🍀🍀不機嫌をなおすゲーム🍀🍀
被害者意識があると、
なんでも人のせ、社会のせいにして、
年中不機嫌になっていきます。
不機嫌な人というのは、別のいい方をすれば、
自分に取り組んでいないため、不満が大きい人。
自分自身に患っているので、
人のことに関心を向けるどころじゃない。
常に、自分のことでいっぱいなので、
子供に対しても、パートナーに対しても、友達に対しても、
関心が薄いんです。
被害者意識の代表選手といって、
一番はじめに頭に浮かぶのは、
僕の母親です。
僕は子供の頃から母親に、
「なんで、そんなに不機嫌なの?
あなたの不機嫌と僕の状態には、
何の関係もないでしょ」
といっていました。
すると、
「あんたが、いつも私を不機嫌にさせることをいうからよ!」
と、また僕のせいにします。
「なんで、自分で自分の機嫌をとれないことを、人のせいにするの?」
と聞くと、
「あんたと話していると、私がまるで
悪人みたいじゃない」
と、さらに不機嫌がヒートアップしていきました。
僕は、
「いやいや、むしろあなたを悪人といっているんですよ」
と返したのですが、
こんな感じで、母はいつも、
自分の気持ちや感情に自分でケリをつけないで、
人のせいにばかりにして
文句をいい続けていたのです。
人生がうまくいかないという人に共通するのは、
うまくいかないその原因が外側にあると思っていることです。
相手のせい、社会のせいにして、
「私は不機嫌にさせられたのだ」
「私の人生は狂わされたのだ」
と思っている。
でも、人のせいにしている限り、
自分のなかに原因があることがわからないから、
いつまでたっても、人生はうまくいかない。
常に人間関係ではトラブル続きだし、
経済的にも潤わず、家族仲も悪い。
そんな状態がずっと続きます。
外側にあるものが自分を苦しめていると思っているので、
本人はもちろん不機嫌。
すべてが、何かのせいになっているので、
本当は目の前に広がっている幸せが見えません。
住む家がある、家族は健康、
子供たちも問題なく学校に通っている、
毎日食べるものがある…。
なのに、不機嫌なのです。
自分を不機嫌にさせる原因は、自分の内側にあることを認めない限り、
ずっと感情に振り回されることになりますよ。
しかも、周りにまで気を遣わせ、イヤな雰囲気をまき散らすなんて、
空気汚染機です。
自分が不機嫌さをどうにかしたいと思うなら、「自分を知ること」。
それ以外、
不機嫌さから解放される道はないのです。
◇◇◇
知り合いの男性は、常に不機嫌な男でした。
「年中不機嫌男」と陰で呼ばれていた男です。
彼と一緒に車に乗っていると、赤信号にひっかかるたびに、
「また赤かよ!」
と、舌打ちして不機嫌になります。
朝起きれば
「なんだよ雨かよ!」、
雨が上がれば、上がったで、
「せっかく傘持ってきたのに、晴れたのかよ!」…、
周囲がイライラするのはもちろん、
本人すらも、いつもこんな調子の自分を
なんとかしたいと思っているようでした。
彼は、酒乱の父親に育てられた幼少時代があり、
「自分はかわいそう」
という自己憐憫、
「あの父親で自分の人生は狂った」
と、大きな被害者意識を抱えていました。
被害者意識は、自分の外に責任を置きながら、
「私のことは誰もわかってくれないでしょ」
という上から目線の態度をとらせます。
彼も、
「生い立ちが不遇な自分の気持ちが、
他人にわかってたまるか」
という態度で、
あらゆる事柄に不機嫌というカードで応じていたのです。
自分の外にうまくいかない原因があると思っている彼には、
とにかく、まずはすべてを受け入れることが必要でした。
父親が酒乱だったことも、受け入れる。
営業の仕事があまりうまくいってない自分のいまの状況も、受け入れる。
雨も、風も、受け入れる。
僕は、そのために
「許可するゲーム」
を彼にしてもらうことにしました。
"許可するゲーム"とは、
することなすこと、見渡す限りのすべてを許可する、というゲームです。
信号が赤になったら
「赤になるのを許可する」。
雨が降れば、
「雨が降るの許可する」。
自分に降りかかることはすべて、
声を出して許可してもらいます。
これは、
「自分の境遇、起こっていること、すべてに納得がいかないからこそ、
自分が、"許可"すれば、それらを受け入れられる
(許可しないものは、受け入れられない、受け入れたくない)」
という彼の構造に合っていたのでしょう。
彼はすぐに「面白そうですね」と、始めてくれました。
信号が青に変わって
「青に変わったのを許可する」
といって、いざ車が進み始めるかと思いきや、
いきなり目の前を横切るおばあさんが現れて、
「おばあさんに道を遮られるのを許可する」。
自動販売機でコーヒーを買おうとしたら、
故障中だったのか、お金だけ飲み込んだまま、コーヒーが出てこず、
「お金を払ったのに、缶コーヒーが出てこないのを許可する」。
バス停でバスを待っていたとき、
たまたま営業先から電話が入って、携帯電話に出ていたわずか20秒ほどの間に、
数十分待っていたバスが行ってしまい、
「待っていたバスを、たった20秒の電話のために乗り過ごすのを許可する」。
私は、その日一日、彼につきあっていたのですが、
もう、これはコントか?といいたくなるほど。
はじめは、嬉々としてやっていた彼も、
自分の許可制度に、ほとほと嫌気がさし、
いい加減うんざりしてきたころに、きわめつけのことが起こりました。
運転中、運悪く工事中のでこぼこ道にタイヤがはまり、
その振動で、けっこう派手に、
窓ガラスに頭をぶつけてしまったのです。
ぶつけた頭を押さえながら、
いらだちまじりに
「でこぼこな道を、許可する!」
「頭をぶつけるのを、許可する!!」
といった瞬間、
彼のなかで、何かが吹っ切れたそうです。
そして、
こんな心の声が聞こえたそうです。
「そりゃあ、道だもん、
ときどき穴があいてるってことだって、
あるでしょうよ」
彼は初めて、自分の許可なしで、
「そりゃあ、そうだよね」
と思えたそうです。
「そりゃあ信号だもん、赤になるよね」
「そりゃあ道だもん、人が横切ることだってあるよね」
「そりゃあ機械だもん、ときどき壊れることもあるよね」
「そりゃあ、ときには雨も降るよね」
…自分が許可するしないにかかわらず、
「そうあるもの」と、
「受け入れた」ということ。
受け入れられないものは変えられないけれど、
受け入れると変えられる。
これが、宇宙の法則です。
年中不機嫌男だった彼は、受け入れることができるようになって、
被害者意識を脱ぎ捨てることができ、
自分の機嫌をコントロールできるようになりました。
(「あなたのなかのやんちゃな感情とつきあう法」金城幸政さんより)
被害者意識があると、
なんでも人のせ、社会のせいにして、
年中不機嫌になっていきます。
不機嫌な人というのは、別のいい方をすれば、
自分に取り組んでいないため、不満が大きい人。
自分自身に患っているので、
人のことに関心を向けるどころじゃない。
常に、自分のことでいっぱいなので、
子供に対しても、パートナーに対しても、友達に対しても、
関心が薄いんです。
被害者意識の代表選手といって、
一番はじめに頭に浮かぶのは、
僕の母親です。
僕は子供の頃から母親に、
「なんで、そんなに不機嫌なの?
あなたの不機嫌と僕の状態には、
何の関係もないでしょ」
といっていました。
すると、
「あんたが、いつも私を不機嫌にさせることをいうからよ!」
と、また僕のせいにします。
「なんで、自分で自分の機嫌をとれないことを、人のせいにするの?」
と聞くと、
「あんたと話していると、私がまるで
悪人みたいじゃない」
と、さらに不機嫌がヒートアップしていきました。
僕は、
「いやいや、むしろあなたを悪人といっているんですよ」
と返したのですが、
こんな感じで、母はいつも、
自分の気持ちや感情に自分でケリをつけないで、
人のせいにばかりにして
文句をいい続けていたのです。
人生がうまくいかないという人に共通するのは、
うまくいかないその原因が外側にあると思っていることです。
相手のせい、社会のせいにして、
「私は不機嫌にさせられたのだ」
「私の人生は狂わされたのだ」
と思っている。
でも、人のせいにしている限り、
自分のなかに原因があることがわからないから、
いつまでたっても、人生はうまくいかない。
常に人間関係ではトラブル続きだし、
経済的にも潤わず、家族仲も悪い。
そんな状態がずっと続きます。
外側にあるものが自分を苦しめていると思っているので、
本人はもちろん不機嫌。
すべてが、何かのせいになっているので、
本当は目の前に広がっている幸せが見えません。
住む家がある、家族は健康、
子供たちも問題なく学校に通っている、
毎日食べるものがある…。
なのに、不機嫌なのです。
自分を不機嫌にさせる原因は、自分の内側にあることを認めない限り、
ずっと感情に振り回されることになりますよ。
しかも、周りにまで気を遣わせ、イヤな雰囲気をまき散らすなんて、
空気汚染機です。
自分が不機嫌さをどうにかしたいと思うなら、「自分を知ること」。
それ以外、
不機嫌さから解放される道はないのです。
◇◇◇
知り合いの男性は、常に不機嫌な男でした。
「年中不機嫌男」と陰で呼ばれていた男です。
彼と一緒に車に乗っていると、赤信号にひっかかるたびに、
「また赤かよ!」
と、舌打ちして不機嫌になります。
朝起きれば
「なんだよ雨かよ!」、
雨が上がれば、上がったで、
「せっかく傘持ってきたのに、晴れたのかよ!」…、
周囲がイライラするのはもちろん、
本人すらも、いつもこんな調子の自分を
なんとかしたいと思っているようでした。
彼は、酒乱の父親に育てられた幼少時代があり、
「自分はかわいそう」
という自己憐憫、
「あの父親で自分の人生は狂った」
と、大きな被害者意識を抱えていました。
被害者意識は、自分の外に責任を置きながら、
「私のことは誰もわかってくれないでしょ」
という上から目線の態度をとらせます。
彼も、
「生い立ちが不遇な自分の気持ちが、
他人にわかってたまるか」
という態度で、
あらゆる事柄に不機嫌というカードで応じていたのです。
自分の外にうまくいかない原因があると思っている彼には、
とにかく、まずはすべてを受け入れることが必要でした。
父親が酒乱だったことも、受け入れる。
営業の仕事があまりうまくいってない自分のいまの状況も、受け入れる。
雨も、風も、受け入れる。
僕は、そのために
「許可するゲーム」
を彼にしてもらうことにしました。
"許可するゲーム"とは、
することなすこと、見渡す限りのすべてを許可する、というゲームです。
信号が赤になったら
「赤になるのを許可する」。
雨が降れば、
「雨が降るの許可する」。
自分に降りかかることはすべて、
声を出して許可してもらいます。
これは、
「自分の境遇、起こっていること、すべてに納得がいかないからこそ、
自分が、"許可"すれば、それらを受け入れられる
(許可しないものは、受け入れられない、受け入れたくない)」
という彼の構造に合っていたのでしょう。
彼はすぐに「面白そうですね」と、始めてくれました。
信号が青に変わって
「青に変わったのを許可する」
といって、いざ車が進み始めるかと思いきや、
いきなり目の前を横切るおばあさんが現れて、
「おばあさんに道を遮られるのを許可する」。
自動販売機でコーヒーを買おうとしたら、
故障中だったのか、お金だけ飲み込んだまま、コーヒーが出てこず、
「お金を払ったのに、缶コーヒーが出てこないのを許可する」。
バス停でバスを待っていたとき、
たまたま営業先から電話が入って、携帯電話に出ていたわずか20秒ほどの間に、
数十分待っていたバスが行ってしまい、
「待っていたバスを、たった20秒の電話のために乗り過ごすのを許可する」。
私は、その日一日、彼につきあっていたのですが、
もう、これはコントか?といいたくなるほど。
はじめは、嬉々としてやっていた彼も、
自分の許可制度に、ほとほと嫌気がさし、
いい加減うんざりしてきたころに、きわめつけのことが起こりました。
運転中、運悪く工事中のでこぼこ道にタイヤがはまり、
その振動で、けっこう派手に、
窓ガラスに頭をぶつけてしまったのです。
ぶつけた頭を押さえながら、
いらだちまじりに
「でこぼこな道を、許可する!」
「頭をぶつけるのを、許可する!!」
といった瞬間、
彼のなかで、何かが吹っ切れたそうです。
そして、
こんな心の声が聞こえたそうです。
「そりゃあ、道だもん、
ときどき穴があいてるってことだって、
あるでしょうよ」
彼は初めて、自分の許可なしで、
「そりゃあ、そうだよね」
と思えたそうです。
「そりゃあ信号だもん、赤になるよね」
「そりゃあ道だもん、人が横切ることだってあるよね」
「そりゃあ機械だもん、ときどき壊れることもあるよね」
「そりゃあ、ときには雨も降るよね」
…自分が許可するしないにかかわらず、
「そうあるもの」と、
「受け入れた」ということ。
受け入れられないものは変えられないけれど、
受け入れると変えられる。
これが、宇宙の法則です。
年中不機嫌男だった彼は、受け入れることができるようになって、
被害者意識を脱ぎ捨てることができ、
自分の機嫌をコントロールできるようになりました。
(「あなたのなかのやんちゃな感情とつきあう法」金城幸政さんより)