2018年3月18日 大阪東教会主日礼拝説教「身代金となられる主イエス」吉浦玲子
<切実な願い>
私たちにはいろいろな願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。
ヤコブとヨセフ、これは先週お話ししましたイエス様のお姿が変わられる場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でもとくにイエス様に近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。
今日、この記事を読みますわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で、彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるためにこの世界に来られたわけではないことを私たちは知っています。わたしたちはヤコブとヨセフがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んできながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向と言いますか権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係をみていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。先ほども言いましたように、彼らは、弟子の中でも、ペトロと並んで特別な三人のうちのふたりでした。ですから、この場面はある意味、ヤコブとヨハネの兄弟が結託して、もうひとりの特別な存在であるペトロを出し抜こうとした場面とも取れます。そういうことを考えますと、仮にも主イエスと共に歩んできた宗教者にあるまじき行動とも感じます。
しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いが、ごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それはそれで不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前には、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」と表題のついた記事があります。ここでは、その表題通り、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細の予告がなされているのです。つまり受難というものがリアリティを帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさにそのエルサレムへと上って行く途上だったのです。弟子たちは三度受難の予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはいったいどういうことが起こるのか分からないなりに、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはそれがどういうことなのかはっきりとは分からないなりに、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのときイエス様は栄光をお受けになる、イエス様のご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いはあるはずだと彼らは考えたのです。
だからといって私たちは彼らが報いを求めることを世俗的だと非難をできる立場にはないと思います。私たち自身もまた信仰生活においても全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて、主イエスを信じました。イエス様を信じたら、心がゆったりとして生活ができるかと思ったのです。いろいろなことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った私と同世代のある女性は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は彼女の「居場所」という言葉に多少違和感を感じていました。信仰的というより、なにか教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ私たちは皆、多かれ少なかれ、なんらかの自分にとってのプラスとなることがあると願って信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識的にも無意識的にも、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。その私たちの願いの中にはひょっとしたら神様からご覧になったら見当違いのものもあるのかもしれません。
そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。
わたしたちの信仰生活におけるちょっとずれたような願いも、信仰生活に直接かかわらないけれど、はたからみたらそれってどうなんだろう?と思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。
<神だけが担えるもの>
ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲むを杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らは出来るつもりだったのです。私たちはそう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。これから主イエスが逮捕される時、彼らが逃げだしたことを知っています。ですから、彼らのこの答えが愚かしいように感じます。
そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。ハイデルベルク信仰問答の問17には、私たちの罪を贖ってくださる方が、人間というだけではなく神の性質をもっておられる方でなければならないことに関することが記されています。問いは「なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。」これは罪の贖いをなす方が人間であると同時になぜ神でなけらばならないのかという問いです。その答えは「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ、わたしたちのために義と命を獲得し、再びそれをわたしたちに与えてくださるためです。」つまり神の怒りの重荷は神でなければ担うことができないということです。人間には到底担いきれないことだということです。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。
ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが神の御子イエス・キリストでした。
そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは到底できませんでした。これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマはただお一人神の御子だけが担うことのできるものであるとはまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。
しかし、主イエスはその場で「いや、お前たちには無理だ」とはおっしゃいませんでした。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」と主イエスはおっしゃいました。それは、神の御子ただ一人が担うことができる杯とバプテスマによって、新しい世界が開かられるからです。主イエスお一人が担われるもの、神の怒りと裁きは、当然、主イエスご自身が担われるのです。しかし、それによって開かれる新しい世界があるのです。その新しく開かれた世界にあって、やがてヤコブとヨハネもそれぞれに杯とバプテスマを担うようにされるということをここで主イエスはおっしゃっています。
<自分の力によるとき上下関係ができる>
さてその主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めた、と話は進んでいきます。普通に考えてもヤコブとヨハネの抜け駆けを良く思う人はいないでしょう。抜け駆けという行為にも、そしてまたヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたというところにも他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし、抜け駆けが腹立たしかったのは自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは自分たちもまた、人間を上と下に分けて見ていたということです。
そんな弟子たちに主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いんだ、自分は誰よりも人のために頑張っているから一番上だということになります。
そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。しかし、上だ、下だ、誰が偉い偉くないという価値観は、私たちが、自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものです。
ヤコブとヨハネはまじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさ熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。ヤコブとヨハネの願いはなにか滑稽なようで、私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2No3にという思いが入り込んでくるのです。逆にどうしても自分はまじめにやっても人より劣ってしまうという劣等感がわいたり、熱心にやりたくても遣れない状況に自分が置かれたとき絶望してしまいます。
人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させます。いま教会学校では、十戒を学んでいます。その10の戒めの中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。神はそのように罪深く生きるために神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために主イエスはお越しになりました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。身代金として来られました。この身代金とは負債、借金を返済するためのお金という意味です。私たちの罪の負債、借金を返すために来られたのです。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。
すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこに仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。
<願いは聞かれる>
私たちはかつて自分の願っていることの意味をわからず願っていました。それは上に行きたいという願いであったかもしれません。また人より上に行けない自分はダメだという思いに捉えられていたかもしれません。神の恵みであったものを恵みと受け取れず、別のものを願っていたかもしれません。でも、私たちはすでにキリストの十字架によって自由にされています。自由にしていただきながら私たちはなお愚かなことを願う時もあるかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちの願いをすべてお聞きくださる方です。私たちの願いを聞き、そしてその願いを私たちの思いもよらない形で豊かなものとして成就してくださるのです。私たちが罪の心で願っていたことが、むさぼりの心で求めていたことが、気がつくと、自分のもともとの願いを越えて隣人のために用いられるように実現したりします。ヤコブとヨハネがやがて本当に人に仕える者とされたように私たちもまた私たちの願いが聞かれ、人に仕える者と変えられていきます。
私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。そしてまた自分の欲望を無理に抑え込むのではありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられたものに仕えるのです。