大阪東教会 2014年4月27日主日礼拝説教
マタイによる福音書3章1~12節
「すぐそこにある天の国」 吉浦玲子伝道師
わたしたちは先週、イースターの礼拝をお捧げし、主イエスのご復活を祝いました。2000年前の最初のイースターからのちの世界、つまり、主イエ・キリストの十字架の業によってわたしたちの罪の赦しが成就したのちの世界に生きているわたしたちにとって、罪による裁きとか罰というと何か遠いことのように感じられないでしょうか?主イエス到来前の旧約の時代の怖いことのように感じられませんか?
それに対して、今日の聖書箇所では、たいへん厳しい言葉が連なっています。最後に火で焼き払われるというような脅しの言葉までありますが、これは悔いあらめない人への言葉です。
この言葉を聞いて、わたしは関係ないと思われるでしょうか。なんとなくむずむずするような、あるいは不安にかられるような気がしますでしょうか。
気をつけないといけないのは、聖書のこのような箇所を間違って読みますと、恐ろしい終末観によって恐怖を与えて、信じさせるある種のカルト信仰のようなことになってしまうということです。むかしありました、ハルマゲドンが来るといって恐怖を与えていた宗教団体が。そのようなことにならないように気をつけながら聖書を追っていきたいと思います。
主イエスの先行者として洗礼者ヨハネが現れて「悔い改めよ。神の国は近づいた。」と言ったとあります。ヨハネは新約におけるエリヤであると言われます。のちほど、その服装や生活の様子が描かれていますが、それはまさに預言者エリヤを思わせるものです。しかし預言者でありながら、預言の内容は旧約の預言者たちと少し異なるのです。旧約の預言者、多くの場合、国家の破たんといった悪いことがおこることを知らせました。もちろん、究極的な救いについても知らせましたが、それは未来のこととして知らせたのです。
しかしヨハネは「天の国は近づいた」と言っています。遠い将来のことではなくすぐそこに天の国がきている、と言っているのです。天の国とは神の国であり、救いのことです。旧約の預言者の天の国、あるいは救いは、未来のことでした。しかしそうではない、この箇所の英語の訳では、be at hand。手のうちにある、というんです。
そして天の国が近づいたんだから、みんなで喜び祝いなさいと言ったかというとそうではないのです。「悔い改めよ」です。
天の国に入るためには悔い改めないといけないのです。
勘違いしていけないのは、わたしたちがしっかり反省したり、立派な人間になったり、やくざではないですが真人間になったら天の国に入れるのかというと違います。そうなるとわたしたちの行為や努力が重要になります。
そうではない。
教会に長く来られている方はお聞きになったことがあるかと思いますが、悔い改め、回心と言いますが、それは自分の向きをかえる、回心の回の字は回るです。心を回す。すなわち心を神様の方へ向ける、ということです。
天の国がすぐそこまで来ている、神様がたくさんの祝福、プレゼントを渡そうとしている、そちらのほうに顔を向けなければ、その恵みにはあずかれないということです。せっかく目と鼻の先に天の国が来ている、それを見ようともしなければ、恵みはないということです。
民数記21章に、罪を犯した民が主から送られた炎の蛇にかまれて多くの死者がでたという場面があります。そのとき、モーセは民のために主に祈ると、青銅でできた蛇を掲げなさいと言われました。その青銅の蛇を旗竿につけて掲げると、その青銅の蛇を見上げた人は蛇にかまれても死ぬことはなかったとあります。蛇にかまれて苦しんでいた人々は、そこで特別な行為をする必要はなく、ただ蛇を見上げれば助かったんです。
それと同じように、神の方を見上げよ、とヨハネは言っています。
しかし、青銅の蛇を見あげるだけのようなことでありながら、実際、悔い改めは難しいのです。ここではファリサイ派やサドカイ派の人々へヨハネが厳しい言葉を放っています。彼らもヨハネのところに洗礼を受けにきたのですが、ヨハネには、本当に心から悔い改めているとは思えなかったのでしょう。ファリサイ派やサドカイ派は悔い改めの必要も感じていなかったのでしょう。自分たちはそのままで天の国に入れると思っていたんです。アブラハムの子孫である、律法を良く知っていて、神の民の支配者である自分たちが救いから漏れるはずはないと思っていた。
しかしそうではない、悔い改めはすべての人に必要なのです。悔い改めないとどうなるか、それは端的に言うと、終わりの日に裁かれるということです。最初に申しました火で焼き払われるということになります。わたしたちが罪赦されて、救われる、ということと、裁きというのは背中合わせのことです。イエスさまは世を裁くためではなく救うために来られた、というのは確かにその通りです。それは主イエスご自身が裁きの権能をもっておられるから、そうおっしゃることができるのです。しかしまた、裁きはなくなったとはおっしゃっていないのです。来るべき裁きにおいて、わたしたちが裁かれないように救ってくださった。
わたしたちは主イエスを救い主として受け入れた時、たしかに神のほうへ目を向けました。悔い改めました。それからの日々はどうでしょうか。
折々に自分中心になっていないでしょうか。神から目をそらしていないでしょうか。日々悔い改めているでしょうか。
さきほど悔い改めは青銅の蛇を見上げるように簡単なことといったことと矛盾するのですが、悔い改めは簡単であって難しいのです。ファリサイ派でなくても、悔い改めは難しいものです。
たとえばわたしはいのしし年でして、そのせいかわかりませんが、猪突猛進といいますか、けっこう、やりだすと走り出す方です。けっして根はまじめな人間ではないのですが、やりだすと一生懸命やってしまうところがあります。根はまじめではないので、肝心なところでさぼったりするのですけど。ひとまずは一生懸命やるんです。でもこの一生懸命というのは曲者です。
一生懸命の中には、一生懸命になっている自分にこだわる性質があります。自分が一生懸命やっている、と思う時、それはだんだんと自己満足になっていくんです。自分ではそんなつもりはないんですけど。とにかく一生懸命やってるんだからいいでしょう?という言いわけにもなっていく。
そうしてるうちに神様から知らないうちに離れていきます。神様より、一生懸命やっている自分が中心になってしまう。そうなると周りとの関係もうまくいかなくなります。自分は一生懸命やっている、なのにあの人はなんなんだ?と思います。
むかし教会の奉仕のことで、まあ私は一生懸命やっていたんですけど、今思うと、多くの人を傷つけたと思います。こちらは一生懸命であれをこうしたら良い、あれもこんなふうにしない、とガンガンやっていました。他の方はそれがプレッシャーではなかったかと思います。特に気の弱い方はけっこうわたしのことを怖がっておられたと思います。ある先輩からは「あなたの奉仕の仕方には喜びがない。喜びのない奉仕なんてやめなさい」って叱られました。でも、わたしがやらないで誰がやるんだという勢いでやっていました。自分が神から離れていることに気付けなかった、悔い改められなかったんです。
そしてその勢いで、ある時、ある方に対して、奉仕のことに関して批判的なことを言ってしまいました。言った内容自体はけっして筋の通らないことではなかったんです。無茶苦茶厳しい物言いをしたとも思えなかったんです。でもやはり言い方に配慮がなかったんです。自分に一生懸命で余裕がなかった。つまり相手への愛がなかった。厳しいことであっても愛があれば、相手に通じますが、そのときは通じなかった。その方はずいぶん傷つかれました。涙を流されました。今思っても、胸の痛むことでした。
自分は自分の一生懸命を振りかざしていて、神様の方を見ていなかったんです。自分の一生懸命を盾にして戦っていた。信仰を盾にはしていなかったんです。
自分の正義を振りかざしていたファリサイ派と変わりません。
しかし、どなたもそれぞれの性格や生活状況において違いはありますけど、それぞれに神様から目をそらす危機があります。主イエスはふたたび来られます。その時、私たちは、主イエスから目をそらしていないようにしないといけません。日々悔い改めて生きていかないといけません。
洗礼者ヨハネは来るべきイエスの到来に備えて悔い改めを促す先見者でした。水で洗礼を授ける人でした。しかしあとから来られるイエスはもっと偉大な方だ、と言います。そうです、あとから来られる方は神ですからもちろん偉大です。聖霊と火で洗礼を授ける方です。ここに恐ろしい裁き人のイメージがあります。ヨハネはひょっとしたら、来るべきイエスをそういうイメージを持っていたかもしれません。しかし、実際は主イエスはみずからご自身が代わりに裁かれる方としてやってこられました。みずからが裁きの火を受けられ、つまり十字架にかかり裁かれ、わたしたちに聖霊を授けられた。そして教会を作られた。
ですから、わたしたちは手に箕をもって来る方に怯える必要はないのです。ペンテコステに聖霊を与えられた教会につながり、また日々、悔いあらめながら生きていく時、主がふたたび来られる日は喜びとなります。もちろん悔い改めきれない、そんなこともあるでしょう。自分では気がつかず犯している罪もあるでしょう。それらのこともすべて祈りの内に主に委ねていくとき、主イエスご自身がわたしたちに悔い改めるべきことを示してくださいます。そしてそのような日々を過ごしながら、終わりの日に裁きを座をしっかり見上げましょう。