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山岡鉄舟・談判

2016-03-31 08:51:55 | お話
🌸🌸山岡鉄舟・談判🌸🌸


剣・禅・書の達人として知られる山岡鉄舟は、

勝海舟、高橋泥舟とともに、「幕末の三舟(さんしゅう)」と呼ばれ、
傾いた徳川家を支え続けました。

彼が歴史上、重要な役割を果たすのは、戊辰戦争の真っただ中、官軍となった新政府軍の江戸城総攻が目前に迫った慶応4年(1868年)3月のことです。

「江戸の町と市民を戦火から守るために、
なんとしても勝海舟と西郷隆盛の会談を実現しなければならない」

鉄舟は、決死の覚悟で、官軍でごった返す東海道を、西へ西へとひた走りました。

駿府(現在の静岡県静岡市)に滞在している西郷隆盛に会うためです。

西郷に会って、前将軍・徳川慶喜の恭順の意を受け入れてもらい、

江戸城総攻撃をやめるように説得するのです。

彼の手には、勝海舟から預かった手紙が、固く握りしめられていました。

鉄舟は、途中、幾度となく官軍に呼びとめられましたが、

益満休之助という薩摩藩士を同行させ、

ある時は薩摩藩の名を語り、

またある時は、

「朝敵・徳川慶喜家来、山岡徹太郎(鉄舟)、大総督府へまかり通る」

と大音声で多乗ることで官軍の虚を衝き、官軍陣営を突破していきました。

ところが、益満が体調不良になり、途中で別れ1人となった鉄舟は、

駿府にたどり着く直前に、思わぬ大ピンチに襲われます。

官軍の兵が鉄舟を怪しんで発砲し、追いかけてきたのです。

江戸の運命は、鉄舟にかかっています。

ここで捕まっては、江戸が火の海になるのは必定。

それだけはどうしても防がねばなりません…。

追い詰められた鉄舟咄嗟に逃げ込んだのは、一軒の茶屋でした。

「徳川慶喜の名代で、駿府の大総督府を訪ねる者だが、官軍兵に追われている。

大事を成し遂げるためだ、是非とも匿ってほしい」

主人に土下座し、懇願する鉄舟。

鉄舟の気迫が、茶屋の主人に伝わったのでしょう。

主人は、鉄舟を秘密の通路から海に逃がしました。

この茶屋は網元も兼ねていたので、鉄舟は、そのまま船に乗って窮地を脱出。

このとき、案内役を買って出たのが、

あの侠客として有名な「清水次郎長」だったと言われています。

彼は、この命懸けの駿府行きについて、

後年、親交の深かった禅僧の中原南天棒(なんてんぼう)に何度も語ったそうです。

「命を捨てたほどさっぱりしたことはない。

維新のころ、幕府と朝廷の間に立ち、西郷に談判に行った時ほど、きれいなことはなかった。

からだの底から水で洗ったような気持ちがした。

もとより、身命(しんみょう)を放抛捨(ほうしゃ)して(=放り捨てること)かかった。

"身を捨てて浮かぶ瀬ぞあり"を実験した」

鉄舟は、剣の達人でありながら、1度も人を斬ったことがなく、

ついに「心のほかに刀無し」という境地に至り、

無刀(むとう)流の開祖となるのですが、

まるで芸術品のように磨き上げられたその人間力は、

このときの経験に裏打ちされたものだったのでしょう。

何かに導かれるように、駿府までたどり着いた鉄舟でしたが、

東征(とうせい)大総督府(だいそうとくふ)下参謀(しもさんぼう)として、東征軍の指揮を一手にとる西郷の前では、

門前払いされる可能性がありました。

けれども、鉄舟から勝海舟の手紙を渡された西郷は、鉄舟の前に姿を現したのです。

一世一代の大勝負、交渉は鉄舟が口火を切りました。

「西郷先生、私の主人・徳川慶喜は恭順の意を込め謹慎しております。

先生は戦いを望まれ、

是も非もなく人を殺そうとなされるのですか。

まず戦う事が正しいかどうか明らかにすべきでしょう」

まるで真剣による勝負を挑むかのように、
迷いも計算もなく、無心で堂々とぶつかってきた鉄舟に、

西郷は誠実さを感じ、心を打たれました。

かつて西郷を大鐘に見立てたのは、坂本龍馬です。

「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

この龍馬の西郷評は、人間通の勝海舟を唸らせましたが、

相手がここまで誠実に向かってくる以上、

こちらも駆け引きを捨て、誠実に対応するというのが、西郷の流儀です。

「拙者が官軍の参謀として出向いて参ったのは、

もちろん人を殺すためでもなければ、
国家を騒乱に導くためでもござらん。

ただ朝廷に背く不逞の輩を鎮定するためでござる」

「ならば、お尋ねします。

主人・徳川慶喜は、もっぱら恭順謹慎し、朝廷の御沙汰をお待ち申しております。

生死いずれなりとも朝廷の御命令に従う所存ですございます。

それなのに何の必要があって、このような大軍を進発なさるのですか」

西郷は、旧幕府方の一部が甲州(現在の山梨県)で官軍に抵抗して戦端を開いたという報告があることから、慶喜の恭順は信用できないと批判しました。

それに対し、鉄舟は、確かに家臣の中には主人の意に反して反乱を起こす者がいるが、

それは断じて慶喜の関知するところではない、

慶喜の嘘偽りのない心を伝えるために自分が危険を冒してここまでやって来たのだと伝えました。

ここまで冷静に道理を説いた上で、最後に鉄舟は、自分の覚悟のほどを西郷に示したのです。

「私は主人慶喜に代わって、慶喜の本心を言上しました。

西郷先生がもしこの慶喜の心をお受けくださらぬなら、致し方ございません。

私は死ぬだけです。

そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、

旗本八幡騎の中で決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらん。

そうなれば一徳川のみでなく、日本国の将来はどうなりましょうか」

自分の身の危険も顧みず、日本の将来を思い、やむにやまれぬ思いでここまでやって来た鉄舟の言葉は、西郷の胸を貫きました。

意を決した西郷は、

江戸城総攻撃を中止するための条件として、七カ条を提示します。

西郷の出した条件は、江戸城の明け渡し、軍艦や武器の引き渡しなど、徳川家臣の鉄舟から見てももっともな内容でしたが、

しかし、その中の1条に対して、鉄舟は難色を示しました。

その1条とは、「慶喜を肥前(岡山)藩へあずける」というものでした。

備前藩は、徳川家と敵対関係にあり、
そこに慶喜をあずけるのは危険であり、
承服しかねるというのが、鉄舟の言い分です。

それに対し、西郷も、この七カ条はいずれも朝命(朝廷から命じられたこと)であるとして、譲りません。

2人は目を逸らさずに睨み合い、緊迫した時間が流れます。

それでも鉄舟は屈しませんでした。

そして、ついに西郷に、

「もし西郷先生が、私と同じ立場にあったら、
どのようにご返事なさいますか?

忠誠を誓った主君・島津公を、

黙って差し出すとおっしゃるのでしょうか?」

と問いただしたのです。

鉄舟の胆力に、とうとう西郷の方が折れて、この1条を変えることを承知しました。

この初対面の印象は、西郷の心によほど鮮やかに残ったのでしょう。

後に、西郷は、

「金もいらぬ、名誉もいらない、命もいらぬ人は始末に困るが、

そのような人でなければ、天下の偉業は成し遂げられない」

と、鉄舟を大絶賛しています。

鉄舟の命懸けの行動から数日ののち、

江戸城で西郷隆盛と勝海舟との会見が実現し、
江戸城無血開場という、日本史上最も高貴で最も美しいメロディーが奏でられました。

歴史の表舞台に残る名前は、西郷隆盛と勝海舟ですが、

江戸城無血開場は、山岡鉄舟の勇気と行動力があったからこそ実現したのです。


(つづく)

豪姫と秀家と利家とまつ②

2016-03-30 18:40:58 | お話
🌸豪姫と秀家と利家とまつ🌸②


まつのこの強さは、一体どこから来るのでしょうか。

それはおそらく、逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えできた自信と誇りが、底流にあるのだと思います。

利家の若かりし頃、主人・織田信長の怒りを買い、織田家から追放されたことがありました。

2年後に許され、織田家に帰参しましたが、

その間、利家は失業状態にありましたから、
利家とまつの夫婦は極貧に喘ぎました。

この時、2人は、お金のありがたみを知り、

それ以来、利家は、大事な決済は家臣任せにせず、すべて自分で行うようになりました。

それは、大大名になってからも変わらなかったそうです。

武士がお金に執着しないことが美徳とされていた時代に、

財政を当主自らが掌握する利家の姿勢は、
同時代の人たちの目には奇異に映ったでしょうが、

この利家の経済感覚を代々の藩主が受け継いでいったのです。

このようにして、どん底の暮らしの中で夫婦が学んだことが、

加賀百万国の礎を築く上で大いに生かされたわけですが、

織田家から追放されていた期間に、2人は、もう一つ、つらい経験をしています。

かつて主君・信長のお気に入りだった頃は、利家は織田家中の人気者で、

先輩や同僚がいつも「利家、利家」と寄ってきてくれたのに、

信長の怒りを買った途端、周囲の人々が一斉に離れていき、

付き合いを絶たれてしまったのです。

人生には、いい時もあれば、悪い時もあります。

良いときには笑顔ですり寄ってくるのに、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまうなんて、

人の心というのは、なんと頼りなくはかないものなのでしょう。

利家とまつは、人間不信に陥りかけました。

ところがそういう状況下でも、ほんの一握りではありましたが、

以前と変わらぬつきあいを続けてくれる人たちがいたそうです。

「人の心ほど、 移ろいやすいものはない。

しかし、同時に、いつの日も変わらず最も信頼できるのも、人の心なのだ」

との思いを、2人は物に至ったのではないでしょうか。

それ以来、利家とまつは、自分たちにとって本当に大切な人は誰なのかを見極め、

その人の存在を、そしてその人の思いを、命を懸けて大切にしてきました。

例えば、秀吉がキリスト教を禁止した時のこと。

多くのキリシタン大名は棄教しましたが、

利家の親友・高山右近は、ついに信仰を捨てず、領地を没収されました。

その右近を、加賀に呼んで面倒をみたのは、利家であり、

利家が亡くなってからも、

徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて右近がフィリピンのマニラに旅立つまで、

およそ25年にわたって前田家は右近を守り続けたのです。

「自分にとって本当に大切な人を見極め、

その人の存在や思いを大切にする」

言葉にするのは簡単ですが、

権力者を敵にまわしてまで守り続けることは、容易ではありません。

優しさに加えて、強さが必要です。

優しさは、強さがあって初めてカタチになります。

そして、本当の強さは、優しさの中で育まれ、
誇りに支えられているのです。


以下は豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺のご住職から伺った話です。

八丈島の秀家は、加賀藩から送られてくるお米を独り占めせず、

島民たちに惜しげもなく分け与えていました。

「凶作に見舞われ、食べ物が底をついた時、秀家公がお米を分けてくれた。

そのおかげで、私たちは生き延びることができたのだ」

そのような話を親から子へ、子から孫へと語り継いできた家が八丈島には多く、

そうした家系伝説を持つ人々が、時折大蓮寺を訪れるそうです。

そして、ご先祖に代わって、豪姫にお礼を述べるのだとか…。

「豪姫さん、あの時は本当にありがとうございました」

400年以上も前に生きていた人の溢れる愛が、

今も人々の心を暖かいものにしているんですね。

この話を知った時、「大悲船」の本当の意味がわかったような気がしました。

加賀藩から八丈島に差し向か差し向けられた船は、

「大きな悲しみの船」
ではなく、

「大きな慈悲の船」

だったのではないでしょうか。

豪姫が仕送りとともに届けていたのは、悲しみの中から生まれたかぎりない優しさと深い愛だったのだと思います。

まつから豪姫へ、そしてその後の前田家の人々へと受け継がれた、百万国の愛と誇り。

逆境に耐え、幾多の困難を乗り越えてきた、

彼女たちの自信と誇りが、前田家のしなやかでしたか家風をつりあげ、

歴史の中に春風を吹かせてくれているのです。


(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)


誰を大事にするか、よく考えたいですね。(^_^)

豪姫と秀家と利家とまつ

2016-03-30 18:39:38 | お話
🌸豪姫と秀家と利家とまつ🌸


富山市の郊外にある"浮田家住宅"。

この家に代々住んだ浮田氏は、古くからこの地に土着した豪農として知られていますが、

「浮田」という姓は、もともと富山にはなかったそうです。

江戸時代の初めに、ある男の子が加賀藩主から預かることになり、

それがきっかけで「浮田」姓を名乗るようになった…というのが、浮田家の家系伝説です。

その後、浮田家は、藩境の立山、黒部の警備

(この辺には鉱山があり、加賀藩〈現在の石川県と富山県の一部〉では、鉱物資源を他藩に奪われないように警備していました)

や、山林の保護などを行う奥山廻役(おくやままわりやく)を歴任しました。

そして、農民でありながら500石の格式を許され、
やがて代官職を兼ねるようになると、三千石の格式となりました。

その格式にふさわしい立派で重厚な門が印象的な、その大邸宅は、

国指定重要文化財として保護されていて、
邸の内外を見学することができます。

私が訪れた時には、新緑に木造の大邸宅が映えて、
そのコントラストが何ともいえず美しく、ため息が出るほどでした。

それにしても、
いくら豪農とはいえ、
これほどの格式の高さと大邸宅が浮田家に与えられたのは、

一体どうしてなのでしょうか?

その疑問を解くための鍵を握るのは、
加賀藩主から預かったという男の子の存在です。

その子の出生の秘密に迫りましょう。


時は、慶長5年(1600年)。

関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗れた宇喜多秀家(ひでいえ)は、

戦場を脱出し、
伊吹山方面(関ヶ原から北西の方向)へと逃れました。

戦いに勝利した徳川家康は、

西軍諸将の首を持ってきた者には、莫大な恩賞を与える

と、近郊の村々にお触れを出したので、

腕に自信のある者たちが、伊吹山の山中にも多数入っていきました。

関ヶ原の戦いから2日が経ちました。

落武者狩りのリーダーの1人、矢野五郎右衛門(やの ごろうえもん)は、

西軍に加担した名のある武将を探し求めていましたが、

ついに、恩賞の対象となるような武将に出くわします。

衣服は汚れてはいるものの、
そのしつらえは見事。

表情は疲れきっていましたが、
その顔からは、得もいわれぬ気品が感じられ、

一目見ただけで、相当に身分の高い武将であることがわかりました。

ところが、
五郎右衛門に気づいたその若武者は、

あろうことか、

「私は宇喜多秀家である」

と名乗ったではありませんか。

宇喜多秀家といえば、西軍の大将も同然。

もし、彼が本当に秀家で、
その首を家康に差し出したとしたら、

西軍の首謀者である石田三成と並んで、
最も高価な恩賞を与えられるでしょう。

そのような人が、自ら名乗り出るということがあるのだろうか…?

五郎右衛門は、目の前の現実が理解できず、
しばし呆然としていました。

秀家を名乗る若武者は、言葉を続けました。

「腹も減ったし、道に迷って困っていたところだ。

湯漬けなどを振る舞ってもらえないだろうか。

その後は、徳川方へ引き渡してもらってもかまわない。

決して、そなたを恨みはしない」

秀家の潔さと気品に、雷に打たれたような衝撃を覚えた五郎右衛門。

その瞬間、彼自身思いもよらなかった言葉が、口を突いて出ました。

「すべては私にお任せください」

五郎右衛門は、自分がなぜこんなことを言ってしまったのか理解できませんでした。

自分は本当に、莫大な恩賞を棒に振ってまで、この若者を守り抜くと言うのか…?

一瞬ためらったものの、五郎右衛門の心はすぐに決まりました。

秀家と出会ってしまった自分の運命を、

そしてこの若者に一瞬で魅了されてしまった自分の心を受け入れ、

秀家を守る覚悟を決めたのです。

その後、五郎右衛門は、およそ40日間にもわたって、

秀家を自宅裏の穴倉に匿(かくま)い続けました。

そしてついに、大阪・備前島の宇喜多屋敷にいる妻の豪姫のもとへ、秀家を送り届けることに成功したのです。

前田利家&まつ夫婦の四女・豪姫は、生まれてすぐに、

同じ織田家中の

豊臣秀吉&ねね夫婦の養女となり、

養父母の愛情を一身に受け、健やかに育ち育ちました。

豪姫の成長とともに立身出世をとげ、
天下統一を果たした秀吉は、

やはり幼い頃から手元に置いて我が子同然に可愛がってきた秀家と、
この豪姫を結婚させました。

まだ実子の秀頼が生まれる前のことです。

おそらく秀吉は、二人を将来の豊臣政権の柱石に据えるつもりでいたのでしょう。

加えて、秀家は幼くして父親を亡くしていますから、

「秀家に加賀前田家という後ろ盾をつけてやりたい」

という親心もあったかもしれません。

20代の若さで豊臣政権の5大老に名を連ねる夫と、華麗な血縁を持つ妻。

政略結婚ではありましたが、若い2人は互いに惹かれ、純粋に愛し合い、

秀吉がなくなってからも、仲睦まじく暮らしていました。

もし関ヶ原の戦いさえ起こらなければ、幸せな結婚生活が末永く続いたことでしょう。

けれども、歴史は敗者にあまりにも残酷でした。

矢野五郎右衛門のはからいで再会が叶った秀家と豪姫でしたが、

そのままずっと一緒にいれば、家康に知られるのも時間の問題。

やがて秀家は捕らえられ、戦犯として処刑されるかもしれません。

愛する夫の命を守るために、妻は別れを決意します。

甘く切ないひとときを過ごす2人の胸には、身を切られるような悲しみと万感の思いが去来したことでしょう。

数日をともに過ごした後、秀家は、今津家を頼って薩摩に落ち延びていきましたが、

これが、2人にとって今生の別れとなりました。

そして数年後、鹿児島に匿われていることが、ついに徳川家康の知るところとなり、

秀家は、2人の息子とともに八丈島に島流しにされるのです。

豪姫は、家族とともに八丈島に行きたいと懇願しますが、

徳川幕府はそれを許さず、

彼女は娘を連れて実家の前田家に身を寄せます。

20代後半で愛する夫と息子との別れを余儀なくされた豪姫は、

61歳で亡くなるまで、遠く離れた金沢の地で、ひたすら八丈島の家族の無事を祈り続けました。

そんな彼女の気持ちを汲んだ前田家は、

幕府の許可のもと、白米・金子・衣装・雑貨・医薬品などを船に積んで八丈島の秀家に送りました。

この加賀藩から八丈島への仕送りは、

豪姫が亡くなり、さらに秀家が八丈島で84歳でその生涯を閉じてからも、続けられたのです。

豪姫の思いは、代々の加賀藩主によってリレーされ、物資援助は、

明治の世になって宇喜多家の戦争犯罪人の罪が解けるまで、

250年以上も続けられたということです。

豪姫の菩提寺である金沢の大蓮寺には、
彼女が毎日大切に拝んでいた仏像が安置されています。

掌に乗せられるほどの大きさの仏像が木箱に収まっていて、

観音開きの扉を閉めると、鍵をかけられるようになっているのですが、

その錠が、珍しいことに船の形をしているのです。

しかも、デッキにあたる部分に、「大悲船」の文字が…。

それを見た時、私は胸が張り裂けそうになりました。

助に象(かたど)られた船は、加賀藩から八丈島へ差し向けられた船を表しているのでしょう。

万里波濤越え、愛する家族に生きる糧を届けてくれるこの船は、
同時に、豪姫の深い悲しみも乗せていくのです。

家族を引き裂いた海を、彼女はどれほど恨めしく思ったことでしょう。

それは、まさしく「大きな悲しみの船」でした。


さて、ここから先は、浮田家に伝わる家系伝説です。

備前島の宇喜多屋敷で、夫婦がつかの間の再会を果たした時に、豪姫が身ごもり、やがて加賀で男の子を産んだ、と。

そして前田家は、その子を領内の豪農に預け、浮田姓を名乗らせた、と。

この子が秀家の息子とわかれば、当然八丈島に島流しにされるので、「宇喜多」を名乗るらせるわけにはいかない。

でも、宇喜多秀家の息子として、誇りを持って生きて欲しいと考え、

同じ音の「浮田」を名乗らせたというのです。

正直、この話は史実かどうかはわかりません。

でも、
「この話が史実であってほしい」、そんな気持ちになりました。

もしこれが本当の話なら、豪姫は、八丈島の息子たちに会うことはできませんでしたが、

もう1人の息子には、たまには会えたかもしれません。

もしそうだとしたら、彼女の悲しみも少しは癒えたことでしょう。

そして、前田家の思いを想像すると、胸がいっぱいになるんですね。

戦争犯罪人となって島流しにされた秀家の子孫が、その後も大切に養育されるように環境を整え、

前田家としてできうるかぎりの収入と格式を与えていった…。

ここに、前田家の、そして利家夫人・まつの、誇り高い生き方が表れているような気がします。

当時、まつは人質として江戸に住んでいましたが、

江戸と金沢の間でさかんに手紙がやりとりされていました。

まつが、娘の千世に宛てた手紙には、

「八丈島へ、数百俵のお米を送るように手配しました」

という内容が記されています。

ところが、八丈島への仕送りとして、
実際に幕府が前田家に許した白米の量は、75俵だけ。

そんなわずかなお米では、育ち盛りの孫たちが、あっという間に食べ尽くしてしまうと思ったのでしょう。

愛する娘を心からら慈しんでくれた婿と、

目に入れてもいいと痛くないほど可愛い孫に、思う存分食べさせてやるためには、

まつは、半ば公然と幕命(幕府から命じられたこと)に背いていたのです。

もちろん加賀藩は、表だって幕府に逆らい波風を立てるようなことはせず、

徳川幕府に対して恭順の姿勢を貫きました。

けれども、同時に、大切な人たちのためにできること、

やりたいことはすべてやり通す、

そんなしなやかさとしたたかさが、まつにはありました。

戦国史を彩り武勇でその名を轟かせた武将たちが、

家康の威光を恐れ、息をひそめていたのとは、対照的です。

かつて秀吉は、あまたの大名の中で前田家を最も大切に扱いました。

伝説となった醍醐の花見の時にも、前田家を格別の扱いにし、愛する息子の守り役にも、前田家を指名しました。

秀吉存命の間は、前田家は決して徳川の下風に立つことはなかったのです。

それが、関ヶ原の戦いで、天下は徳川家の手中に…。

前田家は、徳川に対して臣下の礼をとりましたが、

反徳川の象徴ともいうべき宇喜多秀家の子孫に対して、

徳川の目をくらませながら、ここまでのことをしたのです。

これは前田家(=まつ)の優しさでもあるのですが、

それだけではない、

徳川に屈しない誇り高い生き方が、秘められていたのではないか…そんな気がしました。

もちろん、浮田家の家系伝説が、史実とはかぎりませんが、

この伝説が400年以上も語り継がれてきたということは、まぎれもない事実です。

そしてそれは、

「おまつさんなら、このぐらいのことはするだろう」

と人々に思わせるような、しなやかでしたたかな生き方を、

まつ自身がしてきたことの証ではないかと思うのです。


(つづく)


クラーク博士・「Boys, be ambitious!」

2016-03-29 18:08:13 | お話
クラーク博士・「Boys, be ambitious!」


ところで、クラーク博士の最も有名な言葉と言えば、

Boys, be ambitious!
(ボーイズ ビー アンビシャス)

これに勝るものはないでしょう。

彼は、この名言を、いつ、どのような状況で残したのでしょうか?

明治10年(1877年)4月16日、帰国するクラーク博士を見送るために、

教え子たちは、月寒村(現在の北海道北広島市と札幌市の一部)の
島松駅逓所(馬車の停車場のようなところ)に向かいました。

この別れの場で、前述の名言は生まれました。

見送りの人々とひとりひとり握手を交わした後、ひらりと馬の背にまたがったクラーク博士が、

最後に学生たちに掛けた言葉。

それが、

「Boys, be ambitious!」

だったのです。

以来、一世紀以上が経っても、この言葉が色あせることはありません。

「少年よ、大志を抱け!」

この言葉に、いったいどれだけの日本人が勇気づけられたことでしょう。

クラーク博士が教え子たちに送った名言は、

世紀を超え、日本人の心に鮮やかな記憶として残りました。

それは、彼が単に印象的な言葉を発したからでなく、

この名言が、彼の信念と行動に裏打ちされた、魂の叫びだったからではないでしょうか。


さて、故郷に帰ってからのクラーク博士ですが、彼はまず大学創設を目指すも、資金面で挫折。

次いで鉱山経営のための会社を設立しましたが、その経営にも失敗し、

さらに倒産をめぐる裁判にも悩まされるなど、失意の連続でした。

そのような境遇が健康状態にも悪影響を及ぼしたのでしょうか。

クラーク博士は健康を害し、1886年(明治19年)、59歳のときに心臓病で亡くなりました。

その死に臨んで

「天の神に報告できることが1つだけある。
それは札幌における8ヶ月である」

と語ったといわれています。

人生と言うのは、もしかしたら、悲しいこと、つらいことの連続なのかもしれません。

それでも、クラーク博士のように、

たった1つでいいから、誇りに思えることがあり、

一瞬でもいいから、自分らしく輝いている時間を持てた人は、

幸せな人生と言えるのではないでしょうか。

何かをなし遂げることでもいいし、誰かを深く愛することでもいい、

「私の人生はこのためにあった」

そういうものを持てる事は、

人生の最大の喜びの1つではないかと思います。

クラーク博士が札幌で過ごした8カ月間。

この間に彼が残した教えは、学生たちの心を揺さぶり、

新しい明治という時代を迎えた若い国家を支える人々に、大きな影響を与えました。

そして彼の言葉は、今なお、現代に生きる私たちに勇気と希望を与え続けてくれています。

クラーク博士にとって忘れがたい、

天の神にも報告したいと思えるような、

人生で最も輝いたこの8ヶ月は、

同時に、近代日本にとっても、
短くても濃密な、得がたい8ヶ月だったのです。

ウィリアム・S・クラーク博士。

彼は59年間という彼に与えられた時間の多くを

母国アメリカで過ごしましたが、

アメリカでは、それほど知名度や評判は高くないようです。

その彼が、1年にも満たない僅かな時間を過ごした日本で、

これほど語り継がれるなんて、人生とは不思議なものですね。

「人間は、すべての人の記憶から消えた時に、本当の死を迎える」

とする説があります。

この説に従えば、クラーク博士は、

母国アメリカから遠く太平洋を隔てた、

この日本の地で、

これからもずっと生き続けることでしょう。


(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)