🍀般若心経の解説🍀7
🌸🌸「受想行識(じゃそうぎょうしき)」🌸🌸
仏教では、物質と精神とを5つに分類して「五蘊(ごうん)」と総称します。
この「五蘊」については、先に触れました。
ふたたび、おさらいをしますと、
私たちの存在を含めて、
あらゆる存在を、
(1)色、(2)受、(3)想、(4)行、(5)識、の5つの集まり(五蘊)と、とらえます。
(1)色が物質に、
(2)から(5)が精神に相当します。
私たち私たちにとっては、
(1)が肉体に、
(2)から(5)が心にあたります。
ここでは、私たちの心に相当する「受想行識」について学ぶことにしましょう。
まず、「受」とは、感受作用のことです。
苦しいだとか、楽しいだとか、痛い、かゆいなどの感受作用一般を示します。
これには、
肉体で感覚的に受ける、快不快の感じと、
精神(心)で知覚的に感じる、苦楽などの感情があります。
ただし、人間によって、また時や場合によって、その程度が異なりますので、
多分に主観的であるといえましょう。
次に、「想」とは、心に浮かぶ像で、表象作用のことです。
概念や表象を作る作用、
また作られた概念や表象そのものも指します。
例えば、「赤い花」を見たときにおこる、「赤い」とか「花」という概念、
または、その概念を作るはたらきを「想」といいます。
また、心の中に思い浮かべられる、愛おしいとか、憎いという「想(おもい)」でもあります。
「行」とは、いろいろな意味を持っている言葉ですが、
ここでは、精神的なはたらきが一定の方向にはたらいてゆく面を指し、
意志、あるいは意志的形成力のこととされます。
最後に、「識」とは、認識作用のことです。
ふつう、眼耳鼻舌身意の6種の認識作用が、
それぞれの対象を認識するはたらきの総称をいいますが、
ここでは、知識と見てもよいでしょう。
説明がややかたくなってしまいましたが、
要するに「受想行識」とは、
私たちの精神作用、
つまり、心の働きを4種に分けた言葉であると解してよいでしょう。
(「あなただけの般若心経」より)
🌸🌸「受想行識(じゃそうぎょうしき)」🌸🌸
仏教では、物質と精神とを5つに分類して「五蘊(ごうん)」と総称します。
この「五蘊」については、先に触れました。
ふたたび、おさらいをしますと、
私たちの存在を含めて、
あらゆる存在を、
(1)色、(2)受、(3)想、(4)行、(5)識、の5つの集まり(五蘊)と、とらえます。
(1)色が物質に、
(2)から(5)が精神に相当します。
私たち私たちにとっては、
(1)が肉体に、
(2)から(5)が心にあたります。
ここでは、私たちの心に相当する「受想行識」について学ぶことにしましょう。
まず、「受」とは、感受作用のことです。
苦しいだとか、楽しいだとか、痛い、かゆいなどの感受作用一般を示します。
これには、
肉体で感覚的に受ける、快不快の感じと、
精神(心)で知覚的に感じる、苦楽などの感情があります。
ただし、人間によって、また時や場合によって、その程度が異なりますので、
多分に主観的であるといえましょう。
次に、「想」とは、心に浮かぶ像で、表象作用のことです。
概念や表象を作る作用、
また作られた概念や表象そのものも指します。
例えば、「赤い花」を見たときにおこる、「赤い」とか「花」という概念、
または、その概念を作るはたらきを「想」といいます。
また、心の中に思い浮かべられる、愛おしいとか、憎いという「想(おもい)」でもあります。
「行」とは、いろいろな意味を持っている言葉ですが、
ここでは、精神的なはたらきが一定の方向にはたらいてゆく面を指し、
意志、あるいは意志的形成力のこととされます。
最後に、「識」とは、認識作用のことです。
ふつう、眼耳鼻舌身意の6種の認識作用が、
それぞれの対象を認識するはたらきの総称をいいますが、
ここでは、知識と見てもよいでしょう。
説明がややかたくなってしまいましたが、
要するに「受想行識」とは、
私たちの精神作用、
つまり、心の働きを4種に分けた言葉であると解してよいでしょう。
(「あなただけの般若心経」より)
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