🌸🌸八田與一〈ダム完成〉🌸😄
ところが、
この爆発事故の翌年に、予期せぬことが起こります。
大正12年(1923年) 5月1日、
関東大震災が発生したのです。
死者・行方不明者は14万人を超え、住宅の焼失は44万件にも及びました。
台湾総督府は、本国・日本の危機に際して援助金を出さなければならず、
予算を大幅に縮小する必要性に迫られました。
それに伴い、当然、工事費も削減しなければなりません。
やむなく総督府は工事関係者の約半数を解雇することを決め、その人選を與一に一任しました。
多くの犠牲者が出たことで傷ついた與一が、
今度は、自らの手で、職員に解雇を申し渡さなければいけないのです。
おそらく、我が身を着られるよりも、辛かったことでしょう。
このとき、
解雇者を選ぶにあたって彼が示した選定基準は、
誰もが予想しないものでした。
今までの半分の人数で工事を続けるわけですから、
常識で考えたら、有能なもの、腕の立つ者を残すでしょう。
ところが、彼は、
有能なもの、腕の立つ者から
解雇していったのです。
彼の考えは、常識とは真逆でした。
その言葉は、
「大規模工事は少人数の優秀な従業員により完成できるものではない。
最も大きな貢献をするのは、
多くの現場労働者である。
しかも能力のないものは
いったん失業してしまうと、生活できなくなる。
そこで、能力のない者の生計を保障するために、
残念ではあるが、
まず優秀な従業員を解雇する」
というものです。
「仕事ができる人なら、解雇されても、
すぐに再就職できるだろうが、
そうでないものは、
失業してしまい、
本人も家族も生活ができなくなる」
との思いやりのこもった対応でした。
與一は、自らが選んだ退職者一人一人を所長室に読んで、
いくばくかの賞与金を手渡しました。
彼らの今までの労をねぎらうとともに、
「いずれ、必ず、また呼び寄せるから」
と約束して、固い握手を交わしました。
解雇される者たちも、一言も文句を言いませんでした。
なぜなら、解雇される自分たちと同じかそれ以上に、與一がつらく感じていることを、
全員が知っていたからです。
一人一人と握手を交わす與一の頬に、涙がつたっていました。
工事がどんなに難航しても、決して人前で弱音を吐くこともなかった彼が、
周囲の人に、はじめて見せた涙でした。
與一は、退職者の再就職先の斡旋に奔走しました。
さらに数年後、日本が奇跡の復興とげ、予算が戻ると、
彼らとの約束を守り、希望者を再び雇用しました。
そして着工から10年という気の遠くなるようなな歳月と、
総工費5,413万円
(総督府が支出した建設費が2674万円、
地元の農民をはじめ受益者の負担金が2739万円)
という莫大な費用かけて、
ついに昭和5年(1930年) 4月、烏山頭ダムは完成したのです。
これがいかに大規模な工事であったか、それを物語る数字をご紹介しましす。
まず工事費ですが、
これは、計算方法にもよりますが、
現在の貨幣価値に換算すると、
およそ4000億円にのぼると思われます。
ちなみに、当時の作業員の日給平均が、およそ1円だったことを考えれば、
この5413万円と言う工事費が、いかに巨額なものであるかが想像できるでしょう。
さらに、嘉南大圳は台湾の耕地面積の約14パーセントを潤すわけですから、その水量も桁違いです。
まず、完成した烏山頭ダムを満水するのに、
2つの河川から取水しても1ヶ月以上かかったとされています。
まず、満水となった5月15日に通水式が行われると、
ダムの水門が開き、水が勢いよく噴出されました。
幹線から支線、そして分線へと、水がゆっくりと流れ込みます。
この水がすべてに行きわたるまでに、2日以上かかったといわれています。
與一をはじめとした工事関係者の喜びもさることながら、
最も喜んだのは、嘉南平原に生きる60万人の農民たちでした。
建設当初、半信半疑だった彼らは、
嘉南平原を潤す水を目のあたりにし、
「神の恵みだ、天が与え給うたと水だ」
ともの凄い水に歓喜の声を上げ、大喜びしたそうです。
嘉南大圳は、台湾に莫大な利益をもたらし、
経済を一変させました。
それについて述べる前に、與一の農民に対する想いの強さに触れたいと思います。
計画を策定した與一は、たとえダムと用水が完成しても、
この広大な土地に
必要な水量の3分の1しか供給できないことがわかっていました。
そこで、彼は、嘉南地域の農民たちに、ある提案をしたのです。
嘉南平原を3つに分け、各地域に3年に1度だけ水を供給します。
各地域は、水が供給された年は、
水を大量に必要とする稲作を行いますが、
水が供給されない年は、水をさほど必要としないサトウキビ、
その次の年は、ほとんど水が入らない芋や雑穀を、順番に栽培していくのです。
これが與一の提案した、三年輪作です。
三年輪作が成功すれば、水不足も解消でき、
生産性は飛躍的に上がるでしょう。
けれども、
そのためには、農民たちが、自らつくる作物を守ることが必要で、
互いにエゴを捨て協力しあわないといけません。
農民たちの間では、収益性の高い米を求め、三年輪作に反対する意見も出ました。
それに対し與一は、
「一部の農民が恩恵を受けるのではなく、
同じ嘉南に住む農民みんなが
貧しさから脱却することが大切であり、
そのために、利益も、痛みも、分け合うのだ」
と説きました。
日本有数の米どころ金沢で農家の五男として生まれ育った與一は、
「台湾の農民を豊かにしたい」
と心から願ったのです。
計画の策定から工事の監督まで、
すべての責任を1人で負い、
毎日、朝5時半から夜11時まで働き続けた與一。
その姿をずっと見てきた農民たちは、
その人柄を信じて、彼に協力して従うのでした。
ちなみに、李登輝元総統は、
ダムの建設と並んで、この三年輪作こそが、與一の本当の功績であると述べています。
つまり、三年輪作というの農法を通して、
古(いにしえ)から日本人が大切にしてきた
「公に奉ずる」
という生き方を台湾にもたらしたこと。
そのことが、
その後の、台湾の歴史や文化に大きな影響与えたと、いうこと。
與一の提言を守り、
農民たちが協力して三年輪作を行った結果、
農業生産性が飛躍的に上がり、
工事が完成して、7年後の
昭和12年(1937年)には、
生産額で比較すると、
米は工事前の約11倍、サトウキビは約4倍と、
それぞれ、予想をはるかに上回る実績を挙げました。
やがて、この地域で収穫された農産物は、日本への一大輸出品となり、
それによって得られた外貨が、台湾の工業化の資金となっていったのです。
こうした自国の歴史を知る台湾人の人々の中には、
「今、台湾は先進国でいられるのは、日本のおかげ」
と考える人も多く、
彼らは、與一を父のように慕い、
日本に感謝してくれているのです。
44歳の若さで嘉南大圳を完成させた與一は、
その後も技官として台湾に留まり、
亡くなるまで、台湾の発展に生涯を捧げました。
彼が後進の育成のために設立した土木測量技術員の養成所は、
今では名称が変わり「瑞芳高級工業職業学校」となりましたが、
台湾初の民間学校として知られ、
毎年多くの技術者を社会に送り込ん送り出しています。
彼の死は、突然やってきました。
太平洋戦争中、
南方産業開発派遣要員として「大洋丸」という大型客船に乗り、
広島の宇品港からフィリピンへ向かう途中、
アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、太洋丸が沈没。
與一は、帰らぬ人となったのです。
昭和17年(1942年) 5月8日のこと56歳でした。
それから、3年が経ちました。
與一の妻・外代樹(とよき)は、
台北で空襲がひどくなると、子供たちとともに、烏山頭に疎開しました。
かつて夫と共に過ごした懐かしい土地です。
そして、昭和20年8月15日敗戦とともに、
日本による台湾統治が終焉を迎えます。
多くの日本人が、台湾を離れ日本に帰国することになります。
外代樹は、
夫の魂が、ダムと共に今も生きる台湾から、離れることをせず、
昭和20年(1945年)9月1日未明、
彼女は黒い喪服に白足袋という出で立ちで、
烏山頭ダムの放水口に、身を投げたのでした。
台湾の人々が、
八田與一という日本人を
心から愛し、
父のように慕う理由の1つに、
この美しくも深い、夫婦愛もあるのです。
(参考「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
素晴らしい先輩の努力に、心より感謝します。
ところが、
この爆発事故の翌年に、予期せぬことが起こります。
大正12年(1923年) 5月1日、
関東大震災が発生したのです。
死者・行方不明者は14万人を超え、住宅の焼失は44万件にも及びました。
台湾総督府は、本国・日本の危機に際して援助金を出さなければならず、
予算を大幅に縮小する必要性に迫られました。
それに伴い、当然、工事費も削減しなければなりません。
やむなく総督府は工事関係者の約半数を解雇することを決め、その人選を與一に一任しました。
多くの犠牲者が出たことで傷ついた與一が、
今度は、自らの手で、職員に解雇を申し渡さなければいけないのです。
おそらく、我が身を着られるよりも、辛かったことでしょう。
このとき、
解雇者を選ぶにあたって彼が示した選定基準は、
誰もが予想しないものでした。
今までの半分の人数で工事を続けるわけですから、
常識で考えたら、有能なもの、腕の立つ者を残すでしょう。
ところが、彼は、
有能なもの、腕の立つ者から
解雇していったのです。
彼の考えは、常識とは真逆でした。
その言葉は、
「大規模工事は少人数の優秀な従業員により完成できるものではない。
最も大きな貢献をするのは、
多くの現場労働者である。
しかも能力のないものは
いったん失業してしまうと、生活できなくなる。
そこで、能力のない者の生計を保障するために、
残念ではあるが、
まず優秀な従業員を解雇する」
というものです。
「仕事ができる人なら、解雇されても、
すぐに再就職できるだろうが、
そうでないものは、
失業してしまい、
本人も家族も生活ができなくなる」
との思いやりのこもった対応でした。
與一は、自らが選んだ退職者一人一人を所長室に読んで、
いくばくかの賞与金を手渡しました。
彼らの今までの労をねぎらうとともに、
「いずれ、必ず、また呼び寄せるから」
と約束して、固い握手を交わしました。
解雇される者たちも、一言も文句を言いませんでした。
なぜなら、解雇される自分たちと同じかそれ以上に、與一がつらく感じていることを、
全員が知っていたからです。
一人一人と握手を交わす與一の頬に、涙がつたっていました。
工事がどんなに難航しても、決して人前で弱音を吐くこともなかった彼が、
周囲の人に、はじめて見せた涙でした。
與一は、退職者の再就職先の斡旋に奔走しました。
さらに数年後、日本が奇跡の復興とげ、予算が戻ると、
彼らとの約束を守り、希望者を再び雇用しました。
そして着工から10年という気の遠くなるようなな歳月と、
総工費5,413万円
(総督府が支出した建設費が2674万円、
地元の農民をはじめ受益者の負担金が2739万円)
という莫大な費用かけて、
ついに昭和5年(1930年) 4月、烏山頭ダムは完成したのです。
これがいかに大規模な工事であったか、それを物語る数字をご紹介しましす。
まず工事費ですが、
これは、計算方法にもよりますが、
現在の貨幣価値に換算すると、
およそ4000億円にのぼると思われます。
ちなみに、当時の作業員の日給平均が、およそ1円だったことを考えれば、
この5413万円と言う工事費が、いかに巨額なものであるかが想像できるでしょう。
さらに、嘉南大圳は台湾の耕地面積の約14パーセントを潤すわけですから、その水量も桁違いです。
まず、完成した烏山頭ダムを満水するのに、
2つの河川から取水しても1ヶ月以上かかったとされています。
まず、満水となった5月15日に通水式が行われると、
ダムの水門が開き、水が勢いよく噴出されました。
幹線から支線、そして分線へと、水がゆっくりと流れ込みます。
この水がすべてに行きわたるまでに、2日以上かかったといわれています。
與一をはじめとした工事関係者の喜びもさることながら、
最も喜んだのは、嘉南平原に生きる60万人の農民たちでした。
建設当初、半信半疑だった彼らは、
嘉南平原を潤す水を目のあたりにし、
「神の恵みだ、天が与え給うたと水だ」
ともの凄い水に歓喜の声を上げ、大喜びしたそうです。
嘉南大圳は、台湾に莫大な利益をもたらし、
経済を一変させました。
それについて述べる前に、與一の農民に対する想いの強さに触れたいと思います。
計画を策定した與一は、たとえダムと用水が完成しても、
この広大な土地に
必要な水量の3分の1しか供給できないことがわかっていました。
そこで、彼は、嘉南地域の農民たちに、ある提案をしたのです。
嘉南平原を3つに分け、各地域に3年に1度だけ水を供給します。
各地域は、水が供給された年は、
水を大量に必要とする稲作を行いますが、
水が供給されない年は、水をさほど必要としないサトウキビ、
その次の年は、ほとんど水が入らない芋や雑穀を、順番に栽培していくのです。
これが與一の提案した、三年輪作です。
三年輪作が成功すれば、水不足も解消でき、
生産性は飛躍的に上がるでしょう。
けれども、
そのためには、農民たちが、自らつくる作物を守ることが必要で、
互いにエゴを捨て協力しあわないといけません。
農民たちの間では、収益性の高い米を求め、三年輪作に反対する意見も出ました。
それに対し與一は、
「一部の農民が恩恵を受けるのではなく、
同じ嘉南に住む農民みんなが
貧しさから脱却することが大切であり、
そのために、利益も、痛みも、分け合うのだ」
と説きました。
日本有数の米どころ金沢で農家の五男として生まれ育った與一は、
「台湾の農民を豊かにしたい」
と心から願ったのです。
計画の策定から工事の監督まで、
すべての責任を1人で負い、
毎日、朝5時半から夜11時まで働き続けた與一。
その姿をずっと見てきた農民たちは、
その人柄を信じて、彼に協力して従うのでした。
ちなみに、李登輝元総統は、
ダムの建設と並んで、この三年輪作こそが、與一の本当の功績であると述べています。
つまり、三年輪作というの農法を通して、
古(いにしえ)から日本人が大切にしてきた
「公に奉ずる」
という生き方を台湾にもたらしたこと。
そのことが、
その後の、台湾の歴史や文化に大きな影響与えたと、いうこと。
與一の提言を守り、
農民たちが協力して三年輪作を行った結果、
農業生産性が飛躍的に上がり、
工事が完成して、7年後の
昭和12年(1937年)には、
生産額で比較すると、
米は工事前の約11倍、サトウキビは約4倍と、
それぞれ、予想をはるかに上回る実績を挙げました。
やがて、この地域で収穫された農産物は、日本への一大輸出品となり、
それによって得られた外貨が、台湾の工業化の資金となっていったのです。
こうした自国の歴史を知る台湾人の人々の中には、
「今、台湾は先進国でいられるのは、日本のおかげ」
と考える人も多く、
彼らは、與一を父のように慕い、
日本に感謝してくれているのです。
44歳の若さで嘉南大圳を完成させた與一は、
その後も技官として台湾に留まり、
亡くなるまで、台湾の発展に生涯を捧げました。
彼が後進の育成のために設立した土木測量技術員の養成所は、
今では名称が変わり「瑞芳高級工業職業学校」となりましたが、
台湾初の民間学校として知られ、
毎年多くの技術者を社会に送り込ん送り出しています。
彼の死は、突然やってきました。
太平洋戦争中、
南方産業開発派遣要員として「大洋丸」という大型客船に乗り、
広島の宇品港からフィリピンへ向かう途中、
アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、太洋丸が沈没。
與一は、帰らぬ人となったのです。
昭和17年(1942年) 5月8日のこと56歳でした。
それから、3年が経ちました。
與一の妻・外代樹(とよき)は、
台北で空襲がひどくなると、子供たちとともに、烏山頭に疎開しました。
かつて夫と共に過ごした懐かしい土地です。
そして、昭和20年8月15日敗戦とともに、
日本による台湾統治が終焉を迎えます。
多くの日本人が、台湾を離れ日本に帰国することになります。
外代樹は、
夫の魂が、ダムと共に今も生きる台湾から、離れることをせず、
昭和20年(1945年)9月1日未明、
彼女は黒い喪服に白足袋という出で立ちで、
烏山頭ダムの放水口に、身を投げたのでした。
台湾の人々が、
八田與一という日本人を
心から愛し、
父のように慕う理由の1つに、
この美しくも深い、夫婦愛もあるのです。
(参考「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
素晴らしい先輩の努力に、心より感謝します。