大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書8章48〜59節

2018-10-22 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年10月21日 大阪東教会主日礼拝説教 「憎しみの石を捨てよ」吉浦玲子

<先在の神 キリスト>

 主イエスはアブラハムが生まれる前から「わたしはある」とおっしゃいました。アブラハムは主イエスの時代から1000年以上も前の人物です。イスラエルの信仰の父として尊敬を受けていた人です。そのアブラハムが生まれる前からご自身があるとおっしゃる主イエスの言葉を聞いて人々は驚き、驚いたのみならず主イエスに石を投げつけようとした、それが今日の聖書箇所の場面です。

 そもそも、イエス・キリストは、アブラハムの生まれる前どころではなく、天地創造のその前から父なる神と共に存在しておられました。ヨハネによる福音書第1章の最初に「初めに言があった。言は神と共にあった。」と記されていました。言とはキリストであり、言は神と共にあった。キリストは父なる神と共におられたのです。そのキリストを「先在の神」、先に在る神、という言い方をすることがあります。イエス・キリストは2000年前のクリスマスのとき人間としてこの世界に来られましたが、そのとき突然現れられたのではありません。初めから言なる神として父なる神と共におられました。旧約聖書の時代、まだ主イエスは肉体をもってこの世界に来られていませんが、キリストがなされたと思われる業はそこここに記されています。伝道者パウロもコリントの信徒への手紙で、創世記の時代、キリストが出エジプトの民とともにあったことを語っています。荒れ野でイスラエルの民は、岩から水を出していただき水を得て渇きから救われましたが、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」とパウロは語っています。そのキリストは当然アブラハムもご覧になっていたのです。

 ところで、先週、壮年婦人会で、出席された方に、大阪東教会のポストに投函されていたある新興宗教のビラを参考にご覧いただきました。そこにはいかにもご利益宗教的な言葉が並んでいたのですが、特にキリスト教への批判もひどく書かれていました。いろいろと批判は書かれていたのですが、<教祖が30歳そこそこで死んだ宗教などは非力>だと書かれていたところを興味深く感じました。世の中の多くの人は、特に日本においては、イエス・キリストというのはキリスト教の開始者であり教祖だと思っているようです。私自身は、教会に来る前は、キリストは教祖というのとはなんとなく違うように感じていましたが、釈迦や孔子などと並んで、昔の偉い人だと漠然と考えていました。そのキリストは、30歳そこそこで十字架にかかって死なれた、それはたしかに歴史的事実です。当時の歴史家でありますヨセフスの歴史書などを見ても、イエスという人物が十字架刑になったことが記されています。その後2000年にわたって、多くの人々が、キリスト教は復活だのなんだのといって、キリストを神として祀り上げているが、たかだか30歳で死んだ人間に過ぎない、と攻撃してきたのです。現代でもそうです。ビラを投函した新興宗教だけではありません。他ならぬキリスト教の内部でも、残念なことに日本基督教団のなかにあってもイエス・キリストを人間としか考えていない人々や教会はあります。肉体の復活を信じず、30歳そこそこで死んだ宗教家、慈善活動家と考えている人々は残念ながら、いるのです。

 しかし、イエス・キリストは先在の神であられます。もちろんそれは、聞いてすぐに信じられるようなことではありません。今日の聖書箇所でも、そこが論点となっています。単に議論されているだけではありません。キリストが先在の神であること、つまりイスラエルの人々にとって信仰の父と言われるアブラハムより以前からキリストが「わたしはある」と語ることは、神への冒涜以外の何物でもなく、大きな憎しみを巻き起こすことでした。私自身、2000年前その場にいたとしたら、とても信じられなかったと思います。目の前に、先在の神であられるキリストを見ても、「この男は狂っている」としか感じなかったのではないかと思うのです。人となられてこの地上を歩んでおられるイエス・キリストは、特に神々しいようなお姿をされていたわけではありません。むしろ貧しいガリラヤの田舎者の容貌であったでしょう。しかし一方で、律法学者やファイリサイ派とは全く違う力ある言葉を語られました。素晴らしい奇跡を行われました。そういう言葉を聞いて、また主イエスのなさったことを見て「この人は何か違う、ひょっとしたらすごい預言者かもしれない」「神から特別な力をいただいている人かもしれない」そういう感覚を持つ人々もいたのです。

<イエス・キリストとは何者か>

 今日の聖書箇所は、前のところから続いていて、前のところと同様に、今日の聖書箇所のイエス様の言葉は、「イエス様を信じた人々」に語られています。その「イエス様を信じた人々」は、神を信じ、救い主の到来を待ち望んでいたユダヤ人たちでした。不信仰な人々ではなく、信仰熱心な人々でした。そして多くの律法学者やファリサイ派の人々が主イエスへ憎悪を持っていたのに、今日の聖書箇所で主イエスと話をしている人々は、主イエスをひとたびは信じた人々でした。

 その人々に主イエスはあろうことか今日の聖書箇所の前のところでは「あなたたちは悪魔の子だ」とまでおっしゃいました。「あなたたちは神に属していない」とおっしゃったのです。人々は当然納得できません。ひとたびは信じた主イエスに対して「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と人々は言い返します。ユダヤの人々からしたらサマリア人というのはもっとも軽蔑すべき人間でした。もともとは同じユダヤの血筋でありながら、信仰的にも人種的にも他の民族と混血したさげずむべき人間でした。しかも、「悪霊に取りつかれている」ともいうのです。ここから先の議論は前の箇所と同様、平行線に終わります。「あなたは『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことはない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」人々はそう主イエスに迫ります。目の前にいるイエスという男はまぎれもなく人間の姿をしているのです。実際、主イエスは、肉体的な飢えを覚え、渇きを覚え、疲れを覚えつつ、この地上を歩まれました。その肉体は、もろく、けがをすれば血を流すのです。その肉体を持ったこの男が、なぜ「死を味わうことはない」などというのか?アブラハムも死んだ、偉大な預言者エリアも死んだ、エレミヤもイザヤも死んだのです。「いったいあなたは自分を何者だと思っているのか?」その問いは自然に起こってくる問いです。

 しかし、この場面ののち、不思議なことが起こりました。これから主イエスは十字架にかかられ、実際にその肉体はたしかに死にました。30歳そこそこで命を落とされました。しかし、主イエスは復活なさいました。実際に復活の主イエスと出会った人も、実際には出会わなかった人の間にも、主イエスの復活を信じる人が起こされました。主イエスが先在の神であることを信じる人が起こされました。キリストが十字架にかかられたこと、復活されたこと、そしてキリストが神であり人間であること、そのことを毎週毎週、キリストの教会は語っています。教会に来られている方は毎週毎週それを聞きます。聖餐においてもそのキリストの死の贖いをぶどうジュースとパンによって知らされます。しかし、どれほど聞いても、どれほど知らされても、<キリストとは何者か>ということを人間は通常では理解できないのです。今日の聖書箇所でユダヤ人が発した「いったいあなたは自分を何者だと思っているのか?」という問いはすべての人間の心に湧き上がる主イエスへの問いです。主イエスを30歳そこそこで死んだ教祖であると理解するのは簡単なことです。主イエスに共感を覚えながら、立派な言葉を残した宗教家であるとか、貧しい人々や差別されている人々を救った社会運動家であると理解することも難しくはありません。しかし、本当のところイエスとは何者なのか?それを本当に理解することはほとんど不可能です。そこには信仰の働きがいります。聖霊の働きが必要です。

 証拠を並べ立てて、エビデンスを数限りなくあげて、主イエスはかくかくしかじかの者であるとは言えないのです。しかし、実際には2000年にわたって、信仰者は起こされてきました。それは2000年にわたっておびただしい人々が教会の作り話を信じてきたのではありません。信仰の働き、聖霊の働きと言っても、「鰯の頭も信心から」というような信仰ではありません。科学的知識の乏しい人々が救われたいと願ってむやみやたらと信じたわけでもありません。主イエスは「神であり人間である」「アブラハムの前からあるというお方である」と証言するたしかな信仰者が起こされてきたのです。

<栄光を神に帰するときわたしたちは自由になる>

 しかし、日本においてはキリスト教の信仰者はマイノリティです。平日に大阪東教会の牧師館の窓から、ときおり外を眺めますと、多くの働き人が通り過ぎていきます。夜になっても、いくつもの会社の事務所には明かりがついています。残業して働いている人々がたくさんいます。かつて自分もそんな働き人の一人でしたから感慨深いものがあります。いつまでたっても消えない事務所の明かりがあり、さらには土日でも誰かが仕事をしている様子のある事務所の窓があります。あの窓の向こうの人はちゃんと休みがとれているのだろうかと心配になったりします。そのように忙しく働く人々にとって、生きていうえでイエス・キリストが何者なのか?そんなことはどうでもいいことなのでしょう。自分は何者か自分はこれからどう生きていくのか、といったことは考えることもあるかもしれません。しかし、実際は日々の暮らしで精いっぱいなのです。ノルマがあり、守るべき家族があり、それぞれに果たすべき責任を果たして生きておられるのです。

 ところで、わたしの母教会で、ある年配のご婦人の証を聞いたことがあります。そのご婦人は、若いころ、聖書に興味があり、教会にも少し通ったのですが、信仰を得るまでには至らなかったそうです。その後、結婚をなさって、弁護士をなさっているご主人を支えて生きてこられました。家庭を守り、ご主人が独立され事務所を立ち上げるときなどはことに多忙なご主人を支えて事務所が軌道に乗るまで一緒に苦労をされたそうです。ところがそのようにして30年以上も連れ添ったご主人があるとき、突然、「別れてほしい」とおっしゃったそうです。寝耳に水のことで、なぜ?と問うても明確な返事は得られず、しかし、もともと弁護士で弁は立つご主人で、うまく言いくるめられた形で、離婚をせざるを得なくなりました。熟年離婚でした。長年にわたってその方が積み上げていたものがすべて崩れ落ちたように感じたそうです。さらに、離婚をしてしばらくして、もともとご主人には別の女性がいて、その女性と一緒になるために自分と離婚をしたということが分かったそうです。この世においてはありがちなこととはいえ、当事者としてはたまったものではありません。すでに離婚は成立して時間もたっています。千々に乱れる思いの中で、若いころ読んでいた聖書をふたたび開いたそうです。やがて教会に行くようになり信仰を得ました。そしてかつてのご主人への腹立たしい気持ちよりも、神を信じること、主イエスと共にあることの平安のほうが心を占めるようになったそうです。そのようなつらい体験をした人だけが信仰を得るのでしょうか?そうではないでしょう。神は一人一人に対して特別なやり方で招いてくださいます。毎日毎日、教会の前を通り過ぎていく多くの人々に対してもそうです。まったく興味がない、日々のことで精いっぱい、そんな人々が一人も滅びることなく主イエスを信じる者とされるように、主イエスはアブラハムの前からあるということを証できるようにしてくださいます。

 主イエスは54節で「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい」とおっしゃっています。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であるともおっしゃっています。クリスチャンは神に栄光を帰すということを良くいいます。<主の祈り>の最後も「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」と栄光が神にあることを告白して神を賛美する形になっています。しかしまた、わたしたちは神の栄光ということを言いながら、どうしても自分の栄光を求めてしまう者であることをいやというほど知っています。栄光というとおこがましい気もしますが、神の御心よりも自分の思いをどうしても優先してしまうところがあります。そのとき、私たちは神の栄光を軽んじています。

 先の熟年離婚をした婦人は、他の女性のもとへ走った元のご主人に対して恨み言はおっしゃいませんでした。もちろん離婚の理由が分かった時点ではそうではなかったのですが、信仰を得てからは、怒りや憤りを捨てられました。その婦人は「自分に罪はあった」とおっしゃいました。妻としてのおごりがあったともおっしゃいました。弁護士事務所を開設したとき業界誌にも夫婦ともども写真が載って紹介されたりして、とても舞い上がっていた、と。立派な妻としての自分の栄光を誇りにしていたと気づいたそうです。その自分の栄光への誇りを捨てたとき、怒りや憤りや元のご主人への憎しみもなくなったそうです。

 今日の聖書箇所の最後のところで、人々は、「石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」とあります。これは単に腹を立てて暴力行為をするというのではなく、明確に石打の刑を行おうとしたということです。8章の最初のところに姦淫の現場を押さえられた女性を石打の刑にするかどうかという話が出てきましたが、当時であっても、刑というのは裁判で決められるものです。しかし、この場面は、裁判なしで、有無を言わさず、主イエスを死刑にしようとしたのです。それほどに人々の憎しみが大きかったということです。特別に神に選ばれた民でありアブラハムの子孫である自分たちの栄光を彼らは思っていたのです。神を信じていると思いながら自分の栄光を第一に考えていたのです。その自分の栄光を傷つけられたとき、そこには殺意を伴うほどの憎しみが湧き上がるのです。

 実際にはキリストを石打にしようとした人々ではなく、キリストが栄光をお受けになりました。十字架の栄光です。みじめな死刑に過ぎない十字架がキリストにとっての栄光でした。しかし、私たちもまた、その十字架に栄光を見ます。神の栄光を見ます。輝く救いの十字架の栄光を見ます。ですから、神に栄光を帰すことができます。神に栄光を帰す、というのは単なるへりくだりではありません。十字架の栄光ゆえに、私たちは神に栄光を帰すことができるようになったのです。そして神に栄光を帰すとき、ほんとうに私たちは自由になるのです。自分の栄光を手放すとき、私たちは私たちを縛り付けていたさまざまな苦しみやら感情から解放されます。握りしめていた憎しみの石を地面に置くことができるのです。そして本当の命へと歩みだすことができるのです。