2018年10月14日 大阪東教会主日礼拝説教 「あなたを自由にするもの」 吉浦玲子
<あなたを自由にする真理とは>
「真理はあなたたちを自由にする」
この言葉は、ひょっとしたらクリスチャンではない人には、ヨハネによる福音書のなかで一番知られている言葉かもしれません。ヨハネによる福音書には「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とか「わたしは命のパンである」とか「わたしは道であり真理である」といったたくさんの有名な言葉がありますが、「真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館にも掲示されているくらいキリスト教とは直接関係のないところでも掲げられる言葉です。ヘール宣教師が創立されたことで大阪東教会とは縁の深い大阪女学院の南門にもラテン語と英語で掲示されています。さらにミッションスクールではなかったわたしの出身校にもたしか掲げられていたと思います。
図書館や学校に掲示されているこの言葉を一般の人がご覧になると、これは学問や知識の偉大さを語った言葉であろうと思われると思います。私自身、教会に来るようになる前は漠然とそう感じていたと思います。もちろん単に学問とか知識とは語られていない、「真理」と語られています。そこにとても高邁なものを多くの人は感じるのではないでしょうか。自然科学にせよ人文科学にせよ、人を高みへと上げていくものだという感覚があると思います。人間が無知の闇から、理性の明るいところへ入ってくる、そうするとそれまでできなかったことができるようになります。何も見えない手探りのところから、明るい理性の光の中でいろいろなことがわかり、いろいろなことができる、つまり人間は真理によって自由を得ることができる、そのようにこの言葉から考える人が多いかもしれません。しかし、この言葉はヨハネによる福音書の文脈の中で味わうとき、そのような高邁な理性を賛美するような内容ではないことがわかります。
そもそも、この言葉は誰に向かって語られているのでしょうか。今日の聖書箇所の直前のところを読みますと、主イエスがご自身は「わたしはある」という存在、つまり神であることを語られ、そのことを「多くの人々が信じた」とあります。つまり今日の聖書箇所では、そのご自身を信じた人々に対して主イエスは語っておられます。信じなかった人ではなく、信じた人に語られているというのがポイントです。その信じた人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とおっしゃったのです。
逆に言えばわたしの言葉にとどまらなければ、わたしの弟子にならなければ、あなたたちは真理を知ることはなく、不自由なのだと語っておられるのです。このイエス様の言葉に、せっかく主イエスを信じた人々はつまずきました。信じた人々は、自分たちは真理を知っていると思っていたからです。特別に神に選ばれた民である自分たちは神のことを良く知っている、そしてその神こそが真理そのもののお方であることを、自分たちは誰よりも知っていると思っていたのです。誰よりも神を、そして真理を知っている自分たちが、真理を知らない、そして不自由な存在であるとはまったく思っていませんでした。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」そう彼らは答えます。旧約聖書の時代、神はアブラハムを選ばれました。そしてそのアブラハムへ、アブラハムのみならずその子孫であるイスラエルが特別な選びのなかにあり、祝福の源であることを約束されました。以後、千年以上にわたって、イスラエルの人々は自分たちはアブラハムの子孫であること、神から特別に選ばれているものであることを誇りにしてきました。しかしながら一方では、歴史的にはイスラエルという民族、そして国家は、一時期を除いて、政治的独立もままならない弱弱しい存在でありました。今日最初に読んでいただきましたネヘミヤ書にも、イスラエルが神に背き、奴隷のような状態になっている嘆きの言葉がありました。そして、主イエスの時代もローマ帝国に支配されていたのです。しかしそのような政治的状況にも関わらず、いやそのような状況であるがゆえに、自分たちの特別なアイデンティティーを彼らはよりどころとしていました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」教会に来ている私たちは、罪の奴隷ということはよく聞きますし、それなりにわかります。罪によってがんじがらめにされている、そういう感覚は理解できると思います。じゃあ自由になったらどこへでもいけるのでしょうか?ここで主イエスは興味深いことをおっしゃっています。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」
たしかに奴隷は主人の気分次第でどこかに売り飛ばされる可能性があるわけです。罪の奴隷であるとき、自らの罪によって縛られて思うままに歩むことはできないということは往々にしてあります。現実的に、奴隷にとって主人の家は自分の家ではありません。奴隷は自分のいる場所を自分で選ぶことはできません。家を選ぶ自由はないのです。では奴隷でなく、自由になったら、家を自由に選べるのか、あるいは自分が家の主人になるのかというとそうではないのです。その家の子供になるのです。神の子供になるのです。正確に言えば神の御子であるキリストと同じように神の子供とみなされるのです。そして神の家にずっといるのだとおっしゃるのです。有名な詩編23編は人間を豊かに養い祝してくださる神への賛美があふれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」に始まり、「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う./主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」で終わります。神の家にとどまるとき、神の恵みと慈しみがわたしたちにあふれんばかりに与えられるのです。しかし、私たちが奴隷であれば、そこにとどまることはできないのです。子供とされた者たちはとどまることができるのです。恵みと慈しみが後を追うように絶えることがないのです。
今日の聖書箇所でも、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば」と語っておられます。この言葉のニュアンスはわたしの言葉の中にいるならば、ということになります。ただ言葉を聞いていいねと思っているだけではない、その言葉の中に自分の全体が入っているということです。少し前に、神がご自身のことを「わたしはある」とおっしゃるとき、この言葉はいつでも現在形だと申し上げました。神はかつても「わたしはある」お方で、今も未来もたえず現在形で「ある」お方であると申し上げました。そのいつも現在形であるお方のところへ、現在形のお方の中に、いつもとどまり続けるということが大事なのです。先ほど申し上げたように、この場面で主イエスが話されている相手は主イエスを信じた人々でした。主イエスを信じるということはそれだけでも素晴らしいことです。当時、主イエスの話を聞いても憎しみしか感じなかった人々もいたのですから。しかし、「信じる」というそこでとまってはいけないのだとおっしゃっています。主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。わたしたちもまた、過去や未来のことではなく、今現在、主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。かつて洗礼を受けた、だからそれでいいのだということではないのです。毎日毎日、み言葉の中にとどまり続けるのです。
<み言葉にとどまるということ>
そしてまたみ言葉の中にとどまり続けるということは、単に知識としての御言葉を知っているとか信仰書を読み続けているということではなく、その御言葉に生き続けるということです。キリストとの交わりの中に生き続けるのです。キリストが言葉そのものであられたように、わたしたちも言葉そのものの生活をしていくのです。それにしても37節からあとは、たいへん過激ともいえる主イエスの言葉が続きます。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
せっかく主イエスを信じた人々に、「あなたたちはわたしを殺そうとしている」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?さらに39節以降では言葉が激しくなります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」あなたたちは血筋はたしかにアブラハムの子孫かもしれないが、その本性は悪魔である、あなたたちはアブラハムが父だと言っているのが、実際のところあなたたちの父親は悪魔なのだとおっしゃっています。
繰り返しますが、これは信じなかった人々におっしゃっているのではないのです。私自身、この箇所をはじめて読んだとき、面食らいました。躊躇する思いがありました。なぜ主イエスはここまでおっしゃるのかなと思います。たいへん厳しい言葉です。しかし、それが人間の真実なのだと主イエスは見破っておられるのです。信じている、そういいながら、人間は自己中心的に生きていきます。宗教的な上着を着ながら、その内側には恐ろしい罪の肉体を持っている。それはたとえば歴史をみれば分かることなのです。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そこには日本も入っていますが、基本的にはキリスト教国同士の戦いでした。神を信じているはずの人々同士が殺し合いをしたのです。ホロコーストもありました。第二次世界大戦後もそうです。人間は自己の利益のために他者を抹殺することをいとわないのです。それは国家や民族単位の、たまたま、さまざまな条件が重なってタガがはずれたようになって起こったことではありません。むしろそこに人間の本性が現れるのです。国家や民族単位で、特殊な条件下や追い詰められた状況の中で、集団心理が暴発したり、愚かな独裁者の暴挙というだけではなく、そもそも人間の内側に秘められたものが明らかになったということなのです。人間一人一人の中の自己中心性、悪魔的な者があるのです。
信じていても、なお、わたしたちは罪の奴隷になってしまう、神の子供ではなく悪魔の子供になってしまう、その根っこのところにある、悪魔に連なる罪の本性を断ち切るために来られたのが主イエスでした。わたしたちが主イエスを信じるということはもちろん重要なことです。しかし、わたしたちが信じることに先立って、キリストが十字架において、その悪魔の血筋を断ち切ってくださった、まとわりつく罪の縄目をほどいてくださったのです。宗教改革者ルターは、若い時、どんなに宗教的戒律を守って、まじめに修道士としての生活をしても、聖書を熱心に学んでも自分が救われたという実感を持てませんでした。むしろ自分の罪深さに悩みました。自分の内なる悪魔に翻弄されたのです。そのルターが、ただ神の恵みとして、神から与えられるものとして救いがあること、そのことを信じるのみで救われることを悟りました。そのルターは生涯にわたって悪魔と戦ったということは有名です。悪魔というと現代を生きる私たちはなにか現近代的な妄想のように感じますが、これまで話しましたように人間の根っこには悪魔的なものがありますし、それがある種の外的な力となって現れてくることもあるのです。ルターが悪魔に対してインク瓶を投げつけたというのは有名な話です。そのインクの染みの残った部屋がいまは観光コースになっているそうです。そういうことを聞くとばかばかしいような思いを持たれる方もおられるかもしれません。しかし、現実的に信じる者にとって悪魔との戦いはリアルなものなのです。
しかし、その戦いは実際のところ、すでに主イエスによって勝利されています。先ほど申しましたように、十字架こそが悪魔と主イエスの戦いでありました。今日の聖書箇所で、主イエスはとても激烈な言葉を語られました、しかし、「あなたたちの父は悪魔だと、だからあなたたちは救いようがない」とおっしゃっているのではないのです。だから私が戦って、あなたたちを悪魔から救う、神の子供とするのだとおっしゃっているのです。神の子供とされたわたしたちは、なお、まだ肉体を持ち、罪の世界で生きています。悪魔からの誘惑は多くあります。ですから戦いはあります。しかし、その戦いは、私たちが悪魔と直接対決をするのではなく、み言葉にとどまり続けるという戦いです。すでに勝利してくださっているキリストの真理にとどまり続けるという戦いです。
ギリシャ語の真理という言葉には、真実というニュアンスもあります。高邁な概念や思想ではなく、現実生活に根を下ろした真実な姿が真理です。キリストは真実に戦ってくださいました。血を流し肉を割いて戦ってくださいました。そのキリストの真実な姿にとどまり続けるのです。そのとき、神の恵みと慈しみが私たちを追うのです。今日も明日もとこしえまでも恵みと慈しみのうちに生かされるのです。