hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

うきょう

2017-07-31 16:46:54 | 日記
卯辰やまの蕎麦屋さん
「卯蕎(うきょう)」


そして、21世紀美術館の江戸の絵師 "若冲"


そして、ポール・ポキューズで、お茶

デザートの "オペラ" が絶品❗️
コップのふちこさんには、

には、ご縁がなく、帰ってしました。

楽しいお休みでした。(^_^)

表面ではなく本質を

2017-07-29 12:26:11 | お話
🌸🌸表面ではなく本質を🌸🌸

~本当の健康🍀のために~


この時期、熱中症😵♨️も多くなります。

では、熱中症😵♨️って一体何でしょうか?

熱中症😵♨️とは、体の表面の熱♨️は上がり⤴️ますが、体内が冷える⛄️状態🌸です。

体温を測ったら、40度くらいあるのに患者🌸さんは寒さ⛄️を訴える⚡️のです。

では、この時、外側の高熱♨️にとらわれて解熱剤💊を飲んだら、どうなると思いますか? 

体内がもっと冷えて⛄️、最悪の場合、死😇に至ります。

ですので中国では昔から、熱中症😵♨️になると、

表面は冷やし❄️つつ、朝鮮人参などの漢方薬🌸で体内を温めて♨️いました。

これと同じことが「インフルエンザ💢脳症」にも言えます。

インフルエンザ💢脳症は、体の表面は熱♨️があるのに脳🌀が冷え⛄️ます。

これも絶対⚠️に体内を冷やし⛄️たらダメ✋なんですね。

いくら熱♨️があると言っても、体内は温め♨️なければいけないのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

昔、お百姓さんは畑に行く時に、何を飲んでいたか知っていますか? 

彼らは温かい♨️お茶🍵を持って畑に行っていたのです。

「体の中を冷やしてはいけない」

という知識🍀をしっかり持っていたんですね。

ちなみに、私たちの体を冷やす⛄️食材はたくさんあります。

その昔、石田三成🌸が首を切られる⚡️時に食べなかった食べ物、

柿もその一つです。

1年の中で、10月くらいから

「風邪💨をひいた」

とか

「腰が痛く💢なった」

と言っている患者さん🌸のうち、

3人に1人は、柿が原因🌸だったりするんですね。

柿の他に、ブタのラード(脂肪)、スイカ🍉、梨🍐なども体を冷やし❄️ます。

日本🇯🇵には、

「これらの食材🌸を、安易に子ども👶に食べさせてはいけない✊」

と、代々語り継がれている地域🍀もあるそうです。😊🎵

~~~~~~~~~~~~~~~~

今は血圧💕の正常値🌸が130だといわれています。

しかし昔は

「年齢🌸に90を足す」

といわれていました。😊🎵

僕は、今74歳🌸なので正常値は164となります。

では、いつ

「正常値🌸は130」

となってしまったのでしょう?
(最近ですね)


僕は、血圧💕の最高値⏫が280くらいある98歳の方を3人診た🌸ことがあります。

その方々に共通☀️するのは、

最低値⏬が低い⤵️ことで、70~80くらいしかありませんでした。😊

実は、最高血圧💕が120くらいしかなくても、

最低血圧⏬が100もある人は、

亡くなって😇しまうことがあります。

最高血圧💕が高い⤴️と、病院🏥で薬💊を処方されて、

その数値を下げ⤵️られてしまいますよね。

そうすると、その患者さんはどうなってしまうと思いますか? 

体を保てなく😵なってふらふら🌀🌀してしまうのです。

僕は、お年寄りは血圧💕が上がって⤴️も構わない🌸と思っています。

ただ、最低血圧💕だけはチェック✔️していただきたいですね。😊🎵

~~~~~~~~~~~~~~~~

さて皆さんは次の二つのうち、どちらを選び🌸ますか?

①風邪をひいたら風邪薬💊を処方してもらって治す。

ただ翌年も風邪をひく可能性🌸がある。

②時間🕜はかかるが、風邪💨を始めとする病気🏥になりにくい体質🌸にし、

体内のバランス🌸を整える。


西洋医学🏥の利点🌟は、何といっても即効性⚡️です。

戦場💣🔫で、ケガ💢をした時は、西洋医学の知識🍀で治療🌸するほうが効果的🌟でしょう。

しかし、僕はこう思います。😊🎵

「戦時中💣なら西洋医学🏥でもいいが、

平和☀️な時代は、

東洋医学🌸に目👀✨を向けてもいいのではないか🎵」

と。


即効性⚡️はないかもしれませんが、じっくり時間🕑を掛けて東洋医学🌏で体質🍀を改善🌸し、

身体のバランス↔️を整え、

その場限り⚡️ではない、😊

本当の健康🍀を手にしましょう。😊☀️💕


(「みやざき中央新聞」H29.7.24 医師 田中保郎さんより)

孫正義④

2017-07-28 17:08:04 | お話
🍀孫正義🍀④


米国での奮闘記も、これまでの孫正義伝で詳しく紹介されている。

入学した現地の高校を飛び級に次ぐ飛び級で、わずか3週間で卒業したこと。

大学入試の検定試験で試験官に直談判して辞書の使用と時間の延長を認めさせたこと。

どれも後の大成功を予感させるスーパーマンのように描かれているが、

ここではあえて省略する。

この頃の孫は、決してスーパーマンではなく、異常なまでの執念を持つ一人の少年だったのだろう。

大学では「勉強の鬼になった」と言う、

「大学では、大げさじゃなく、僕より勉強してる奴はいないと言い切れるよ。

だって物理的な限界があるから。

食事の時も、右手に本で、左手にフォーク。

両目で見ながら食べたら、おいしいんだろうなと思いましたよ」

このときの経験を2浪が決まった泰蔵に言って聞かせ

「だから、俺はビル・ゲイツとかが交渉相手でも、全然平気なんだ」

と豪語したと言う。

ホーリーネームズ・カレッジという大学からカリフォルニア大学バークレー校 経済学部に3年生として編入すると、

孫は手っ取り早く学費を稼ぐ手段を考え始めた。

この頃には三憲も健康を取り戻して、潤沢な仕送りを受けていたが、

それが心のどこかで引っかかっていたのだ。

「1日5分間だけ発明のために頭を使う」

と決めた孫が、250ほどのアイディアの中から選んだのが音声機能付き電子翻訳きた。

これが大恩人の佐々木正に認められ、

事業家人生の第一歩となったことは、すでに述べた。


日本に戻り1981年に「孫正義」の名で日本ソフトバンクを起こした孫は1人の男と出会う。

立教大学などで教鞭を執り、

この年に非営利団体の日本総合研究所の理事長となっていた野田一夫だ。

福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)から東京に出てきたばかりの孫にはカネがなく、

日本総合研究所の1部門である経営総合研究所が持つビルに間借りしていた。

挨拶を兼ねて野田のオフィスを訪れた孫は直立不動で野田の話を聞いたという。

日本ソフトバンクが軌道に乗ってからも、

野田は孫の良き相談相手となっている。

今でも孫は

「駆け出しの時代に野田先生から

『君は見所がある』

とおっしゃっていただいたことが、

僕には飛び上がるほど嬉しかった」

と振り返る。

初対面の時、野田は直立不動の青年に起業家としての心構えを説いた。


「孫君。君は夢と志の違いが分かるか」

「違いですか…」

孫が言葉に詰まると野田が続ける。

「夢というのは少年少女の淡い期待だ。

志というのは決意なんだ。

いいかい孫君。

夢じゃダメだ。

志を持ちなさい」

「志、ですか…。先生、わかりました。ありがとうございます!」

後に大成した孫はサインを求められることが多い。

そういう時には決まってこの言葉を書くようにしている。


「志高く」

孫が今でも1番大事にしている言葉だと言う。


ソフトバンクは上場企業ではあるが実質的にはオーナー企業である。

孫個人が株式の2割を握る筆頭株主であるだけどなく、

絶対的なカリスマ経営者、そして権力者として君臨している。

これまで仕掛けた数々の大勝負の主役が孫正義その人であることは間違いない。

だが、その志に共感した先達が陰に陽に協力してくれたからこそ、若き才能が開花したのだ。

そして孫の志に共感する腕に覚えのあるストリートファイターたちが孫のもとに集うことで、

この異形の企業集団ができあがった。


創業期に孫を支えた10の恩人。

その中でも年齢的にも孫に近く兄貴分だったハドソン創業者の工藤浩は

数年前に孫に、こんなことを話したという。

「なあ正義さぁ、もう十分だよ。

もう十分良い思いをさせてもらった。

お前はもうこんなところまで来たんだ。

俺たちの手の届くところじゃないからさ。

だから恩人とか、もういいよ」


孫が毎年、社を挙げて祝う「恩人感謝の日」。

今も欠かさず超多忙なスケジュールをやりくりして、孫自らが恩人たちをもてなす機会をもうけている。

この時もそうだった。

誰もが知る世界的な経営者に成長した孫に、これ以上余計な負担をかけさせまいという工藤の気遣いだった。

そんな兄貴分に、孫はいつになく真剣な表情で言葉を返した。

「いや、工藤さん、それは違います。

今の僕に寄ってくる人は山ほどいるんです。

でもね。

あの時はそうじゃなかった。

あの時、僕に力を貸してくれたのは工藤さんとか佐々木先生とか、

恩人の皆さん以外に、いなかったんです。

あの時があるから、今の僕があるんです」


工藤は当時を思い出しながら筆者にこう語った。

「もう痛快だよね。ウチで家内が作った味噌汁の豆腐を見て

『工藤さん、僕は豆腐になります。
一兆、二兆って数えるような経営者になります』

なんて言ってた奴がさ、本当にやりやがった。

でも、あいつは、あの時となんにも変わっちゃいないんだよな」


工藤もまた孫の志に惹かれた男だ。

その情熱にほだされ情報革命という孫の志に賭けてみたくなった男だ。

だから今の孫の活躍を見るのが楽しくて仕方がないと言う。


孫正義

100年後の人々は、この男をどう評価してるだろうか。

それは筆者にもわからない。

代わりに本人の言葉を紹介して、この書を終えたい。


「僕が後悔していること。

それは60年近くも人生を過ごしているのに、まだ誇れるものが何もないということだ。

自分に対して、もう、非常に不満なんですよ。

もし明日、事故で死ぬようなことがあったら、悔やんでも悔やみ切れない。

まだ、何も成し遂げていないから」


この男の物語は、まだ終わらない。


(おしまい)

(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)

孫正義③

2017-07-27 17:48:04 | お話
🍀孫正義🍀③


正義も弟の泰蔵も口をそろえて言うのが

「オヤジは最高の教育者だった」

ということだ。

正義は「僕は幼稚園くらいの時からオヤジに怒られたことがない」

と言う。

三憲の教育の基本はとにかく褒めることだ。

それもただ褒めるというレベルではない。

正義の言葉を借りると、「恐ろしく褒める」のだ。

「大人目線で子供を諭すように、あやすように褒めても子供を見破るんですよ。

オヤジはそうじゃない。

ほんとにもう、椅子から転げ落ちるような勢いで褒めるんです。

『すごい!お前は天才!』

やってね。

そうやって、心の底から言われると子供は信じるようね」

正義によると三憲には褒めるポイントがあった。

それは計算や読み書きのような技術や知識の類ではなく、

自分の頭で考えたかどうかが、「恐ろしく褒める」かどうかの基準になっていることだった。

正義は小さい頃から毎日のように父から

「お前は天才!」

と言われて育ったため、

自分は天才だと信じて疑わなかったほどだと言う。


「その状態が忘れられずに子供は、どんどん努力していくんですよ。

だから僕はオヤジから1度も勉強しろと言われたことがない。

今思えばオヤジなりに考えてのことだったと思う。

だって、やろうと思っても、なかなかできないでしょ」


泰蔵の証言も兄とピタリと一致する。

15歳離れたこの兄弟は、幼い頃にともに暮らした記憶がほとんどないが、

父の教育方針は同じだったようだ。

ある日、泰蔵が家に帰るといつものように父が話しかけてくる。

とにかく子供の話をよく聞く父親だったようだ。

「泰蔵、今日は何を勉強したん?」

「今日は分数の掛け算やったばい」

まずは泰蔵にその日に習ったことを披露させる。

泰蔵が喜々として話し終えると、三憲はこう言ったという。

「そげんか。偉かねぇ。けど学校の先生は嘘ば教えよるよ」

「父ちゃん、なんば言いよっとね」

三憲が子供たちに口を酸っぱくして言ったのは

「他人に習うな。自分で考えろ」

だったと言う。

そして米国へと羽ばたいていった「天才正義」の話を聞かせ

「泰蔵、お前も志を持って生きんといかんばい」

と繰り返す。

ちなみに三憲は80歳を超えた今でも、息子たちがやっていることに並々ならぬ関心を寄せている。

泰蔵が言う。

「この前もオヤジから電話があって、

『Googleのディープ・ランニングっていうのは、すごかね』

と言うんです。

どこで調べたのだか、興味津々でしたよ」


その父が大量の血を吐いて倒れたのが、

孫が九州の名門校として知られる久留米大学附属高校に進学したばかりの頃だ。

若い頃から過労と酒好きがたたり、十二指腸が破れてしまったのだ。

『竜馬がゆく』に感化された孫は悩みに悩みながらも、

高校を中退して単身渡米するという道を選んだ。


事業家になるための種を探すためだ。

なにより、高校に入ってすぐの語学研修でカリフォルニアを訪れ、

すっかり米国の自由な空気のとりこになっていたのだ。


小さい時に「朝鮮人!」と言われて額に石を投げつけられてから、

在日韓国人としての出自をひた隠しにして「安本正義」と生きてきた。

だが海の向こうの米国では、そんな出自などみじんも気にならない。

もちろん米国にも人種差別は根深く残っていることは聞いている。

でも、自分が見た、あのカリフォルニアの青い空の下では、白人も黒人もアジア人もヒスパニックも、

みんなが同じように肩を並べて歩いている。

そんな世界で、俺も人生を燃やす何かを見つけたい。

それは少年 孫正義の心に宿った希望の光だった。


「それは僕にとっての脱藩だった」

父が血を吐いて入院する一家存亡の危機の時に、

高校を辞めて米国に旅立つと言う正義に、母親は泣き崩れた。

親戚からも

「なんて冷たい奴や」

と後ろ指を指される。

正義は母にこう言ったという。

「病院の先生に聞いたらオヤジは死にはせん。

これから何十年先のことを考えたら家族のためにも、

何か事を成すために自分の人生をささげたか」

高校に退学届を出しに行くと担任が驚いて止めに入った。

せめて休学届けにしたらどうだと。

孫はこの時初めて、退路を断つ選択をしたという。

「帰ってくるところがあると困難がさらに大きくなってしまう。

退路がないと困難を感じる余裕さえなくなるでしょう。

だからキッパリと退路を断った。

あれは僕の人生の1回目のパラダイムシフトだったね」

こうして若き孫は米国へと旅立った。


(つづく)

(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)