2017年11月5日 主日礼拝説教 「すべては神から」 説教 吉浦玲子
私たちは祈りがきかれないとき、願いが叶わない時、それが神のご計画なのだ、あるいはまだそれが成就するにふさわしい神の時ではないのだと考えます。そう考えることはけっして間違いではないと思います。ただ、私たちが祈りをあきらめるための方便になっていないかということには注意をしないといけません。どうせ神様は祈ってもこのことは叶えてくださらないのだとあきらめる言い訳として神のご計画とか御心ということを思うのは、ある意味、傲慢なことです。そもそも、私たちには神のご計画も御心もすべては分らないからです。9章からパウロはずっとイスラエルの民と異邦人について書いて来ました。今日の聖書箇所のその最後の部分にあたります。その最後は神のご計画の究め難さを讃える形でパウロは語っています。9章からのひとまとまりは、なにげなく私たちが考える神のご計画とか御旨ということをはるかに超えた神についての賛美で終えられています。その部分を共に読んでいきたいと思います。
9章から、パウロは現時点では、イスラエルから神の救いは離れ、異邦人に救いが与えられていると繰り返し語っています。しかし、パウロは一方で今日お読みしました聖書箇所の前の部分、9章11節で、そのイスラエル、ユダヤ人は今は救いから離れているからといって、完全に神から見捨てられたわけではないと語っています。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。」そう語っていました。
今日の聖書箇所では、さらに具体的にイスラエルの救いについて言及されています。25節には「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり」と時間的な神の救いの順序が語られています。ちなみに異邦人全体が救いに達するというのは異邦人全員が、ということではありません。救いに定められている人々が救いに達するまでの時間ということです。そののちに全イスラエルが救われるのだとパウロは語っています。
28節に「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」とあるように、いまは神に敵対しているイスラエルであっても、神の愛が失われているわけではないと語られています。あなたがたのために、というのは異邦人キリスト者のためにということで、イスラエルは異邦人が救われるために逆に今は神に敵対しているということです。ここで「先祖たちのお陰で」というのは、アブラハム、イサク、ヤコブといった彼らのはるかな父祖たちへの神の約束のゆえであって、日本的な意味での、<先祖の信仰によって子孫が繁栄する>と言ったことようなご先祖信仰ではありません。そもそもアブラハム、イサク、ヤコブといったイスラエルの父祖たち自身も、けっして素晴らしい信仰者であったとはいえません。それぞれに罪を犯し、欠点の多い人間でありました。しかし、神ご自身が恵みによって彼らを選ばれ、イスラエルに対して祝福の約束をされた、その約束ゆえに、現時点では多くの救われていないイスラエルが、やがて救いに入れられるのだ、と語られています。
パウロは「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」つまり、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された神の約束は取り消されないのです。ここで語られているのはイスラエルの救いですが、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と語る言葉は、現代を生きる異邦人キリスト者である私たちにとっても心強い言葉です。いま、異邦人である私たちは、イスラエルの不信仰のゆえに、神に招かれ、その豊かな賜物をいただいています。私たちに対しても、やはりその賜物と招きは取り消されないのです。今後、神のご計画によって、イスラエルが救われることになろうとも、じゃあ異邦人から救いを取り去りましょうということではありません。すでに救いを得ている者の救いは神の側からは取り消されないのです。
神の賜物と招きは取り消されないという言葉の少し前の行に「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信仰を遠ざける」というイザヤ書59章の言葉が引用されています。しかし、実は、このパウロの引用は新共同訳のイザヤ書59章の言葉とは少し違います。これはパウロが間違って引用したわけではありません。もともと今日、旧約聖書と呼ばれている部分は基本的にヘブライ語で書かれていました。いま、世界の各国での翻訳も、基本的にヘブライ語聖書を原典として翻訳がなされています。新共同訳もそうです。ところが、イエス様の時代、イエス様自身もヘブライ語ではなく、アラム語という言葉を使っていたと言われています。さらにパレスチナや地中海沿岸地域に多くの人々が離散していました。ですから、イエス様の時代やパウロの時代、ヘブライ語を理解できないイスラエルの人々が多くいたのです。ですから、当時のパレスチナ地中海地域での標準的な言葉であったギリシャ語に旧約聖書は翻訳されて読まれていました。パウロが読んでいたのも、70人訳と言われるギリシャ語で書かれた旧約聖書でした。そのギリシャ語の70人訳旧約聖書の中のイザヤ書の引用が今日の聖書箇所に記されています。つまり当時、パウロたちが読んで理解されていた聖書の言葉がここに書かれているのです。この二つの聖書の解釈の違いについて、ある先生が興味深く説明をされていました。新共同訳では同じ箇所は「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」となっています。つまりここでは罪の赦しを受ける者は悔い改めた者であるということになります。それに対してパウロが引用しているギリシャ語聖書のイザヤ書では、「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける」となっています。新共同訳といいますか、ヘブライ語聖書では、悔い改めた者が救われることになっていますが、70人訳聖書では、神ご自身が「不信心を遠ざける」というのです。人間の悔い改めという行為が救いの前提にあるのではなく、神ご自身がそもそも頑なで神に心を開かず、罪の中にある人間の罪を取り除いてくださるというのです。ここで着目すべきことは、聖書の解釈の違いではなく、パウロが理解していた福音の本質があらわれているということです。ここにパウロの神の恵みを見つめるまなざしがあります。人間が、神に心を開くのも、閉ざすのも、神の自由な選びと恵みのゆえなのだということなのです。不従順な者が憐れみによって不信心を遠ざけていただくのです。それが恵みなのだというのです。それこそが福音なのだとパウロは語っているのです。
ところで、今日の聖書箇所の冒頭に「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」とパウロは語っています。11章20節でも異邦人キリスト者に対して「思い上がってはなりません」とパウロは語っていました。思いあがってはなりません、また、うぬぼれないように、としつこく感じられるくらいにパウロは語っています。それはイスラエル人であれ異邦人であれ、人間はうぬぼれる者だからです。イスラエルは自分たちが神に選ばれた民であること律法を与えられた民であることにうぬぼれていました。聖書について誰よりも詳しいことを誇っていました。一方で異邦人キリスト者は、イスラエル人は聖書の知識はあっても救い主への信仰がなく、救いを知らないと見下していました。ある方はうぬぼれは劣等感の裏返しと語っておられましたが、たしかにイスラエル人と異邦人キリスト者はある意味、双方に相手に対する劣等感があったのです。
しかし、いずれにしても神の大いなる計画の前では愚かなことだとパウロは言うのです。誰一人として自分の力で救いにあずかった者はいないのです。皆が不従順であった、もちろん人間自身が、自分の意志として不順順であったのです。しかし、その不従順な状態から自分の力で出ることはできないということをパウロは32節で「すべての人を不従順の状態に閉じ込めた」と表現しています。しかし、その不従順な人間に神の憐れみが注がれたのだとパウロは語ります。神の憐れみは人間の側の条件に左右されないからです。さきほど、うぬぼれは劣等感の裏返しと申しましたが、一方で、無知の表れでもあります。無知というのは学問がないとか知識がないということではありません。神に対する知識がないということです。神に対する知識というのは聖書の知識とか神学の知識ということではありません。神の憐れみの深さを知らないということです。そしてその憐れみがほかでもないこの自分に注がれていることを知らないということです。自分自身が憐れみを受けなければならないほど惨めな人間であることを知らないということです。神の憐みを知らなければ神の恵みも感じられないのです。
前後しますが、冒頭、パウロは「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と語ります。秘められたという言葉はミステーリオンという言葉で、ミステリーの語源となった言葉だそうです。口語訳では奥義と訳されていた言葉です。この原語のもともとの意味には「閉ざす」というニュアンスがあるようです。奥義というと、人間が修業をしたり悟ったりして「閉ざされたもの」を自分で開いていかないといけないような感覚があります。しかし、いま私たちに求められているのはそういうことではありません。この秘められた計画、奥義は、キリストによって開かれたからです。啓示という言葉がありますが、神の秘められた計画は啓示されたと言っても良いのです。
もちろん完全に神の奥義を私たちはいま知らされているわけではありません。現時点で知らされていることはおぼろなことであり、部分的なことです。しかし、神がただ憐みにより、私たちを選び救われること、そしてその賜物と招きが取り消されないことはたしかなことです。そしてそれゆえにその神の計画は福音として知らされているのです。
今日の聖書箇所の後半は9章から11章までのひとまとまりの部分の最後に当たります。その最後の部分を語り出す33節でパウロは「ああ」と神を賛美し始めます。「ああ」と訳されているギリシャ語は、実際に感嘆詞であり、英語では「Oh」と訳される言葉です。パウロは口述筆記をしてもらっていたのですが、パウロが実際に「ああ」というのを筆記者は聞き、それをそのまま記述したと思われます。実際にパウロはここからの言葉は高揚して語っていたと思われます。
いまはおぼろげにしか知らないにしてもそこから覗き見る神のご計画の素晴らしさをパウロは讃えています。その言葉の中に34節からはヨブ記が引用されています。
ヨブ記といいますと、正しい人であったヨブが理不尽な不幸にあうという物語で、むしろ神のわからなさを感じることが多いかもしれません。パウロが神をほめたたえる文章のなかで引用していることに少し違和感を感じる人もおられるかもしれません。ヨブ記では、正しい人であったヨブが理不尽にも子供やら財産すべてを奪われ、自分自身も酷い病にかかるという物語です。そもそもなぜヨブが酷い目に遭わなければいけなかったのか、そこに疑問をどうしてももってしまいます。ヨブ自身納得していませんでした。ですからヨブは神に向かって叫び、神に異議申し立てをしたのです。ヨブは神に向かって、私は悪くない、はっきりとそう言ったのです。そのヨブに神は答えられました。その答えは全体としてとても長いものですが、つきつめれば34、35節にパウロが引用していることです。神は神である、人間には神の心はわからないということです。
理不尽な不幸の中にあるヨブに対して、その神の言いようはさらに理不尽にも感じます。しかし、その神との対話によってヨブは目を開かれたのです。神への知識を得たのです。自分の惨めさのなかで、ヨブは神の摂理を知ったのです。
私たちはヨブのように父なる神の声を直接聞くことはできません。しかし、キリストを通して神を知ることができます。私たちはキリストの名によって祈るとき、神と交わることができます。もちろん神のすべては到底知り得ませんが、祈りを通して、折々に神のご計画の素晴らしさを知らされます。神のご計画は人類全体の救いということでもあると同時に、私自身の救い、私への神の素晴らしい計画ということでもあります。その神のご計画の中にある素晴らしさを賛美をしながらこの一週間も生きていきます。