hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

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直感力7🌟若手に習う🌟

2018-01-31 14:55:31 | お話
7🌟若手に習う🌟


いまの将棋全般の傾向について、「変わった」と言われることがある。

対局のあり方の、様子が違う。

私がデビューした頃は、午前中、10時から12時は、雑談の時間。

盤に向かい合う棋士同士、みんな雑談をしていた。

内容はたいしたことではない。

たいていは近況報告。

みんな会社勤めと違って毎日会うわけではないので、たまに手を合わせたときには近況を語り合う。

序盤は定跡通りに進む。

本当の勝負は午後になってからだ。

全体に和気藹々とした雰囲気で指していた。

ところが、いまは顔を合わせても誰も口を開かない。

最初から、勝負の局面がものすごくシビアなのだ。

最初の10手とか15手、20手というところが、すでにもう大きな山場になっている。

一手の選択で一局の骨格が違ってしまうことも珍しくはない。

手の感覚にしても、従来に比べて変わってきていると思うことがある。

これまではいわれていた「当たり前のこと」「常識」あるいは「いい形」から、

少し離れたところに可能性を求めている、といえばいいだろうか。

それはまるで、モダンアートのようである。

前衛的なモダンアートを見て、すぐさま「美しい」という人はなかなかいないだろう。

ただし、それもひとつの表現のあり方、仕方であることは承知されている。

将棋界に、このモダンアートが台頭してきたような感じだ。

すでにがっちりと決められた定型のの中でやるのではなく、

ちょっと違うことも試してみようかといった潮流が、いま出てきている。

ここ5年間くらいの潮流だ。

それがいいかどうか、将棋の世界にフィットするかどうかはまた別の話ではあるが、

そういった流れはたしかにできつつある。

この流行の最先端をつくっているのは、10代後半から20代前半。

プロになったかならないかの人たちのアイデアから生まれていることが多い。

彼らは、私の20歳前後の頃とは全然違う。

従来では考えられない発想とかアイデアみたいなものを、驚くほど豊富に生み出すことができる。

ただし、その発想やアイデアが全部実っているかというと、それはほとんどない。

アイデアは出てくる。

次から次へと、繰り広げられる。

しかし、それをちゃんとした形として、戦法として使えるようになるとは、やはり別の次元の話だ。

湧き出たアイデアをしっかりまとめるためには、もうひとつ別のプロセスがあると思っている。

それでも彼らのアイデアから学ぶところは、たしかに多い。

こういう考え方もあるのか、こういったアイデアもあるのかと、私自身、非常に参考にしている。

どうして若い人のほうが、斬新な発想ができるのか、…。

それは、明確な割り切り、いいとこ取りができるからではないかと思っている。

思い入れが生じてしまうと、いいとこ取りはできない。

たとえば、「10年間かけてこの形をマスターした」「この手で勝ち抜いた」などといった思い入れがあると、

それを切り捨てることはできなくなる。

愛着のようなものが湧いてきてしまうからだ。

それは心情として、捨てがたい。

そして、私たちは常にそういった感情携えながら、将棋盤に向かってきた。

「これはダメだから」「使えないから」「意味がないから」などと割り切ってしまうことで、

思い浮かんでくるものは、もちろんある。

だからといって割り切った目で見たものが全部正しいわけではない。

それでもやはり、割り切った見方から吸収できること、新たな発見があるというのも事実だ。

一方では、それと正反対のこともある。

10年、20年も前に一生懸命勉強した形。

いまでは二度と日の目を見ないと思っていたものが、めぐりめぐって復活してくることがある。

そういうときは、とても嬉しい。

時間をかけて、ようやく「来た!」というときの喜びは、ひとしおのものがある。


つまり、自分がこれまで培ってきたものを信じる、拠り所にするのと同時に、

積み重ねてきたその経験もどこかで否定しなければいけない、

リセットする覚悟ももち合わせないければならないということだ。

それらは、いずれかに結論づけるべきものではないと思う。

常にこっちが絶対だという、絶対価値みたいなものを結論づける必要はないということだ。

ある程度の流動性を保っておくということ。

目まぐるしく変わっていく時代の中にあって、

その変化を大前提にして、状況に適応しながら考える。

予想が外れることを前提にしていれば、対応もしやすいし、気楽ともいえる。

それまでの自分のやり方を貫くことよりも、そのときできることをやる。

それで出た結果は、自分の手を離れたら仕方のないことだからと覚悟して、

そういった流れとかベクトル、あるいは自分にないものを、

こだわって時間をかけたりせずに素早く取り入れ、修正しながら進んでいくことが必要だと思うのだ。


(「直感力」羽生善治さんより)

直感力6🌟「他力」を活かす🌟

2018-01-30 15:20:47 | お話
6🌟「他力」を活かす🌟


将棋では、対局中、相手の集中力によって自分の集中力が呼び起こされることがある。

脳が共感するとでもいうのだろうか。

お互いにピンポンのボールを打ちあっているように、

リズムが合ってくるようなもの、といったら分かっていただけるだろうか。

対局しているうちにだんだんと相手の集中に乗っていく感覚を得ることがある。

心理学ではミラー効果というそうだが、

相対した相手と同じ動きをしているうちに、心理的にも同調することができ、

安心した相手の話を受け入れやすくなったり、相手に好意を持ったりすることになるそうだ。

対局の場合は勝ち負けだから、相手と同調することを目指しているわけではないのだが、

盤面を挟んで向かい合い、交互に駒を動かしていくうちに、自然とそういった現象が起きるのかもしれない。

そしてそれは、勝負をおざなりにするものではなく、むしろ、その質を高めるものだ。

そして向かい合う2人でいかに美しい局面を生み出していくか…

それが将棋の醍醐味であり、直感を磨くための道筋であると思っている。


将棋また、その瞬間の指し手で自分の持てる力を全部出せばいいというものではない。

たとえば重量挙げは、持てる力を全部出さなければならない競技だろう。

バーを持ち上げるまさにその一瞬に、あらゆる力を一気に投入する。

それまでのトレーニングの積み重ね、筋力と気力をピークに高め、タイミングを合わせる。

そこで力を爆発させるのだ。

しかし将棋では、強さの加減をはかることが必要になる。

常に一番強い手で行ってはいけないということだ。

その時々で加減をしながら、結果的に玉を取る、勝負に勝つことが求められる。

テニスにおいても、思いっきり打ってはラインから外れてしまう。

加減をしてスピードのあるボールを返す感じだ。

その局面において一番強い手が最善の手ではない。

それが将棋の性質だ。

とはいえ、やはり気持ちとしては一番強い手で行きたい。

目の前に見える状況で、考え得る最後の手を指したい。

しかし、その瞬間だけで見れば相手に大きな打撃を与えるかもしれな一手が、

その先へと行った際、反作用も大きくなってしまう。

それを見越した一手を選ぶには、先を見通す目とともに、

そこで気持ちを抑え、自分の手を意識的に弱めることのできる理性が必要なのだ。

それには、単なる「読み」だけでは足りない。

自分の「読み」だけで事足りてしまうと考えれば、すぐにその偏狭さを思い知らされることになる。

将棋は相手と築いていくものだからだ。

「手渡す」という言い方がある。

自分が指した瞬間に相手に手番が渡れば、

その瞬間から、自分は何もできなくなるのだ。

自分だけではどうにもならない。

つい先ほど指した自分の手が最善のものになるか、

手痛い失策となるかは、相手の出方次第でまったく変わってしまう。

つまりは、他力。

将棋は他力によるところが大きいのだ。

自分が何を選択するかも大事だが、トッププロ同士で1番のかけひきは、

いかに自分が何もしないで相手に手を渡すかだ。

そして相手の出方を見てから指す。

その対応がいかに柔軟にできるか。

自分で流れを構想したからといって、それでよし、ということはない。

それは、武術にも似ている。

相手の出方、相手の力を利用するということだ。

こちらから何かしようとするよりも、相手が動く、その力を自分の力に変える。

少し手を出しただけなら受ける反応も小さいが、

強い力で行けば、その分強い力で投げ返される。

しかし、常にダメージを受けないことだけを考えて踏み出さずにいては、勝負は前進まない。

いかに、投げ返されない程度の強い力でいくか…これが、大切になる。

そしてある意味協働して流れを築いていきながら、

タイミングを見て、ここぞというときは相手が投げ返すことのできないような一手を繰り出す。

そこが勝負どころなのだ。


(「直感力」羽生善治さんより)

🍀🍀『食べ物を変えるとなぜ人生が変わるのか?』🍀🍀

2018-01-29 08:37:39 | 色んないい物を勝手に応援!
🍀🍀『食べ物を変えるとなぜ人生が変わるのか?』🍀🍀


私の営む民宿「わら」には、
「あそこへ行けばがんが治る」
「リウマチが治る」

などの噂を聞きつけ、多くのお客様が来られます。

「わら」のメインは料理なのに、
お客様が聞かれるのは

「どうすればがんが治りますか」

ということばかりです。

私は経済産業省に頼まれて、村おこしがうまくいかない施設の再生に携わったり、

病院の食養栄養顧問や飲食業界のコンサルタント、

結婚や妊活のコンサルタントもしています。

妊活の成功率は「9割」です。

料理人の私に、なぜこのような依頼が来て、なぜ解決できるのか? 

それは

「食べる」

という観点から徹底して指導するからです。

考えてみてください。

皆さんという存在は
「今まで食べてきた物の集約」
ですよね。

皆さんの笑顔も、シワも、白髪も、すべて食べ物の影響を受けています。

さらに、
「人はすべて食べ物によってつくられている」
と考えれば、

人生や運命に至るまで、そのすべてが食べ物の影響を受けていると考えていいと私は思います。

逆に言えば、

「食べ物の質を上げれば、人生が幸せになり、素敵なチャンスを運んでくる人とうまく出会えるようになる」

ということです。

超簡単でしょ。


しかし現在は、その

「食べ物の質を上げる」

ことが非常に難しい時代です。

「質のいいものを食べよう」

と思っても、

単純に「オーガニック」の記載のあるものを買えばいいわけではないのです。

たとえば「オーガニック豆腐」と表記された商品が販売されています。

裏側を見ると

「中国産有機大豆使用」と書かれています。

「オーガニック」だからといって、国内産の大豆が使われているわけではないのです。

しかもこの豆腐は、

「ヘキサン」という、とてもきつい薬品を使って大豆から油を全部抜き取り、

そのしぼりカスに油を入れ、そこに凝固剤や消泡剤を混ぜて作ります。

だから非常に安くで作ることができます。

私が考えるのは

「そこに、どのような想いが込められているだろうか」

ということです。

この商品を作った人たちは

「これを食べる人が健康で幸せになってほしい」

という愛情や祈りを込めて作っているのでしょうか。

もし

「とにかく安い原材料を使って加工して作り、

たくさん売ってお金儲けさえできればいい」

と思っているとすれば、

その「想い」まで私たちは取り込んでしまいます。

これでは食べ物の質を上げることにはなりません。


私たちの命は、お父さんとお母さんからそれぞれ一つずつのDNAをもらい細胞分裂を繰り返します。

その成長の途中で、ある時

「おまえは肩になれ」

とか

「おまえは二の腕」
「おまえは骨」

と命令が出て、細胞がいろんな部分になっていきます。

遺伝子研究の最高峰・村上和雄先生によると、細胞1個は

「1000ページの大百科事典3200冊分」

ほどの情報を持ち、

その組み合わせ方は32億通りもあるそうです。

その組み合わせの中で人間が誕生していくわけですが、

それが今のような人間の姿になる確率は

「1億円の宝くじが連続100万回当たるのと同じ」

だそうです。

まさに「奇跡」の確率です。

その「奇跡」に心から感謝し、

身体を作る食べ物に毎日「ありがとう」を言って作り、食べる。

それが身体の質を上げることだと私は思っています。

だから、料理教室の生徒さんたちにもこう伝えます。

「皆さん、ウルトラマンのスペシウム光線を出すようなイメージで手をかざし、

お鍋の中の野菜にしっかりとビタミン愛を注いでくださいね」

と。

私は20歳から今まで40年間、
1日も欠かさず料理を始める前にいつもこう言ってきました。

「天地(あめつち)のお恵みと、これを作られた方のご愛念を感謝して料理させていただきます。

この食べ物が私たちの体の中に入って、自他共にお役に立ちますように。

ありがとうございます」

と。

「わら」では一日に何度もこの言葉が飛び交います。

だから「わら」の料理がおいしくなり、

日本中、そして世界中から食べに来るお客様が後を絶たないのです。


私は60年の人生を通じて、宇宙にはあるルールがあることに気付きました。

それは

「出したものが返ってくる」

です。

私がこれまで「出してきたもの」は、

誠意と愛情です。

これまで毎日、目いっぱいの誠意と愛情を込めながら料理を作らせてもらってきました。

それをみんなが「おいしい」と喜んで食べ、

その結果、集客を心配しなくてもお客様が次々に「わら」にやってきてくださるようになりました。

「わら」はめちゃくちゃ田舎にあり、
有名な神社や仏閣などの名所があるわけでもないし、人通りもありません。

「ここで商売しても絶対成功しない」

と多くの方から言われました。

開店して半年の間、お客様はずっとゼロでした。

「絶対いつか来る」と思っていたら、

お客様が1人来て、その方と一緒に来たお子さんもとても喜びました。

気付くと、その子のアトピーがよくなっていました。

「アトピーが治った」という噂を聞きつけ、多くの人たちが次々とやって来て、

その人たちも次から次に病気が治っていきました。


(「みやざき中央新聞」H30.1.22 自然食料理人 船越康弘さんより)


私たちは、10年以上前でしょうか、この民宿「わら」に行ったことがあります。😊🎵

岡山の田舎で、石川県でいうと河内や吉野谷みたいな場所です。

そこに、一泊して "料理" と "お話" を味わってきました。

その料理が、びっくり😍するほど身体に沁みて、美味しいかった😊のを覚えています。

食べものの大切さ、想いの大切さ、

十分感じ💓させていただきました。😊☀️

直感力⑤🌟わからないことをやってみる🌟

2018-01-28 19:14:23 | お話
⑤🌟わからないことをやってみる🌟


誰でもそうなのではないかと思うのだが、何かを覚えたてのときは、とにかく、それに触れているだけで楽しい。

できるとかできないとかはまったく関係ない。

それをしてるだけで嬉しいものだ。

将棋を覚えて最初に熱中するときの感覚も、とにかく駒が動くことが嬉しい。

子どものときはとくにそうだ。

駒を動かしたい。

相手の人に考えられるのも、自分が考え込むのもイヤで、とにかくなんでもいいから駒を動かしていたい。

駒を動かしていればそれだけでも楽しい、といった感覚だ。

「読み」なんてまったくない。

ただ動かしてるだけ。

私もただただ適当に駒を動かしているだけだった。

それは、小学校2年生がサッカーボールをただ蹴って楽しんでいる、

サイコロを振って面白がっているのと、ほとんど同じだ。

あとはまっすぐ転がろうが、ゾロ目が出ようが、偶然でどうなるかというだけの話。

将棋を指すというのは、本当に何も考えることはことわなく、

自分が指す、相手が応じる、また自分も駒を動かす…の繰り返しを楽しむことだった。

その将棋に、気がつけばどっぷりとのめり込むことになった1番の理由は、

「コツが分からなかった」ことだ。

私もいろんなゲームをやった。

例えばダイヤモンドゲーム、野球盤。

どれもいくらか経験を重ねると(勝てるかどうかは別にしても)、

「こういうのがコツなんじゃないか」

というのが、ある程度はわかってくる。

でも、将棋だけは全然分からなかった。

それに、底知れない魅力を感じた。

ものすごく面白いと思ったのだ。

15級でスタートした当初、当然ながらまったく分からない。

八級になってもまったく分かっていないのだが、

それでもやっぱり前よりはちょっと変わったような気がする。

それまでまったくの空振りだったのがちょっとだけバックにかするようになったような、

全然手ごたえがないわけじゃない。

それは、本当にほんのちょっと、微々たる違いなのだが。

考えたら、あの頃もいまも変わらない。

15級のときは、少し程度の差があるだけだ。

どうやったら好きなことを見つけられるのか。

そして、それを追い求められるのか。

人は当たり前のことをや、できることしか続けられないものだ。

さらにいってしまえば、私たちは絶対に好きなことを「やらなければいけない」わけでもない。

少しだけ関心があって、興味が湧いて、やってみたいと思ったら、そこに惹かれる。

小さな子供が自然と母親に手を伸ばすようにそれを追い求めてしまう。

そして追いかけ続けてある時ふと、

自分はこれが好きなんだと気づくのが、1番自然なことではないかと思っている。

そして何よりも「コツが分からないこと」を、難しいから投げ出してしまうのではなく、

「なぜなのか」と探求していく気持ちが大切なのではないか。

子供は、「理解できないこと」を自分で深掘りしていく達人である。

大人になると効率や利得を重視しがちになり、

心の襞(ひだ)に引っかかった疑問や困難な道を素通りしてしまう。

そうしたときこそ、何が自分に有益となるのかなどに囚われた心を排し、

新たな試みを行っていく必要があるのではないだろうか。


(「直感力」羽生善治さんより)

直感力④🌟完璧主義に陥らない🌟

2018-01-27 11:53:29 | お話
④🌟完璧主義に陥らない🌟


義務感や力みを身にまとわないためには、完璧主義にはならない、曖昧さを残すことも案外大切だと思う。

最近は、データ収集が容易になり、統計学や確率論が進んで先の見通しが立てやすくなった、ということになっている。

可能性を数字に置き換えて、効率的な選択を考える風潮が強いように思う。

そうしてデータに頼り、最も正しい、効率的なものを選択しているつもりでいながら、

一方では、矛盾するようだが、人は知らず知らずのうちにジンクスに囚われてしまう。

勝負の前はこれを食べるといいだとか、必ず何時間前に起きてこれだけはして、この道を通ってとか、なんでもそうだ。

これが正し、絶対だときっちりかっちりした選択に重きを置いていると、

次第にそれはジンクスになり、自分を支配するものになってしまう。

だから、というわけでもないが、私はあまりそのような考え方をしないことにしている。

それでも、その日のうちに終わらせる用事は、その日のうちに済ませるように心がけている。

そうしないと忘れてしまうから、というのも理由の1つだが、

明日へ持ち越すものを極力少なくして1日を終えたいと思っているからだ。

ただし、毎日の時間の過ごし方には、これといって習慣やルールみたいなものを設けていない。

もちろん、対局がある、打ち合わせや外での仕事がある、といった約束をされているときはその時間に合わせて行動することになるが、

それ以外の日常生活では、午前中は何をして、この時間はこれに取り組んで…、といったことは決めない。

寝る時間も、起きる時間もバラバラだ。

空いた時間の長さによってやることを変える。

まとまった時間がとれるなら原稿を書こう、30分だったら色紙、10分だったらメールの返事を、といった具合だ。

何時から何時かといった時刻に規定されるのではなく、空いてる時間がどれくらいあるかで考える。

要は、決められた時間の中でちゃんと消化すればいい。

そこでやりくりすればできるのだから。

長期的のスケジュールに関しても、「目分量」だ。

もちろん、パソコンや手帳、ホワイトボードなどに予定を書いて見えるようにしてはいるが、

基本的には大雑把。

なんとなくこの時期はこれくらい忙しくなるだろうとか、

暇になりそうだとか、

そういったおおよその見込みで先の予定を立てる。

がっちり決めてしまうのではなく(勝負の結果次第と言うこともあるから、気張らない、と表現する方が正確だが)、

アバウトにざっくりと、こんな感じ、と予想して決める。

棋士の生活は、タイトル戦の開催日程、また対局の結果次第で、直前まで予定が立たないこともあり、そのくらいの感覚でやっていかないと、精神的にも参ってしまう。

あまりにもきっちり無駄なく予定を決めてしまうと、

万一日程が詰まってしまったときや思い通りに事が運ばなかったときに対応ができない。

ある程度融通がきくようにしておくことが必要になる。

どのぐらいの余裕を持たせればいいかは、まさに塩梅。

自分の経験や感覚に頼って裁量することになる。

そこに絶対というものはない。

それは、時間の使い方や予定の立て方に限らない。

そもそも世の中のもので "絶対" のものなどひとつもないのだから、

曖昧さがあるほうが自然だと思う。

しかし "絶対" という名の安心が欲しいのも自然な気持ちではあるので、

物事がきっちり運ぶように願いつつも、

万が一のことを考えて保険をかける、

そんな意識でちょうど良いのではないかと考えている。

言い換えれば、その場の状況に従う、成り行きを受け入れる感じだろうか。

ひたすらストイックに生きる、というのとは違う。

自分の目指すところを無理せずに続けるために、

その目的にもその他のことにも、余計な力を入れ過ぎないようにしていくのだ。

そしてある程度自然の流れに乗りながら続けていくことが、

結局、長丁場で大局的に見たときに自分の力を発揮できることにつながっているのだと考えている。


(「直感力」羽生善治さんより)