2018年6月10日 大阪東教会主日礼拝説教 「永遠に渇かない水」吉浦玲子
<出会ってくださる主イエス>
私たちは、だれでも主イエスの恵みなしには、胸を張って神と向かい合うことはできません。聖書には、やくざまがいのあこぎさでローマへの税金を人々から徴収していた徴税人や、娼婦というような、世間のつまはじき者が出てまいります。姦淫の罪を犯した女が出てまいります。そしてまた今日の聖書箇所にはサマリアの女という、少しわけありな女性が出てまいります。私たちは、自分は一点の非の打ちどころもない人間であるなどとはもちろん思っていません。主イエスの恵みなしには神の前に立つことのできない者であることは分かっていながら、なお、聖書に出てくる徴税人や娼婦や姦淫の女や、そして今日読みますサマリアの女と自分は違う、とどこかで考えてしまいます。しかし、私たちは徴税人であり娼婦であり姦淫の女でありサマリアの女であったのです。今もそうなのです。しかしなお、いえ、むしろそうであるからこそ、主イエスはお越しになり、徴税人や娼婦や姦淫の女やサマリアの女と交わってくださったように、私たちとも交わってくださるのです。親しく言葉をかけ、救いへと導いてくださるのです。
さて今日の聖書箇所に出てまりますサマリアと言いますと、エルサレムなどがある南のユダヤ地方と主イエスのお生まれになった北部のガリラヤ地方との中間地点に位置しています。9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、サマリア人はユダヤ人からは嫌われていました。もともとは同じイスラエルの部族でありながら、ユダヤ人とサマリア人には不幸な歴史の中で、断絶がありました。北イスラエル帝国が紀元前8世紀にアッシリアによって滅んだ後、主だった人々は連れ去られ、地元に残された人々は後から入ってきた他民族と混血をしました。その混血をした人々がサマリア人でした。その後、南イスラエルが北イスラエルに150年ほど後れて滅びました。人々がバビロン捕囚とされたのちペルシャ王キュロスによって解放された時代に、バビロン捕囚から帰還した人々が故国で神殿を再建しようとしたとき、サマリア人が妨害したと言われます。そのあたりから根深い対立があったようです。また、サマリア人は紀元前4世紀にゲリジム山にエルサレムとは別の神殿を築きました。今日の聖書箇所でサマリアの女が後半で語っているのはその神殿のことです。そのゲリジム山の神殿はユダヤ人から非難を浴びました。そのような背景の中でユダヤ人とサマリア人は対立をしていました。
そのような背景の中で、主イエスはユダヤ地方からガリラヤに向かう途中にサマリアを通られました。4節に「サマリアを通らねばならなかった」と書いてありますが、当時、サマリアを通るしかユダヤからガリラヤに行くルートはなかったのかというとそうではありません。むしろ、ユダヤ人はさきほど申しましたような対立がありましたから、サマリアを避けるルートを通ることが多かったのです。ですから、ここで主イエスは意図的にこのルートを選ばれたと考えてよいと思います。主イエスはあえてこの道を選ばれ、ヤコブの井戸のある場所まで来られたのです。サマリアの女と出会うためです。訳ありな女性と出会うために主イエスは、この道を選ばれました。「正午ごろであった」とあります。まさにその時間に女性は水を汲みに来たのです。主イエスとサマリアの女の出会いは偶然ではありませんでした。女からしたら偶然かも知れません。しかし、主イエスにとっては必然でありました。この女性と出会う必要があったのです。まさにこの場所で、この時間に主イエスは女性と会う必要があったのです。私たちもまた、神の必然によって、しかし私たちには偶然と思われるようなやりかたでイエス・キリストと出会います。
<ちぐはぐな会話>
女性が昼ごろに水を汲みに来るのにはわけがありました。他の女たちと顔を合わせたくなかったからです。通常、水を汲むのは朝の仕事です。しかし、あえて他の女性たちと顔を合わせないようにこのサマリアの女性は水を汲みに来ていたのです。この女性は、言ってみればスキャンダラスな女性だったのです。周囲の女性たちから格好の噂話の種とされるような生き方をしてきた女性です。その女性に主イエスの方から話しかけられます。「水を飲ませてください」。
女性は驚きます。主イエスの姿や言動からあきらかにユダヤ人であることが分かったからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」これはもっともなことです。イエスの言葉は意表を突いていました。しかし、さらに意表を突く言葉を主イエスはおっしゃいます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」最初、水を乞うている、喉が渇いているかわいそうな旅人だと思っていた相手が、力強く語りました。女性はこの言葉に心を動かされました。どうもこの人はただものではないと感じたのでしょう。女性は主イエスに「主よ」と答えています。このときの「主」という呼びかけは、「先生」「教師」として相手を認識したものです。しかしまだ主イエスがおっしゃった「生きた水」という意味が女性には分かっていません。ここからあとの会話はちぐはぐに進みます。ちょうど、少し前にお読みしたニコデモと主イエスの会話がちぐはぐであったように、二人の会話はかみ合いません。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
「この水」とはヤコブの井戸の水です。旧約聖書には明確にシカルの井戸をヤコブが掘った井戸とは記されていません。しかし、創世記に出てくる族長たちの一人であるヤコブが掘った井戸としてサマリア人の間の伝承として伝えられていたのでしょう。シカルと記されている地名は旧約聖書に記されているシケムとも考えられ、たしかにシケムにヤコブはいたのです。パレスチナの人々にとって、水は貴重なものです。その貴重な水を供給してくれる井戸を偉大な祖先と結びつけてサマリアの人々は大事にしていたのでしょう。
しかし、主イエスはおっしゃいます。肉体の渇きを潤すこの由緒あるヤコブの井戸の水よりもはるかに偉大な水があるのだと。けっして渇かない水があるのだと。でも女性は、まだ勘違いをしていて、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をください。」と言います。
人間は、どうしても今自分に必要だと思うことを中心に考えます。この女性にとって当然、肉体を潤す水、また生活のための水は必要不可欠のものでした。そしてまた、女性にとって、暑い昼に水を汲みに来るのはたいへんなことでした。だから「ここにくみにこなくてもいいように、その水をください」と女性はいったのです。これは女性にとってとても切実なことでした。この女性の勘違いを私たちは笑うことはできません。私たちも、どうしても自分の必要からしかものを考えることはできません。自分にとって切実なことがやはり第一なのです。水と、わずらわしい人の目を避ける生活からの解放、それが女性にとって切実なことでした。
<ありのままの姿で神の前に立つ>
主イエスは、この女性の切実さは十分に御存じだったのでしょう。そしてあえてその女性の切実さへと踏み込んでいかれます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」これは女性にとって、もっとも触れられたくないことだったでしょう。彼女の人生の暗さがここに凝縮していることでした。主イエスは女性には現在夫がないこと、これまで5人の夫がいて、いまは夫ではない男性と暮らしていることを言いあてられました。しかし、主イエスはそのような女性の過去と現在を批判なさっているわけではありません。そのような過去と現在を持っているそのままの女性に「わたしを信じなさい」とおっしゃっているのです。そこからすべてが変わって行くのだと主イエスは女性におっしゃっているのです。今のあなたの嘘いつわりのない姿で私を信じなさいとおっしゃっています。神の前で良い恰好をするのではありません。行儀のいい、立派な姿で神の前に立つのではありません。良いところも悪いところもすべてそのままに神の前に立つのです。
しかし、なかなかそれが私たちにはできません。どうしても取り繕ってしまうのです。サマリアの女も、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言った後、一般的な宗教談義へと話を持っていきます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」これはさきほど申しましたサマリア人がゲリジム山で礼拝していたことを指しています。どうしても自分の問題からは目をそらしたいのです。一般論で話をしたいのです。求道中の方と話をしていると、良くこういうことはあります。キリスト教とは、とか、聖書とは、といった宗教的な一般論をされる方が多いのです。もちろん素朴な疑問として質問されているので、一生懸命私も答えますが、そこから少しずつ、自分と神との関係を考える方向に導けたらと思っています。なにより私自身、教会に行き始めた頃は、一般論ばかりで話しをしていたので、一般論を話しをしたい人の気持ちはよく分かります。
ところで、最近はひねる形の蛇口は少なくなってきました。押したり上げたりするタイプの蛇口が多いようです。どんなタイプのものであっても、水道の水は、蛇口から出てくることを私たちは知っています。水が必要な時、私たちは蛇口をひねるなり、押すなりします。陳腐な例えかもしれませんが、主イエスが「永遠に渇かない水」とおっしゃった水を手に入れるためには、主イエスを信じるということが必要です。主イエスを信じることが「永遠に渇かない水」を手に入れるための蛇口といえます。私たちは喉がからからに渇いているのに水道の蛇口を前にして、水道の仕組みやら、大阪の水の水質について語ったりしません。とにかく蛇口をひねるなり押すなりするのです。しかし、主イエスを前にして私たちは往々にして、宗教の一般論をしてしまうのです。自分がほんとうは深いところで、からからに渇いていることを隠したり、そもそも渇いていることに気づかなかったりします。本当は、渇いて渇いてもう死を待つだけであるのに、「その水をください」と言えないのです。
<永遠に生きた水とは>
さて、一般論を語るサマリアの女性に、主イエスはおっしゃいます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」さらにゲリジム山でもエルサレムでもないところで、まことの神を礼拝する時が来る、とおっしゃいます。それは主イエスを信じることによって実現することでした。一般論ではなく、ただ主イエスとサマリアの女性との個別な関係が重要なのです。主イエスと私たち一人一人との関係が大事なのです。主イエスを信じる、そこからおおいなる新しいことが始まるのです。
永遠に生きた水とは7章において、人々が受けることになる“霊”だと記されています。つまり聖霊のことです。聖霊は主イエス・キリストを指し示す霊です。私たちは水道の水に限らずこの世のさまざまなもので一時的には満たされます。しかし、それは永遠のものではありません。喉は再び渇きますし、そのほかのもろもろもやがては失われるものです。失われていくものに取り囲まれて、私たちの深いところ渇きます。その私たちの深い渇きは罪に源があります。罪のゆえに神と共にいない、そこにわたしたちの深い渇きの原因があります。神から造られた私たちが神を失っている、そこに渇きがあるのです。
私たちが神との関係を取り戻すことができるようにキリストは来られました。必然として来られました。その方を指し示すのが聖霊です。つねにキリストと私たちは結びつけてくださるのが聖霊です。主イエスと共にある時、私たちは神との関係を取り戻します。ですから深いところで潤されるのです。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と主イエスはおっしゃいました。わたしはまだ求道者であった頃、はじめてこの箇所を読んだ時、永遠の命に至る水というのが具体的には何であるかを分かりませんでしたが、とてもきれいな心ひかれる言葉だと感じました。聖書を読み始めて最初に心ひかれた聖句の一つです。しかしこの言葉は美しいものですが、私たちにこの永遠の水を与えてくださるために誰よりもからからに渇いてくださったのはイエス・キリストです。ヨハネによる福音書の19章には主イエスの十字架の出来事が記されています。主イエスが十字架の上でお亡くなりになる時の言葉が「渇く」でした。私たちの罪ゆえの深い渇きを癒すために、主イエスご自身が渇ききって死んでくださった。そのことのゆえにわたしたちは永遠に生きた水を頂きました。「渇く」に続く、主イエスの十字架上の最期の言葉は「成し遂げられた」でした。主イエスは永遠に渇かない水を私たちに与えるために御自身は渇ききり、救いを成し遂げてくださいました。
十字架のゆえに、私たちは深いところから潤され、神に感謝をして礼拝をお捧げします。ゲリジム山でもエルサレムでもない、まことの神を礼拝することができるようになりました。信じる者とされました。信じる者は心からなる礼拝を捧げるのです。いつかではなく今お捧げします。今、出会ってくださるイエス・キリストがここにおられるからです。