大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書 4章1~26節

2018-06-11 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年6月10日 大阪東教会主日礼拝説教 永遠に渇かない水」吉浦玲子

<出会ってくださる主イエス>

 私たちは、だれでも主イエスの恵みなしには、胸を張って神と向かい合うことはできません。聖書には、やくざまがいのあこぎさでローマへの税金を人々から徴収していた徴税人や、娼婦というような、世間のつまはじき者が出てまいります。姦淫の罪を犯した女が出てまいります。そしてまた今日の聖書箇所にはサマリアの女という、少しわけありな女性が出てまいります。私たちは、自分は一点の非の打ちどころもない人間であるなどとはもちろん思っていません。主イエスの恵みなしには神の前に立つことのできない者であることは分かっていながら、なお、聖書に出てくる徴税人や娼婦や姦淫の女や、そして今日読みますサマリアの女と自分は違う、とどこかで考えてしまいます。しかし、私たちは徴税人であり娼婦であり姦淫の女でありサマリアの女であったのです。今もそうなのです。しかしなお、いえ、むしろそうであるからこそ、主イエスはお越しになり、徴税人や娼婦や姦淫の女やサマリアの女と交わってくださったように、私たちとも交わってくださるのです。親しく言葉をかけ、救いへと導いてくださるのです。

 さて今日の聖書箇所に出てまりますサマリアと言いますと、エルサレムなどがある南のユダヤ地方と主イエスのお生まれになった北部のガリラヤ地方との中間地点に位置しています。9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、サマリア人はユダヤ人からは嫌われていました。もともとは同じイスラエルの部族でありながら、ユダヤ人とサマリア人には不幸な歴史の中で、断絶がありました。北イスラエル帝国が紀元前8世紀にアッシリアによって滅んだ後、主だった人々は連れ去られ、地元に残された人々は後から入ってきた他民族と混血をしました。その混血をした人々がサマリア人でした。その後、南イスラエルが北イスラエルに150年ほど後れて滅びました。人々がバビロン捕囚とされたのちペルシャ王キュロスによって解放された時代に、バビロン捕囚から帰還した人々が故国で神殿を再建しようとしたとき、サマリア人が妨害したと言われます。そのあたりから根深い対立があったようです。また、サマリア人は紀元前4世紀にゲリジム山にエルサレムとは別の神殿を築きました。今日の聖書箇所でサマリアの女が後半で語っているのはその神殿のことです。そのゲリジム山の神殿はユダヤ人から非難を浴びました。そのような背景の中でユダヤ人とサマリア人は対立をしていました。

 そのような背景の中で、主イエスはユダヤ地方からガリラヤに向かう途中にサマリアを通られました。4節に「サマリアを通らねばならなかった」と書いてありますが、当時、サマリアを通るしかユダヤからガリラヤに行くルートはなかったのかというとそうではありません。むしろ、ユダヤ人はさきほど申しましたような対立がありましたから、サマリアを避けるルートを通ることが多かったのです。ですから、ここで主イエスは意図的にこのルートを選ばれたと考えてよいと思います。主イエスはあえてこの道を選ばれ、ヤコブの井戸のある場所まで来られたのです。サマリアの女と出会うためです。訳ありな女性と出会うために主イエスは、この道を選ばれました。「正午ごろであった」とあります。まさにその時間に女性は水を汲みに来たのです。主イエスとサマリアの女の出会いは偶然ではありませんでした。女からしたら偶然かも知れません。しかし、主イエスにとっては必然でありました。この女性と出会う必要があったのです。まさにこの場所で、この時間に主イエスは女性と会う必要があったのです。私たちもまた、神の必然によって、しかし私たちには偶然と思われるようなやりかたでイエス・キリストと出会います。

<ちぐはぐな会話>

 女性が昼ごろに水を汲みに来るのにはわけがありました。他の女たちと顔を合わせたくなかったからです。通常、水を汲むのは朝の仕事です。しかし、あえて他の女性たちと顔を合わせないようにこのサマリアの女性は水を汲みに来ていたのです。この女性は、言ってみればスキャンダラスな女性だったのです。周囲の女性たちから格好の噂話の種とされるような生き方をしてきた女性です。その女性に主イエスの方から話しかけられます。「水を飲ませてください」。

 女性は驚きます。主イエスの姿や言動からあきらかにユダヤ人であることが分かったからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」これはもっともなことです。イエスの言葉は意表を突いていました。しかし、さらに意表を突く言葉を主イエスはおっしゃいます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」最初、水を乞うている、喉が渇いているかわいそうな旅人だと思っていた相手が、力強く語りました。女性はこの言葉に心を動かされました。どうもこの人はただものではないと感じたのでしょう。女性は主イエスに「主よ」と答えています。このときの「主」という呼びかけは、「先生」「教師」として相手を認識したものです。しかしまだ主イエスがおっしゃった「生きた水」という意味が女性には分かっていません。ここからあとの会話はちぐはぐに進みます。ちょうど、少し前にお読みしたニコデモと主イエスの会話がちぐはぐであったように、二人の会話はかみ合いません。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 「この水」とはヤコブの井戸の水です。旧約聖書には明確にシカルの井戸をヤコブが掘った井戸とは記されていません。しかし、創世記に出てくる族長たちの一人であるヤコブが掘った井戸としてサマリア人の間の伝承として伝えられていたのでしょう。シカルと記されている地名は旧約聖書に記されているシケムとも考えられ、たしかにシケムにヤコブはいたのです。パレスチナの人々にとって、水は貴重なものです。その貴重な水を供給してくれる井戸を偉大な祖先と結びつけてサマリアの人々は大事にしていたのでしょう。

 しかし、主イエスはおっしゃいます。肉体の渇きを潤すこの由緒あるヤコブの井戸の水よりもはるかに偉大な水があるのだと。けっして渇かない水があるのだと。でも女性は、まだ勘違いをしていて、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をください。」と言います。

 人間は、どうしても今自分に必要だと思うことを中心に考えます。この女性にとって当然、肉体を潤す水、また生活のための水は必要不可欠のものでした。そしてまた、女性にとって、暑い昼に水を汲みに来るのはたいへんなことでした。だから「ここにくみにこなくてもいいように、その水をください」と女性はいったのです。これは女性にとってとても切実なことでした。この女性の勘違いを私たちは笑うことはできません。私たちも、どうしても自分の必要からしかものを考えることはできません。自分にとって切実なことがやはり第一なのです。水と、わずらわしい人の目を避ける生活からの解放、それが女性にとって切実なことでした。

<ありのままの姿で神の前に立つ>

 主イエスは、この女性の切実さは十分に御存じだったのでしょう。そしてあえてその女性の切実さへと踏み込んでいかれます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」これは女性にとって、もっとも触れられたくないことだったでしょう。彼女の人生の暗さがここに凝縮していることでした。主イエスは女性には現在夫がないこと、これまで5人の夫がいて、いまは夫ではない男性と暮らしていることを言いあてられました。しかし、主イエスはそのような女性の過去と現在を批判なさっているわけではありません。そのような過去と現在を持っているそのままの女性に「わたしを信じなさい」とおっしゃっているのです。そこからすべてが変わって行くのだと主イエスは女性におっしゃっているのです。今のあなたの嘘いつわりのない姿で私を信じなさいとおっしゃっています。神の前で良い恰好をするのではありません。行儀のいい、立派な姿で神の前に立つのではありません。良いところも悪いところもすべてそのままに神の前に立つのです。

 しかし、なかなかそれが私たちにはできません。どうしても取り繕ってしまうのです。サマリアの女も、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言った後、一般的な宗教談義へと話を持っていきます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」これはさきほど申しましたサマリア人がゲリジム山で礼拝していたことを指しています。どうしても自分の問題からは目をそらしたいのです。一般論で話をしたいのです。求道中の方と話をしていると、良くこういうことはあります。キリスト教とは、とか、聖書とは、といった宗教的な一般論をされる方が多いのです。もちろん素朴な疑問として質問されているので、一生懸命私も答えますが、そこから少しずつ、自分と神との関係を考える方向に導けたらと思っています。なにより私自身、教会に行き始めた頃は、一般論ばかりで話しをしていたので、一般論を話しをしたい人の気持ちはよく分かります。

 ところで、最近はひねる形の蛇口は少なくなってきました。押したり上げたりするタイプの蛇口が多いようです。どんなタイプのものであっても、水道の水は、蛇口から出てくることを私たちは知っています。水が必要な時、私たちは蛇口をひねるなり、押すなりします。陳腐な例えかもしれませんが、主イエスが「永遠に渇かない水」とおっしゃった水を手に入れるためには、主イエスを信じるということが必要です。主イエスを信じることが「永遠に渇かない水」を手に入れるための蛇口といえます。私たちは喉がからからに渇いているのに水道の蛇口を前にして、水道の仕組みやら、大阪の水の水質について語ったりしません。とにかく蛇口をひねるなり押すなりするのです。しかし、主イエスを前にして私たちは往々にして、宗教の一般論をしてしまうのです。自分がほんとうは深いところで、からからに渇いていることを隠したり、そもそも渇いていることに気づかなかったりします。本当は、渇いて渇いてもう死を待つだけであるのに、「その水をください」と言えないのです。

<永遠に生きた水とは>

 さて、一般論を語るサマリアの女性に、主イエスはおっしゃいます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」さらにゲリジム山でもエルサレムでもないところで、まことの神を礼拝する時が来る、とおっしゃいます。それは主イエスを信じることによって実現することでした。一般論ではなく、ただ主イエスとサマリアの女性との個別な関係が重要なのです。主イエスと私たち一人一人との関係が大事なのです。主イエスを信じる、そこからおおいなる新しいことが始まるのです。

永遠に生きた水とは7章において、人々が受けることになる“霊”だと記されています。つまり聖霊のことです。聖霊は主イエス・キリストを指し示す霊です。私たちは水道の水に限らずこの世のさまざまなもので一時的には満たされます。しかし、それは永遠のものではありません。喉は再び渇きますし、そのほかのもろもろもやがては失われるものです。失われていくものに取り囲まれて、私たちの深いところ渇きます。その私たちの深い渇きは罪に源があります。罪のゆえに神と共にいない、そこにわたしたちの深い渇きの原因があります。神から造られた私たちが神を失っている、そこに渇きがあるのです。

私たちが神との関係を取り戻すことができるようにキリストは来られました。必然として来られました。その方を指し示すのが聖霊です。つねにキリストと私たちは結びつけてくださるのが聖霊です。主イエスと共にある時、私たちは神との関係を取り戻します。ですから深いところで潤されるのです。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と主イエスはおっしゃいました。わたしはまだ求道者であった頃、はじめてこの箇所を読んだ時、永遠の命に至る水というのが具体的には何であるかを分かりませんでしたが、とてもきれいな心ひかれる言葉だと感じました。聖書を読み始めて最初に心ひかれた聖句の一つです。しかしこの言葉は美しいものですが、私たちにこの永遠の水を与えてくださるために誰よりもからからに渇いてくださったのはイエス・キリストです。ヨハネによる福音書の19章には主イエスの十字架の出来事が記されています。主イエスが十字架の上でお亡くなりになる時の言葉が「渇く」でした。私たちの罪ゆえの深い渇きを癒すために、主イエスご自身が渇ききって死んでくださった。そのことのゆえにわたしたちは永遠に生きた水を頂きました。「渇く」に続く、主イエスの十字架上の最期の言葉は「成し遂げられた」でした。主イエスは永遠に渇かない水を私たちに与えるために御自身は渇ききり、救いを成し遂げてくださいました。

 十字架のゆえに、私たちは深いところから潤され、神に感謝をして礼拝をお捧げします。ゲリジム山でもエルサレムでもない、まことの神を礼拝することができるようになりました。信じる者とされました。信じる者は心からなる礼拝を捧げるのです。いつかではなく今お捧げします。今、出会ってくださるイエス・キリストがここにおられるからです。


ヨハネによる福音書 3章16~36節

2018-06-11 17:56:16 | ヨハネによる福音書

2018年6月3日 大阪東教会主日礼拝説教 天から与えられるもの」吉浦玲子

 

<誰でも慰めが必要>

 どんなに強い人でも、いえ、むしろ強ければ強い程、ほんとうは慰めを必要としていると思います。本人はそう思っていなくても、本人は慰めや癒しなんて必要ないと感じていても、実際のところは必要なのです。精神的にタフであればある程、多くの痛みや困難に耐えて生きていきます。しかし、耐えているようであっても、やはり痛みや困難は確実に心や魂に傷をつけるのです。大丈夫だ平気だと思って生きていても、ほんとうは心の奥に無数の傷がある。ガラスのグラスがきらきらと光っている、でもふと取り上げて光にさらしてみると、たくさんの小さな傷が入っている、そのように人間には生きていけばいくほど、傷や痛みを経験します。そしてそれらは癒され、慰められねばならないのです。ガラスのグラスの無数の傷はやがてグラス全体を粉々にしてしまうのです。

 

 よく言われますのは、肉親を天に送った後、さまざまにその葬りやらいろいろな手続きに忙殺されて悲しむ暇もなく時を過ごし、ようやくひと段落したときに精神的にがっくりきてしまうことがあるということです。本当は嘆き悲しみたい気持ちを押し殺して、さまざまな葬りのために必要なことをやっていく、それはある意味では、別離の直後のその人の心を支える効果もあると言います。しかし、やはりその心には悲しみや痛みがあるのです。さまざまな葬りのためのあれこれが済んでしまった時、はじめて心の痛みと向き合うということがあります。

 

 そのように、本人が意識するとしないとに関わらず、悲しみやらさまざまな思いを抱えた人間にとって今日の聖書箇所は慰めのある言葉です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは聖書の中で<福音書中の福音書>と言われる箇所です。金色の言葉とも言われる箇所です。クリスマスの時に良く読まれる聖書箇所でもあります。聖書やキリスト教のことをあまり知らない人でも、この言葉を聞く時、神の愛や、神に遣わされた独り子に関して、その恵みの深さや喜びといったものをある程度感じ取ることができるのではないでしょうか?独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る、この言葉に、なぐさめをかんじられるのではないでしょうか?この世は、はかなく虚しいことに満ちています。大帝国も滅び、人間も死にます。そのような世界にあって、「滅びない」という言葉は輝いています。そして、精一杯生きてきた、たくさんの悲しみやら痛みやらを抱えて来た、もうこれ以上は勘弁してほしい、そんな人々に、神は「滅びないためにはこれこれをしなさい」というように、なにか要求をなさるわけではないのです。ただ、神はこの世を愛して、独り子を与えてくださった、そう聖書は語ります。

 

<なぜキリストが来られたか?>

 しかしまた一方で、クリスマスの出来事で、多くのこの世の人がほんとうのところは理解できないのは、なぜ世を愛された神とイエス・キリストの降誕が結びつくのかということです。もちろんなんとなく漠然とは感じられるかもしれません。主イエスは、多くの人の病を癒し悪霊を追い出し救われました。お腹をすかせた人々を魚とパンで満腹にさせられました。有能な医者で社会活動家で、その言動がいかにも愛に満ちてやさしかった、そこに主イエスの偉大さを見、イエスの愛を見るのかもしれません。やさしいやさしい愛に満ち満ちたイエス様、そのイエス様を遣わされたというところに神の愛を見るのでしょうか?クリスマスのきらきらした輝かしくもやさしい愛の物語として私たちはキリストの到来を聞くのでしょうか?

 

 もちろんそうではないのです。

 

 神はその独り子を殺すために、端的に言えば、人間に殺させるためにこの世に与えられました。自分の子を殺されることが分かりながら差し出す親は通常はいません。しかし神はお与えになった。それが神の愛だった、そうヨハネは記すのです。今日の聖書箇所の少し前に、先週お読みしたところですが、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と主イエスは語っておられました。毒蛇にかまれた人々が助かるようにモーセによって青銅の蛇を干し竿につけられ高く掲げられたように、主イエスもまた十字架に高くあげられる、そのことのゆえに人間は永遠の命を得るとおっしゃっていました。

 

 神はまさに青銅の蛇のように御子を十字架に高く上げられるために、この世に独り子を与えられました。本来は神の裁きによって裁かれねばならない人間が、私たちが、裁かれることなく救われるために、神はその独り子を裁かれました。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この言葉は美しい言葉ですが、その愛はキリストの肉を裂き血を流すことによって示されたのです。キリストの命と引き換えに与えられた愛です。キリストの命、神の御子の命によって与えられた愛です。ですから、その愛は死を越えるのです。

 

 私たちの人生におけるどのような試練も困難も悲惨も超えるのです。想像を絶するような過酷な体験をした人にもキリストの十字架から注がれる愛は届くのです。その愛はただの上っ面の慰めではないのです。キリストの命と引き換えの永遠の命なのです。死を越える、死を打ち砕く命がほとばしる愛なのです。

 

<闇にとどまる人>

 

 その愛に対して、私たちは、ただ顔を向けて受け取れば良いのです。私自身が、ある時期、信仰に懐疑的になった時期がありました。クリスチャンになっても何も変わらない、いやむしろ状況は悪くなっていくようにすら思えたのです。なにより自分自身がいやになってしまった。明日は今日の続きであって、毎日同じような日々が続くように思えました。そんなとき、牧師から言われました。「吉浦さんは明日も今日と同じと思っているでしょう?」そういうことを牧師には言ったことはなかったのです。でも牧師は「明日は今日と同じ」と思っている私の心を知っていました。そして言いました。「吉浦さん、そんなことないですよ。神様のくださるプレゼントはそんなちっちゃなものじゃない。必ず驚くようなプレゼントが与えられる。だから明日に期待して良いのですよ」と。神様のプレゼントというとなにか幼稚な言い方のようにも聞こえるかもしれません。それにそもそも神様の最大のプレゼントはイエス・キリストであったわけです。しかしそのイエス・キリストを与えられ、それを信じた者にはさらに豊かなプレゼント、祝福があるのだとその牧師はおっしゃったのです。イエス・キリストを信じる者には永遠の命が与えられその一日一日に恵みがあります。

 

 しかし、一方でその神様からのプレゼントを受け取らない人がいます。さきほど申し上げた青銅の蛇でいえば、荒れ野で毒蛇にかまれて倒れているのに、掲げられた青銅の蛇を見上げようとしない人々、そのような人々は蛇の毒がまわってやがて死ぬのです。十字架に上げられたキリストを信じない人々もまた闇の中にあり、やがて命を失います。「信じない者は既に裁かれている」ということは、滅びへの道を歩んでいるということです。

 

 逆に言いますと、私たちは伝道をしますが、それは光の方へ来ませんか?という勧めなのです。神の光の方へ、滅びではなく永遠の命のほうに顔を向けませんか、歩み始めませんかという勧めです。<信じないと地獄に落ちますよ>という脅しの言葉で伝道をするのではありません。少しここは言い方が、難しいところですが、とにかく、私たちはマイナスのことを言って人を導くのではありません。ただ「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と伝えるのです。あなたが抱えている痛みも傷も、自分では気づいていない痛みも傷も、十字架の独り子を見さえすれば癒されるのだと伝えるのです。それほどの愛があるのです。その愛を受け取るか受け取らないか、神様のプレゼントを受け取るか受け取らないかはその人の決断にかかっているということなのです。しかし、その決断には命がかかっているのです。

 

<天から来られた方>

 

 今週と来週は少し長い箇所、聖書をお読みいただきますが、今週の聖書箇所の22節からは洗礼者ヨハネの話がふたたび出てまいります。ここにも深い言葉があります。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」そもそもヨハネによる福音書ではイエス様の最初の弟子であるペトロたちももともとヨハネの弟子だったと記されています。洗礼者ヨハネの弟子であった人々がイエスのもとに移って来て、さらにはそれまではヨハネのもとに押し掛けていた人々の流れもすっかりイエスの方に移ってしまったというのです。「時代の寵児」という言い方が昔はありましたが、最近はしません。ある時代にある人がたいへんもてはやされたけれど、やがて別の人に注目が移り、もともともてはやされた人の人気や影響力が衰えていく、そういうことは現代でもあります。最近は人の関心が移るスピードがあまりに速くて、「時代の寵児」が生まれる前に人の関心が別のところに移ってしまうようなところがあるかと思います。2000年前、ヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとに多くの人々が押し掛けていた、そのヨハネが洗礼を授けて証しした主イエスという人の方が人気が出て、人々はそっちへ行ってしまった、それは現代でもある先ほど申し上げた人気の移り変わりの話のようでもあります。しかしここでヨハネは深い言葉を語ります。自分自身を花婿の介添え人に例え、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶとヨハネは語ります。神と人間の祝福された様子は結婚式で良く現わされます。キリストは花婿で私たちは花嫁である、と。ヨハネはその花婿の傍らに立つ介添え人である、と。イスラエルの結婚式では介添え人は花婿の傍らで式全体を支えます。介添え人は主役ではありません。しかし重要な役割です。花婿と花嫁の喜びのために奉仕をするのです。

 

 このヨハネの言葉は、単なる謙遜の言葉ではありません。後進に道を譲るといった鷹揚な態度でもありません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」あの方は栄え、わたしは隠退してのんびりするというのではありません。私は衰えねばならないと言っているのです。これは厳しい言葉です。普通「わたしが衰えたから、あの人が栄えた」とは言えます。でも、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは言えません。

 

 ところで、「神に栄光を帰す」という言葉があります。この言葉は詩編などの旧約聖書にも出てくる言葉です。私たちは、この言葉を言う時、ほんとうに「神に栄光がありますように」と思っています。しかし、本来は、神にのみ栄光があるのですから、お返しするというのは変な言い方ではあります。でもこの言葉を思う時、本来の持ち主にお返ししますと言わざるを得ないほどに、私たちは普段、栄光を自分の内に握りしめているとも言えます。ヨハネが、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」というとき、それはすなわちキリストのみに栄光があると言っています。神に栄光はあるが、私にも少しはある、ということではなく、ただ神にのみ栄光がある、そしてまたキリストのみが栄え、他は衰える、ということなのです。そしてそれはいやいやながら、キリストに栄えを譲ったというのではなく、花婿の介添え人が大いに喜ぶように、喜んで自分は衰えるのだといっているのです。そこに神と人間の本来の姿があり、キリストを迎える人間のあり方があるといえます。

 

 そのような関係が築けるのは、そもそも、キリストがどこから来られたのかということをはっきりとわきまえているからでもあります。ヨハネがキリストがただの人間であると思っていたのだったら、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とは言えなかったと思います。少なくとも喜んでは思えなかったでしょう。

 

 しかし、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。31節以降については誰が語った言葉かということで、学者の間でも論争のあるところです。主イエスご自身の言葉であるとか、ヨハネの言葉の続きであるとか、意見があります。しかし、ヨハネ自身が、キリストは天から来られた方であることは十分理解していたことは間違いありません。

 

 この地上には暗闇が満ちています。混沌が満ちています。しかし、天から来られた方は光をもたらされました。まことの救いをもたらされました。大いなる賜物が与えられました。それはキリストへと顔を向ける時、気づきます。顔を向けなければ気づきません。救いにも慰めにも気づきません。いえ、キリストを見上げなければ自分自身の本当の痛みや傷にも気がつくことはできません。キリストへと顔を向け、顔を向け続けながら歩んでいきましょう。私たちはなかなか自分自身の栄光を手放せない者ですが、なお、天から来られたキリストは御自分をを見上げる者に、ご自身のご栄光の光の中から、大いなる喜びを与えてくださいます。

 

 

 

 

 


ヨハネによる福音書3章1~15節

2018-06-11 17:52:06 | ヨハネによる福音書

2018年5月27日 大阪東教会主日礼拝説教 「水と霊によって生まれる」吉浦玲子

<招かれたニコデモ>

 主イエスは人々を招いておられます。人々が、信じない者ではなく信じる者へとされるように、滅びではなく救いへ向かうように、闇ではなく光の中に生きるようにと招いておられます。その招きをうけた一人が今日の聖書箇所のニコデモです。もちろん、今日の聖書箇所ではニコデモが主イエスに招かれたという記載はありません。ニコデモはみずから主イエスのもとへ赴いて来ました。ニコデモの社会的立場からすると危険すら犯して、主イエスのもとに来ました。主イエスは、先週お読みした神殿での出来事をはじめ、その行動と言葉において、ファリサイ派や祭司たちを敵に回しました。エルサレムの権力者たちから疎まれていました。その権力側にニコデモはいました。ですから、ニコデモは夜の闇に乗じて来たのです。人目を避けて来たのです。ニコデモは人目を避けて、自分の思いで、危険を冒して、自分の意志で来たのです。しかしなお、ニコデモは主イエスに招かれたのです。深いところで、ニコデモは主イエスからの招きを感じたのです。

 ニコデモはファリサイ派であり、聖書に詳しかったのです。信仰的で熱心な人でした。議員であり、人々に教える教師でした。そのニコデモの深いところに、主イエスがなさったしるしは響いたのです。ニコデモが目の前で主イエスの業をみたのか、伝え聞いたのかは分かりません。いずれにせよ、聖書の教師であり議員であったニコデモがごく単純に主イエスのなさった奇跡に驚き、主イエスを<わあ、すごい>だと思ったのではありません。ニコデモは求めていたのです。ほんとうの救いを求めていたのです。ほんとうの神の業を求めていたのです。聖書のことは誰よりも詳しく知っている、人に教えるほど知っている、そんな自分でありながら、自分が救われていないことをニコデモは感じていたのです。どれほど熱心に聖書を学んでも、まじめに律法を守っても、そこには真実の平安がなかったのです。

 思い起こすのは幾度かお話ししたことのある宗教改革者のルターの若き日のことです。ルターもまた、まじめな修道者として、そしてまた聖書の学者として日々を送りながら満たされていませんでした。満たされるどころか、むしろ恐れに囚われていたのです。自分自身が救われる確信がありませんでした。どれほどまじめに修道者として生活をしても、熱心に学んでも、自分の罪が赦されるとは思えませんでした。絶えず不安がありました。

 しかしルターは、ローマの信徒への手紙のパウロの言葉を再発見しました。「信仰によって義とされる」ということを自身の信仰的確信として発見しました。まじめな修道者としての生活や聖書の学びといった行いではなく、ただ十字架と復活の主イエスを信じる信仰によって救われる、そのことを知ってルターは初めて平安を得ました。救いの確信を得ました。しかし、ルターは神学的にまったく新しいことを言ったわけではありません。「ローマの信徒への手紙」で、そしてまた「ヘブライ人への手紙」で語られている信仰の意味を16世紀に新しく捉えなおしたのです。行いによって正しい者とされる、救われるという誤った当時の考えを、もともと聖書で語られていた原点へと引き戻したのです。

 ニコデモもまた、求めていました。信仰によって義とされ救われるという確信に至るまでのルターのように不安で、救いを求めていたのです。求めていたニコデモは主イエスに呼ばれました。深いところで主イエスの招きを感じ、やってきました。

<新たに生まれる>

そのニコデモに主イエスはおっしゃいます。「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」

 これは、ニコデモにとって驚天動地なことでした。熱心に聖書を学び、律法を守っていた自分が生まれなおさなければ神の国を見ることができないなどと言われるとは思っていなかったのです。ニコデモは今の自分に何かプラスアルファすれば、救いを得られ、神の国へと入れると思っていたのです。しかしそうではない、もう一度生まれなおしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは生まれ変わるということを肉体的に生まれ変わると感じているようです。このやり取りから分かることは主イエスがおっしゃっていることが、「生まれ変わったように何かをしなさい」とおっしゃっているのではなく、まさにもう一度「生まれる」ことをおっしゃっているということです。生まれ変わったようにまったく違った観点で聖書を読みましょうとか、まったく新しく生き直すように律法を解釈して実行しましょうということではないのです。徹底的に何かをしなさいということではありません。今の自分に何かをプラスしなさいということではないのです。

 聖書を長く読まれている方はここで主イエスがおっしゃっているのは洗礼のことだと理解されているかと思います。続いて主イエスが語られている「だれでも水と霊によって生れなければ、神の国に入ることはできない。」という言葉は、たしかに洗礼のことをおっしゃっているのです。しかし、一方において、現実に、洗礼をお受けになった方が、洗礼で「新しく生まれた!」という感覚をどれほど鮮烈に覚えられたかというと千差万別だと思うのです。私自身、洗礼を受けるとき、洗礼式が近づいたころ、当時の牧師から、「吉浦さんのこの世での命はあと何日ですねー」と何回か言われました。洗礼とはこの世の命にいったん死に、新しく生まれることだと理解していたので、その牧師の言葉はよく分かりました。しかし実際に洗礼の時、頭から水をたらされた、そのとき、現実的に自分が死んだとか新しく生まれたという感覚は持てませんでした。

 じゃあ洗礼はあくまでも形だけの儀式であって、洗礼を受けた人は死にもしなければ新しく生まれもしないのでしょうか?そうではありません。たしかにキリストを信じて信仰告白をして洗礼を受けた者は、新しく生まれたのです。生まれさせていただいたのです。ですから、洗礼を受けた者は洗礼の日を境に変えられてきたはずです。まったく変わっていないなどということはないはずです。変えられているのです。新しくされているのです。

<上から生まれる>

 そうしてもう一つポイントがあります。ここで主イエスが「新しく生まれなければ」とおっしゃっている「新しい」という言葉は、もう一度、とか再びというニュアンスと合わせて、「上から」というニュアンスもあるのです。ここで主イエスがおっしゃっている新しく生まれるということは、当然、もう一度、母の胎内に入ることではないと同時に、まったく違う生まれ方をする、上から生まれるということなのです。上から、つまり神からもう一度生まれさせて頂くということです。

 神から招かれて神のもとに来たら、今度は神にもう一度生まれさせていただくのです。神の招きは一回だけではありません。たとえばこの教会に入ってくるにも、正門側からにせよガレージ側からにせよ、まずブロック塀の内側に入ってきます。そののち、日曜日であれば礼拝堂であり、また平日であれば私が執務している別館へと入ってきます。ブロック塀の内側に入って、そのまま引き返す人もおられます。礼拝堂なり、別館へ一回だけ来て、それっきりの方もおられますし、継続的に来られる方もおられます。それまで教会に来たことのない方にとっては、ブロック塀の内側に入るのも勇気がいることかもしれません。わたしもそうでした。初めて教会に行く時は勇気が要りました。建物の中に入るのは更に勇気がいるでしょう。決断がいるでしょう。そしてまた物理的に建物の中に入るだけではなく、信仰という目に見えない招きの扉を開くのはまた勇気がいることです。決断がいることです。しかし、そのすべての扉は、神によって供えられ、神が開かれるものです。恵みによって供えられるものです。

 ニコデモは主イエスのところに来ました。招きに応えたのです。そしてまた、新しく生まれる、上から生まれるという新たな招きをいま受けています。新しい招きの扉の前にいるのです。恵みの扉の前にいます。上から、まさに上におられる神によって供えられた扉の前に立っています。私たちも上からの恵みによって、新たに生まれました。いまも生かされています。そして折々にまた新しく招きを受けるのです。さらに新しく生かされています。私たちの力ではなく、神の恵みによって、招かれて、上からの力によって生かされています。

<風は思いのままに吹く>

 しかしその恵みの招きの中で主イエスとニコデモの会話はどこまでいっても平行線なのです。ニコデモは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えています。その会話のなかで「風は思いのままに吹く」という不思議な言葉があります。風はギリシャ語で、息とか霊という意味も持っています。つまり風はここで神の霊を重ねて語られています。神の霊は思いのままに吹くと主イエスはおっしゃっているのです。私たちの常識の中で、たぶんこっちから吹いてあっちに行くだろうと考えられるような形で神の霊の働きはないということなのです。しかし、その霊の働きは風のようになんとなく感じることもできるのです。物理的な風は、木の葉がざわめくのを見たり、実際に肌の感覚で感じたりします。神の働きもそうだと主イエスはおっしゃいます。ニコデモは主イエスに招かれたと言いました。ニコデモは主イエスのなさった業に神の働きを感じたのです。最初の主イエスへのニコデモの言葉は「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」でした。ニコデモは主イエスのなさったしるし、奇跡に神が共におられると感じたのでした。

 まじめな教師であるニコデモが長年培ってきた感覚や常識、宗教的知識を越えて、神は働かれ、その神の霊の働きによってニコデモは主イエスのもとに招かれました。私たちも同様です。私たちも人それぞれさまざまな経緯でありながら、なにか感じるところがあって、神が感じさせてくださって、教会へ来たのです。そこに神の霊の働きがあったのです。神の風が吹いたのです。先週はペンテコステの礼拝でした。2000年前に吹いた神の霊の風は今も吹き続きていました。しかしまた、一方で、人間は、その神の霊の働きを意識的にも無意識的にも押さえようとしてしまうのです。どうしても私はこっちからあっちへ向かいたいと、神の霊の風とは逆の方に歩むときがあります。神の霊の風をさえぎるように歩んでいても、私たちは神の働きを感じることができません。むしろ、その歩みは抵抗の多い、障害の多いものとなります。私たちはその時ニコデモのように「どうして、そんなことがありえましょうか」と神の霊の働きを信じない者になっているのです。エフェソの信徒への手紙に「神の聖霊を悲しませてはいけない」とあります。風は神の霊と申しましたが、一方で聖霊は人格を持ったお方です。聖霊の力は風のように感じるのですが、その存在自体はふわふわしたものではありません。人格をお持ちですから、聖霊は悲しまれることもあるのです。私たちは聖霊を悲しませてはならないのです。

<何度でもやり直せる>

 さて、<新たに生まれる>、つまり<上から生まれる>ということを別の観点で言いますと、それは神の子どもとされるということです。正確に言うと神の子どもとされる権利を得るということですが、神の子どもとされると言っていいでしょう。神から神の子どもとして新しく生まれさせて頂くのです。そしてまた、神の子どもとされた者は何度でもやり直せるのです。洗礼はただ一度ですが、一度、神の子どもと私たちの人生は、日々新しくされるのです。私たちの内に与えられた神の霊によって、新しくされるのです。

 現実の私たちの人生はやり直しの利かないことだらけのように感じます。もちろん、若いころならある程度、やり直しはきくかもしれません。若いスポーツ選手のことがニュースをにぎわせていますが、あの選手は、いろんな形でこれからやり直すことができるでしょうし、ぜひやり直してほしいです。一方で、一般的には歳をとればとるほど、やりなおしはできません。でも、神によって新しく生まれた者は、上から生まれた者は、何度でもやり直すことができます。神の前ではいくつになっても、子供です。聖霊によって愛と力と知恵を日々いただく子供です。肉体的には衰えても、新しく生きていくことができます。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」そう主イエスはおっしゃいます、これは民数記に記されていることをもとに語られています。出エジプトのイスラエルの民が荒れ野で神に逆らいました。神がお怒りになり、炎の蛇を民に送られました。そこで多くの人が死にました。民が悔い改めると、モーセは神にとりなしの祈りをし、青銅の蛇を作り旗竿にかかげました。神から送られた炎の蛇にかまれた者はそのかかげられた青銅の蛇を見上げれば助かりました。主イエスご自身が自分も上げられねばならないというのは、十字架のことです。かつて荒れ野で人々が青銅の蛇を見上げて命を救われたように、わたしたちのためにキリストが十字架に上げられました。その十字架のイエスを見上げる者は救われるのです。永遠の命を得るのです。それは現実の中で行き止まりになる人生ではなく、幾たびもやり直しのできる神の子どもとしての人生です。死では終わらない希望のある日々です。