大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書7章32〜39節

2018-09-10 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月9日 主日礼拝説教 「渇いた人へ」吉浦玲子

<主イエスを見つけられない>

 いよいよユダヤ人の権力者は主イエスを殺そうと具体的に動き始めました。今日の聖書箇所ではイエスを捕らえるために下役たちを遣わしたとあります。しかし、それに対して主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」

 探しているときに見つからなかったものが、探すのをあきらめたとき、ひょんなところで見つかるということがあります。イスラエルの人々はずっと神を求めていました。探していました。そして神からの救い主を待っていました。その救い主がとうとうやってこられました。ひょんなところから見つかったというわけではないのです。決定的にやってこられたのです。その救い主は、実際に目の前に来られ、不思議な業をなさり、力ある言葉を語られたのです。救い主は主イエス・キリストとしてやってこられました。しかし、その救い主が来られたというのに人々はその救い主の救い主としての姿をとらえることのができないのです。そのお姿を見、声を聞き、説教を聞いても、それが神から来た救い主であるとは考えられなかったのです。しかも、あろうことか、救い主としてこられた主イエスを殺害しようとする人々すらありました。実際、主イエスは十字架において殺されました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」

 主イエスはエルサレムで公然と語られました。大胆に語られました。ユダヤ人-この言葉はエルサレムにおける権力者を指しますが―そのユダヤ人たちに対し、「あなたがたは神の御心を行っていない」とおっしゃいました。「神の御心を行っていないから私がどこからきて、なにをなそうとしているかわからないのだ」と大胆におっしゃいました。ユダヤ人は、ガリラヤからやってきた学問のない男としての主イエスは見つけています。しかし、それが神からの救い主とはわかりません。逮捕に向かった下役もガリラヤから来た主イエスの姿を見ています。

場面はエルサレムの仮庵祭の場面ですが、この祭りにおける主イエスの行動は過激でした。そもそも<イエス様は優しくて柔和な方である>一般的にそういうイメージがあります。それはけっして間違いとばかりは言えません。主イエスご自身、マタイによる福音書の中で、「わたしは柔和で謙遜な者だ」とおっしゃっています。苦しみの中にある人、病の中にある人、孤独な人、そう人々の友となり、ささえてくださるお方です。ヨハネによる福音書でも、今日の聖書個所の少し先にあります場面では、姦淫をした女に対して「あなたを罪に定めない」とおっしゃいます。実際に律法で禁じられている大きな罪を犯した女に対して赦しの言葉を語っておられるのです。

 その一方で、ユダヤ人の権力者に対しては、大変に厳しく、大胆にものをおっしゃられます。もう少し柔らかなものいいをするとか、相手のメンツを立てるような言い方をしたらどうかと、この世的には思います。しかし、主イエスはそうはなさいません。ある意味、たいへんアグレッシブといいますか攻撃的なのです。だからといって、主イエスは、自分にすがってくる弱い人々、社会の弱者には優しく、力ある権力者には厳しいということではありません。主イエスの柔和は、敵を愛し、ご自身を殺そうとする者に対しても父なる神へのとりなしを祈り、ご自身を十字架に差し出すことにおいて示される柔和なのです。しかし、罪は罪とされ、ご自身を神から来た救い主として信じるか信じないかにおいては厳しく問われるのです。信じるのか信じないのか、信仰を告白するのかしないのか、キリストの前にあって、それは<なあなあでいい>ということではないのです。決定的な決断を主イエスは人間に迫られるのです。

 その決断をしない人間に対して、主イエスは「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることがない。」とおっしゃいます。主イエスを信じない人間に主イエスを見つけることはできず、そしてまた、やがて主イエスが父なる神のもとにお帰りになったとき、その場所へ、行くことはできないとおっしゃるのです。それを聞いた人々はその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスがユダヤを離れ、どこか別の場所に行って教えるのだろうかという頓珍漢な詮索を人々はしています。

<宗教ではない>

 さてそのようななかで、祭りは最終日を迎えます。この日、祭りは最大のクライマックスを迎えます。7日間の祭りの間、毎朝、祭司を先頭に巡礼者は列をなして、エルサレムの南東のギホンの泉に向かいます。このギホンの泉は、かつて旧約聖書に出てくる偉大な王であるソロモンが油注がれたところであり、古代からあるエルサレムの水源でした。そのギホンの泉で祭司が黄金の水差しに水を汲み、神殿へ向かいます。おそらくその列は、歌いながら、笛などで音楽を奏でながら歩いていくのでしょう。そして神殿に到着したら祭司が祭壇に水を注ぐのです。これはイザヤをはじめ旧約聖書の預言の言葉にある「救いの泉から水を汲む」ということから来ています。救いの喜びをあらわした儀式なのです。水が注がれた瞬間、人々の喜びは爆発したことでしょう。その最終日は同様に水を汲んできて、祭壇を7周するのです。ここで祭りの興奮は最高潮となります。

 その喜びの最高潮のとき、主イエスはおっしゃるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 この言葉は、言葉としてだけ聞きますと、美しい言葉です。だれでもわたしのところにきて飲みなさい、と人を招いてくださるのです。罪人であろうが、病の中にあろうが、貧しかろうが、皆、わたしのところへ来なさいとおっしゃってくださっているのです。そして、わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる、つまり、単に渇きがいやされるだけではなく、生きた水が川のように流れ出るほどに豊かにされるというのです。

 しかし、先ほど申しました祭りの背景を考えます時、この言葉は、とてつもない言葉なのです。ギホンの泉の水を汲んでも、祭壇にその水をうやうやしく注いでも、そこには救いはない、本当の救いの喜びはないのだ、ただ、わたしのところに来ることによってのみ、本当の救いにあずかることができるのだ、そうおっしゃっているのです。

 祭りのクライマックスの、荘厳な儀式が進む中、そこにいる誰もが素晴らしい儀式を喜び、宗教的興奮に満たされているところへ、まるで、冷や水を浴びせかけるような言葉を主イエスは語られるのです。その宗教儀式には、かつて預言者たちが預言した救いの喜びはないのだ、そう主イエスはおっしゃるのです。エルサレム中が祭りの喜びに沸き立っている中で、決定的な祭りへの否定をなさっているのです。

 ところで19世紀の神学者であり牧師であるブルームハルトはこういう言葉を語りました。「宗教ではない神の国だ」。分かりにくいですが、主イエスによる救いは、いわゆる、一般的な宗教的な満足や安らぎを人々に与えるものではないと言ったのです。一般に考えられている宗教が人に与えるものを聖書の信仰は与えるものではなく、リアルに神の国を体験するのが聖書の示す信仰であり、主イエスを信じることであるというのです。主イエスをかしらとする教会は、神の国の先駆けであり、生きておられるキリストと出会う場であるということなのです。礼拝のことを英語でいうときいくつかの言葉がありますが、そのひとつに「サービス」という言葉があります。神がサービスをされる、それが礼拝なのです。しかし、この言葉を間違ってはいけないのです。礼拝は、神が、あるいは教会が一般的な意味での宗教的サービスを提供するものではないのです。そこでは、まさにキリストと出会い、その出会いのゆえに罪の悔い改めが起こり、罪の赦しが宣言され、命の糧が与えられるのです。そのことが神のサービスなのです。キリスト教会の礼拝がなんとなく厳かな感じや、なんとなく心が静まるような、清められるような感覚を与えてくれる、と感じるとき、それは一般的な宗教的サービスに満足しているということになります。教会の礼拝が、ブルームハルトの言うところの神の国ではなく宗教になっているということになります。

 しかし、そうはいっても、私自身、教会に行き始めたころ、やはり、ブルームハルトが批判する、一般的な宗教的サービスの部分に安らぎを感じていたと思うのです。普段とは違う場所で、違う雰囲気のなかにいて、日々の疲れが癒され、心が平安になる、そのような感覚を持ちました。さらに正直に言えば、まだ教会に行く前、神社や寺に行った時でも、それなりに厳かな気持ちになったり、その場所に神聖さを感じたりしたものです。

 私は人間がそのように自然に感じる宗教的雰囲気での喜びや、安らぎを、すべて否定する必要はないのではないかと思います。疲れた日々の中で会堂の椅子に座ってほっとする、讃美歌を聞いて安らぐ、そのような気持ちはだれにでもあるものだと思います。

 しかし、そこにのみとどまってはいけないのです。

 主イエスは「わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。私たちはキリストのもとに行くのです。プロテスタントの教会には美しい像も絵もありません。築50年のこの会堂は文化財になるような壮麗な建築物でもありません。私たちはいたってシンプルな木造の会堂でいたってシンプルな礼拝をお捧げしています。しかし、ここにはキリストがおられます。わたしたちがみ言葉に聞くとき、私たちはそこに人間の言葉ではなく、キリストの言葉、神の言葉を聞きます。一般的に考えられる宗教というものを超えた神の国がそこにあります。

<聖霊によって>

 しかし、今日の聖書箇所では、実際にキリストがそこにおられ、語っておられ、「わたしのところに来なさい」といっても人々は行かなかったのです。それはなぜでしょうか。ギホンの水ではないほんとうの救いの水がある、そう聞いて主イエスのもとに多くの人々は行かなかったです。

 そもそもこの水はなにかというと“霊”なのだと主イエスはおっしゃっています。つまり神の霊、聖霊のことなのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」とあります。ヨハネによる福音書において、十字架の出来事は栄光と書かれています。つまりまだ主イエスは十字架におかかりになっておられなかったので、人々に“霊”が降っていなかったということです。聖霊、神の霊は、人間の罪によって、父なる神と人間の間に断絶があるとき、降っては来ないのです。主イエスが十字架によって、人間の罪を贖ってくださってはじめて父なる神と人間の間の断絶が取り除かれ、聖霊が与えられます。聖霊を与えられたとき、人間は、父なる神と、そして神の国とつながることができます。主イエスは「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」とおっしゃいました。聖霊によらなければ、私たちは主イエスの救い主としてのお姿を捉えることはできないのです。仮に、2000年前に目の前に主イエスを見ていたとしても、そのお方が神からの救い主とはわからないのです。探しても見つけることができないのです。「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とも主イエスはおっしゃいました。本来、罪ゆえに、行くことのできなかった主イエスのおられるところ、神の国へ、主イエスの十字架のゆえに私たちは行くことができるようになりました。このことはヨハネによる福音書14章で、十字架にいよいよかかられる前に主イエスが語られます。「わたしは父に至る道」であると。十字架のゆえに、私たちは、主イエスが行かれる所にいけるようになったのです。

 すぐる週、激しい台風がこの国を縦断していきました。めったに台風で大きな被害のでないこの大阪にもたいへんな被害がありました。この教会にも被害がありました。その台風から間をあけず北海道で最高震度7を記録する地震がありました。この日本という国はどうなっているのだろうかと感じます。大阪という地域だけで考えても、6月の地震から先週の台風となにか不穏な感じが続きました。何とも言えない不安感があります。これから何が起こるのかと思います。もちろん、どのようなときでも人間には明日のことはわからないのです。しかし、いまわたしたちは、いっそう、明日の不確かさのなかに放り出されているような感覚を持ちます。

 主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」とおっしゃいました。つまり、だれでもわたしのところへ来て、神の霊を受けなさいとおっしゃっています。神の霊によってのみ、満たされる渇きが人間にはあるのです。肉体は水でうるおされ、心の渇きであってもさまざまなことでうるおされます。しかし、人間の根源的な渇きは神の霊によってしかうるおされません。仮庵祭で喜びに満ち溢れていた人々は心は満たされていました。誰も自分が渇いているとは思っていなかったのです。しかし、祭りが終われば、ひとときの非日常が終われば、心も渇いていきます。それはもっと奥のところが渇いているからです。聖霊によって満たされなければ癒されない渇きがあるのです。

 キリスト者は洗礼によって聖霊をいただきました。キリストの十字架のゆえに降った聖霊をいただきました。しかし、聖霊をいただいても、その聖霊の働きを信じなければ、聖霊の働きは阻害されます。私たちは内なる聖霊を信じ、なお豊かに聖霊に満たされなければなりません。そのとき私たちは力を得ます。存在の根源からうるおされます。

 芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」と近代人の不安を語りました。しかし、私たちの日々にはもっと明確に不安があります。それは差し迫った不安であるかもしれません。しかしだからこそ、聖霊を求めなければなりません。ただ神の霊によってのみ成就される奇跡を求めなければなりません。そしてそれは必ず与えられるのです。「だれでも来なさい」と主イエスは招いておられるのですから。神と人間を隔てるものはすでに取り除かれました。台風のあと、多くのがれきや飛来物で道がふさがれました。そのように神と私たちを隔てていたものはなくなりました。だからだれでも行けるのです。そして聖霊でみたしていただくのです。信じて聖霊に満たされるとき、その働きは私たちの内側だけにとどまりません。私たち自身が根源からうるおされるのみならず、その神の霊の流れは川となって流れ出るのです。私たち自身から、神の愛と知恵と力が流れ出て、この不安な世界にあって、隣人の渇きをも癒す者とされるのです。