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八田與一〈ダム完成〉

2016-03-20 11:10:38 | 物語
🌸🌸八田與一〈ダム完成〉🌸😄


ところが、

この爆発事故の翌年に、予期せぬことが起こります。

大正12年(1923年) 5月1日、
関東大震災が発生したのです。

死者・行方不明者は14万人を超え、住宅の焼失は44万件にも及びました。

台湾総督府は、本国・日本の危機に際して援助金を出さなければならず、

予算を大幅に縮小する必要性に迫られました。

それに伴い、当然、工事費も削減しなければなりません。

やむなく総督府は工事関係者の約半数を解雇することを決め、その人選を與一に一任しました。

多くの犠牲者が出たことで傷ついた與一が、

今度は、自らの手で、職員に解雇を申し渡さなければいけないのです。

おそらく、我が身を着られるよりも、辛かったことでしょう。

このとき、

解雇者を選ぶにあたって彼が示した選定基準は、

誰もが予想しないものでした。

今までの半分の人数で工事を続けるわけですから、

常識で考えたら、有能なもの、腕の立つ者を残すでしょう。

ところが、彼は、

有能なもの、腕の立つ者から

解雇していったのです。

彼の考えは、常識とは真逆でした。

その言葉は、

「大規模工事は少人数の優秀な従業員により完成できるものではない。

最も大きな貢献をするのは、
多くの現場労働者である。

しかも能力のないものは
いったん失業してしまうと、生活できなくなる。

そこで、能力のない者の生計を保障するために、

残念ではあるが、

まず優秀な従業員を解雇する」

というものです。

「仕事ができる人なら、解雇されても、
すぐに再就職できるだろうが、

そうでないものは、
失業してしまい、

本人も家族も生活ができなくなる」

との思いやりのこもった対応でした。


與一は、自らが選んだ退職者一人一人を所長室に読んで、

いくばくかの賞与金を手渡しました。

彼らの今までの労をねぎらうとともに、

「いずれ、必ず、また呼び寄せるから」

と約束して、固い握手を交わしました。

解雇される者たちも、一言も文句を言いませんでした。

なぜなら、解雇される自分たちと同じかそれ以上に、與一がつらく感じていることを、

全員が知っていたからです。

一人一人と握手を交わす與一の頬に、涙がつたっていました。

工事がどんなに難航しても、決して人前で弱音を吐くこともなかった彼が、

周囲の人に、はじめて見せた涙でした。


與一は、退職者の再就職先の斡旋に奔走しました。

さらに数年後、日本が奇跡の復興とげ、予算が戻ると、

彼らとの約束を守り、希望者を再び雇用しました。

そして着工から10年という気の遠くなるようなな歳月と、

総工費5,413万円
(総督府が支出した建設費が2674万円、
地元の農民をはじめ受益者の負担金が2739万円)

という莫大な費用かけて、

ついに昭和5年(1930年) 4月、烏山頭ダムは完成したのです。


これがいかに大規模な工事であったか、それを物語る数字をご紹介しましす。

まず工事費ですが、
これは、計算方法にもよりますが、

現在の貨幣価値に換算すると、

およそ4000億円にのぼると思われます。

ちなみに、当時の作業員の日給平均が、およそ1円だったことを考えれば、

この5413万円と言う工事費が、いかに巨額なものであるかが想像できるでしょう。

さらに、嘉南大圳は台湾の耕地面積の約14パーセントを潤すわけですから、その水量も桁違いです。

まず、完成した烏山頭ダムを満水するのに、
2つの河川から取水しても1ヶ月以上かかったとされています。

まず、満水となった5月15日に通水式が行われると、

ダムの水門が開き、水が勢いよく噴出されました。

幹線から支線、そして分線へと、水がゆっくりと流れ込みます。

この水がすべてに行きわたるまでに、2日以上かかったといわれています。

與一をはじめとした工事関係者の喜びもさることながら、

最も喜んだのは、嘉南平原に生きる60万人の農民たちでした。

建設当初、半信半疑だった彼らは、

嘉南平原を潤す水を目のあたりにし、

「神の恵みだ、天が与え給うたと水だ」

ともの凄い水に歓喜の声を上げ、大喜びしたそうです。


嘉南大圳は、台湾に莫大な利益をもたらし、

経済を一変させました。


それについて述べる前に、與一の農民に対する想いの強さに触れたいと思います。

計画を策定した與一は、たとえダムと用水が完成しても、

この広大な土地に
必要な水量の3分の1しか供給できないことがわかっていました。

そこで、彼は、嘉南地域の農民たちに、ある提案をしたのです。

嘉南平原を3つに分け、各地域に3年に1度だけ水を供給します。

各地域は、水が供給された年は、
水を大量に必要とする稲作を行いますが、

水が供給されない年は、水をさほど必要としないサトウキビ、

その次の年は、ほとんど水が入らない芋や雑穀を、順番に栽培していくのです。

これが與一の提案した、三年輪作です。

三年輪作が成功すれば、水不足も解消でき、
生産性は飛躍的に上がるでしょう。

けれども、
そのためには、農民たちが、自らつくる作物を守ることが必要で、
互いにエゴを捨て協力しあわないといけません。

農民たちの間では、収益性の高い米を求め、三年輪作に反対する意見も出ました。

それに対し與一は、

「一部の農民が恩恵を受けるのではなく、

同じ嘉南に住む農民みんなが

貧しさから脱却することが大切であり、

そのために、利益も、痛みも、分け合うのだ」

と説きました。

日本有数の米どころ金沢で農家の五男として生まれ育った與一は、

「台湾の農民を豊かにしたい」

と心から願ったのです。

計画の策定から工事の監督まで、
すべての責任を1人で負い、

毎日、朝5時半から夜11時まで働き続けた與一。

その姿をずっと見てきた農民たちは、
その人柄を信じて、彼に協力して従うのでした。

ちなみに、李登輝元総統は、

ダムの建設と並んで、この三年輪作こそが、與一の本当の功績であると述べています。

つまり、三年輪作というの農法を通して、

古(いにしえ)から日本人が大切にしてきた

「公に奉ずる」

という生き方を台湾にもたらしたこと。

そのことが、

その後の、台湾の歴史や文化に大きな影響与えたと、いうこと。

與一の提言を守り、
農民たちが協力して三年輪作を行った結果、
農業生産性が飛躍的に上がり、

工事が完成して、7年後の
昭和12年(1937年)には、

生産額で比較すると、
米は工事前の約11倍、サトウキビは約4倍と、

それぞれ、予想をはるかに上回る実績を挙げました。

やがて、この地域で収穫された農産物は、日本への一大輸出品となり、

それによって得られた外貨が、台湾の工業化の資金となっていったのです。

こうした自国の歴史を知る台湾人の人々の中には、

「今、台湾は先進国でいられるのは、日本のおかげ」

と考える人も多く、
彼らは、與一を父のように慕い、
日本に感謝してくれているのです。


44歳の若さで嘉南大圳を完成させた與一は、

その後も技官として台湾に留まり、

亡くなるまで、台湾の発展に生涯を捧げました。

彼が後進の育成のために設立した土木測量技術員の養成所は、

今では名称が変わり「瑞芳高級工業職業学校」となりましたが、

台湾初の民間学校として知られ、
毎年多くの技術者を社会に送り込ん送り出しています。


彼の死は、突然やってきました。

太平洋戦争中、

南方産業開発派遣要員として「大洋丸」という大型客船に乗り、

広島の宇品港からフィリピンへ向かう途中、

アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、太洋丸が沈没。

與一は、帰らぬ人となったのです。

昭和17年(1942年) 5月8日のこと56歳でした。


それから、3年が経ちました。

與一の妻・外代樹(とよき)は、
台北で空襲がひどくなると、子供たちとともに、烏山頭に疎開しました。

かつて夫と共に過ごした懐かしい土地です。

そして、昭和20年8月15日敗戦とともに、
日本による台湾統治が終焉を迎えます。

多くの日本人が、台湾を離れ日本に帰国することになります。

外代樹は、

夫の魂が、ダムと共に今も生きる台湾から、離れることをせず、

昭和20年(1945年)9月1日未明、

彼女は黒い喪服に白足袋という出で立ちで、
烏山頭ダムの放水口に、身を投げたのでした。


台湾の人々が、
八田與一という日本人を
心から愛し、
父のように慕う理由の1つに、

この美しくも深い、夫婦愛もあるのです。


(参考「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)


素晴らしい先輩の努力に、心より感謝します。

八田與一〈プロローグ・計画〉

2016-03-19 12:17:30 | 物語
🌲🌲八田與一〈プロローグ・計画〉🌲🌲


人生においては、いい時もあれば、悪い時もあります。

いいときには笑顔では擦り寄ってきて、
状況が悪くなるとスーッと離れていってしまう人が多い中、

どんなときも思いやりを持って接してくれる人、

例えば、

雨の日に何もいわず、そっと傘を差し出してくれるような人が、
本当の友達といえるのではないでしょうか。

日本にとって、そんな「雨の日の友達」と呼べる存在が、台湾です。

平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災が起こると、

台湾の人々は、日本赤十字社が把握しているだけで、
200億円を超える義援金と
400トン以上の支援物資を日本に送ってくれました。

これは、もちろん世界一であると同時に、
世界から寄せられた支援の、およそ3分の1を占めています。

これだけでも驚きに値するのに、
台湾の人々は、日本赤十字社を通さずにその何倍もの支援を送ってくれていて、

その合計は天文学的数字となり、もはや計算できないとさえ言われているのです。

台湾の人口が、日本の5分の1にも満たないこと(2300万人)、

台湾の平均所得が年間2万ドル(震災で当時のレートで約160万円)であること、

さらに日清戦争が終わった1895年から太平洋戦争が終結した1945年まで、
およそ50年もの間、
日本によって統治されていたことを考え合わせると、

この台湾の厚意が、格別なものであると言うことが実感できるでしょう。


なぜ台湾の人々が、ここまで日本に対して厚意を示してくれるくれたのかというと、

それは、

ある1人の日本人土木技師の生涯が、大きく影響しているのです。

その技師の名は、
「八田與一(はったよいち)」。

台湾では、中学校の歴史教科書にも掲載され、

さらに、彼の命日である5月8日に行われる墓前祭に、政府要人の多くが出席するなど、

台湾の人々から深く敬愛されています。


八田與一さんは、

金沢で生まれ育ち、24歳で東京帝国大学(現東京大学)土木課を卒業しました。

卒業後ほどなく台湾総督府土木部の技師として、台湾に赴任しました。

明治43年(1910年)、日本が台湾の統治をはじめて16年目のことです。

そもそも日本が台湾を統治するようになったのは、

日清戦争後の講和条約で、清国(現在の中国)から日本に割譲されたからです。

しかし、清から日本への台湾割譲は、順調に行ったわけではなく、

武装した住民たちの激しい抵抗にあい、

日本軍が台湾を平定するまでの間に、

台湾では、軍民合わせて約17,000人もの犠牲者が出たとされています。


当時の台湾は、人口約300万人、

教育制度は整っておらず、

治安は不安定、
マラリヤやコレラなどの伝染病も蔓延していて、

極めて近代化の遅れた土地でした。

その台湾を統治するにあたって、
日本は、台湾総督府という官庁を設立し、

そのトップである台湾総督に、絶大な権限を持たせました。

台湾総督府は、

まず学校つくり、台湾の人々に教育を施しました。

台北には帝国大学も作られ、

さらに、

優秀な学生を日本に呼び、
日本の国立大学に進学させました。

親日家として知られる「李登輝元総統」は、そのような経緯で京都帝国大学(現京都大学)に進学しています。

教育と並行し、台湾総督府が力を注いだのは、インフラの整備でした。

台湾では日本統治時代に、鉄道、道路、港湾、電信(通信網)、水道など、社会資本が次々に整えられていきました。

日本の台湾統治に関しては、

いろいろ議論がありますが、

当時の日本が、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、明石元二郎など、

一線級の人材を送り込んだことは事実で、
彼らは台湾の発展のために尽力しました。


台湾国内でも、このことに理解を示し、

日本統治時代の教育やインフラ整備のおかげで

台湾の産業が発展したと考えてくれる人々が、意外に多いです。

その日本統治時代のインフラ整備の象徴と言うべきものが、
「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」であり、

その計画策定から設計、工事監督まで、すべての責任をになったのが八田與一でした。


嘉南大圳は、

台湾南西部の水利施設で、

川をせき止めて造った「烏山頭ダム」と嘉南平原一帯に網の目のように細く広がる用水路など、からなっています。

烏山頭ダムは、当時東洋一の規模を誇り、
用水路と排水路は、合わせると長さ約16,000キロメートル(およそ地球半周分に相当)にも達しました。

嘉南地域は、もともと台湾でも最も貧しい土地と言われていました。

降雨が少なく、6月から9月の雨季に年間降水量の約9割が集中する上に、

平坦な土地で排水も悪いので、
干ばつと水害が繰り返されるのです。

このような条件では、サトウキビすら育たず、
不毛の土地となっても過言ではありませんでした。

そこにダムと用水路を建設し、
台湾一の穀倉地帯に生まれ変わらせようというのです。

現地を視察した與一は、大規模なダムと水路を建設して、濁水渓と曽文渓という2つの川から取水し、

南北約86キロメートル、東西約71キロメートルの計約15万ヘクタールの土地を灌漑する、という壮大な計画を立てました。

嘉南平原は、香川県とほぼ同じ面積を有し、
台湾の全耕地面積の約14%にあたります。

これが実現すれば、60万人の農民の生活を支えることができるのです。

與一の示した計画は、技術的にも、費用の面でも難工事が予想されましたが、

明石元二郎総督の後押しを受けて、ついに大正9年(1920年)に着工することが決定しました。

彼はまず烏山頭ダムの建設に携わる人たちが、安心していい仕事ができるようにと、

関係者の家族を呼び寄せ、彼らのためのまちづくりを始めました。

工事関係の施設のほかに、

家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店、

それにテニスコートや弓道場などの娯楽施設、

学校、医療所まで作り、1,000人を超える人々の生活を支えたのです。

彼らは、時には集会所に集まってゲームに興じており、お祭りを開いたり、

夜に幕を垂らして映画を上映したり、サーカスや手品師を読んでイベントを開いたりして、

ここでの生活を心から楽しみました。

人情味にあふれ、

内地人(日本人)に対しても
外地人(漢民族や台湾の原住民族)
に対しても平等に接する與一は、

工事関係者や地元の農民に慕われました。

しかし、

彼の人望とは裏腹に、工事は困難を極めたのです。

着工から二年ほどが経過した
大正11年(1922年) 12月、

曽文渓からダムに水を引き込むために建設していた
トンネル内で、ガス爆発事故が起こりました。

この事故による死者は50余名を数え、
負傷者も100名を超える大惨事となりました。

與一は、原因究明を急ぐとともに、犠牲となった台湾の工員の家を一軒一軒訪ね歩きました。

遺族を前にした與一は、事故が起こり、多くの犠牲者が出てしまったことに対して、

涙を流しながらお詫びしました。

そして、最後に、こう述べたのです。

「すいません。

それでも、この工事を続けることをお許しください。

このダムは、台湾の人々の暮らしを豊かにするために必要なんです。

やめたら嘉南の人に水を与えることができなくなるんです」

與一の真心に心を打たれた遺族たちは、
工事の続行を了承しました。

工事が再開されると、
殉工者の尊い犠牲が行員たちを鼓舞し、

工事関係者の結束はさらに固くなっていきました。


(つづく)

挑戦!

2016-02-19 13:11:12 | 物語
「挑戦!」


20年前、80歳で水泳を始めた。

84歳で日本マスターズ水泳大会に出場。

翌年、85~90歳の部門で日本記録を5つ樹立した。

以来、世界新や世界初の記録を作り続け、100歳の今も現役だ。

「なせばなる、なさねばならぬ、何ごとも
ならぬは人の、なさぬなりけり」(上杉鷹山)

これが私の信念。

思えば、長年の苦労で精神力が鍛えられたのかもしれない。

私は1914年、山口県徳山市(現・周南市)に生まれ、
23歳で同じ山口の田布施町の商家・長岡家に嫁いだ。

家業は縄やむしろなど、わら工品の卸問屋で、主人は長男。

2人の子供産んだが、長男は若い頃に結核を病んで以来、入院することが多かった。

脊髄カリエスも患い、私が53歳のときに亡くなる。

それからは大変、主人に任せきりだった仕事を全部自分でやらないといけない。

帳面の付け方など、何から何まで、勉強だった。

しかも、わら工品は需要が減って、商売は苦しかった。

籾殻を鉄鋼会社に納める事業を始めて、うまく軌道に乗せた。

「死ぬまで商売だけやるのは嫌や」と、55歳で観世流の先生に師事して能の稽古を始めた。

先生はとにかく厳しくて、うまくできないと、扇子で背中を叩かれる。

扇子がボロボロになるほどで、何度も泣いて帰った。

だが、すり足や謡を懸命にやったことで体幹を鍛えられた。

やるならとことんやるのが私の性分。

教わった通りにできるまで、毎日自主稽古に励んだ。

年に1回の大会にも出て面と能装束をつけて有名な「羽衣」を舞わせてもらった。

ところが歳をとって膝に水が溜まり、思うように能の稽古ができなくなった。

あっちこっちの医者を回ったけどよくならない。

長男に勧められ、プールに入った。

最初は歩くだけだったが、泳ぐのも料金は一緒。
ならば、と我流の背泳ぎで泳ぎ始めた。

25mを泳げるようになるまで1年ほどかかったが、コツがつかめた。

長男に勧められて出場した大会でも良い結果を出せた。

だが真剣に水泳に取り組み始めたのはもっと後になってからだ。

87歳で耳が聞こえづらくなり、長年の生きがいだった能をやめるしかなくなった。

耳がだめじゃ、どうしようもない。

悲しくて気力がわかなかったが、水泳だけは続けた。

2002年、88歳で世界マスターズ水泳選手権大会に参加。

銅メダルを取った。

2年後の世界大会は銀メダルが3つ。

でも悔しかった。

やるなら金メダルを取らにゃつまらん。

通っていたプールのコーチ、沢田真太郎さんについた。

「次の世界大会で金メダルを取りたい」。

金が取れるまでは専属で教えてほしい、とお願いして特訓が始まった。

指導のおかげで効率的に泳げるようになり、タイムがどんどん速くなった。

2006年、サンフランシスコの世界大会で念願の金メダルを取った。

でも、3つの種目に出たのに、金は1つだけ。

まだ足りん。

また負けん気が出てきた。

95歳で苦手な平泳ぎに挑戦して、96歳の世界大会では5つの種目で金を獲得。

記録もどんどん伸ばした。

泳ぐときは記録のことも何も考えない。

ターンの数えるだけ。

それでも良い結果が出るとやはり嬉しい。

今年の7月の大会では50メートルの背泳ぎで半年前の記録よりも17秒タイムを縮められ、1分33秒で泳げた。

表彰してくれたソウル五輪金メダリストの鈴木大地さんが目を丸くしていた。

今年は大きな目標があった。

前人未到の「100歳で1,500メートルを完泳」することだ。

長水路(50メートルのプール)では6月に達成できたが、
短水路(25メートル)ではまだ。

4月に挑んだは、息が続かず棄権した。
実は膀胱炎を患って体調が良くなかった。

10月の大会でもう一度泳ごうとしたら、今度は最初から飛ばしすぎて、また途中棄権。

来年4月の大会では必ず泳ぎ切る。

それが今の私の目標だ。

かなえられたら、背泳ぎで泳ぐ種目を完全制覇し、100~104歳の部門で18の世界記録を打ち立てることになる。

今も週に2回はプールに行って、休まず1,500メートル泳いで帰る。

山口で一人暮らしをして、掃除、洗濯、買い物、炊事、全部自分でやってきた。

今は横浜に住む長男がよく帰ってきてくれて、身の回りの世話をしてくれる。

大船に乗ったつもりで、これからも挑戦を続ける。

何事も苦しい目を見ないといけん。

怠けたら、ろくなことがない。

苦は楽の種、楽は苦の種。

えらい目をみたら、それだけの報酬がある。

やっぱりやるなら、とことんがええ。


(「日本経済新聞・文化面」平成26年12月19日 長岡三重子さんより)


これを読んで、私は初心の事を思いました。


「三つの初心」


「当流に万能一徳の一句あり。
初心忘るべからず。

この句、三箇条の口伝あり。

是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず」


室町時代の能役者、
世阿弥(ぜあみ)の格言である
「初心忘るべからず」。

芸事を極めるために、
三つの初心を忘れてはいけないと説いています。


一、是非(ぜひ)の初心

若い時は、うまくいってもおごらず、

うまくいかなくても一生懸命の心を忘れずに、

ただひたすら稽古を積んでいくと
必ず飛躍につながる。


二、時々(じじ)の初心

いつ、いかなる時も、慣れに慢心せず、
その時々の初心を大切にすれば、
芸はより磨かれていくもの。


三、老後の初心

芸を学び極め、人生の先達になるが、
老いても老いにふさわしい新たな芸を磨くことは新鮮であり、
充実した人生を送ることができる。


私たちは、

「物事を始めたときの志を忘れてはいけない」

と言う意味で
「初心忘るべからず」
を使います。

けれども世阿弥の言葉は、最初の志に限らず、

人生のあらゆる時期に、

全力を尽くすことの尊さを教えてくれているのです。

(「職場の教養」3月号より)


長岡さんは、無意識に、
こんな生き方を、してるんですよね。

生き切る、人生いちどきり

2016-02-15 16:39:01 | 物語
「人生いちどきり」


少し前、縁あってある初老の男性のお宅を、たびたび訪問していました。

がんを患い、その苦痛を緩和するケアを受けながら、
残りの時間を自宅で家族とともに過ごすことを選ばれた方でした。

さてこの方、なかなか口が悪くて、

「おう坊主、まだ来たのが!

俺を早(はえ)ぐくたばらせてよって魂胆だな!」

と来るので、私も負けずに、

「私もまだまだ修行が足りねぇなぁ。
お父さん、なかなか成仏しねぇもん」

と言い返せば、ニカッと笑い、

「もっと頑張れ!」

と言ってくれる、気持ちのサッパリした方でした。

ある日、奥様と3人の時に生まれ変わりが話題となり、私は何気なく尋ねてみました。

「お父さんは生まれ変わるとしたら、何になりでぇの?」

お父さんは、急に黙って、いつになく真剣な口調で語りました。

「生まれ変わっても俺がいい。

この病気のない、俺になりでぇ」

自宅でのケアを始めた時から、良くなる見込みがない事は、お父さんも覚悟をしていました。

それでもなお、心の奥底から渇望し続ける痛々しいほどに、まっすぐな願い、…。

息が詰まるほどの緊張と沈黙の中、

張り裂けそうな気持ちに耐えながら、
奥さまが、つとめて笑顔で切り返します。

「そしたら、また私と一緒に、ならねっけ ねぇんだよ。

いいの?」

ニヤッと笑ってお父さん、

「ああ、んだなぁ。

それでもいいや。

病気さえなげれば、それでいい」


私は、何も言えませんでした。

ほどなくしてお父さんの容体は急変し、
もうその笑顔を見ることも、皮肉を言い合うことも叶わなくなりました。


人の人生は二度と繰り返さないから、

「やり直しの効かない一度きりの人生を、悔いなく生きてください」

なんて言えません。

そんなの無理です。

原因がわかっていても納得できない理不尽で不条理な運命。

悔やんでも悔やみきれない取り返しのつかない出来事。

逆に、思いがけぬ幸運に恵まれたり、努力が実り喜びに溢れたり、…。

一度きりの人生を、人は受け入れざるを得ない。

大切なことは、その一度きりの人生をどう生き抜くか。

がんを患うことも、奥様と一緒になることも、
そのままでお父さんも人生。

その人を、お父さんは最期まで懸命に生き抜いた。


(「法っとするおはなし」高橋悦堂さんより)


生き切るって、こんな感じでしょうか。

感動!最後のオーダー

2016-02-14 21:37:22 | 物語
「最後のオーダー」


私がKさんと出会ったのは、まだ看護学生🌸で19歳の年でした。😄

私の担当する患者様☀️でした。

50代後半の男性で、病名は肝硬変。😵
やや色黒でパンチ✊パーマ🌀は驚くほど似合い、

病衣👕の隙間から見える首元には、
金色👑のネックレスがキラキラ✨と光り、

あまりの威圧感😎に身構えてしまいそうな、そんな風貌の患者様でした。😨

こんなKさんと初めて顔を合わせ、あいさつ🎵をした時のことです。

私は「看護学生の綾田です。4週間よろしくお願いします!💕」

と、恐怖心😱を隠しながら精一杯🌸の笑顔😄で言いました。

するとKさんは眉間にシワを寄せ厳しい⚡️表情で

「あんた、手✋を見せなさい」
と。


私は(何を突然)と思いながら両手👐を出しました。

するとKさんは、私の手✋をじっと見つめて

「あんた、料理🍴してないね」

と、にっこり😊笑って言うのです。

びっくりしました。😵

Kさんは、地元では有名な某ホテル🏨の料理長🌸をされていたのです。

私は、料理🌸をしていないことを見破られた驚きと😵、ギャップを感じる笑顔😊と、

パンチ✊パーマで金をネックレス✨をした、こんなにも威圧感🌊のある人が、

まさか料理長🌸ということに衝撃⚡️を受けました。😵

私は実家から通っていたため、料理はほとんどしていませんでした。😝

しかし、「食」に対する執着✊は人一倍でしたので、

その日から毎日Kさんと、検査や点滴の合間に料理🍴や食事🍱の話をしました。

昼食🍱の盛り付け方を勝手に評価💕し、
やり直してみたり、料理番組📺に見入ったり。

時には、Kさんにとっておきのレシピ📝を教えてもらうこともありました。

さらに

「Kさん、退院🏥したら私に茶碗蒸し🍵を作ってください!🌸

料理長の作る茶碗蒸し🍵食べてみたいです!」

と冗談🌸を言うと

「腰抜かすなよ!」

と、あの笑顔😊で返してくれました。

しかし、Kさんの病状は深刻⚡️で、私の実習が始まってすぐの頃、

すでに肝硬変は肝がんへと移行し、☁️☁️
余命は1年はありませんでした。⛅️

実習が終わる頃、お腹は腹水でパンパンになり、目や皮膚は黄色く黄疸が出ていました。😔

安静時間も長くなり、点滴の量は増え、Kさんの笑顔はどんどん減りました。😣

私はベッドの上でKさんの髪を洗ったり、
体をきれいに清拭(せいしき)したり、

少しでもKさんの気持ち💕が病気からそれるよ、
楽しい話題🌸でたくさん話しかけました。🎵

再び料理長🌸として厨房に立つ事は無理でも、
料理🍱を楽しむことを諦めてほしくなくて、
看護学生の私にできることの全てをし、そばにいました。☀️

そんなある朝、

私は病室へ入るとKさんは横を向いて静かに眠って💤いました。

しかし、真っ白な枕カバーの目元には大きな濡れたシミ💧があったのです。

それが涙💧で出来たものだと、私はすぐにわかりました。👀✨

私が来る前にたった1人で泣いて💧💧いたのです、
こんなに大きなシミ💧ができるほど泣いた💧💧のです。

私は、込み上げてくる涙💧を我慢できませんでした。😭

看護学生🍀と患者様🌸でしたが、

そばにいた4週間で、心💓を開いてもらえる関係だと思っていました。

でも足りなかった。😖

Kさんは、私には何も言わず、
私が来る前に1人でたくさん泣いていました。💧💧

心を開けるほどではなかったのだと、
涙のシミ💧が証明しているようで

悔しくて😩、悲しくて、😫

支えになれなくて、😖

ベッドサイドの椅子に座り、声を殺して泣きました。💧💧

ポタポタ💧💧と落ち続ける涙💧を、止めることも出来ませんでした。💧💧


あっという間⚡️に実習🌸が終わり、
学校🏫での授業が始まった頃、

私のもとに一本の連絡🎵が入りました。

「◯月◯日、◯時、〇〇ホテルに来てください」
と。

Kさんの務めるホテル🏨でした。

私は、まさかと思いましたが、指定の日時にホテル🏨へ行きました。

名前を言い、通されたのは、

ランチの時間も終わり、お客様も誰もいないレストラン🍴のカウンターでした。🍀

そこには、真っ白な調理衣👕を着たKさんが、
ゆっくりと調理🔥をする後ろ姿が見えました。👀

大きく背中を上下させ、必死に呼吸💨をしています。

しばらくすると、

ゆっくりとした足取りで
Kさんが、茶碗蒸し🍵を運んでやってきました。😊

「今日で退職するんだ。🎵

料理長🌸としての最後のオーダー📜は、あんたの茶碗蒸しだ」
と。

その姿🌸と言葉🍀に、また涙💧が溢れ出ました。😭

あふれる涙💧が止まらず、私は泣きながら💧料理長の茶碗蒸し🍵を食べました。🌸

最高👑の茶碗蒸しでした。🌸🌸


少しの時間、Kさんと話🎵をしました。

ドクターに無理をいい、
退職届け✉️を出すために、わずかな時間、外出してきたと。☀️

ホテル🏨の調理場🍳も協力してくれたと。

身寄りのないKさんにとって、4週間、私が支えだった💓と…。🎵☀️


数ヶ月後、Kさんは亡くなりました。☁️☁️

あれから18年が経ちます。🌸

私は、Kさんのおかげで医療従事者🏥として、
誰かの支えになれる喜び💕を知りました。🍀

一生、医療従事者でありたいと思えました。😄🎵

Kさん、ほら!、私の手✋を見て、

仕事🍀も、料理🍳も、がんばっているよ!😄💕


(「読売新聞・心に残る医療」菅中沙都姫さんより)


涙なしでは、語れませんね。😭
この話は。