2017年11月12日 大阪東教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)
「永遠の命を生きる」 吉浦玲子
<時が来ました>
「父よ、時が来ました。」
と、主イエスは祈り始められました。決定的な<時>が来たのです。これは神が定めたれた<時>です。人間の都合によって、どうにかできるような<時>ではありません。神の御子である主イエスであっても、ご自分の<時>をご自分で定められたわけではなく、父なる神の定めた<時>に従われました。
私たちもまた決定的な<時>を体験します。それは、この地上でふたたびあいまみえることのできない<肉体の死>による人との別れです。ある程度、覚悟をしてその<時>を迎える場合もあれば、突然その<時>が来ることもあります。いずれの<時>も別れも、それぞれに特別なものです。すべての<時>が、神によって定められた<特別な時>における出来事だからです。
本日の聖書箇所の1節にある、この<時>は、<十字架の時>を指しています。イエス様が十字架に向かわれる<時>が来たのでした。それはイエスという歴史上たしかに存在をした一人の三十歳ほどの男性の<肉体の死の時>であると同時に、父なる神と主イエスの決定的な<勝利の時>でもありました。主イエスのこの<十字架の時>によって、決定的にすべてが変わりました。そののち2000年に渡り、主イエスを信じて、それぞれに<肉体の死>を迎えたすべての人々にとっての<死の時>の意味が全く変えられたのです。父なる神と主イエスの勝利のゆえに、人間の死の意味が根本から変わってしまったのです。
「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。」その勝利の時、御子である主イエスが神ご自身の栄光を現わす者となるように、みずからに栄光を与えてくださいと主は祈っておられます。しかし、ここで主イエスは父なる神に祈り求めながら、すでにそれが成就することを確信しておいででした。すでにその<時>は来ていたからです。神が定められた時はすでに来ている、父なる神の定められた時が来た以上、すべては成し遂げられるのです。ご自身が父なる神の栄光を現わす者とされることを御子である主イエスはすでに知っておられました。父なる神との親しい交わりの中で、確信をもって祈っておいでだったのです。
<栄光と永遠の命>
しかし、ここで語られている栄光とは何でしょうか?一般的には栄光とは、誉れであり、称賛を受けるべきことであり、輝かしいことです。しかし、十字架という死刑による死を普通に考える時、そこには栄光のかけらも見えません。さまざまな死刑のやり方がある中で最も残酷で惨めな刑が十字架でした。そこに見えるのは、むしろ決定的な敗北の姿でした。かつて人々から熱狂的に迎えられた主イエスは、その民衆からも侮蔑され、弟子達からも裏切られ、惨めな姿をさらして死を迎えました。その死を現実に見た者は、そこに一時期もてはやされた愚かな男の敗北と悲惨を感じたことでしょう。人によっては嫌悪感を覚える者もあったことでしょう。誉れや称賛や輝かしさから最も遠い出来事が十字架の出来事でした。
しかしながら、今祈られている主イエスは、その十字架による死の現実を充分にご存じでありながら、むしろ、その十字架そのものが栄光を現わすものと考えておられます。その十字架において、これから栄光を受ける者として確信をもって主イエスは祈っておられます。
それはなぜかというと、十字架が「永遠の命」と結びついているものだからです。さきほど、「使徒信条」を私たちは礼拝の中で告白をいたしました。その最後に、「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」とありました。その最後の「とこしえの命」が今日の聖書箇所でいう「永遠の命」です。その永遠の命とはなんでしょうか?不死、死なないということでしょうか?身体機能が若いままで健康ならば、私たちは死なないで永遠に生きていたいでしょうか?健康であっても、その永遠の長い長い日々が、苦労に満ちた日々であれば、それこそそれは、むしろ地獄のようなものでしょう。
じゃあ何の苦労もない日々であれば、私たちは永遠に生きていたいでしょうか?これはこれでまた難しい問題です。不老不死は人類の太古からの憧れのようでありながら、一方で不死ということに関しては芸術作品などでは否定的な描かれ方をすることもありました。苦労もない代わりに、退屈な長い長い時間を持て余しながら死なずに生きることが幸せかという問いがあります。退屈ではない毎日毎日楽しくてたまらないというような永遠がほんとうにあるのか、それも疑問です。また一方で、永遠の命というのを、肉体的には滅んだあと天国と呼ばれる場所で平安に暮らすという意味に感じることも多いでしょう。しかし、この地上で死なないで生きるにしろ、天国というような別の場所で過ごすにしろ、それが単に死なないというだけであるならば、それだけでは、けっして喜ばしい状態でないであろうということはある程度、想像ができます。ここで言われている永遠というのは、時間の長さではなく、むしろその生きていく日々の<質>が問題とするものなのです。
3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られています。「知ること」というのは聖書においては、単に知識として知るということにとどまりません。これは深い交わりを意味します。旧約聖書の創世記で「アダムはエバを知った」と記されていますが、これは男女の深い交わりを表す言葉でした。
ですからここで主イエスがおっしゃっていることは、父なる神と、そして主イエスとの人格的な深い交わりを示します。父なる神と、主イエスと共に生きていくということです。それも愛と信頼で結ばれて生きていくということです。
逆に、父なる神と、そして主イエスと共に生きていない日々であるならば、それがどんなに長い時間であっても、本当の意味ので喜びの少ない日々であるということです。
<知ってくださる神>
しかし、私たちは目に見ることのできない父なる神と、そしてまた主イエスとどのようにして愛と信頼で結ばれるのでしょうか?ルカによる福音書に「放蕩息子の帰還」という話があります。長く教会に来られている方は幾度かお聞きになったことがあるかと思います。父親の財産を、まだ父親が生きているにもかかわらず、当時の慣習としても異例な形で、生前分与として、半分受け取って、父親のもとを去った息子の話です。息子は放蕩の限りを尽くして、財産を失って、食べるものにも困って父親のもとに帰ってきます。その物語の最後で息子が帰ってくる場面で印象的な場面があります。財産の生前分与という、それだけでも父親に対して失礼な親不孝なことをして、かつその財産を使い果たして戻ってきた息子を、父親は遠くから見つけて駆け寄ります。聖書に「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。息子は食べるものも食べられないぼろぼろの状態でした。しかしそれは言ってみれば息子の自業自得のゆえでした。しかし、父親はその息子を遠くから見つけて憐れに思い駆け寄って首を抱き接吻したのです。普通に思うと、なんて子供を甘やかすだめな父親なんだ、そんなことだから、息子はダメな人間に育ったんだとも考えられる場面ですが、しかし、この父親こそ神を現しています。この一見、どうしようもない甘い父親、それが私たちの神です。
神は、遠くから、私たちを見て、駆け寄ってきてくださる方なのです。私たちが神を見つけて、主イエスを見つけて駆け寄ったのではありません。神の方から私たちを見つけてくださり、その両腕で私たちを抱いてくださったのです。
今この会堂におられる方は、ひとりひとり、すでに神に見つけられ、神に抱かれておられます。すでにその神の言葉を聞いておられます。
言ってみれば、私たちは私たちの方から、父なる神と主イエスを知ったのではありません。父なる神と主イエスの方から、私たちを見つけてくださった、知ってくださったのです。私たちは、すでに父なる神と主イエスに知られている存在なのです。神は単に知識として私たちの存在を知っておられるだけでなく、駆け寄ってきてくださる方、つまり私たちと交わってくださる方、愛してくださる方です。私たちの方が神から遠く離れているつもりでも神の方から見つけて駆け寄り抱きしめていただいている存在なのです。
そしてまた、私たちはすでに神に知られている存在であるゆえに、神を知ることができるのです。私たちが神を知るということは、すでに神に愛されているということを知る、ということでもあります。神の愛は、何者によっても奪われたり、壊されたりはしません。病によっても、肉体の死によっても、失われません。神に愛されていることを知る、それこそが永遠の命なのです。
<主イエスを知ること>
ところで、主イエスは、「まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」とご自身のことを言っておられます。父なる神だけでなく、御自分を知ることについて語られています。
イエス・キリストを知る、それは十字架を知る、ということです。十字架に示された神の愛を知るということです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」ここでいう業は十字架のことです。
最初の方でも申しましたように、最も悲惨でみじめな十字架の出来事が、神の栄光を現す業であることを主イエスは語っておられます。十字架こそが、人間の罪を取り除くための業であるからです。私たちすべての罪をキリストは担って、罪人として死んでくださいました。犠牲となってくださいました。そのことによって、私たちの罪は赦されました。罪深く裁かれなければならなかった私たちの代わりにイエスキリストが裁かれました。そのイエス・キリストの十字架の業のゆえに罪が赦されました。そして単に罪が赦されただけではありません、そのことのゆえに父なる神との交わりに入れられる者となったのです。アダムとエバがその罪によって神の前から追放されたように、私たちもまた、自らの罪によって神との交わりに入ることができなかったのです。
しかし、いまや私たちは神との交わりを回復することができました。それは、神を知ることができるようになったということです。キリストの十字架を知るとき、私たちは、父なる神とのまことの愛の交わりに入ることができるのです。そのことこそが十字架の勝利でした。神と人間が交わることができるようになった、そして永遠の命に生きることができるようになった。キリストは十字架の死ののち、復活をされました。それが勝利の証です。そしてその勝利は、その後に続く主イエスの信じる者の死においても同様です。死は、地上での別れという悲しみの時ではありますが、それはまた永遠の命を証する勝利の時でもあります。
<神に知られている者としての交わりへ>
本日は逝去者記念礼拝として礼拝をお捧げしています。135年の歴史のなかで多くの人々が神に愛され、そしてまた神を愛して、神との愛の交わりのうちに、地上での命を終えられました。そして永遠の命の中にいまおられます。大阪東教会は、1945年の大阪空襲によって会堂を焼失しました。そのために、その長い歴史における、特に戦前の逝去者の記録は多く失われています。しかし、いま、私たちが名前を知ることのできない方々も含め、多くの先達たちが、神に知られ、愛され、永遠の命の中におられることを覚えます。
最初に、神の時ということを申し上げました。ここにおられる逝去者のご親族のみなさまは、それぞれに神の時において、愛する方との別れを迎えられました。しかし、ふたたび<時>は来ます。ふたたび<神の時>は来るのです。キリストが再び来られる<時>です。<復活の時>です。私たちはその時、新しく知るのです。今は会いまみえることのできない人々を知るのです。そして新しい愛の交わりに入るのです。
その神の時まで、私たちはこの地上を歩みながら、神との豊かな交わりに生きます。それはすでに永遠の命を生き始めているということでもあります。永遠の命の内に神と人を知り、その愛の交わりの中で、私たちはこの地上を歩んでいきます。