大阪東教会礼拝説教ブログ

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2014年6月29日 マタイによる福音書5章3節

2014-07-01 15:15:53 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月29日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章3節
「幸いな人」    吉浦玲子伝道師

 「心の貧しい人は幸いである」この言葉はたいへん有名です。ルカによる福音書では単に「貧しい人は幸いである」となっています。しかし、マタイによる福音書でもルカによる福音書でも、基本的には同じことを主イエス・キリストはおっしゃっています。
 今日の聖書箇所を含めます5章の3節から12節まではたいへん有名です。しかし、有名ですけどもわかりにくい部分でもあります。
 なぜ心の貧しい人が幸いなのか、心の豊かな人は不幸なのか。悲しむ人はいつ慰められるのか?
 あるいは柔和でなくてはだめなのか?短気で言葉のキツイ人間は不幸になるしかないのか?心が清らかでないと不幸せになるのか、ときどきちょっとずるいことを考えたりする私は天の国には入れないんですか・・・
 そんなことをいろいろと考えさせられるところです。
 これまでご一緒にマタイによる福音書をお読みしてきまして、何度か申しました。主イエス・キリストは、「天の国は近づいた」とおっしゃった、これはもう成就したとおっしゃっていることと同じことだと申しました。天の国、また他の福音書では神の国と書かれていますが、神の支配による世界、罪が許され、私たちが真に自由になれる新しい人間として生きていける世界、もうそれが成就したのだと主イエスは宣言されました。
 その天の国が成就した新しい世界において、主イエスはご自分に従って来た人々と共に山に登り、語られました。その第一声が「心の貧しい人々は、幸いである」なのです。これはある意味、衝撃的な言葉でもあります。
 今日の聖書箇所では、断定的に「幸いである」と書かれています。しかし、ここはむしろ主イエスが人々を祝福されているといえます。新共同訳の日本語ではわかりにくいですけど、文語訳では「幸いなるかな、心の貧しき者」となっておりました。こちらのほうがニュアンスは近いかもしれません。イエスさまがおっしゃっていることは「あなたたちは心が貧しいですね、良かったですね、そんな心の貧しいあなたがたはもう幸せなんですよ、なぜなら天の国はあなたたちのものなんですよ」ということです。
 またこの一文を別に言い換えるなら「霊において、スピリチュアルということです、霊において貧しい人は祝福されています、なぜならば、天の国はすでにその人たちの者だからです」
 ここでは祝福の宣言がされています。なぜ祝福の宣言がされているのでしょうか。それはもうすでに天の国が与えられているです。気をつけないといけないのは、心が貧しいから天の国が与えられる、と読むことです。天の国が与えられることの条件として心が貧しさが提示されているわけではありません。そうなりますと、この聖書箇所は一種の戒律のようになります、律法のようになります。
 実際、ときどき、この山上の説教、特にこの最初の部分を新しい律法あるいは戒律として読んでしまう人がいます。律法的に読むと「心が貧しくならないと幸せになれない」「悲しまない人は慰められない」「柔和でないと地を受け継げない」ということになります。先週、この山上の説教はモーセがシナイ山に上ったことと対比させることができると申しました。たしかにルターもこの心は貧しい人は幸いであるというところを十戒の第一戎と対比させています。しかし、対比できると言っても、ここでは律法が語られているのではありません。そう読むとたいへん浅い言葉になってしまいます。律法を守ることのできなかった人間への新しい主イエスによる祝福が語られています。この11節までの主イエスの言葉は何より祝福の宣言です。さきほども言いましたように、もうあなたは幸せなんだ、良かったね、喜びなさい、という祝福です。ある人は、さいわいであるというのは「何度も何度も祝福を告げる鐘が鳴り響いているようなところだ」と言っておられます。ほんとうに祝福の鐘が美しくキン、コン、カンと鳴り響いているような箇所です。
 ところでこの箇所は先週の教会学校の説教の箇所でもありました。そしてこの箇所について、ある方がおっしゃいました。「心の貧しさとはなんですか?」とお聞きしたら、「飢え渇いている」ということだとおっしゃいました。神の言葉に御言葉に飢え渇いている、神を心から欲している、それが心の貧しさだとその方はおっしゃいました。まさにその通りです。貧しさとはまたその方がおっしゃいましたけど「もう自分には神、イエス様に頼るしか、頼る相手はいないんだ」という思い、そういう貧しさでもあるともおっしゃいました。この「心の貧しい」と聞きますと、一般的にはこの世的には、心が貧しいという時の、性格が悪いとか、思いやりがないとかケチであるとかを指します。しかしここで言われているのは、そういうことではありません。その方がおっしゃったように「御言葉への飢え渇き」や「主イエスの身に頼らざるを得ない」ということです。ほんとに自分の中に何もない、本当にイエス様に頼るしかないという貧しさであるとうことです。
 ところでこういう言葉をお聞きになったことがありましょうでしょうか?Stay hungry, Stay foolish. (ハングリーであれ。愚か者であれ。)これはスティーブジョブスが語った言葉です。
スティーブジョブスは三年ほど前に亡くなった方で、当時アメリカのアップルという会社の責任者をしていた人です。アップルとかスティーブ・ジョブスというと、私自身はソフトウェアの開発をしていたものですから、非常に親しみを持っています。皆さんにとっては余り親しみはないかもしれませんが、いかがでしょうか。
 皆さんの多くはWindowsのパソコンを使われていると思いますけれども、ジョブスの作ったのはWindowsとは全くコンセプトの違うアップルとかマックというパソコンでした。一種芸術的なパソコンでした。実務をするというより音楽家や芸術家等が好んで使いました。さらにipod、そして現在のスマホの原型となったiphoneも彼が作りだしたものです。またいま多くの人がもっているタブレット端末、それも彼が生み出したものです。
 仕事の点では、ある意味、たいへん憎らしい存在でもありました。アップル社と私が勤務していた会社は、ライバルなんて到底言えないほど差がありました。私が勤務していた会社はまったくたちうちできないくらい先進性・業績があったのがアップル社であり、ジョブスの製品でした。
その彼が晩年、スタンフォード大学の卒業式の祝辞の中でのべた言葉がStay hungry, Stay foolish. (ハングリーであれ。愚か者であれ。)でした。
 彼はクリスチャンではありませんでした。むしろ東洋思想、禅などに傾倒した人であり、そういう意味で、彼の言葉を説教に取り上げるのは、ある意味、不適切かもしれません。
 しかし、私は敢えてこの言葉を今日の聖書箇所と関連させて考えてみたいと思います。億万長者であり、あふれるほどの才能と実績を持ったジョブスが、ハングリーであれ、おなかぺこぺこであれ、愚か者であれ、と若者に諭した、そして彼自身も常にそうあろうとしていたことは、意味深いことだと思います。ジョブスは豊かさを語らなかったのです。自分自身が利口になることを勧めなかったのです。ジョブスだけでなく一般にハングリー精神ということは良く言われます。でもそれは時として、平凡な精神論根性論に過ぎないことがあります。
 しかし、ジョブスはこの言葉を語った時、薄っぺらな根性論を述べたわけではないのです。この言葉は自分自身がすい臓がんを発症したのち、死と向き合いながらの言葉でした。命の終わりを見つめながら、なお貧しく腹ペコで愚かであれと彼は語ったのです。飢え渇いていなさいと言ったのでした。飢え渇き、ハングリーさこそ、生きていくうえで大事なことなのだと彼は考えていたのです。豊かであっては賢くあっては、そこになにも新しい者は入って来ない、大きなこともできない、自分のこざかしい知恵に頼っていたら本当の知恵とは出会うことはできないと彼は考えていたのでしょう。
 しかし、その飢え渇きに何を入れるのか、何で満たすのか、そこが聖書の世界とジョブスの在り方は違います。私たちはあくまで神によって満たしていただくのです。そこから私たちは新しい力を得ていきます。
 ところで別のところから考えてみます。飢え渇いているとき、私たちは、辛いのです。クリスチャンの方で好んで「わたしたちに御言葉への飢え渇きをお与えください」と祈る方もいます。わたしもときどき祈ります。その祈り自体はもちろん悪くはありません。しかし、実際問題、飢え渇く、それが肉体的なものでなくても、精神的に飢え渇いているのであっても、そのことは極めて苦しい状況であると思います。御言葉を求める飢え渇き、精神的に追い詰められて聖書のページを繰る、それは辛い状態です。そこには今現在、満たされていない苦しさがあるのです。
また、主イエスしか頼ることができないと思う時、もちろん主イエスが共にいてくださることは喜びです、しかし、主イエスしか頼れない、という状況にある時、やはり人間としては孤立感を感じている時であり、さびしさ、悲しさ、辛さもあるのです。
 心の貧しい人は幸いである、というときの「貧しさ」というのは、辛さやさびしさ、孤独感と共にある貧しさです。しかし、そのような痛みや孤独なところを通って来た人はみな、貧しい人なのだ、逆説的ではありますが、そう主イエスはおっしゃっています。
 私たちは主イエスにより頼むといっても、正直なところ、いつもいつもみことばをくちずさんでいるわけではない、この世的なものにも頼ってしまう、しかし私たちの歩みの中には、多くの痛みや孤独感があった、孤立があった、そのことにおいて、私たちは心を貧しくされた、貧しい人とされました、そして貧しい者として、教会で、教会という山の上で主イエスの言葉を聞いています。そしてこれからのわたしたちの日々の中にも、私たちには折々に飢え渇きがあり、よるべのない寂しさがあります。痛みがあります。そのような日々を送る者を主イエス・キリストは貧しい人と呼んでくださる、そしてそのような私たちに天の国をすでに開いてくださった。だからよろこびなさい、あなたたちはもう幸いなんだ、幸いな人とされている、そう主イエスはおっしゃってくださっているのです。
 いつもいつもみことばをくちずさんでいるわけではない、主イエス以外のところにも目が行ってしまう、でももう一緒に山に登ってみことばに聞いている私たちは貧しいものである、心の貧しいものである、もう祝福されているのだとおっしゃっているのです。
 そしてまた、私たちは貧しいものとされている、それが一番あきらかになるのは救いということにおいてです。主イエスを信じる者はすでに救われています。救われているというのはすなわち天の国に置かれているということです。それは私たちの努力によってそうなったわけではありません。ただただ、神の憐れみによって神からの一方的な賜物としていま天の国に置かれています。私たちが豊かだったから、何かができたら救われたわけではない、天の国に招かれたのではないのです、そのことをしっかりと覚える時、もう一度、私たちは良く良く考えてみないといけません。
 私たちはほんとうに今、貧しいですか?貧しさという言葉は、物乞い、乞食である、という意味でもあります。たいへんに徹底した貧しさです。さきほど私たちはすでに貧しい者とされていると申しました。たしかに主イエスは私たちを貧しい者としてくださいました。しかし私たちは本当に、徹底して私たちの貧しさを知っているでしょうか。その貧しさを見つめているでしょうか。ちょっとは豊かなものだと思ってしまっていないでしょうか。主イエスに頼ると言いながら、ついつい自分に頼っていないでしょうか。私たちは本当に自分を貧しい者と思っているでしょうか。たしかに私たちはいつもいつも御言葉を口ずさむものではありません。そんな御言葉にいつもいつも従うことのできない弱い、霊的に弱い、言ってみれば霊的に乞食であること、他者への配慮を欠いた人間であること、そんな自分の貧しさ、霊において物乞いであり乞食である自分たちの姿をしっかりと見つめているでしょうか。
 なにも持てないなにもない、空っぽである、神様そんな私たちにあなたのものをくださいと乞い願う心を私たちは日々持っているでしょうか。むしろ、そこそこに豊かな人として、そこそこに他の人に親切にして生きていきたいと思っていないでしょうか。その方がこの世にあっては楽なんです。私たちは貧しい者とされ救われているにもかかわらず、その自分自身の貧しさから目をそらして生きていないでしょうか?
一方でさらに言いますと、主イエスと共に歩む者の歩みは、さらに貧しくされていく歩みであるとも言えます。自分自身の貧しさと向き合わされる歩みでもあります。それはこの山上の説教ののちの弟子たちの歩みをみてもわかります。ペテロもそうでした、一番弟子だという彼の自負は、主イエスの逮捕ののちの自らの裏切りによって粉々に砕かれ自分の貧しさを思い知らされました。大伝道者のパウロもそうでした、イスラエル人中のイスラエル人、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に通じた学者であったパウロも、自分の貧しさを知らされました。それぞれの弟子たちの歩みは物心ともにどんどんと貧しくされていく歩みでありました。
このようなことを聞くと、キリスト者であり続けることはしんどいなと思われる方もあるかもしれません。私も時々思います。しかし、ある方がおっしゃっています。「しかし、そのような霊的な貧困の極みにおいて、<主よ、憐れんでください> と求め続ける人生においてこそ、人は生ける神のリアリティを経験するのです。 天の国を経験するのです。自分の内にはなかったはずのものが人生に現れ出てく ることを経験するのです。」
そうです。自分が豊かであると思う時、私たちはもうすでに天の国に置かれていると言っても、その天の国の祝福のほんの一部分しかまだいただいていないんです。まだまだ天の国の現実を知ることはできません。自分の力で生きているとき、そこに見えるのは自分の力の限界だけです。しかし、私たちが本当に貧しい者として神に対する物乞いとして神に求め続ける日々の中に新たに発見するのは神の奇跡です。
私たちは神の奇跡を日々見つめていきたいともいます。私たちは本当に貧しい者としてさらに貧しくされながら、しかし、そこでこそ出会うことのできる神の奇跡、神の大いなる祝福に与りたいと思います。ハングリーで愚かで、ただ神にのみ求める時、そこにあるのは悟りの境地でも、諦めでもありません。祝福の鐘が鳴り響く豊かな喜びと感謝の世界です。私たちがこれまで見たこともない奇跡の世界です。私たちはその新しい奇跡、神の鐘が鳴り響く祝福の中を歩みたいと思います。そしてさらに貧しい者とされながら、神から豊かさを頂きながら歩みたいと思います。