大阪東教会 2014年7月6日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章4節
イザヤ書25章6~10節
「涙はぬぐわれる」 吉浦玲子伝道師
私は、現代短歌を書いています。57577です。書いていました、というのが正確かもしれません。短歌といえば、俵万智さんのサラダ記念日以降、短歌のポップな面というか、元気で明るい側面も照らしだされていますが、基本的に明治以降の現代短歌は「悲しみの器」と言われます。同じ日本の伝統詩型であります俳句の575は、ある種、言葉のアクロバットと言いますか、言葉が凝縮されていまして、切れが要求されます。が、少し長い短歌は、良くも悪くも人間の感情・情動というのが入りやすいのです。そこに入ってくる感情というのは基本的には「悲しみ」なのです。一見、明るい短歌であっても、そこにはやはり人間の悲劇や世界の喪失感みたいなものが盛られていることが多いのです。そんな短歌の二大絶唱と言いますと、挽歌と相聞です。挽歌、死者を悼む歌と、相聞、恋愛の歌ということになります。恋愛の歌も、うまくいっててハッピーというより、別れやうまくいかないゆき違いのような心理を歌った者の方が人の心に響きやすい傾向があります。つまり短歌という器は悲しみと響き合いやすい生理を持っているのです。そしてその生理は、日本人的な情感と非常によく合うのです。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」
今日の聖書箇所にも悲しみが出てきます。
私たちの日々にはいうまでもなく、様々な悲しみがあります。取り組んでいたことの挫折による悲しみ。失ってしまった若さや可能性を思う時の悲しみ。信頼していた人からの裏切り、あるいは人から理解されないことの悲しみ。人との別れ。もっとも大きな別れは死による別れです。短歌になるような出来事というのは身の回りにたくさんあります。もっとも悲しみがあまりに大きすぎると言葉にもできない、一種の失語症のような状態になる、そのようなこともあります。
私は数年前、自分の母親が認知症になってしまった時、本当に悲しかった。身内の方のことで、御経験された方もおられると思いますが。私の母は、その後、召されました。しかし、今振り返って考えましても、その召された時も悲しかったですが、認知症になった母と対した時の方が悲しみが大きかった。前にもお話しさせていただきましたが、私は母とあまり仲が良くなかった、いつか和解したかった。その和解の前に、母は認知症になってしまった。二度とこの世界で母と意志を疎通させること、気持ちを通じさせることができなくなってしまった、そのときのショックはとても大きかったです。人間である以上、いつかこの世界での別れはあります。しかしせめてこの世界で和解をしたかった。それが適わなかった悲しみというのは今でも癒えません。
詩編56:9に「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」このような言葉があります。この詩のように、わたしたちの人生には嘆き悲しみ、神に訴える日々があります。<あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください>という言葉は、けっしてセンチメンタルな上っ面の言葉ではないことを、悲しみを経験してきた人はわかると思います。日本に限らず、また時代に関わらず、人々は多く悲しみ嘆いてきたのです。
一方で詩編はおさめられている個々の詩はさまざまな時代に作られて伝えられてきたものであろうと思われますが、詩編という書物として編集されたのはイスラエルが滅んだあとバビロン捕囚を経たあとであろうと言われています。ですから詩編の詩の悲しみには詩の作者の悲しみと同時に、詩編を編集した人の悲しみ、つまり国家滅亡という国家レヴェルの悲しみも二重になっていると言えます。
そのような悲しみがあるのなか、しかし、今日の聖書箇所では、その悲しむ人々は幸いであると言っています。なぜならば、その人々は慰められるからだ、というのです。
でも私たちの悲しむ悲しみというものは、すべてが慰められるものでしょうか?たとえばヨブ記という書物の中でヨブは、子供を全員を失います。その後、神によって新しく子供たちを与えられるのですが、失った子供の倍の数の子供を与えられたからといって、失った子供のことが忘れられるでしょうか。悲しみをすっかり忘れ去ってしまうことができるでしょうか。それは、できません。
失ったものの代わりに別のもので補うことによって癒されるような悲しみばかりがこの世界にあるわけではありません。ある程度、癒されても、時々、胸の底に疼くような悲しみがあるのです。
ところで、この聖書箇所の慰められる、という言葉は未来を指しているのです。先週、読みました「貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」というときの天の国はその人たちの者である、という言葉は現在形です。
そう考えます時、今日の聖書箇所は、私たちはすでに天の国にいる、しかしながら悲しみがある、その悲しみの中にありながら私たちは祝福されている、将来においてその悲しみが完全に慰められるから、と読むことができます。
なんだ、いま慰められないのか、とがっかりされるかもしれません。
信仰を持てば、すぐに元気いっぱいにしてもらえるということにはならないようです。しかし、なお、幸いな者とされているのです。ある方がおっしゃいました、「信仰を持つとは安心して悩めるようになること、安心して悲しめるようになること」と。
私たちはすでに天の国の者、つまり神の支配のもとにある者、神と共に生きるものとされながら、なおふたたび主イエスキリストが来られる日まで、この世界は完全ではありません。その世界の中にあって、私たちは罪の中に生きていきます。わたしたちの悲しみは根源的にいえば、その罪から発したものでもあります。最初に短歌の話をしました。短歌で描かれるように、日本人は、情感的に物事をとらえるところがあります。それ自体は悪いことではありません。しかし、聖書に聞く時、私たちはもう一度、悲しみというものを、聖書の言葉として、神の視点から聞く必要があります。神の視点で見る時。悲しみというのは罪と関連があるのです。この世界にはアダムとイブ以降、厳然と罪がありました。神から離れる罪。神と無関係に生きる罪。そのためにこの世界は壊れてしまいました。いまなお私たちも罪を犯します。そのように、この世界にあって、罪があり、その対価として死があります。別れがあります。失うものがあるのです。罪の表れとして人間の裏切りや無理解があるのです。
ただここで、間違っていただきたくないのは、なにか悲しむべきことがあるのは、つまり不幸なことがあるのは、その人が直接的に罪を犯したから罰があたったというわけではありません。良く大きな自然災害が起こった時、天の裁きだといったりする人がありますが、災害で亡くなった方が罪の罰で亡くなったわけではもちろんありません。
ただし、わたしたちの悲しみということを考える時、根源的には、この世界が罪によって壊れていること、私たち自身も罪の中にあることを考えなくてはいけません。
そのような世界の中に、私たちの悲しみがあります。
聖書に聞く時、悲しみというのは、さきほど言いましたように、人間の悲しみは人間の罪ということと切り離せないということです。
そしてこの悲しみをもっとも悲しまれた方は、主イエス・キリストです。主イエスは、罪とはまったく関係のない方でした。しかしなお、まつぶさに悲しみを悲しまれた方でありました。罪のない主イエスが、もっとも極悪な罪を犯した者がかかる十字架刑にかかられました。私たちの身代わりとして罪人となられました。かつて主イエスをほめ、ヒーローとして持ちあげていた人々は手のひらを返したように去りました。寝食を共にした弟子たちにも捨てられました。鞭うたれ、あざけられ、孤独の中で死に向かわれました。それは壮絶な悲しみであったと思います。
その壮絶な悲しみを悲しまれた方が、よみがえられました。ここに希望があります。
さきほど、慰められるのは未来形である、といいました。しかし、その未来は確実な未来です。主イエスが十字架においてすでに私たちのこの世界の罪をあがなってくださいました。いま、肉の目で見る時、なお世界にも私たちにも罪があります、死があります。悲しみがあります。しかし、それはやがて完全に回復されるものなのです。完全な回復です。中途半端なものではありません。
ところで、3.11の大震災のあと、さまざまな支援活動がありましたが、そのなかに、「思い出の回復」というものがありました。これは津波の被害にあい、汚れてしまった写真の洗浄をし、もとのように見える状態にする働きだそうです、写真をスキャンしてパソコンにデジタルデータとして取り込んで、できるかぎり、データを調整してもとの形に戻すということのするようです。物質的な回復だけでなく人間の心に寄り添った、大事な思い出を修復するという、被災された方を根底から支えるボランティアだと思います。
そのような回復作業が私たちにも起こります。それも写真だけではなく、私たちのすべての悲しみからの回復作業、それがやがて私たちのにも起こるのです。
私たちのすべての悲しみが慰められる、そのようなときが来るのです。それはたしかに未来のことではありますが、天の国がすでに成就している、そのことを考える時、自分たちとは関係のない、遠いことではもうないのです。
電気屋さんに新しいテレビを注文して、それが明日入荷することになっている、明日配達に来るとします。しかし、ひょっとしたらメーカーの生産ラインで突然トラブルがおこるかもしれません。配送業者の間違いがあるかもしれない、本当に明日配達があるかどうか100%は安心できません。しかし、主イエスのおっしゃる未来は、必ず来る未来です。私たちの上に必ず起こる未来です。私たちの慰めはすでに確実に天の父に予約され、まちがいなく私たちに届けられます。だから私たちはいま、安心して悲しむことができるのです。
その未来に必ず起こる慰めとはどのようなものでしょうか。
慰めとはギリシャ語でパラクレーシス、英語ではコンフォートと言います。日本人は慰めという言葉を聞くとあまりいい印象をもちません。表面的に撫でさするような同情のように感じてしまう場合が多いようです。しかし、comfortは、もっと積極的な意味です。Comという言葉とfortという言葉に分けられ、comは十分にということです。Fortは力づけるということです。つまり十分に力づけるという言葉になります。表面的な同情といったこととはまったく違います。
またギリシャ語でパラクレーシスという時、さまざまな意味がありますが、いまいいましたように力づけるということと同時に、「傍らに呼ぶ」という意味もあります。
つまり私たちは呼ばれるのです。もちろんイエスさまからです。
主イエスが私たちをすぐそばに呼んでくださる、そして顔と顔を合わせて私たちの涙をぬぐってくださるのです。今は目に見えない主イエスが、私たちの目から手ずから涙をぬぐってくださる、すべての悲しみから回復させてくださるのです。
今日、もう一か所お読みしました、イザヤ書の場面があります。これはイザヤの描いた、主の回復の業の様子です。ここにはその回復の様子を神が開かれる祝宴のイメージとして描かれています。良い肉と古い酒が供されるとあります。これは脂肪ののった最上級の肉とおりのある上質のワインということです。最高のものが与えられるということです。7節に「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布をほろぼし死を永遠に滅ぼしてくださる」とあります。この布は死者を覆っていた布も暗示しています。つまり、すべての悲しみ、死の痛みから回復されるということが書かれているのです。さらに「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」とあります。
主なる神が私たち一人一人を傍らに呼んでくださり涙をぬぐってくださるのです。自分の罪も、失敗も果たせなかったことも、すべてすべてぬぐいさって回復してくださる。
これはさきほども言いましたように、すでに神のご計画の中で確定されたことです。
だから安心して悲しむことができます。いえ悲しんでいるときは、もちろん本当は安心などできません。それでも私たちは希望を持つことができます。その確実な希望のゆえに私たちは現在も幸いなものとされているのです。