大阪東教会礼拝説教ブログ

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2014年6月22日 マタイによる福音書4章23~5章2節

2014-06-25 13:47:56 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月22日主日礼拝説教
マタイによる福音書4章23~5章2節
「あなたへ語られる神」    吉浦玲子伝道師
 聖書には多く、主イエスによって病が癒されるという記事が出てまいります。主イエスによって、病が癒されたというのは実際にあったことでしょう。主イエスの奇跡は奇跡として現実に起こったことであります。大げさに書いてあるのでも、イエス様の力を比喩的に書いてあるわけでもないと思います。しかし、私は、そう理解しながら、なぜその癒しの記事が聖書にはたくさん載っているのだろうかとも思っていました。
 と言いますのは、現代において、主イエスを信じたからと言って、病を持った人が奇跡的に癒されるということは全くないわけではありませんが、あまりありません。そのようななかで、ことに病を持っておられる方にとって、聖書の病の癒しの話は、病の癒されない人に反発を感じさせないだろうか、聖書に躓きを覚えさせることにならないであろうかと考えたりしていました。
でも一方で私には生まれつき目の見えないクリスチャンの友人がおります。彼女はクリスチャンになったからと言って、聖書の記事にあるように、目が見えるようになったわけではありません。しかし彼女は、信仰を持ち続けています。そしてそれはいつか目が見えるようになるようにと、そのために信じているわけではありません。彼女は、目が癒されようが癒されまいが、すでに自分が救われていることを感謝しているのです。罪赦されて、救われた、新しい人間とされている、その喜びの中にすでにいるのです。
 また、来月、ガーデンコンサートをこの教会では開きますが、そこに来ていただくアーティストのお一人には事故で半身不随になって車いす生活をされているゴスペルシンガーの女性もいます。彼女は、もともとダンサー志望だったのです。ダンサーを目指していたのに踊れなくなってしまった。その失意の中から、神によって力を与えられてゴスペルを歌うようになられた方です。彼女は信仰によって、ダンスをふたたび踊れるようになったわけではありません。しかしなお、彼女はとても力強い歌声で神を賛美されます。ぜひお時間のある方は、来月、平日の昼間ではありますが、お聞きに来られると良いかと思います。ちなみにコンサートを企画されている方に、彼女のことを少しお聞きしましたが、彼女はむしろ、自分が癒されることを祈られることに感謝を覚えながらも少し違和感があったそうです。自分はもうすでに車椅子の自分というものを受け入れている、そのなかでみこころを信じている、なのになお癒しを求められるのが、善意であっても、今現在、すでに神から祝福を頂いているのに、その祝福が不完全であるように感じられ、少し困惑されたようです。車いすの自分はそのままで、神に愛され、祝福を受けているのだから、とおっしゃるそうです。
 そのようなことを考えますとき、信仰というのはあくまでも魂の救いの問題ではないかと思うのです。ではなぜ聖書には肉体的な癒しの話が数多く載っているのでしょうか。
 今日の聖書箇所にも、主イエスの癒しの業が記載されています。「ありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。患いという言葉は、弱さという言葉でもあります。また悩みや艱難というニュアンスもあります。つまり主イエスは、人々のありとあらゆる心身の痛みや苦しみを癒されたのです。そして今日の聖書箇所からはわかりませんが、福音書の中の主イエスの癒しの場面を読むとき、主イエスは、一人一人を癒されるとき、一人一人の人間と向き合い、ご覧になるのです。その人の病気の状態のみならず、その人の病気に関わる悩み、病気であるがゆえに家族の中でもしんどい立場にあることとか、病気であるがゆえに断念せざるを得なかったこと、そんなさまざまな思いを御覧になりました。さらには病気とは関係のない問題をも、主イエスはご覧になったでしょう。
 今日の聖書箇所の直前は、4人の漁師を弟子にする話でした。そこでも主イエスは、弟子にする前に、そのひとりひとりをご覧になった。今月のはじめの礼拝で共に読みましたが、4章18節に「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」とある通りです。
 主イエスは一人一人と向き合い、その一人一人が抱える問題を御覧になって癒しをお与えになった。一人一人違う方法で癒された。その癒しの業を通じて、主イエスは一人一人と人格的に交わられたと言えます。
 病院の診察室で病気の様子と検査結果のデータだけをみて、薬の処方を出したら椅子をクルリと回して患者に背なかを向ける医者とは違うのです。
 24節にイエスの評判がシリア中に広まったとあります。これは、奇跡をおこなう人、病気を何でも治せる人がいるということで評判が広まったのだと思います。そして人々は主イエスのもとに殺到しました。
 とにかく癒されたい、わらをもすがる気持ちで主イエスのところへやってきたのでしょう。そのおびただしい人たちを主イエスは癒されました。人格的な交わりを持ちました。そしてその人々の中から、大勢の群衆が来てイエスに従ったのです。
 癒されて従わなかった人たちもたくさんいたでしょう。しかし、従った人たちもいたのです。彼らは、群衆と記されています。群衆と弟子の明確は違いはなんだったのでしょうか。それは明確ではありません。ひょっとしたら群衆と呼ばれる人たちは、弟子になるという確固とした意志までは持っていなかったのかもしれません。しかし、それでもその人たちも主イエスに従ったのです。この従うという言葉は、4人の漁師が弟子になって従ったという言葉と同じです。
 さきほど、信仰は魂の救いだと申しました。しかし、肉体を持ち弱い心を持っている私たちは、現実的に、いま抱えている問題が顧みられた時、はじめて顧みてくださった人へと目が向けられるのではないでしょうか。主イエスは私たちが弱い人間であることを知っています。私たちが痛みを癒され、苦しみを取り除かれたときはじめて、その業をなしてくださった方に感謝をし、ついていこうと思うような者であることをご存知です。そもそも神の業は、理屈だけのものではないのです。病を得やすい肉体を持ち、弱い心を持つ人間のすべてにおいて働いてくださる、それが神の救いの業です。
 最初に病を癒されなくても信仰も持っておられる方の話をしました。しかし、人間は現実的な問題をまったく抜きにして信仰を得るわけではありません。癒されなくても信仰を持っておられる一人一人に対しても、現実的に体や心を通して、やはり主イエスは働かれたと思います。私たちは頭の理解、精神的な充足を得る部分だけで信仰を与えられるわけではありません。肉体を持った、心を持った私たちの現実的な存在のすべてに神の力が働かれるとき、私たちは目を開かされるのです。聖書に体の癒しの話が多くあるのは、そのような私たちが神へと導かれるための一つのステップとして記されているのではないかと思います。
そのようにして、主イエスへと目を開かされて、従ってきた群衆は、それでも半信半疑で主イエスに従ったのかもしれません。この人はすごい人だ、王様になるかもしれないと思って従ったかもしれません。現世的なご利益を求めていたかもしれません。
 しかしそのような群衆を主イエスは否定はなさらなかったのです。その従ってきた群衆、そして弟子とはいえ、まだ主イエスの本当の救い主としての姿を理解してはいなかった弟子達を前にして、いよいよ有名な山上の説教を主イエスは語り始められます。
 この山上の説教は形としては弟子たちに語られています。弟子の心得みたいなものが語られていると言えます。では、ここに従ってきた群衆は、主イエスと弟子の様子を遠巻きに見ているだけの存在だったのでしょうか。外野と言いますか、説教の聴衆とはみなされていないかったのでしょうか。
 そうではありません。たしかに主イエスは弟子たちにお語りになりました。しかしなお、この言葉は弟子たちほどは確固とした決意を持って従ってきたわけではないかもしれない群衆たちにも届けられたのです。
 5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」とあります。主イエスの目にはしっかりと群衆が見えています。主イエスは十分に群衆を配慮されています。そして「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」たしかに主イエスの近くにいたのは弟子たちでした。しかしなおその主のことばは群集にも語られたのです。この山上の説教は、7章まで続いていますが、7章の28節には「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」とあります。つまり山上の説教の最初と最後に群衆の姿が描かれているのです。
 ここで示されているのは、主イエスはどのようなものであれ、自分に従って来た者に語ってくださるということです。私たちはいつもいつも主イエスの傍らでしっかりと主イエスのお言葉を聞きたいと思います。思いつつ、つい離れてしまう時もあるのではないでしょうか。弟子たちのようにすぐそばにはいれないときもあるでしょう。さまざまなこの世のことで忙殺され、また自分自身の中にいろいろな気持があり、かろうじて教会につながっている、聖書を開いている、でも心は定まっていない。そのようなときもあるかもしれません。それでもこの場にいた群衆のように、かろうじて主イエスに従っていく、近くではなくても声の聞こえる距離にいる、それが大事なのだと思います。
 ところで、ここでは主イエスが山に登っておられます。山といえば、旧約聖書において、モーセは神の言葉をきくためにシナイ山に登りました。出エジプト記の出来事です。そのときはモーセは預言者として一人で山に登ったのです。神聖な神の山には、神に召された特別な預言者モーセ以外は登れなかったのです。普通の人間はそのシナイ山には近づくことができなかった、神の怒りを買って死ぬと考えられたのです。しかし、今日の聖書箇所では主イエスと共に弟子達も山に登っているのです。群衆も主イエスの声の届く範囲にいたでしょうから、山に登ったのです。モーセの時代、山に登ることができなかった、直接神の声を聞くことができなかった人間が、神である主イエスと共に山に登っているのです。そこで主イエスご自身から語っていただいているのです。
 主イエスは「天の国は近づいた」とおっしゃいましたが、それは近づいたという言葉でありながら、すでに成就しているということでもあると、これまでも何回か申しました。今日の子の聖書箇所において、神である主イエスと共に山に登り、そして主イエスご自身から直接話を聞くことができる、そこにはもうすでに天の国が成就しているのです。
 そのすでに成就している天の国は今日でいえば、教会です。
 私たちは主イエスといま共に山に登り、御声を聞いています。教会につながる私たちは、それぞれの場所においても主の声を聞きます。日々の煩わしさや困難の中で、いつもいつも主イエスの真ん前で声を聞くことは難しいかもしれない、でもなお、声の聞こえるところにいたい、そのような私たちの毎日でありたいと願います。主イエス・キリストと共に歩み、その声を聞く、その喜びの中にこそ新しくされた人間の、すでに神に国の者とされた生活があります。