2018年9月2日大阪東教会週日礼拝説教 「人間の無知」吉浦玲子
<祭りで語られる主イエス>
主イエスは、今日の聖書個所の直前のところで、兄弟たちが仮庵祭の時、エルサレムに行きなさいと勧めたのに対し、「まだ自分の時は来ていない」とおっしゃり、「あなたたちだけで行きなさい」と答えられました。にもかかわらず、今日の聖書個所では、イエス様は仮庵祭におられます。人目を避けて仮庵祭に行かれたのです。あれ?イエス様、わたしは行かないとおっしゃっていたのに前言撤回ですか?と問いたくなるところです。
しかし、今日の聖書個所を読んでおわかりになるように、今日の聖書個所では、兄弟たちが祭りの時に皆の前で奇跡を起こして、メシアとして宣言をして、しかるべき地位や力を得なさいと勧めたこととはずいぶんと違うエルサレムでの様子が描かれています。ある学者は、むしろ、この場面は、主イエスがなぜ十字架にかけられて殺されたかということが明確にされた場面であるとおっしゃっています。
そのエルサレムに祭りで来ていた人々には主イエスのうわさを聞いていたり、あるいはかつて主イエスの奇跡や説教に接した人々もいたりしたのでしょう。いろいろと主イエスのことがささやかれていたと書かれています。そしてユダヤ人たちは「あの男はどこにいるのか」と捜していたとあります。ここでいうユダヤ人とは明確に主イエスへ悪意を持った人々のことです。主イエスの兄弟たちと同様、主イエスがことを起こすならこの祭りの時だと考えてやってくるかもしれない、その時こそ尻尾を捕まえてやろう、逮捕して殺してやろうと思っている人々がいたでしょう。しかし、多くの一般群衆は、主イエスに対して明確な判断はできかねていたようです。「良い人」だという人もいれば、「いや、群衆を惑わしている」という人もいたと書かれているとおりです。しかし、一般群衆はここでユダヤ人と書かれているユダヤにおいて力を持った人々を恐れていました。ですから、主イエスについて「ささやき」はしても、公然とは語らなかったのです。権力者階級の人々からにらまれては困るからです。つまり、祭りの巡礼者でにぎわうエルサレムには、祭りの喜びの主旋律のかげに、公然とではない声、公然とではないからこそある種の不穏な感じをかもしだすささやき声が、通奏低音として響いていました。
その祭りの半ばごろ、1週間続く祭りですから、3日目とか4日目ごろ、主イエスは神殿で聖書を教え始められました。これは律法の教師たちがやっていたことで、主イエスも同じようになさったのです。兄弟たちは奇跡を起こしてしかるべき地位を手に入れなさいと勧めましたが、主イエスは奇跡を起こされず、聖書を解き明かされたのです。それに対してユダヤ人は驚嘆したのです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」という驚きの言葉を口にしました。他の福音書には、主イエスは「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と記されています。当時の聖書といいますと、現代のキリスト教の教会でいいますところの旧約聖書です。モーセ五書や預言書などです。それらの聖書の言葉を、権威ある者として語られたのです。聖書に限らず、ある事柄を権威ある者として語るというのは、その教えを単なる知識の伝達ではなく、知識を超えた何かを伝えることができる者として語るということです。人の生き方や存在の根幹に影響を与えるようなことが語られるということです。たとえば立派な大学の有名な学者であるとか、どこかの組織の責任ある地位にある人であるとか、そういうこの世的な権威によって語られる言葉も、聞く側はこの人は立派な人だと思って聞きますから、それなりに影響力を持つかもしれません。しかし、そのようなこの世的な権威に依存することなく語られた言葉が、なお権威をもって語られる、聞かれる、ということは語られた言葉そのものに力があったということです。主イエスの言葉には力があったのです。
<この教えはどこから来たものか>
その力ある言葉を聞いたユダヤ人は、「この人は、学問をしたわけでもないのに」という言葉を言います。ある学者は、これは今でいうところの「学歴もないくせに」という言葉に等しいと言っています。力ある言葉に感嘆して賛美するのではなく、なぜこの学歴もない、出自も卑しいものがこんなに堂々としゃべっているのか、という不信感と敵意がそこにはあります。
伝道者のパウロが、自分のことを紹介するとき、自分はヘブライ人中のヘブライ人であり、かつてファリサイ派であったことを繰り返し語っています。使徒言行録のなかにあるパウロの自己紹介の中で、「わたしはガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」と語っています。ガマリエルというのは当時のファリサイ派の有力な学者でした。パウロが主イエスを信じる前、つまり回心前の、学問的そして信仰的根拠はガマリエルに学んだこと、そして正統的なガマリエルの流れを汲んでいるということにありました。現代の学問の世界でも、そういうことはまだあるのかもしれません。一匹オオカミの学者が成功することはむずかしく、やはり学会やら派閥のなかで力ある人にひっぱってもらわなければ成功できない面があるようです。誰それ先生の門下生ということが大事なところがあります。当時もまた、自分の先生はだれである、自分はだれだれの学問の系譜にあるということが大事だったわけです。しかし、主イエスは、ガリラヤの田舎の大工の息子であり、当時のイスラエルの家庭の庶民としての宗教教育、律法の学びはしたかもしれませんが、だれそれからきちんと聖書を学んだということはありませんでした。
主イエスが、さきほどのパウロの師匠であったガマリエルなり、だれか著名な学者の系譜で出てくるならいいのです。そのような自分たちの理解できる権威のもとで語られているのならユダヤ人は安心できるのです。しかし、自分たちの理解できない権威のもとで語られる言葉をユダヤ人は聞くことができませんでした。
人間はそもそも、この世的な権威に弱いものです。この世的な権威に惑わされます。そしてまたまさにその権威側にいる者にとって、自分たちが知っている権威以外のところからくる者に対しては排他的になります。敵意すら持つのです。
それに対して、主イエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」とユダヤ人たちにお答えになりました。主イエスは、自分は自分の教えではなく、自分を遣わされた方の教え、つまり神の教えを語っているとおっしゃっています。そしてさらに痛烈なことをおっしゃっています。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」わたしが神から遣わされ、神の言葉を語っている、ということは、ユダヤ人からしたら、とんでもない神への冒涜に聞こえたと思います。たしかに普通の人間が、自分は神から遣わされた者で、神の教えを語っているなどというのは、自分を神と言っていることで、まさに神を冒涜しています。実際、主イエスは神を冒涜したということで、のちに死刑の判決を受けることになります。今日の場面では、何を根拠に自分が神から遣わされたなどというのか、なにをもって自分の言葉が神の言葉と言えるのか、ということに対して、「あなたがたが神の御心を行おうとしているならば分かるはずだ」と主イエスはおっしゃるのです。自分の言葉がほんとうに神から出たかどうかは、神の御心を行おうとする者にはわかるのだとおっしゃるのです。これは極めて端的に、あなたがたは神の御心を行っていないから、わたしが神から遣わされ、神の教えを語っていることが分からないのだとおっしゃっているのです。人間はこの世の権威に惑わされたり、古い宗教概念にとらわれることはあるでしょう。そうであっても、その人がほんとうに神の御心を行おうとする気持ちがあるのならば、神からきた言葉とそうでないものを判別できるのだと、主イエスはおっしゃいます。つまり「あなたがたは神の御心を行っていないから私が神から遣わされたものであることがわからないのだ」と主イエスはおっしゃっています。聖書のことはよく知っている、しかしそれは頭で理解しているだけで、そこで語られている神の御心を実践していないではないか、そう主イエスはおっしゃっています。
当時の宗教的指導者たちに対して、単刀直入に「あなたがたは神の御心を行っていない」とおっしゃっているのです。大胆です。挑戦的です。「あなたたちはモーセの律法を守っていないではないか」とも指摘しています。「なぜわたしを殺そうとしてするのか」ともおっしゃっています。これはもう完全にユダヤ人に喧嘩を売っているともいえる言葉です。もちろん主イエスは好んで争いを起こそうとなさっているわけではありません。しかし、誤ったことに対しては大胆に指摘をされるのです。
「学問をしたわけでもない」男、つまり学歴のない男、に対して敵意を持っているユダヤ人のその敵意の核の部分には殺意があることも主イエスはご存知でした。聞いていた群衆にも、自分たちの宗教指導者に対してここまで挑戦的に言うこの男に対して「あなたは悪霊に取りつかれている」という者もありました。
私たちは主イエスが神の御子であることを知っています。ですから主イエスが見事に聖書を読み解かれてもそれは当たり前だと思います。しかし、私たち自身も、往々にして、この世の権威に惑わされます。私たちは、日々、いろんな人と接して、いろんな意見を聞きます。いろんなことが起こり、さまざまに判断をしないといけないことがあります。それが御心にかなったことか、自分の勝手な望みなのか、判断するのは難しいことです。そのとき、私たちの耳には、主イエスの言葉が響くのです。耳に痛く響くのです。「神の御心を行おうとする者は、神から出たことかそうでないかがわかる」という言葉を聞くのです。クリスチャンであっても、神から出たことではないことを神から来たものだと思って成してしまうことがあります。しかし、私たちが、それが神から出たことなのか人間から出たことなのか分からないとしたら、それは私たちが御心を行おうとしていないからだと主イエスはおっしゃるのです。信仰がただ知識だけにとどまり、頭だけの信仰であるならば、わたしたちはわたしたちがいま聞いている言葉や直面している状況が神からのものかそうでないのかわからないのです。御心を行おうとしないとき、愛の言葉を悪意にとらえたり、逆に人間的ななれ合いの言葉を正しい愛の言葉と捉えてしまうのです。御心よりも自分の知恵や経験や思い、あるいはこの世の権威や常識を優先させて生きるとき、当然、自分の周りに起こる事柄のなかの神の業を見ることはできません。神から来たことか、人間から来たのか、さらに言えばサタンから来たことか見分けがつきません。
そしてまた、今日の聖書の後半21節には、「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。」とあります。これは、主イエスがメシア、救い主かどうか議論する流れの中で語られています。メシアはどこからとは知れないところから現れるはずではないかという思いが人々の中にあったのです。その気持ちは分からなくはありません。神から来られた方は、ある日突然現れるような神秘性があると思われていたのです。田舎の大工の息子が神から来たメシアであるはずがない、その感覚はなんとなく理解ができます。
わたしたちはロマンチックに、貧しい飼い葉おけに寝かされた神の御子を賛美する讃美歌を歌います。メルヘンのような羊飼いたちに現れる天使の物語や動物小屋の場面は受け入れられても、現実に、学歴のない貧しい身なりの男が神から来たものであるとは到底受け入れられないのが人間です。逆に言いますと、神が人間のお姿になってこの世界に来られるということの神秘がそこにあります。突然どこからか、光り輝く王の姿で現れられるわけではないのです。来られたのは大工の息子としてのお姿でなのです。神は人間がこうあってほしいと願う姿で来られるわけではありません。そしてまた貧しい人間としてこられたゆえに、主イエスは人間の痛み苦しみをこの地上で味わい尽くされたのです。私たちの痛み苦しみを共に担うためです。輝かしいお姿ではなく貧しいお姿で主イエスは来られました。
しかしその主イエスを人々は憎みました。自分たちの望む姿ではなく、自分たちの信じる権威に従うわけでもない主イエスを憎み殺しました。これが人間の罪の姿です。人間は主イエスを殺すのです。仮庵祭は神が奴隷であったイスラエルの民を導かれたことを記念する祭りでした。荒れ野を旅した民を守り導かれた神に感謝するその祭りにおいて、貧しいお姿で人間と共に歩まれた主イエスを殺そうとする思いが決定的になったということは皮肉なことです。人間は自分の思い通りにならない神を殺すのです。神から来た言葉を聞けないのです。しかし、神を殺す行為は本当は自分自身を殺す行為です。私たちは罪の中で滅びに向かっていました。そのことに気が付かず自分で自分を殺そうとしていたのです。しかし、私たちではなく、主イエスが殺されました。私たちが生きるためです。殺す、殺すと物騒な言葉を繰り返しました。聖書は慰めの書ではありますが、その慰めの本質は、突き詰めると、神が死ぬか人間が死ぬかというところにかかっているのです。
神は死んでくださいました。私たちが永遠の命に生きるためです。神の死は、主イエスの死はそれで終わりではありませんでした。復活の命がありました。これから季節は秋に向かいます。今日の聖書箇所の仮庵祭も秋の祭りでした。実りの秋は、冷たい受難の冬を越して春へと向かいます。命の湧き出でる春へと向かいます。旧約の時代、イスラエルの民が荒れ野を仮庵、仮の小屋を建てて旅をして、やがて約束の地に入ったように、私たちもこの地上を旅人として歩みながら、キリストのゆえに約束の地へ入ります。出エジプトの民の多くは実際は約束の地へ入れませんでしたが、私たちは入るのです。聖霊によって神から来た言葉を神から来た言葉として聞かせていただきながら、キリストとともにとこしえの命の春を目指していきます。