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🍀🍀『食べ物を変えるとなぜ人生が変わるのか?』🍀🍀

2018-01-29 08:37:39 | 色んないい物を勝手に応援!
🍀🍀『食べ物を変えるとなぜ人生が変わるのか?』🍀🍀


私の営む民宿「わら」には、
「あそこへ行けばがんが治る」
「リウマチが治る」

などの噂を聞きつけ、多くのお客様が来られます。

「わら」のメインは料理なのに、
お客様が聞かれるのは

「どうすればがんが治りますか」

ということばかりです。

私は経済産業省に頼まれて、村おこしがうまくいかない施設の再生に携わったり、

病院の食養栄養顧問や飲食業界のコンサルタント、

結婚や妊活のコンサルタントもしています。

妊活の成功率は「9割」です。

料理人の私に、なぜこのような依頼が来て、なぜ解決できるのか? 

それは

「食べる」

という観点から徹底して指導するからです。

考えてみてください。

皆さんという存在は
「今まで食べてきた物の集約」
ですよね。

皆さんの笑顔も、シワも、白髪も、すべて食べ物の影響を受けています。

さらに、
「人はすべて食べ物によってつくられている」
と考えれば、

人生や運命に至るまで、そのすべてが食べ物の影響を受けていると考えていいと私は思います。

逆に言えば、

「食べ物の質を上げれば、人生が幸せになり、素敵なチャンスを運んでくる人とうまく出会えるようになる」

ということです。

超簡単でしょ。


しかし現在は、その

「食べ物の質を上げる」

ことが非常に難しい時代です。

「質のいいものを食べよう」

と思っても、

単純に「オーガニック」の記載のあるものを買えばいいわけではないのです。

たとえば「オーガニック豆腐」と表記された商品が販売されています。

裏側を見ると

「中国産有機大豆使用」と書かれています。

「オーガニック」だからといって、国内産の大豆が使われているわけではないのです。

しかもこの豆腐は、

「ヘキサン」という、とてもきつい薬品を使って大豆から油を全部抜き取り、

そのしぼりカスに油を入れ、そこに凝固剤や消泡剤を混ぜて作ります。

だから非常に安くで作ることができます。

私が考えるのは

「そこに、どのような想いが込められているだろうか」

ということです。

この商品を作った人たちは

「これを食べる人が健康で幸せになってほしい」

という愛情や祈りを込めて作っているのでしょうか。

もし

「とにかく安い原材料を使って加工して作り、

たくさん売ってお金儲けさえできればいい」

と思っているとすれば、

その「想い」まで私たちは取り込んでしまいます。

これでは食べ物の質を上げることにはなりません。


私たちの命は、お父さんとお母さんからそれぞれ一つずつのDNAをもらい細胞分裂を繰り返します。

その成長の途中で、ある時

「おまえは肩になれ」

とか

「おまえは二の腕」
「おまえは骨」

と命令が出て、細胞がいろんな部分になっていきます。

遺伝子研究の最高峰・村上和雄先生によると、細胞1個は

「1000ページの大百科事典3200冊分」

ほどの情報を持ち、

その組み合わせ方は32億通りもあるそうです。

その組み合わせの中で人間が誕生していくわけですが、

それが今のような人間の姿になる確率は

「1億円の宝くじが連続100万回当たるのと同じ」

だそうです。

まさに「奇跡」の確率です。

その「奇跡」に心から感謝し、

身体を作る食べ物に毎日「ありがとう」を言って作り、食べる。

それが身体の質を上げることだと私は思っています。

だから、料理教室の生徒さんたちにもこう伝えます。

「皆さん、ウルトラマンのスペシウム光線を出すようなイメージで手をかざし、

お鍋の中の野菜にしっかりとビタミン愛を注いでくださいね」

と。

私は20歳から今まで40年間、
1日も欠かさず料理を始める前にいつもこう言ってきました。

「天地(あめつち)のお恵みと、これを作られた方のご愛念を感謝して料理させていただきます。

この食べ物が私たちの体の中に入って、自他共にお役に立ちますように。

ありがとうございます」

と。

「わら」では一日に何度もこの言葉が飛び交います。

だから「わら」の料理がおいしくなり、

日本中、そして世界中から食べに来るお客様が後を絶たないのです。


私は60年の人生を通じて、宇宙にはあるルールがあることに気付きました。

それは

「出したものが返ってくる」

です。

私がこれまで「出してきたもの」は、

誠意と愛情です。

これまで毎日、目いっぱいの誠意と愛情を込めながら料理を作らせてもらってきました。

それをみんなが「おいしい」と喜んで食べ、

その結果、集客を心配しなくてもお客様が次々に「わら」にやってきてくださるようになりました。

「わら」はめちゃくちゃ田舎にあり、
有名な神社や仏閣などの名所があるわけでもないし、人通りもありません。

「ここで商売しても絶対成功しない」

と多くの方から言われました。

開店して半年の間、お客様はずっとゼロでした。

「絶対いつか来る」と思っていたら、

お客様が1人来て、その方と一緒に来たお子さんもとても喜びました。

気付くと、その子のアトピーがよくなっていました。

「アトピーが治った」という噂を聞きつけ、多くの人たちが次々とやって来て、

その人たちも次から次に病気が治っていきました。


(「みやざき中央新聞」H30.1.22 自然食料理人 船越康弘さんより)


私たちは、10年以上前でしょうか、この民宿「わら」に行ったことがあります。😊🎵

岡山の田舎で、石川県でいうと河内や吉野谷みたいな場所です。

そこに、一泊して "料理" と "お話" を味わってきました。

その料理が、びっくり😍するほど身体に沁みて、美味しいかった😊のを覚えています。

食べものの大切さ、想いの大切さ、

十分感じ💓させていただきました。😊☀️

ニーハオ餃子②

2018-01-11 11:54:45 | 色んないい物を勝手に応援!
你好餃子②


(帰国のいきさつについてお話しください)

🔹八木、まだ文革の頃でしたが、死んだと思っていたお父さんから突然手紙が来たんです。

(生きていらした)

🔹八木、はい。日本に帰ってきて東京に住んでいました。

終戦後、内モンゴルにいたお父さんは戦後の大混乱で旅順の家族のもとに行くこともできず、

他の避難民と合流しながら命からがら日本に引き上げ、故郷の松山に帰り着いていました。

私たちとの再会を心から待ちわびながら、どうすることもできずにいたようです。

いろいろなコネを頼っても家族の消息はつかめず、最後に中国にパイプのある日本の国会議員をとおして首相の周恩来に直接お願いしたんです。

本当なら日本からの手紙は徹底的に調べ上げて厳しく検閲されるのですが、

周恩来の計らいというので特別に私たちに届けられたのでしょう。

お父さんの日本語の手紙を翻訳してもらうと、

そこには自分は元気で生活していることや、

早く一緒に暮らしたいといったことが書かれてありました。

それを聞いてお母さんも私も泣きましたよ。

その後、お父さんからは何通も何通も帰国を促す手紙が届きました。

(それで帰国を決断される)

🔹八木、いいえ、なかなか決断はできませんよ。

年も若くないし、日本語は完全に忘れていました。

それに、人以上の給料をもらっていたので、日本に来てまたゼロから始めようという気にならなかったんです。

ところがお父さんだけではなく、周りの人からも次々に

「帰ってこい」と手紙が届く(笑)。

私は「じゃぁ、1時帰国ということにして、1年したらまた中国に戻ろう」と考えて、

女房を中国に残したまま、子供たちだけを連れて日本に帰りました。

私は45歳の時です。


(久々に再会したお父さまの印象はいかがでしたか)

🔹八木、髪は真っ白で背中は丸くなって、すっかり年を取っていましたね。

さすがに涙をこらえきれず、

成田空港ではお互いに抱き合って、大きな声で泣きました。


それから一緒に生活する中で、お父さんはいつも、

「自分は老い先短い。30年以上も離れて暮らしたのだから、中国には帰らないで欲しい。

奥さんも呼んで一緒に暮らせばいいじゃないか」

と強く私を説得しました。

日本での生活に不安でいっぱいでしたが、

私はお父さんの思いを断ることはできませんでしたね。

(永住することにされた)

🔹八木、はい。3ヶ月後には女房を日本に呼び寄せていました。

江戸川区のアパートに住んで生活保護を受けながら生活し、葛西小学校の日本語学校に通いました。

少しずつ会話ができるようになったら、小松川第二中学校の夜間学校に通って勉強しました。

…、で、私がなぜ店を開くようになったのかという話なのですが、

学校の先生方が私たち家族を心配してよく遊びに来てくださっていたんです。

その時、私がご馳走するのは中国で覚えた水餃子でした。

「おいしい、おいしい」と言って食べてくださるのが本当に嬉しかった。

日本に来るまでにない餃子をつくろうと女房と2人で研究して考えたのが、先ほどお話しした「羽根つき餃子」ですね。

そのうち先生が、

「八木さん、小さい料理店でもいいから出しなさい」

と、アルバイトをしながら調理師の免許を取ることを勧めてくださったんです。

恵比寿にある中華料理学校で調理師の資格を取り

「もう自信があります。やります」

と報告すると、先生方は地元の有力者など37名を集めて学校の調理室で私のための会を開いてくださった。

いろいろな料理をつくって振る舞ってていた時、

先生が突然

「皆さん、これから八木さんが店を開きます。

でもお金がない。

協力していただけませんか」

と。

皆さんから一斉に

「やりましょう、やりましょう」

という声が上がって、ありがたいことに370万円のカンパを寄せてくださり、

それを運転資金として蒲田に你好をオープンしたんです。


(你好は地元の皆さんの協力によってできたお店なのですね)

🔹八木、そのとおりです。カンパして下さった皆さんが、いろいろな人に声を掛けてくださったのでしょうね。

オープン初日から長い行列ができました。

自慢の「羽根つき餃子」はたちまち評判になって、

遠くからわざわざ足を運んでくださる方が日に日に増えていったんです。

時には雨の中、1時間くらい外で立って待ってくださっている。

これは気の毒でね。

お客を持たせるのが申し訳ない、来たらすぐに温かい料理を食べていただきたいという思いもあって一軒一軒新しい店を増やしていったんです。

(お客様の視点に立った経営を心掛けていらっしゃる)

🔹八木、でも、新しい店を作っても閉めてしまったことがあります。

なぜ閉めたのか。

支店を任せていたスタッフが私の言うことを聞かずに儲けることばかり考えていたんです。

「設けるという考え方は絶対に失敗するから駄目だ」

と言ったけれども、「はいはい」というばかりで全く耳を貸そうとしない。

私はお客様からよく

「你好の材料は量が多いですね」

と言われます。

もう少し減らしてもいい、と言う人もいますが、絶対に減らさない。

戦争が終わって食べるものがなかった時代を思い出すと、お客様にはたくさん食べていただきたいというのが私の正直な思いです。

うちは高級料理店ではないから値段も安い。

「安くておいしい料理をたくさん食べられるから、また来ます」

と言ってお客さんは喜んで帰られます。

你好が繁盛してる理由はそこにあると思っているんです。

家賃が高い都心の店は別として、「羽根つき餃子 六個 300円」という値段設定は33年前の開店当初から今も同じです。

(それは八木さんの1つのこだわりなのですか)

🔹八木、私が餃子の値段を上げようとしないのは、皆さんに応援していただいてこの店ができた。

そのことを絶対に忘れてはいけないという思いがあるからです。

見てください。

この店内には最初にカンパをしてくださった76名の名前を記した額が掲げられているでしょう。

実は開店時から売り上げは伸びていたので、いただいたお金は1年半で全て返そうとしたんです。

だけど

「八木さんを応援するためにお金を集めたのに、なんで返すの」

と逆に怒られちゃった(笑)。

これには涙が出るくらい感動しました。


そのお金で内装を新しくしたのですが、皆さんの愛情を思うと値段を上げる気にはなりません。

(「儲けはいけない」というお言葉には、恩を忘れてはいけないという意味も込められているのですね)

🔹八木、そのとおりです。33年間を振り返ると、いろいろなことがありました。

店を開店した当時、日本語がまだ上手くしゃべれないためにお客様から思わぬ苦情が寄せられることがありましたし、

店舗の賃貸問題で私を追い出そうとした人もいました。

妻から「もう店をやめて中国に帰ろう」と相談を受けたこともあります。

しかし、その度にいろいろな方々に助けていただきながら、

餃子という小さな食べ物で自分の道を歩いてくることができたんです。

(八木さんの人生は、苦しいことや悲しいことをチャンスに変えていく活機応変の言葉そのものの人生でしたね)

🔹八木、私にはなかなか難しい言葉ですが(笑)、

お世話になった人たちや亡くなった両親への感謝の気持ちが人生を変えていく力を持っていることは確かですね。

私の激動の時代を生き延びてこられたのも、そういう思いがあったからかもしれません。


(おわり)

(「致知」2月号 ニーハ食品 八木功さんより)

ニーハオ餃子①

2018-01-10 09:58:09 | 色んないい物を勝手に応援!
你好餃子①


(パリッとして肉汁たっぷりの「羽根つき餃子」は広く愛されていますが、八木さんはその生みの親だと聞きます)

🔹八木、40年ほど前、自己流で餃子を研究していた時に、薄皮をつける大連の焼きまんじゅうを思い出して、水溶きの小麦粉を少しかけて焼いてみたんです。

自分でも納得できる味と形ができて、お世話になった人に振る舞ったところ、大変喜んでいただきましたね。

これがきっかけとなって你好(ニーハオ)を開店することになりました。

今年で33年になります。

(いろんなところに出展されているようですね)

🔹八木、東京に12店舗あります。

100人ほどのスタッフが働いてくれていますが、餃子はすべて蒲田にある本店でつくっているんです。

なぜかというと、どの店に行っても同じ味の餃子を食べてほしいから。

嬉しいことに、「まずい」「味が違う」と文句を言ってくるお客様は1人もいません。

朝6時半に店に行って、その日お店で出す餃子を仕込むのが、私の1番の仕事です。

多いときには1万個をつくりますから、50キロの小麦粉を捏ねて皮を作り、

具は重さが100kgぐらいになります。

仕込みが終わるのが10時半くらいかな。

それを創業以来、私が1人でやってきました。

誰にも任せない。

(33年間、毎日ご自身で仕込みを続けてこられた)

🔹八木、私は83歳になりますが、これまで休んだ日は1日もありません。

他の人に仕込みをやらせると味つけが変わってくるから、いくら忙しくても手を抜かない。

それに、おいしい餃子をつくるにはいい材料が欠かせません。

肉はひき肉ではなくブロックを買って、自分たちで2時間くらいかけて挽きます。

野菜も機械ではなく自分たちの手で刻みます。

いろいろなやり方を試してきて、おいしい餃子をつくるにはこれが1番だと納得できたんです。


(八木さんは戦前の中国にお生まれになり、戦争や文化大革命など激動の時代を生き抜いてこられていますね)

🔹八木、私のお父さんは日露戦争で日本から中国に渡りました。

戦争が終わっても中国に残って商売を続け、儲けた金で旅順に食堂を開きました。

その頃、中国人の女性と知り合って結婚し、1934年に長男の私が生まれたんです。

ところが、42年頃になると、戦争でお米やお酒が配給になり、売るものがなくなってしまった。

内モンゴルでホテルを経営していたお父さんの友人から

「内モンゴルには食堂もないし、営業してくれないか」

と声がかかり、お父さんに続いてお母さんと私たち兄弟も行くことになりました。

そこで4年ほど生活したわけですが、戦争が終わる頃になると、夜、銃声が絶えないんだね。

兵士や市民の死体が街の大通りにたくさん転がっている。

お父さんから

「ここにいては危ないから、先に旅順に帰りなさい」

と言われ、お母さんは子供たちを連れて1週間かけて旅順に帰りました。

お父さんは長男の私に

「もし自分が死んだり、旅順に帰ることができなくなったりしたら、あとのことはお前に頼む。

お母さんを支えて生きていってほしい」

と言って家族を見送ってくれました。

いま考えると、お母さんは本当に偉い。

食べ物もないのに、11歳から1歳までの子供4人を連れて満員の汽車を何度も乗り継ぎ、2,000キロもの道程を移動したのだから。

旅順の駅に着いた途端、へたへたとホームに座り込んでしまったお母さんの姿を、今もはっきりと覚えておりますね。

(まさに命がけの旅でしたね)

🔹八木、幸いだったのは旅順の店がそのまま残っていたことです。

内モンゴルを発つ時、お父さんは5人にそれぞれ5万円の貯金通帳渡してくれました。

お前は今のお金に計算すると5000万円くらいの金額でしょうか。

だけど、終戦の間際で銀行に行ってもそのお金が下ろせない。

わずかな生活費だけで生きていく毎日が始まりました。


(戦後の混乱生をどのようにして過ごされましたか)

🔹八木、私たちはお父さんの帰りを待ちました。

待っても待っても待っても何の連絡もこない。

周りの中国の人たちも親切に励ましてくださいましたが、生活は苦しくなるばかりでしたね。

お母さんは掃除の仕事をしながら、大切な着物や指輪を市場に行って少しずつ売るんです。

確か1つの指輪が、とうもろこしのパン2つと同じ値段でしたね。

私は長男ですから、生きるために働かなくてはいけません。

石炭ガラの山からコークス状になったものを拾い、市場に持っていくと多いときには二角(一角は現在の1.5円程度)で売れました。

そのお金でピーナツや飴を買ってソ連軍のいるところで売り、ヘレバ(黒パン)を買って弟たちに食べさせました。

ゴミ捨て場に行くとじゃがいもの皮やキャベツの葉、パンの耳などが捨ててあったので、

それを持ち帰って大豆の搾りかすと一緒に家族で食べたりもしました。

だけど、それだけでは十分な栄養は摂れません。

弟のおなかは大きく膨らんで、動くこともできなくなりました。

ほんとに、可哀想でね。

それで私は14歳の頃かな。

お母さんも栄養失調で倒れたんです。

(お母様までが)

🔹八木、ある時、黄(こう)というお金持ちの農家のおばあさんが15キロほどのトウモロコシを持ってやってきて、

「このトウモロコシで子供2人を引き取りたい」と言いました。

黄おばあさんには子供はなく、わが家の窮状を誰かから聞いたのでしょうね。

だけど、お母さんは泣きながらそれを断りましたよ。

「生活がどんなに苦しくても、私たちは、いつも一緒です。

死ぬことになったら、皆で死にます」

って。

黄おばさんは、トウモロコシを置いて黙って帰ってきました。

それからしばらくした頃、親戚の人の紹介でお母さんは再婚しました。

お父さんとは全く連絡が取れなかったから、もう死んでしまったと諦めていたんですね。

その頃から、少しずつだけど生活が楽になり、弟たちを学校にいかせてあげることもできるようになりました。


(八木さんは、その後どのような生活を)

🔹八木、養父が来たといっても私が働かなくては食べてはいけなかったので、苦しいのは相変わらずでしたね。

16歳になってからは土木作業員として建築会社に勤め始めました。

1日中汗水流して働いても、カビが生えたような腐りかけたトウモロコシ1キロと、わずかなお金しかもらえない。

家族ことに気づかれないように布団の中で泣いたこともあります。

18歳の時にはテーブルや椅子、タンスをつくる大工の仕事を始めました。

親方に認めてもらいたい一心で一所懸命に働き、しばらくすると私の腕は先輩方を追い越すくらいまでになりました。

その頃の私のあだ名は「夜鬼」、仕事の鬼ですね(笑)。

大工になって3年目には、20人ぐらいのグループを任せられる組長になったんです。

旅順で大工としての腕を磨いた後、私は大連にある第二建築公司に転職し、建築現場で働くようになりました。

大連市から3年連続、労働優秀青年の表彰を受け、現場監督としての働きぶりは皆の手本でもありましたが、

その頃から中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れ始めていました。

(文革では数多くの中国人が血の犠牲になり、反日感情も一気に高まったと言われていますね)

🔹八木、おっしゃる通り、この政治闘争は多くの国民を巻き込み、絶望へと追いやりました。

私たちの家族は皆中国人としての名前を持っていましたが、父親が日本人であることは知られていました。

紅衛兵が家の中にまで踏み込んできて日本との関わりを示すような物を見つけたりしたら大変です。

大事にしていたたくさんの写真を燃やしました。

お父さんからもらった貯金通帳も、日本語で書いてあって危険なので燃やしました。

2万人がいる私の公司でも、

「劉承雄(八木氏の中国語名)は日本のスパイだ」

と書かれた壁新聞がたくさん貼り出されました。

自分は日本国籍である事は明らかあって明かしたことはありませんが、私の昇進をねたむ人たちがいつの間にか調べあげたのでしょうね。

そうなると、私を吊るし上げる討論会が開かれて、

「歴史的反革命分子」として拷問や強制労働などに追いやられるはずですが、

そうは、ならなかった。

(どうしてですか)

🔹八木、工場長が最後まで私をかばい続けてくれたんです。

「劉は走資派(資本主義に走る考え方)ではない。

模範労働者だ。産毛1本触ってはいけない」

と言って皆を説得してくれました。

そのことがあったからか、私に対して

「あいつは日本人だから敵だ」

という声は出なくなりました。


(八木さんの真面目な働きぶりが文学の嵐から命を守ってくれたのでしょうね)

🔹八木、だいたい、現場監督は50代、60代にならないとやれない仕事なのですが、

私はまだ30代で現場監督になり、他の労働者と比べて2倍位の賃金をもらっていました。

生活は安定し少し貯金もできるようになって、

本当ならこの仕事をずっと続けていたかったのですが、

それがまさか本籍がある日本に帰ることになるとは思ってもみませんでした。


(つづく)

(「致知」2月号 ニーハオ食品 八木功さんより)