大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書8章31〜47節

2018-10-21 15:17:26 | ヨハネによる福音書

2018年10月14日 大阪東教会主日礼拝説教 「あなたを自由にするもの」 吉浦玲子

<あなたを自由にする真理とは>

 「真理はあなたたちを自由にする」

 この言葉は、ひょっとしたらクリスチャンではない人には、ヨハネによる福音書のなかで一番知られている言葉かもしれません。ヨハネによる福音書には「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とか「わたしは命のパンである」とか「わたしは道であり真理である」といったたくさんの有名な言葉がありますが、「真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館にも掲示されているくらいキリスト教とは直接関係のないところでも掲げられる言葉です。ヘール宣教師が創立されたことで大阪東教会とは縁の深い大阪女学院の南門にもラテン語と英語で掲示されています。さらにミッションスクールではなかったわたしの出身校にもたしか掲げられていたと思います。

 図書館や学校に掲示されているこの言葉を一般の人がご覧になると、これは学問や知識の偉大さを語った言葉であろうと思われると思います。私自身、教会に来るようになる前は漠然とそう感じていたと思います。もちろん単に学問とか知識とは語られていない、「真理」と語られています。そこにとても高邁なものを多くの人は感じるのではないでしょうか。自然科学にせよ人文科学にせよ、人を高みへと上げていくものだという感覚があると思います。人間が無知の闇から、理性の明るいところへ入ってくる、そうするとそれまでできなかったことができるようになります。何も見えない手探りのところから、明るい理性の光の中でいろいろなことがわかり、いろいろなことができる、つまり人間は真理によって自由を得ることができる、そのようにこの言葉から考える人が多いかもしれません。しかし、この言葉はヨハネによる福音書の文脈の中で味わうとき、そのような高邁な理性を賛美するような内容ではないことがわかります。

 そもそも、この言葉は誰に向かって語られているのでしょうか。今日の聖書箇所の直前のところを読みますと、主イエスがご自身は「わたしはある」という存在、つまり神であることを語られ、そのことを「多くの人々が信じた」とあります。つまり今日の聖書箇所では、そのご自身を信じた人々に対して主イエスは語っておられます。信じなかった人ではなく、信じた人に語られているというのがポイントです。その信じた人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とおっしゃったのです。

 逆に言えばわたしの言葉にとどまらなければ、わたしの弟子にならなければ、あなたたちは真理を知ることはなく、不自由なのだと語っておられるのです。このイエス様の言葉に、せっかく主イエスを信じた人々はつまずきました。信じた人々は、自分たちは真理を知っていると思っていたからです。特別に神に選ばれた民である自分たちは神のことを良く知っている、そしてその神こそが真理そのもののお方であることを、自分たちは誰よりも知っていると思っていたのです。誰よりも神を、そして真理を知っている自分たちが、真理を知らない、そして不自由な存在であるとはまったく思っていませんでした。

 「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」そう彼らは答えます。旧約聖書の時代、神はアブラハムを選ばれました。そしてそのアブラハムへ、アブラハムのみならずその子孫であるイスラエルが特別な選びのなかにあり、祝福の源であることを約束されました。以後、千年以上にわたって、イスラエルの人々は自分たちはアブラハムの子孫であること、神から特別に選ばれているものであることを誇りにしてきました。しかしながら一方では、歴史的にはイスラエルという民族、そして国家は、一時期を除いて、政治的独立もままならない弱弱しい存在でありました。今日最初に読んでいただきましたネヘミヤ書にも、イスラエルが神に背き、奴隷のような状態になっている嘆きの言葉がありました。そして、主イエスの時代もローマ帝国に支配されていたのです。しかしそのような政治的状況にも関わらず、いやそのような状況であるがゆえに、自分たちの特別なアイデンティティーを彼らはよりどころとしていました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」教会に来ている私たちは、罪の奴隷ということはよく聞きますし、それなりにわかります。罪によってがんじがらめにされている、そういう感覚は理解できると思います。じゃあ自由になったらどこへでもいけるのでしょうか?ここで主イエスは興味深いことをおっしゃっています。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」

 たしかに奴隷は主人の気分次第でどこかに売り飛ばされる可能性があるわけです。罪の奴隷であるとき、自らの罪によって縛られて思うままに歩むことはできないということは往々にしてあります。現実的に、奴隷にとって主人の家は自分の家ではありません。奴隷は自分のいる場所を自分で選ぶことはできません。家を選ぶ自由はないのです。では奴隷でなく、自由になったら、家を自由に選べるのか、あるいは自分が家の主人になるのかというとそうではないのです。その家の子供になるのです。神の子供になるのです。正確に言えば神の御子であるキリストと同じように神の子供とみなされるのです。そして神の家にずっといるのだとおっしゃるのです。有名な詩編23編は人間を豊かに養い祝してくださる神への賛美があふれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」に始まり、「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う./主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」で終わります。神の家にとどまるとき、神の恵みと慈しみがわたしたちにあふれんばかりに与えられるのです。しかし、私たちが奴隷であれば、そこにとどまることはできないのです。子供とされた者たちはとどまることができるのです。恵みと慈しみが後を追うように絶えることがないのです。

 今日の聖書箇所でも、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば」と語っておられます。この言葉のニュアンスはわたしの言葉の中にいるならば、ということになります。ただ言葉を聞いていいねと思っているだけではない、その言葉の中に自分の全体が入っているということです。少し前に、神がご自身のことを「わたしはある」とおっしゃるとき、この言葉はいつでも現在形だと申し上げました。神はかつても「わたしはある」お方で、今も未来もたえず現在形で「ある」お方であると申し上げました。そのいつも現在形であるお方のところへ、現在形のお方の中に、いつもとどまり続けるということが大事なのです。先ほど申し上げたように、この場面で主イエスが話されている相手は主イエスを信じた人々でした。主イエスを信じるということはそれだけでも素晴らしいことです。当時、主イエスの話を聞いても憎しみしか感じなかった人々もいたのですから。しかし、「信じる」というそこでとまってはいけないのだとおっしゃっています。主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。わたしたちもまた、過去や未来のことではなく、今現在、主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。かつて洗礼を受けた、だからそれでいいのだということではないのです。毎日毎日、み言葉の中にとどまり続けるのです。

<み言葉にとどまるということ>

 そしてまたみ言葉の中にとどまり続けるということは、単に知識としての御言葉を知っているとか信仰書を読み続けているということではなく、その御言葉に生き続けるということです。キリストとの交わりの中に生き続けるのです。キリストが言葉そのものであられたように、わたしたちも言葉そのものの生活をしていくのです。それにしても37節からあとは、たいへん過激ともいえる主イエスの言葉が続きます。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 せっかく主イエスを信じた人々に、「あなたたちはわたしを殺そうとしている」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?さらに39節以降では言葉が激しくなります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」あなたたちは血筋はたしかにアブラハムの子孫かもしれないが、その本性は悪魔である、あなたたちはアブラハムが父だと言っているのが、実際のところあなたたちの父親は悪魔なのだとおっしゃっています。

 繰り返しますが、これは信じなかった人々におっしゃっているのではないのです。私自身、この箇所をはじめて読んだとき、面食らいました。躊躇する思いがありました。なぜ主イエスはここまでおっしゃるのかなと思います。たいへん厳しい言葉です。しかし、それが人間の真実なのだと主イエスは見破っておられるのです。信じている、そういいながら、人間は自己中心的に生きていきます。宗教的な上着を着ながら、その内側には恐ろしい罪の肉体を持っている。それはたとえば歴史をみれば分かることなのです。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そこには日本も入っていますが、基本的にはキリスト教国同士の戦いでした。神を信じているはずの人々同士が殺し合いをしたのです。ホロコーストもありました。第二次世界大戦後もそうです。人間は自己の利益のために他者を抹殺することをいとわないのです。それは国家や民族単位の、たまたま、さまざまな条件が重なってタガがはずれたようになって起こったことではありません。むしろそこに人間の本性が現れるのです。国家や民族単位で、特殊な条件下や追い詰められた状況の中で、集団心理が暴発したり、愚かな独裁者の暴挙というだけではなく、そもそも人間の内側に秘められたものが明らかになったということなのです。人間一人一人の中の自己中心性、悪魔的な者があるのです。

 信じていても、なお、わたしたちは罪の奴隷になってしまう、神の子供ではなく悪魔の子供になってしまう、その根っこのところにある、悪魔に連なる罪の本性を断ち切るために来られたのが主イエスでした。わたしたちが主イエスを信じるということはもちろん重要なことです。しかし、わたしたちが信じることに先立って、キリストが十字架において、その悪魔の血筋を断ち切ってくださった、まとわりつく罪の縄目をほどいてくださったのです。宗教改革者ルターは、若い時、どんなに宗教的戒律を守って、まじめに修道士としての生活をしても、聖書を熱心に学んでも自分が救われたという実感を持てませんでした。むしろ自分の罪深さに悩みました。自分の内なる悪魔に翻弄されたのです。そのルターが、ただ神の恵みとして、神から与えられるものとして救いがあること、そのことを信じるのみで救われることを悟りました。そのルターは生涯にわたって悪魔と戦ったということは有名です。悪魔というと現代を生きる私たちはなにか現近代的な妄想のように感じますが、これまで話しましたように人間の根っこには悪魔的なものがありますし、それがある種の外的な力となって現れてくることもあるのです。ルターが悪魔に対してインク瓶を投げつけたというのは有名な話です。そのインクの染みの残った部屋がいまは観光コースになっているそうです。そういうことを聞くとばかばかしいような思いを持たれる方もおられるかもしれません。しかし、現実的に信じる者にとって悪魔との戦いはリアルなものなのです。

 しかし、その戦いは実際のところ、すでに主イエスによって勝利されています。先ほど申しましたように、十字架こそが悪魔と主イエスの戦いでありました。今日の聖書箇所で、主イエスはとても激烈な言葉を語られました、しかし、「あなたたちの父は悪魔だと、だからあなたたちは救いようがない」とおっしゃっているのではないのです。だから私が戦って、あなたたちを悪魔から救う、神の子供とするのだとおっしゃっているのです。神の子供とされたわたしたちは、なお、まだ肉体を持ち、罪の世界で生きています。悪魔からの誘惑は多くあります。ですから戦いはあります。しかし、その戦いは、私たちが悪魔と直接対決をするのではなく、み言葉にとどまり続けるという戦いです。すでに勝利してくださっているキリストの真理にとどまり続けるという戦いです。

 ギリシャ語の真理という言葉には、真実というニュアンスもあります。高邁な概念や思想ではなく、現実生活に根を下ろした真実な姿が真理です。キリストは真実に戦ってくださいました。血を流し肉を割いて戦ってくださいました。そのキリストの真実な姿にとどまり続けるのです。そのとき、神の恵みと慈しみが私たちを追うのです。今日も明日もとこしえまでも恵みと慈しみのうちに生かされるのです。


ヨハネによる福音書8章21〜30節

2018-10-21 15:12:59 | ヨハネによる福音書

2018年10月7日大阪東教会主日礼拝説教 「あなたはどこに属するのか」 吉浦玲子

<出口のない罪の迷路で死ぬ>

 「わたしは去って行く」主イエスはふたたびご自身がこの世界から去って行かれることを語られています。主イエスはご自分が十字架にかかられることを語られています。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」そう今日の聖書箇所で語られています。同じ言葉が少し前の7章34節にもあります。その言葉の真意を人々には理解できません。7章では「この男はギリシャ人のところへ行くつもりか」と人々はいい、今日の聖書箇所では「自殺でもするのか」と人々はいぶかしがります。

 会社員時代、入社したころは、社員証や社員バッチを警備員さんに見せれば社内に入ることができました。昭和から平成のはじめくらいまでは、そういうものを忘れても警備員さんは社員の顔を覚えていますからだいたい顔パスで入れてくれました。しかし、だんだんとセキュリティがうるさくいわれるようになって、電子化されたカードで認証されなければ入門できなくなってきました。そのうちさらに、社内でも入れる範囲というのが所属や仕事内容や役職などによって細かく複雑に分けられるようになりました。隣の部署の自分は本来入れない場所に行かなければならないた場合、そこの部署の人から内側から扉を開けてもらったり、迎えに来てもらって部屋へ入ります。しかし、途中でちょっとうっかりドアを出てお手洗いなどに行ったりしたら、もう二度ともといた場所に入れなくて、そこの部署の人が探しに来るまで廊下で立ち往生ということもありました。

 主イエスは「あなたたちはわたしを捜すだろう。」しかし「見つけることはできない」とおっしゃるのです。まるでセキュリティシステムで締め出すかのようです。そして「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」このような怖ろしい言葉も語られています。この言葉を聞きますと罪という出口のない迷路のなかで死を迎えるというイメージが湧いてきます。セキュリティでロックされて扉は開かない、逃げ道もない、誰も迎えに来てくれない、そんな罪の迷路の中であなたたちは死ぬのだと言われているようです。しかも、この「罪のうちに死ぬ」という言葉は21節と、さらに24節では二回、合わせて三回繰り返されています。しかも、24節の前半の罪という単語はギリシャ語では複数形になっているのです。主がどれほどのこの恐ろしい言葉を、人々への警告として強く語られたかということがわかります。

 いま、聖書研究祈祷会では、サムエル記を読んでいます。サムエル記の最初の部分は、やがてイスラエル最初の王となるサウル、そして偉大なダビデに油を注ぐことになる預言者サムエルの物語になっています。そのサムエルの少年時代に、サムエルが仕えていた当時の祭司であったエリにはたいへん行状のよくない息子がいました。息子たちも祭司でしたが律法に違反して捧げものの肉を横取りしたり性的にも不品行を行っていました。それを知りながら、その息子たちをエリは祭司として仕えさせ続けました。それはエリ自身の罪でもありました。そのエリに対して神は警告をなさいます。最初は預言者を通して、つぎには少年サムエルを通して。警告は繰り返されます。旧約聖書を読んでわかることは、このサムエル記に限らず、神の警告というのは多くの場合、繰り返されるということです。逆に言うと神は繰り返し警告をしてくださるということです。一回で人間が立ち返らなくても、なお繰り返し警告をなさるのです。人間が悔い改めることを待ってくださっているからです。神の警告は裁きの警告であり恐ろしいものでありますが、同時にそこには神の愛と憐れみもあるのです。ご自身から離れている人間への神の切なる思いがあります。主イエスもまた、切なる思いをもって、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告なさっているのです。

<神の国との断絶>

 さらに主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」ともおっしゃいます。あなたたちは下のものに属していてわたしは上のものに属しているというと、あなたたちは下々の者で、わたしは高級な者であるとおっしゃっているように聞こえます。たしかに主イエスは神の御子ですから、神の御子からしたらすべての人間は下の者、下々の者ではあるといえなくはありません。しかし、単純にそういうことをおっしゃったわけではありません。主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」という言葉を言い換えて、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」とおっしゃっています。「世」というのは、罪で壊れている世界であると、先週申し上げました。人間はそもそも罪で壊れた世界に属しているのです。その罪で壊れた世界が主イエスのおっしゃる「下」なのです。神がおられる上の世界、つまり天とは人間はもともと切り離された存在なのです。アダムとエバの時代からそうなのです。この世と神の世界は決定的に断絶しているのです。

 しかし、人間はその決定的な断絶がわかりません。主イエスに向かって「自殺でもするつもりなのだろうか」と言い合っているユダヤ人にとって、自殺とはもっとも神から離れた罪深い行為でした。つまり自殺するとは神のおられる天から最も遠い、下の下に行くということを意味します。ユダヤ人たちは自分たちは律法を守り正しいのだから、上にいるつもりでした。上にいる正しい自分たちから見て、主イエスを下に見ているのです。その主イエスが去るとおっしゃっていることに対して、自殺でもするつもりかというのは、この男はもっと下に行くのかと考えているのです。神を自分の下に置く、それこそが罪の最もたるものです。神を、神の御子を下の下に見ながら、人間は罪の中に死ぬのです。罪の迷路から出ることはできないのです。

<時代を貫いて「わたしはある」>

 しかしまた24節を読みますと「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃっています。逆に言いますと、「わたしはある」ということを信じるならば、罪のうちに死ぬことはないということです。「わたしはある」という言葉については何回か礼拝でご説明したことがあります。エゴーエイミーというギリシャ語で、「I am」ということです。わたしは存在しているものである、というような意味になります。出エジプト記で、神に対してその名前を問うたモーセに神がお答えになった「『わたしはある』というものである」というヘブライ語の言葉の「わたしはある」と同じ言葉です。つまり神がご自身を顕された言葉が「わたしはある」なのです。

 ヨハネによる福音書には「わたしはある」という言葉をはじめ、主イエスが「わたしは~~である」とご自分を顕される表現が多く出てきます。今日の聖書箇所の少し前では「わたしは世の光である」とおっしゃいました。さらにヨハネによる福音書の後半には、有名な「わたしは道である」「わたしはまことのぶどうの木である」「わたしは真理である」「わたしは良い羊飼いである」といった言葉が多く出てきます。それは神である主イエスがご自身について、繰り返し、わたしたちに主イエスのことを理解できるように語りかけてくださっている言葉です。

 ところで、これはある方の話からの孫引きになりますが、アウグスティヌスという偉大な神学者は、この「わたしはある」という言葉は永遠に現在形なのだと語っているそうです。神という存在は永遠に過去にならないということです。つまり、つねに現在でありつづけるお方が神であるとアウグスティヌスは語っているそうです。この地上のすべてのものは、人間も動物も建物も、やがて過去のものとなります。言うまでもなく、すべての人間は死にます。その存在はやがて必ず過去になります。壮大な建物もやがて朽ちます。東洋的な感覚でいえば、すべてのものが移ろい、流れていく、変化していく、一定していない、刻一刻、すべてのものが過去となっていきます。しかし、神はそうではない、永遠に現在なのです。イザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。神の言葉はとこしえに失われないのです。その言葉は単に聖書という書物に印刷された言葉ということではありません。わたしたちの記憶に永遠に残る言葉ということでもありません。言葉なる神である主イエスの存在そのものがとこしえに立つのです。主イエスが言葉そのもののとして永遠におられるということです。<わたしは世の光である>と語られた主イエスが、いついかなるときも、人間の歴史を超えて、時代を貫いて「わたしはある」ものとしておられるのです。

<人の子を上げる>

 そのとしえに立たれるお方は「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と今日の聖書箇所の後半で語られています。人の子を上げたとき、それまで主イエスが「わたしはある」というお方であることを信じなかった者もやがて知ることになる、とおっしゃっています。「人の子」という言葉は旧約聖書においては、もともとは、一般的な「人」と同じで、ごく普通に人間を示す言葉として使われていました。しかし、やがてこの言葉は人間のような姿をとった天的な、神的な存在、さらには救い主メシアを指す称号として使われるようになりました。新約聖書においては、使徒言行録における一回の例外を除いて、「人の子」という言葉は主イエスご自身がご自分を指す言葉として語られています。つまり人となって来られた救い主、神としてのご自身を指す言葉として「人の子」と語られたのです。

 その救い主である自分をあなたがたは上げるのだ、そのときあなたがたは知ることになると語られています。上げるというのは十字架に上げるということです。主イエスを理解せず自殺でもするのか、下の下に行くつもりかと考えた人々はイエスを十字架に上げるのです。罪人として上げるのです。上に上げると言っても、十字架にかけるのです。そもそも律法の言葉に「木にかけられている者は呪われる」とあります。十字架は神の呪い以外の何物でもありません。自殺しそうな、下の下に行きそうと考えたこの男をやがて人々は神の呪いにふさわしいものとして十字架に上げる、つまり木にかけるのです。ここで主イエスは「上げられる」と受け身ではおっしゃっていません。「あなたたちは、人の子を上げたとき」と、上げる主体はあなたたちであることを強調されています。しかし、人の子を上げたとき、つまり神の子を呪われた者として殺したとき、初めてあなたたちはすべてを知ることができると主イエスはおっしゃっています。

 逆に言えば、私たちは神の子を呪われた者として十字架に上げなければ、つまり自らの手でキリストを上げなければ、主イエスが「わたしはある」というものであることを知ることはできないのです。今年の受難説に壮年婦人会で「パッション」という映画を見ました。「パッション」について何度か申し上げたことですが、あの映画の監督のメル・ギブソンは<他ならぬ自分がイエス・キリストを十字架につけた>という信仰告白をもって映画を作成したそうです。ですから、イエス・キリストが十字架に釘で打ち付けられる場面の打ち付ける手はメル・ギブソン自身の手だったそうです。まさに自分がキリストを十字架につけた、上に上げたのだという信仰告白なのです。私たち一人一人も思いの強弱、信仰体験の違いはあっても、人の子を上げた一人一人です。神を呪われた者として木につけて殺したのです。

 こう申しますとひどく重苦しい思いとなりますが、しかし、主イエスはそのときこそ、私たちは主イエスキリストが「わたしはある」というものであることを知るのだとおっしゃってくださっています。本当にイエス・キリストは神の御子であること知ることができるのだとおっしゃってくださっています。そのとき、私たちは罪の迷路の中で死ぬことはなくなるのです。セキュリティロックされたようなどこにも出口のないようなところにいた私たちのために主イエスは木にかかってくださり、呪われてくださり、私たちを信じる者としてくださいました。それは固く閉じられていた救いの扉をこじ開けて救い出してくださるためでした。私たちが罪の中で死なないように、天と断絶したこの世に生きる私たちになお天への道を開いてくださるためでした。私たちはキリストがこじ開けてくださった扉から出ていきます。その歩みは天を目指す歩みとなります。さきほど「上げる」という言葉は木にあげられる、呪われた者としてキリストを十字架につけることだと申しました。人間から見たら確かにキリストは罪人としてみじめに木につけられ十字架に上げられて死なれました。しかし、そこにこそ私たちの救いがありました。そのことのゆえに、「上げる」ということは栄光へとキリストがあげられることをも意味します。人間の目にはみじめで凄惨な刑罰の現場が、神の栄光の表れとされるのです。その栄光のゆえに扉は開かれました。私たちはその開かれた扉を自分の手で閉ざしてはいけないのです。いま、キリストをお迎えします。私たちの最も大事なところへ最も中心へとキリストに入ってきていただきます。そのとき、私たちの歩みもまた栄光の上に向かって始まっていきます。