、コーヒー農園をつくった。

汚い話だけども、手の皮が剥けると薬がないから自分の小便を消毒に使って働いてきたんですね。

この中で三人の日本人が、自分たちが大変な苦労をしてつくったコーヒーを祖国に送りたい、

ぜひ日本人に飲んでもらいたいということで、コロラド輸出入会社をつくったんです。

この話を聞いた時、僕も実際にブラジルに行っていますから、

その人たちの苦労や思いが手に取るように分かったんですよ。

だから、彼らの遺志を継いでコロラドという名前にしたんですね。

🔸越智、ああ、そうですか。えらい感動的な話ですわ。


(つづく)

(「致知」3月号 鳥羽博道さん越智直正さん対談より)

🍀この一道に生きる🍀①

2018-03-09 12:51:44 | お話
🍀この一道に生きる🍀①


🔹鳥羽、越智さん、久しぶりですね。

🔸越智、ほんまに。もう何年ぶりでしょうね。
しかし、鳥羽さんもますますお元気そうで何よりだ。

🔹鳥羽、いやいや、元気そうな格好してるだけです(笑)。越智さんはおいくつになったんですか?

🔸越智、僕は78歳になりました。確か鳥羽さんは… 。

🔹鳥羽、僕はね、ちょうど80歳になったんですよ。
それにしても何十年前なんだろう、我々経営者仲間で会っていたのは。もう30年くらいになりますかね?

🔸越智、そうですな。異人種交流会って言いよったね。

🔹鳥羽、そう。変わった人間ばっかりっていう意味でね。

🔸越智、全員が自分はまともやと思うていたけど(笑)。

🔹鳥羽、イエローハットの鍵山さんや、ハウス オブ ローゼの川原さんなど、10人くらいで毎月一回集まってた。

その頃は、まだみんな上場してなかったんですが、後に6〜7人が上場しましたね。

🔸越智、みんな若かったし、夢に燃えてバリバリやりよったもん。

🔹鳥羽、あの頃はエネルギーがあったんですね。

🔸越智、いまでもありますやろう(笑)。
やっぱり鳥羽さんは昔から熱量が違う。

僕よりも熱量が強かった。
それはもう勝てんと思っとったよ。

鳥羽さんの話に感動して涙を流したことが何回もある。

せやけどね、僕は鳥羽さんのこと少女のような人だと思ったの。

商売の話になると、「一杯のコーヒーでお客様に安らぎと活力を提供するんだ」ってね、

夢を語りながら自分の言葉に酔うとるわけ。

ハワイに農園を買うた時も…。

🔹鳥羽、楽園を作るんだ、天国をつくるんだってね。

ブーゲンビリアのトンネルをつくって、そこを男女2人で歩けるくらいの大きさにして、

トンネルを抜けたら噴水があって、ハワイの海がザーッと見えるんだという夢を話した。

🔸越智、それを感情込めて言うもんやから、まるで少女みたい。

🔹鳥羽、確かに息子にも「うちの親父は乙女だ」って言われます(笑)。

🔸越智、鳥羽さんがすごいのはその夢を現実にした。

🔹鳥羽、そうですね。常に「夢を見、夢を追い、夢を叶える」っていうことで、

とにかく誰彼構わず自分の夢を語る。

「俺はこうやるんだ」って。

そういう言葉は夢を引き寄せるんじゃないかと思います。

越智さんも当時から靴下への情熱は並大抵ではなかったですよ。

いつも越智さんに会うと、もう全生命を靴下一筋に懸けている、靴下の気違いって感じてた。

🔸越智、事実、そうやったね。仕事以外に趣味も何もあらへん。

🔹鳥羽、それと、越智さんをずっと尊敬しているのは、漢文をよく勉強している。

で、いろんな言葉の節々に漢文が出てくるんですね。

それを聞くびに、この人には敵わないって気持ちがありました。

ですから、対談の依頼を受けた時も、越智さんには会いたいけど、

越智さんの知識にはとても負けるので嫌だなと正直思ったんです。


🔹鳥羽、越智さんの会社は創業してどれくらいになりますか?

🔸越智、ちょうど今年で50年を迎えました。

この間、50年誌を書いてて思ったのは、わしの人生は神様の計画やったんかなと。

大いなる者の計画に引っ張られてきたような気がしてなりまへんのや。

🔹鳥羽、僕もね、やっぱり神様がついてるんじゃないかと思うことが時々ありますね。

自分の意に反して物事がうまくいっちゃう。

あれ、これは神様の仕業かなと。

🔸越智、たぶん鳥羽さんも運がよかったって言うと思うの。

それは説明できんからでしょう。

僕もそう。いろんな苦労や失敗もあったけど、

全部乗り越えられたっていうのは神様の計画だからじゃないかな。

🔹鳥羽、なんだか同じようなことを考えてる(笑)。

僕が24歳でドトールコーヒーを創業した時は、お金も後ろ盾もありませんでしたが、

昨年55周年を迎え、売上高は1,200億円で業界二位、国内の総店舗数は1,346店で業界トップに立っています。

なんで自分がここまでやって来れたんだろうかって振り返ってみると、

我欲がなかったからだと思うんですね。

🔸越智、ああ、我欲がなかった。

🔹鳥羽、会社を立ち上げる前から、給料をもっと余分にもらいたいと思ったことは一度もないですし、

もちろん地位を求めたことも一切ありません。

目の前の仕事を真剣にやっていると、自然に物事がうまく展開していく。

地元の高校を3ヶ月で中退し、着の身着のまま上京しましてね。

17歳の時にある飲食店に勤めていたんですけど、半年しか働かなかったにもかかわらず、

20歳の時にその飲食店の社長から手紙が来て、「ブラジルへ来い」と誘われまして、海を渡ったわけです。

移民船で42日間かけてブラジルに行き、コーヒー農園で3年間働きました。

そうしたら、今度はブラジルに渡る直前に勤めていた日本のコーヒー卸会社の社長から電話がかかってきて、

「船賃全部出すから帰ってきてくれ」と。

そういう形で、一つひとつの出来事を振り返ると、

我欲がなく、見返りを求めず、真剣に無心に没頭してやってきたことが、自分を運んでくれたように感じます。

🔸越智、全く同感です。僕は中国古典の影響から、ただひたすら追い求めたのは、正義と理想でしたわ。

🔹鳥羽、正義と理想。

🔸越智、この2つがキーワードやったね。

僕が創業した50年前は、靴下問屋だけで690もありましたよ。

それがぼんぼん潰れてしもうて、いまじゃ数えるほどしかない。

🔹鳥羽、中国に押されてね。

🔸越智、そうそう。中国に押される前から量販店にやられてしもた。

斜陽産業といわれて久しい繊維業界の中でも、特に靴下業界は淘汰が酷いんです。

安かったらええということで、商品の質がどんどん落ちて行ったんですけど、

そんなことは許さない、私は商売人の前に男でないといかんと。

中国産の安い製品が市場を席巻していくのに対して、メイド・イン・ジャパンに徹底的にこだわり、

お客様の足に優しくフィットし、かつ簡単に破れない強さがある履きやすい靴下を追求し続けてきましたな。

お客様がうちの靴下を履いた時に喜んでくれる、

これええなって笑顔になることを夢見てつくりましたんや。

そういう僕の正義と理想にみんながついてきてしとるんやと思うな。

それと、卸売りだった当社が34年前から小売を始めたのは、大きな専門店がこぞって量販店と同じような販売形態に転換してしもうたから。

それでおうちは靴下のため、伝統を残すために、「靴下屋」をはじめとする靴下専門店をやり出したんですわ。

🔹鳥羽、いま何店舗あるんですか?

🔸越智、国内に276店舗、海外に7店舗ありますね。

🔹鳥羽、幅広く商品を扱っているならまだしも、靴下一筋で店を成り立たせて、

しかもGINZA SIXや六本木ヒルズをはじめ、一流どころに出店できるっていうのはすごいことですよ。

🔸越智、もう靴下ばかり追いかけているようなバカはおらんようになったわ。

みんな頭がええもんやから、いろんな事業を手掛けてね。

🔹鳥羽、まさに正義と理想に燃えてこられたわけですね。


(つづく)

(「致知」3月号 鳥羽博道さん越智直正さん対談より)