大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書14章32~42節

2018-03-26 19:00:00 | マルコによる福音書

2018年3月25日大阪東教会主日礼拝説教 「飲むべき杯」吉浦玲子

<罪は信仰によらねば分からない>

 人間の罪ということを思います時、それは信仰によらなければけっして理解をすることはできないものです。もちろん人間は、犯罪を犯すことはいけないことだと分かっています。さらに、法律を犯すような犯罪ではなくても、人を傷つけたり、迷惑をかけたり、ずるいことをしたりすることは良くないことだと分かっています。そしてまた自分自身が、これまで生きてきて、何一つ、悪いことをしてこなかった人間だなどとは誰も思ってはいないでしょう。

 そして、自分が悪かった、失敗したと思うとき、「自分は悪かった」と反省をして心を入れ替えて、それからの生き方を変えていく、それは常識的に考えますと、この世におけるいたってまっとうな人間のあり方です。現実に努力してやり直してやり直せたように感じられるときもあるでしょう。しかし、一方で繰り返し同じ失敗をしてしまう、悪いことをしてしまう、そしてああ自分はだめだ、進歩がないと沈み込む場合もあります。しかし、神の前での罪、聖書における罪というのは、反省して心を入れ替えてやり直すというようなことですまされるものではありません。パウロは「罪の報酬は死である」と書いています。罪というのは神に対する罪であるからです。人間を造られた神から離れることが罪です。自分をお造りになった神、自分の存在の根源に対する罪である以上、その犯した罪に対して、人間はその存在の根源において問われるのです。犯罪を犯した、その償いとして規定の罰金を払ったり、刑務所に入る、そういうことと、神への罪というのはまったく次元の違うことです。神への罪に対して私たち人間は自分の力で償うことはできません。償うこともできませんし、自分の力で、罪を犯さないようにすることもできないのです。人間には罪の性質というものが根源においてあるからです。

 今月、壮年婦人会で映画「パッション」を鑑賞しました。昨年の受難節、マタイによる福音書を共に読みつつ受難のことを覚えました時にも触れたことですが、私は10年以上前、あの映画が封切られたとき、映画館で初めて見ました。その数カ月後、受難週にたまたま聖書の受難の箇所を読んでいるとき、まさに自分自身が、あの2000年前のエルサレムにいたという感覚をもちました。それは数か月前にみた映画のイメージも大きかったと思います。その時思ったのは、私はあのときのエルサレムで十字架を担って歩んでいかれる主イエスを、嘆いていた婦人ではなく、まさに主イエスをいたぶるローマ兵であったということです。そしてまたわたしは唾を吐きかける沿道の野次馬だったと感じました。さらに十字架上の主イエスを「メシアならそこから降りてみろ」と侮辱した祭司たち、あの祭司たちこそほかならぬ私自身だと感じました。

 ただ、今月、壮年婦人会でひさしぶりに「パッション」を観た時感じたのは、あまりに映画の登場人物たちが酷すぎるということでした。人権意識が現代とは異なる古代とはいえ、あそこまで、死刑となった人間をいたぶり、あざけるのかなあと感じました。あの登場人物たちはあまりに酷すぎる、あそこまでわたしは酷くない、そんなことを感じました。

 しかし、やはり思ったのです。あれが人間の罪の姿なのだと。あのひどく醜い姿がやはり自分の罪の姿なのだと感じました。わたしの胸を開けば、人間の肉をえぐりとる鉤(かぎ)のついた鞭で、鞭うつ回数を数えながら楽しそうに鞭うつローマ兵が出てくるだろうと思いました。さらに鞭うたれて血だらけのキリストをさらにいたぶる民衆やら、民衆を扇動する大祭司や、沿道の野次馬たちがわたしの胸からわらわらと出てくると感じました。

 とはいえ、一方で、どうしても自分の心の中にはどこか自分はあそこまではひどくない、そんな思いもあります。結局のところ、自分の罪の姿というのは信仰によらなければ見えてこないのです。聖霊によってしか自分の罪を悟ることはできないのです。罪というのは、到底、人間がどんなに深く自分を顧みて反省しても、やり直せるようなものではないのです。自分の中にいるローマ兵や大祭司や野次馬たちのえげつない姿は信仰によってしか知ることはできないのです。

<裁きとしての死>

 そんな私たちの罪のため、主イエスは、十字架の死へと向かわれました。それは特別な死でした。それまでどの人間も体験したことのない死でした。

 今日の聖書箇所前半の主イエスのお姿はそれまで数々の奇跡をなし、律法学者、祭司、権力者たちを相手に恐れることなく論争をなされ、宣教の業をなしてこられた様子とはずいぶんと異なります。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」

 意地悪な見方をすると、何だイエス様も結局、逮捕が近づいてきたら、怯えておられる、イエス様も逮捕されることや死ぬことが怖いんだ、と、感じられるかも知れません。ある文学者は実際「この場面の主イエスは情けない」とこの部分について書いていました。

 しかし、もちろん、ここで考えないといけないことは、さきほど申し上げましたように、主イエスがこれから迎えようとされている十字架の死は、普通の死ではないということです。単に十字架という長時間に渡って苦しみながら死なないといけない残虐な死刑に処せられること以上の恐ろしさがあったのです。主イエスがお受けになる苦しみは、肉体的に極限の苦しみを長時間受け、また人々の嘲笑と侮蔑にさらされる苦しみ、それだけではありませんでした。これから主イエスは、父なる神からの罪の裁きをお受けになる、神の怒りをお受けになる、その恐怖があったのです。そしてその裁きによって主イエスが経験されるのは神との決定的な断絶でした。かつて人間の誰もが経験したことのない、もっとも恐ろしく孤独な死を、イエス様は迎えようとされていました。それゆえに恐れ、もだえ始められたのです。

<人間を伴われる主イエス>

主イエスの死はいまだかつてない死であった、そのことを覚えつつも、しかしまた一方で、来るべき苦しみの前に、おそれ、もだえ、悲しまれる主イエスのお姿は、いろいろな意味で私たちの慰めとなります。私たちが人生において味わう恐れは、主イエスの味合われた恐れに比べたら、ちっぽけなものかもしれません。しかし、そうであっても、生身の人間として、主イエスが恐れ、もだえられたことは、私たち自身が試練の中にある時、おおいなる慰めとなります。主イエスも恐れられた、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃった、そのことは、私たち自身が試練の中で、恐れ、おびえるとき、慰められます。苦しい時は苦しいと言っていい、恐れてもいい、もだえてもいい、そのとき、わたしたちと同じ思いをもって傍らに主イエスがおられる、そう感じることができます。もちろん、繰り返しますが、主イエスがこれから味あわれる恐れは人間が経験してきた恐れとは次元の違うものです。しかし、そうであっても、恐れもだえられる主イエスに私たちは心支えられる感覚をもちます。

 ところで、祭司というのは神と人間の間に立って執り成しを捧げる存在ですが、ヘブライ人への手紙4:15には神への執り成しを行う大祭司として主イエスのことが記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

 主イエスは大祭司である、しかしその大祭司は、愚かな人間を高みから見下ろし、神へと執り成しをなさるかたではないとヘブライ人への手紙では記されています。主イエスご自身が恐れ、痛み、悲しみ、みじめな思いを経験されたのです。だからこそ私たちの恐れ、痛み、悲しみ、みじめさのその傍らにいてくださり神へと執りなしてくださるのです。

人間の思いをご存知であった主イエスは、ご自身の思い、感情をも、折々に、弟子たちにお見せになっています。神殿で自分たちの利益を上げるために商売をしていた商人たちに怒りを現わされたり、親しくしていた友人のラザロの死に涙を流されたりされました。そしてこのゲツセマネの場面でも、主イエスはただ一人で祈っておられたのではないのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて来ていたのです。このとき、連れてこられた弟子たちはこれから何が起こるのか分かっていませんでした。主イエスの逮捕、そして十字架と復活の意味も分かっていませんでした。分かっていないゆえ、主イエスが恐れと悲しみのうちに祈っているそばで眠りこけている弟子たちでした。弟子たちをゲツセマネに連れてきても、そのような体たらくであろうことは、そもそも主イエスはご存じだったでしょう。ご自身の命と死のきわみにあって、そしてすべての人間を救う決定的な業へと向かわんとするとき、弟子たちは実際のところ無力である、それはよくよくご存じだったでしょう。しかしなお、主は弟子たちをともなわれました。そこに主イエスの人間をご覧になる深いまなざしがあります。主は、奇跡を起こす強いお姿ではなく、おびえもだえるご自身を弟子たちにお見せになりました。たいへんな危機が迫っている時に眠りこけることしかできない弟子たちになお主イエスはご自身のまことの姿を現し、共におられる方でした。そしてまた弟子たちに共にいることを求められる方でした。主イエスはただ主イエスお一人しか飲むことのできない杯を受けようとされていました。主イエスお一人しか飲むことのできない神の裁きの杯であるなら、弟子たちを置いて、ただ一人で向かわれれば良かったのです。しかし、主イエスは愛と憐れみのまなざしをもって弟子たちを一緒に伴われたのです。弟子たちが共にいることを願われたのです。

映画のヒーローが誰にも告げずに、孤独にただ一人、戦いに出ていくのとは違うのです。もちろん主イエスは十字架においてただ一人戦われました。しかしなお、その戦いのぎりぎりのところまで弟子たちを伴われました。そこに主イエスの愛があります。

<目を覚まして祈っていなさい>

 さて「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という有名な主イエスの祈りの言葉があります。わたしたちはこの後半の「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という主イエスの言葉に感銘を受けます。しかし、ある註解者は、もともとのギリシャ語のニュアンスでは、前半の「この杯をわたしから取りのけてください」という言葉はとても強い言い方だとおっしゃっていました。英語だと命令形に訳されるような言葉です。

 主イエスはご自身がメシア、救い主であると自覚をして歩んでこられました。罪なきご自身が神の怒りの杯を飲むことによって、すべての人間が救われる、そのことを良く良くご存知でした。そもそも主イエスの生涯はまさに十字架へと向かう歩みでした。しかしなお、主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」と願われました。神の怒りの杯がいかなるものかを御子である主イエスはよくよくご存知であったからです。

 ご自身の思いを注ぎ出す祈りのうちに主イエスは神のご計画をご自身の意志として受け入れられました。「この杯をわたしから取りのけてください」という切なる強い祈り激しい祈りと、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という神への服従の祈りの間には、とてつもない大いなる祈りの戦いがあったのです。

 主イエスはその祈りののち、眠りこけていた弟子たちに「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい」と語られます。ここでいう一時は、二時間程の時間です。祈りの時間としてはけっして短い時間ではありません。主イエスの全身全霊を傾けられた戦いの祈りからすると弟子たちの祈りはちっぽけなものでした。「心は燃えても、肉体は弱い」と主イエスはおっしゃいます。祈りたい気持ちはあっても体力的な限界によって人間は祈り続けることができない、と私たちはこの言葉を取ります。しかしこの「心」という言葉は霊、スピリットと訳せる言葉です。肉体というのはその霊に対する体です。神を求める霊に対してこの世に生きる肉として体のことです。つまり「心は燃えても、肉体は弱い」は霊は強くても、肉、この世を生きる現実の姿は弱いということです。私たちはそもそも霊的なものを求めきれない弱さをもっているということです。霊的なものを求めて祈り続けることができない、たえず祈ることができない、祈りの戦いをすることができない者であるということです。

<立て、行こう>

 主イエスは三度目に戻って来られた時、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。」とおっしゃいます。

 時が来たのです。それは十字架の時、神の怒りが現わされる時であり、救いの時です。そして眠りこけていた弟子たちに「行こう」とおっしゃっています。そしてこののち弟子たちは主イエスと共にたしかに行くには行きますが、主イエスが捕らえられる時には逃げてしまうことを私たちは知っています。主イエスはそれもご存じだったでしょう。しかしそんな弟子たちに「立て、行こう」とおっしゃっています。ゲツセマネに弟子たちを伴われたように、ご自身が捕らえられる現場にも主イエスは弟子たちと共に行かれます。時が来たからです。救いの時が来たからです。眠りこけていた弟子たちが目を覚ます時が来たからです。祈れなかった弟子たちが祈ることができる新しい時が来たからです。

 さあ行こう、主イエスはおっしゃいます。新しい時が来た。

私たちの罪ゆえの杯は飲まれました。救い主であるキリストイエスによって。神が共におられる新しい時が開かれました。クリスマスの時に神は共におられます、インマヌエルなる神が来られたと良く語られます。たしかに十字架の前、そして十字架を私たちが信じる前、私たちが罪人であったときも神はおられました。主イエスが弟子たちを伴われたように私たちと共に神はおられました。いま、その神との間の隔たりが取り去られました。だから私たちは立つことができます。いえ立つことができるように主イエスが杯を飲んでくださったのです。祈りの戦いをしてくださったのです。今私たちは「立て、行こう」その主イエスの言葉に従うことができます。主イエスが祈られた祈りの戦いを私たちも戦うことのできる、燃える心を立たせる新しい体で生きる時が始まったのです。