説教「心が燃える時」
<主イエスはなぜ死を恐れたのか?>
『クオ・ワディス』という小説があります。ポーランドの、シェンキェヴィチというノーベル賞作家による作品です。ローマの暴君であった皇帝ネロによってキリスト教徒が迫害される時代背景の中での物語で、クリスチャンの女性とその女性を愛する武将のロマンを軸に描かれた大河小説です。フィクションではありますが、ここにはペトロやパウロといった使徒たちも登場し、すさまじいキリスト者の殉教の場面と相まって、信仰について深く考えさせられる小説です。『クオ・ワディス』という題は、「クオ・ワディス・ドミノ」(主よ、どちらへいかれるのですか?)という小説中のペトロの言葉から取られています。印象的であったのは、皇帝ネロの臣下でありながら、反逆して、遠からず処刑されることを悟ったペトロニウスという人物の最後です。この人物は実在の人物がモデルのようです。たいへん教養ある機知にとんだ人物だったようです。ペトロニウスの死の場面が物語のラストであったと記憶しています。ペトロニウスはキリスト者ではありませんでした。しかし、もともとネロの臣下でありながらネロの愚かさを良く良く知っていた人でした。最後はたしか、みずからの血液を抜くという手段によって自殺をするのです。でもその自殺の場面はとても美しく描かれていました。豊かな上流階級のパーティののち、テーブルにはお酒と料理が並び、愛する女性と二人でしずかに死んでいくのです。その死の場面で「ローマの神々のために」という言葉がありました。まさにそれは神々の黄昏のような美しい場面で、人間の死としては、ある意味、見事な最後でした。
さて、ゲッセマネで主イエスは祈られました。ゲッセマネという言葉は<オリーブの油搾り>というような意味があったようです。ゲッセマネは実際、オリーブが植えられた庭園のようなところであったと思われます。そこに、弟子たちの中でもペトロとゼベダイの子二人、つまりヤコブとヨハネの、合わせて三人だけが伴われました。
十字架の死を前にして主イエスは壮絶な祈りを祈られました。悲しみもだえ始められたとあります。そしてご自身でも「わたしは死ぬばかりに悲しい。」ともおっしゃっています。ルカによる福音書ではこの場面で「汗が血が滴るように地面に落ちた」とあります。主イエスは悲しみもだえつつ血が滴るような汗を流して祈っておられたのです。神学者の竹森満佐一はこの主イエスの姿はあまりにも死を恐れすぎていると指摘しています。この後、キリストの名のゆえに多くの弟子たちが殉教します。さきほどの『クオ・ワディス』のなかにもローマのコロシアムで生きたまま猛獣に食われて殺されたり、火をつけられて殺されるクリスチャンの姿が描かれていましたが、それは歴史的に現実にあったことでした。そんなクリスチャンたちの殉教のりっぱな様子と、この主イエスの死を前にした態度はずいぶんと違います。実際、宗教改革者のルターも、<主イエスは、人間の中でだれよりも死を恐れた人であった>と言ったそうです。
死を前にして、堂々と、いさぎよく死んでいった人々は歴史上多くあります。武将や政治家、哲学者、等々、枚挙にいとまはありません。まして主イエスは一般的な言い方では宗教家というカテゴリーに入られる存在です。その宗教家である主イエスが死を前に悲しみもだえておられる、そのお姿は宗教家としてどうなのかと問われるようなことと言えなくはありません。『クオ・ワディス』のなかのノンクリスチャンであったペトロニウスの美しい死とはずいぶんと違う死に方です。
主イエスは何をそんなに怖れておられたのでしょう。そもそも主イエスの生涯はまさに十字架に向かわれる生涯でした。かねてからご自分でも自分は苦しみを受けて十字架に付けられて死ぬとおっしゃっておられました。十分に心の準備はできておられたのではないか?それなのになぜここにきて悲しみもだえておられるのか?主イエスとて、やはり死を前にしたら弱いお方だったということなのでしょうか。
<罪人としての死>
しかし、ここで言えますことは、主イエスの死は、ただの死ではないということです。罪人としての裁きを受けられる死でした。罪人としての死です。本日、礼拝ののち、壮年婦人会で黙示録を学びますが、黙示録は「終わりの日」を描いたものです。「終わりの日」は「神の怒りの日」とも言われます。人間の罪に対して、また罪によって壊れたこの世界に対して、神の怒りが燃えあがる日です。黙示録には恐ろしいイメージを駆使してその終わりの時の物語が記されています。内容の激しさと難解さから黙示録は敬遠される書物でもあります。しかし黙示録に記されている、その神の怒りの裁きをただお一人でお受けになる、それが主イエスの十字架でした。神の怒りの恐ろしさをだれよりもよくよく知っておられる子なる神であるからこそ、その罪人の死がどれほど恐ろしいものか、ご存知でした。ですからその恐ろしい罪人の死を前にしてもだえ苦しまれたのです。
逆に言いますと主イエス以外の人間は、皆、罪人でありながら、主イエスほどは罪人の死ということをわきまえていないのです。ですから、主イエスのように死を前にした恐れは持てないのです。罪に対する神の怒りの恐ろしさを人間は知らないのです。自分の罪の深さをわからないほどに人間の罪は深く、その罪への神の怒りの激しさを知りえないと言っても良いでしょう。人間には到底知ることはできないし、その怒りを身に受けることは耐えられないことなのです。先ほど申しましたようにルカによる福音書にあるように、この場面で血のような汗を流しながら主イエスは祈られたのです。そういう意味で、歴史上、もっとも恐ろしい死を迎えられた方が主イエスであったと言えます。
そのような死をお迎えになる直前の祈りが本日のゲッセマネの祈りです。
<御心のままに>
10年ほど前に公開された主イエスのご受難を描いたパッションという映画はこのゲッセマネの祈りの場面から始まりました。ゲッセマネの園が幻想的に美しく描かれていました。そして、その映画の随所随所に、不気味なサタンの姿がありました。サタンは受難を受けられる主イエスを誘惑するのです。聖書にはそのようなサタン、悪魔の姿は受難の物語には描かれていません。
そもそも主イエスはその公の活動をお始めになる前、荒れ野でサタンの誘惑をお受けになりました。そのとき、主イエスはサタンに勝利され、サタンはいったん退いたのです。しかし、この場面で、ふたたび、主イエスはサタンとの戦いにあったと考えられます。サタンの姿は直接には聖書には描かれていませんが、ここには救い主としての主イエスの戦いの姿があります。人間の罪の裁きをみずから受け、赦し、救いへと導く救い主の戦いがいまからまさに始まります。その戦いに向かうに当たって、主イエスはなにより父なる神との交わりである祈りを必要とされました、主イエスといえども祈りなしに戦うことはおできにならなかったのです。その祈りの中で主イエスは「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と願われます。罪人の死を死ぬというその杯をできることなら過ぎ去らせてほしい、それは主イエスの切なる願いでありました。しかし一方で、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とも祈られます。この祈りがどのくらいの時間のものであったのかは聖書からはわかりません。しかし、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という祈りから「御心のままに」という祈りまでの間に主イエスの内に祈りの戦いと言うべきものがあったと思われます。この杯を私から過ぎ去らせてくださいという願いから御心のままにまでが、すっと直線的に祈られているわけではないとわたしには思われます。その祈りの中で主イエスは何度も父なる神と会話をされたと思います。問われたと思います。そして最後に「御心のままに」という祈りに至られたと思います。
この主イエスのゲッセマネの祈りを祈りのお手本として考える人々は多いのです。それは間違いではありません。「私の思いではなく御心のままに」というのは神にすべてを信頼した素晴らしい祈りです。私たちも「私の思いではなく御心のままに」と祈りたいと願います。しかし、一方でなんでもかんでも最後に御心のままにと祈るのであれば、ひねくれて考えれば、祈る必要はないではないかということにもなります。自分の思いではなく御心が成るように祈るのであればそもそも自分の思いはどうでもよいということにもなります。もちろん、実際、すべてのことに置いて、結局は御心がなるのです。神のご計画が進められていくのです。そうであれば、わたしたちの思いは神の前でどうでもいいのではないか?そうひねくれて考えそうになります。私自身、あることで深刻に真剣に祈っていた時、いまこうやって祈ってもきっと神はご自身の御心のままになされる、だとしたらここで祈っても無駄ではないかという思いに強く囚われたことがあります。そのとき祈りがフリーズしたといいますか、祈るに祈れなくなったことがあります。どうにも祈れなくなって、ただ機械的に主の祈りだけ祈りました。本当に機械的に祈ったのです。でも主の祈りを祈った後、急に心がほどけて、ああこれでいいんだと感じました。涙がでてきました。私の願いは願いとして神は良く良くご存じである、それが叶うかどうかはもちろんわからない、でも神はけっして悪いようにはなさらない、わたしの願いはひょっとしたらその通りには叶わないかもしれない、でも神の前に私の道はすでに備えられている、それがわたしの願いどおりでなくても悪い道であるはずがない、そのような確信が与えられました。
私たちは何でも祈っていいのです。何が何でも私はこうしたい、これが欲しいと祈っていいのです。無理に「御心のままに」などと付け加える必要はないのです。もちろん本当にそう思われるのであれば付け加えても良いのですが。大胆に祈って祈って願って願って行けばよいのです。祈りつつ歩んでいくとき、御心は示されます。そしてその御心はひょっとしたら、自分にとっては受け入れがたいことかもしれません。「神様、なんで願いを聞いてくださらないのですか?」というようなことかもしれません。そういう時、なぜ聞いてくださらないのか、と神に問うていくとき、少しずつ私たちに神の本当の恵みが知らされていきます。私たちへの愛が示されます。その過程全体が祈りです。神は愛の神であり、祝福の神であり、その愛と祝福は、間違いなく、キリストを信じる私たちに注がれています。私たちは祈りを通じて、それが仮に勝手な自己本位な願いであっても祈りを持って神と交わって行く時、自然に神の御心へと心が開かれていくのです。
さてもう一度主イエスの祈りに戻ります。そもそもここで主イエスがおっしゃる御心とは何でしょうか?
これは救いの成就ということです。ここで主イエスがおっしゃっている御心とは旧約聖書の時代から約束されていた人間の救いということです。罪びとである人間の救いです。その救いがなされなければならない、そのことにおいて、父なる神と子なる神主イエスの思いが一つであった、そのことがこの祈りによってはっきりと確認されました。
御子であるキリストはこの祈りをもって、十字架へと立ちあがられたのです。戦いへと立ちあがられたのです。最も恐ろしい死へと立ち上がられたのです。
<心が燃える時>
一方、この場面で弟子達は眠りこけておりました。主イエスが血のように汗を滴らせて祈っておられるのに弟子達は起きていることができなかったのです。その弟子達に、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と主イエスはおっしゃいます。「心は燃えても、肉体は弱い。」そうおっしゃいます。
「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉は慰めのある言葉です。私たちはこの言葉を「やる気はあるんだけど、どうしても肉体が疲れてしまってやれないんだ」という言い訳のように受け取ります。心は燃えている、でもままならない、やりたくてもやれない、そのことへの配慮の言葉であるととります。
しかしそれは少し違います。先にお話ししました竹森牧師はこれは主イエスの憐れみの言葉なんだとおっしゃいます。つまり心は燃えているというのは弟子達への愛の言葉であって、ほんとうはまだ弟子達の心は燃えてはいなかったんだということなのです。主イエスの救いの戦いの意味がまだ弟子達には分かっていなかった、だから燃えようにも燃えることはできなかった。一方で、主イエスに万が一のことがあれば一緒に死のうという覚悟は弟子達にはありました。人間として精一杯頑張るという意味での燃えた心は弟子達には十分にあったのです。主イエスはその心をご存知でした。しかし、人間が人間の力や意思で燃えても、そこには限界があります。人間は自分の力で燃え続けることはできません。自分の力で燃えようとするとき、この弟子たちのように眠たくなってしまうのです。
ところでルカによる福音書の24章の13節からエマオへの道の途上で復活なさった主イエスと出会った弟子達の物語が書かれています。弟子達は復活なさった主イエスと出会いながら不思議なことに相手がどなたか分からないのです。しかし道道、主イエスに聖書を説いていただき宿に入ります。食事の時、主イエスがパンを裂かれた瞬間、相手が主イエスであることに弟子達は気づきます。その弟子達がそれまで主イエスとあるいたエマオまでの道のりを思い出して言います。「道で主イエスが話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」ほんとうに心が燃やされるというのは、このエマオへの道で復活の主イエスと出会った弟子達の心のような状態なのです。その燃えている状態は、ごうごうと、あるいはめらめらと激しく炎が上がっているような燃え方ではなく、ともし火のような、しかし、たしかにあたたかい火が燃えているような状態なのです。その燃えている時、燃えているということに気がつかないようなしずかな燃え方なのです。
ゲッセマネで眠りこけていた弟子達も、やがて、復活の主イエスと出会い、本当に燃える心を与えられました。静かに燃える心を与えられました。しかし、今日の場面では、その眠りこけていた弟子達に主イエスはおしゃるのです。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」主イエスは救い主として、人間の誰もが戦うことのできない戦いに赴かれます。主イエスお一人の戦いです。しかしなお主イエスはおっしゃるのです。「立て、行こう」と。ご自身一人で向かわれるわけではありません。そもそも主イエスは弟子達が眠りこけてしまうことはご存じだったでしょう。それでもなおゲッセマネへ弟子達を伴われました。そんな弟子達に共に祈ってほしかったからです。しかし弟子たちは眠ってしまいました。しかしなおその情けない弟子たちに主イエスはおっしゃいます。「立て、行こう」一緒に行こうとおっしゃるのです。
わたしたちも眠りこける弱い者です。復活の主イエスと出会いながらおりおりに心の火がかき消えそうになる者です。しかしなお、主イエスはおっしゃいます。立て、行こう。主イエスは2000年前、おひとりで罪人の死に立ち向かわれました。人間にはできない救い主の戦いを戦われました。私たちの罪の重さゆえの壮絶な戦いを戦い勝利されました。そのことによって救われたわたしたちもまた立ちあがります。眠りこけていた心にほんとうの燃える心を静かに与えられました。キリストの十字架の死を、いま、わたしたちもまた身にまといながら、それぞれの十字架を担いながら、それぞれの戦いへと、主イエスと共に立って歩んでいきます。私たちの日々にたしかに戦いがあります。困難があります。しかしなお私たちには消えることのない燃える炎が主イエスによって与えられています。ですから立って、行きます。